投稿SS4・光の食卓(中編)

光の食卓(8) "70"の代償


「結構、ましになりましたね。お兄様のパンチ。ですが、そんなスローでは私に触れる事すら、ままなりません。
人間どもの言葉では確か・・・『冥土の土産』とでも言いましたか。これから冥府へ旅立つお兄様へ、防御の技術と
含めて、私のボクシング技術をお教えしましょう」
「あひぃっ!ひっ、血っ!!俺のっ・・・血がっ・・!」
 出血に混乱し、慌てふためく男の様子は意にも介さず、少女の両拳は再び壮麗なるデトロイト・スタイルを形成した。
しかし、フットワークは無い。少女の肢体は優美なる古代ローマ彫刻の如く、空間に静止しているのみであった。


「さあ、お好きに殴りかかって来てください。可哀相なお兄様にボクシングを教えて差し上げます」
「ぐっ!この野郎ーっ!」
 男は鼻を潰された屈辱に我を忘れ、右拳を少女の鼻柱目掛け振るった。直後、破裂音と共に潰れたのは己の鼻だった。
どちらの拳で撃たれたかも、わからない。しかし、天を仰ぐ男は、確かに自分の鼻血が飛散する様を確認したのだ。


「確かな攻撃は確かな防御から・・・今のはスウェイバックと言って、相手のパンチを上体を引いて吸い込むように
かわす技術です。そして、今お兄様に当てたのが・・・」
 男は激痛に涙を滲ませながらも少女に殴りかかったが、再び己の鼻を潰した。右鼻から流れ出し顔面に付着していた
血液と真紅の12ozがぶつかり合い、飛沫となって男の白い上下に紅の微小点を刻み込んだ。ふらふらと後退する男は
背中に何か、ロープとは異質の硬い感触を感じた。そこは、ニュートラル・コーナーだった。ボクシングを知らない
男にとっても、この場所がリング上で最も危険な場所であろう事は、容易に想像できた。


「・・・お兄様は昔からそうですね。人の話をまるで聞こうとしない。しかし、それでいいのです。うふふふふ・・・
話をお聞き下さらないのであれば、私の拳でそのお顔、お鼻に直接お教えすれば良い訳ですからね・・・!」



光の食卓(8) "70"の代償


 キュッ、キュッ・・・トン、トン、トン・・・
 サディスティックな嘲笑と共に、少女のフットワークは再開された。男は必死に退路を探した。しかし、既に
少女の両拳は男の顔面をいつでも叩き潰し、血に染める事ができる位置に浮遊しているのだ。男は、心臓を氷の手で
鷲掴みにされた様な感覚に陥った。もはや、男に残された道は一つだった。


「うあああああああああああああああっ!!」
 鼻血と涙を垂れ流しつつも男は、妹の顔面を狙い執拗なるラッシュをかけた。しかし、それでも尚、当たらない。
数十発の全身全霊を賭した打撃が、まさにそこに居るはず、手が届くはずの少女に掠りもしないのだ。少女はその拳を
使う事無く、フットワークを駆使する事も無く、ただ卓越した上体の躍動だけで男の決死の努力を無にし、嘲け笑った。
 当初、男の精神を満たしていたものは鼻を潰された事による屈辱、逃げ場の無い恐怖感と諦念であったが
最後の力を振り絞った連打をかわされていく最中、男は己が妹の防御技術の巧みさに心を奪われるまでに
なってしまった。それは、心地良い敗北感と言って良かったのだろうか。
 

「うおおおおおっ・・・!・・ふんっ!・・・ふんっ!・・・はぁっ・・・はぁ、はぁ・・・ぐはぁ・・・」
 男の大健闘はおよそ2分半も続き、そして終わった。もはや最後の数発は、己の腕の動きに全身が振り回されて
いるような、誰の眼から見ても無様としか言えないものであった。全ての力を使い果たし、全身から汗の湯気を
立ち上らせている男には、腕を持ち上げる事さえも苦行となっていた。
 一方、少女は全く息を乱してもいない。少女はグローブ越しの拍手を男へ贈った。そして、恐ろしき「食」の
笑みを男へ投げかけた。男は、自由の利かぬ全身を強張らせる事しか、もはや出来なかった。
 

「お疲れ様でした。お兄様のラッシュ。くすくすくす・・・なかなかのものでしたよ。あと3倍ほど速ければ、私も
ぷっ・・・!危ないところでしたね。それでは、今度は私の番ですね。お兄様と同じ数だけ、いきますよ・・・!」



光の食卓(8) "70"の代償


 蒼白なる男の顔面へ叩き込まれた一撃目は、まさに悪意の塊であった。男の顔面の中心に狙いを絞って発射された
冷たく硬い12ozは、鼻だけを正確に真正面から押し潰し、内部器官の損傷は止まっていた鼻血を再び噴出させた。


「ブッ!!」
 反射的に両手で鼻を押さえようとしたのか、垂れ下がっていた男の両腕が一瞬持ち上がるが、少女の次の一撃が
その目論見を無慚にも撃ち砕いた。次の一撃も、鼻へのジャブであった。それから8発のジャブが、同様に男の顔面
鼻一点を一撃一撃、正確に陵辱し続けた。
 爽快感さえ感じさせる破裂音のリズムに合わせ、男は首を仰け反らせ、鼻血を噴き上げ、両腕を懸命に
持ち上げようとしては挫折した。グローブと血まみれの顔面が接触する度、朱色の小爆発が起こったかの如く
鮮血の微粒子が飛散し、金糸で「光」という刺繍の入ったピンクとシルバーの可愛らしいトランクスに恐るべき
水玉模様が描き出され始めた。


 10発の加撃を経て、男の顔面は朱に染め上げられつつあった。止め処なく溢れる鮮血を止めようと震える
両手で鼻を覆うが、指の隙間から更に鮮血は溢れ出し、肘の先から紅い雫となって青いマットへ垂れ落ちていく。
少女は、男の脂と血とを吸ってしっとりとした艶を取り戻し始めた両のグローブをだらりと垂れ下げると、白く
きめ細やかなその頬にこびり付いた返り血を気にする事も無く、男へ語りかけた。


「ふふっ・・・どうですか?私のフリッカー・ジャブの味は。痛いですか?・・・ふふ、それは光栄・・・
まだあと、60発残っています。ええ・・・お兄様が私に向けたパンチと同じ数だけ、反撃すると言いましたから。
大丈夫ですよ。私の大切なお兄様ですもの。この位で殺してしまっては・・・くっくっ、くふふふふっ・・・!
引き続き、私の為にもっと苦しみ、もっと絶望し、もっとその可愛らしいお顔を鼻血に染め上げて下さいね・・・!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(9) 恐怖の閃光


 フリッカーとは、光が瞬くという意味である。光のデトロイト・スタイルから繰り出されるフリッカー・ジャブは
男にとってはまさに瞬く紅い閃光であった。見えているのに避けられないのではない。視覚がそれを認識する事すら
許さないのだ。男は顔面を撃ち抜かれ激痛が走って初めて、パンチの存在に気がつくという有様だった。


「ぐぶっ!ブッ!うっ!ふうぅっ!うふぅっ!あぐッ!ブッ!ブッ!・・・」
 光のフリッカー・ジャブの残虐性は、先の連打を経て更にその暴威を増していた。目標は実の兄の鼻、一点である。
即ち、グローブで鼻以外の男の顔面を極力ヒットする事無く、冷徹極まりない正確さをもって拳の最も硬い場所
である中指の第一間接部、拳頭のみを、男の既に真っ赤に腫れ上がった鼻柱へだけ、叩き込むのだ。
 その理由は極めて簡潔である。少女は男の意識を明瞭に保ったまま、苦しみにのたうつ様が見たいだけなのだ。
 

「くすくす・・・その可愛いお顔、表情、最高ですよ・・・!さあもっと、もっと苦しみ抜いて下さいね・・・!」」
 この連打は、最初の10発よりはグローブが顔面にめり込まない分だけ脳、意識へのダメージは少ないと言えた。
しかしそれは、少女が掛けた残忍極まる罠だったのだ。いっそ、意識を失ってしまえればどれだけ楽だったろうか。
男の痛覚は、屈辱の一撃が己の鼻を弄ぶごとに更にその鋭敏さを増し己の精神をずたずたに引き裂いていく。
そして、連打のスピードは首が吹き飛ばない分、無慈悲にもマシンガンの如く昂進するばかりであった。
 

 もはや男の鼻は、およそ原型を止めているとは言い難い状況にあった。少女から迸る紅い悪意、ナックルパートを
ダイレクトに受けた部分は暗紅色にただれ、皮膚表面も破れ血が滲んでいた。鼻血は派手に飛び散る事も無く
脈々と溢れ出し、半開きの口蓋内に飲み込まれては精神を蝕み、顎から垂れ落ちてはリングを地獄色に彩っていく。
 少女の残虐なる欲望を爆薬としてその点滅速度を増す恐怖の閃光。誰もが羨む人形の様に清楚で可愛らしい
最愛の妹から迸った狂気は、絶対不可視のフリッカー・ジャブという形を取って男の兄としての全尊厳、全自尊心を
その顔面共々鼻血色に塗り潰し、今まさに砕き尽くさんとしていた。



光の食卓(9) 恐怖の閃光 


 男はもはや完全なる少女専用のサンドバッグと化し、加速する連打の暴威の前に呻き声一つ上げる事さえ出来ない。
もはや男に出来る事は、少女のパンチをその醜く潰れた鼻で受け止め、鮮血の噴出をもってその技巧を称える事
だけだった。そして、男の精神力が、限界に達しようとしていたその時、突然として連打は終わった。
 男は最後のパンチを受けた姿勢のまましばし硬直すると、糸の切れた操り人形の様に前傾し、眼前の美少女の
レーニングシャツに包まれた弾力ある肉塊の狭間に、己の血まみれの顔面をうずめた。たちまち、少女の白い
シャツの胸元には男の鮮血が染み込み、返り血の水玉模様と相俟って忌まわしくも壮絶なる美を主張した。


「ふふふ、お兄様、お疲れ様でした。ここまでよく私のパンチに耐えて頑張りましたね。よしよし・・・」
 先程まで行われていた人間の所業とは思えぬ、身の毛も弥立つ程の恐るべき暴力からは想像もつかない、それは
慈愛と母性に満ちた柔らかい笑顔だった。少女は右拳で男の背中をかき抱き、いっそう強く己の胸にその顔面を
抱き寄せると、未だ血の滴る真紅の兇器をもって男の頭を優しく撫でさすった。


「うぐっ・・・ひっ、ひぇぐっ・・・、うぇぇぇぅぅぅぅ・・・」
 やがて、呻き声とも悲鳴とも異なる声が、男の口から漏れ出した。男は、泣いていたのだ。男を嗚咽せしめたものは
一体何だったのだろうか。姿の見えない激痛に苛まれた恐怖か、未だ幼き実の妹にボクシングというスポーツに於いて
圧倒され顔面を血に染め上げ、弄ばれた屈辱か。それとも、数十発の陵辱から解放され、生還した安堵か・・・
 男の嗚咽は続いた。少女は赤子に子守唄を聞かせるような姿勢で、その背中をぽん、ぽんと優しく叩き続けた。
まもなく、嗚咽が止んだ。男は、極度の肉体的、精神的疲労からそのまま眠ってしまったらしかった。


 夢の中で、かつての楽しかった二人の思い出に浸っているのだろうか。それは、実に安らかな寝顔であった。
己の胸の中で男を眠らせるに任せる少女。しかし、その醜く歪んだ口許からは、再び粘つく水滴が垂れ落ちていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 

光の食卓(10) 終わりの始まり


――わぁ・・・お兄様、一面真っ青で、綺麗・・・それに、いい匂い・・・
――ああ、来てよかったな。CMで出るたび、お前いつもここ来たいって言ってたもんなぁ・・・でも、何でだ?
――ええ。このラベンダー畑の真ん中で、くちづけをした二人は永遠に結ばれると言う伝説があるそうですから・・・
――えっ・・・!?でっ、でも、兄妹だし、そんなの、だっ、駄目だって・・・おい光、よせったら・・・んっ・・・


 目覚めた男の鼻腔をくすぐったものは、ラベンダーの芳しい香りでも、愛する妹の甘い香りでもなかった。それは
すえたような己の胃酸の臭いだった。鳩尾に、硬く重い何かが突き刺さっている。それは光の右拳に他ならなかった。
息を吸うことも、吐くことも出来ない。己の意思とは無関係に喉がえづき、胃の内容物が逆流し溢れ出す。
 少女は眠りに就いた男を抱き寄せたままコーナーへその体を押し付けると、ボディへアッパーを放ったのだ。少女は
全体重を右拳に預けると、吐瀉物にまみれ涙を流し己を見上げる男の、苦悶と驚愕に満ちた表情を存分に楽しんだ。
「お兄様、お早うございます。私のパンチ68発を耐え切ったその精神力、お見事でしたよ。うふふふふふふ・・・
お兄様にはご褒美として、私の取って置き、残りの2発をたっぷりと・・・味わっていただきましょうね」


「おっ・・・!うおぇぇぇぇっっ!!・・・げぶごぼぁッ!!!」
 両手で腹を押さえ、力なく開かれた口から吐瀉物をびちゃびちゃと滴らせる男。黄土色の吐瀉物が付着した
右の兇器が鳩尾から引き抜かれると、男の屈辱と汚物にまみれた顔面は空中に突き出されたまま静止した。
 男の大脳には、次なる破壊の瞬間までの全ての刹那が、コマ送りの如く鮮明に刻み込まれた。


 まず可愛らしいピンクのリングシューズに包まれた左脚が、軽快な摩擦音と共に鋭く踏み込まれた。その靴底は
男の剥き出しの右足甲を血が滲むほど強く踏み締め、リングへと固く縫い付けた。少女の顔が、急速に近づいた。
ほんのりと上気した薄紅色の唇が、艶かしき唾液の糸を引きつつ蠢き、言葉が紡ぎ出された。
 その言葉の意味を脳が認識した瞬間、男は石像と化し、破壊が現出した。



光の食卓(10) 終わりの始まり


 皮膚と12ozが激突する爆裂音に続いて、歯軋りの音を一刹那に凝縮し、数百倍に増幅した様な怪音が地下空間に
響き渡った。少女の満たされぬ「食欲」は、右のアッパーカットという形で現出し、男の顎へと解放されたのだ。
 膂力により恐るべき初速で発進された無慈悲なる弾丸は、鍛え抜かれた右脚のキックと全身の関節の躍動を受け
更に狂おしい程の速力を得ると、その猛威はそのままに空間を斬り進み男の顎を穿った。左脚のホールドにより
リングに縫い付けられた男には、天に舞い上がり爆撃の衝撃を逃がす自由すら与えられない。インパクトの瞬間に
忌まわしき兇器と化した男の下顎が己の上顎に激突するや否や、その内なる爆撃は男の歯の四分の一を奪ったのだ。


「いっ、い・・・イギャァァーーーーッッッ!!!・・・ォゲェウボォッ!ウギィィィィーーーッ・・・!」
 未曾有の激痛が男の神経を引き裂き、その口内から血と吐瀉物と砕けた歯との混合物が垂直に迸ると、間もなく
始まった絶叫と慟哭が少女の耳を楽しませた。天を仰いだ少女は、悪戯な微笑を湛えていたその小さな口を開くと
その清潔な口内へ男の歯の破片2つを収め、コリコリと口内で転がし、舐め回し噛み砕くと、破壊の悦楽に震えた。
 己のパンチにより歯をへし折られ、釣り上げられた鮪の如く全身全霊でもがき苦しむ兄を強く抱きしめる妹。
死に物狂いでその抱擁から脱出せんとする男。その身の戦慄さえも、少女の糧となっていくのだ。


「いてえよぉぉ・・・なんでこんなひでえことぉ・・・すんだよぉぉぉ・・・しっ、しんじまうょぉぉ・・・」
 恐るべきアッパーカットによる破壊から、男の言語能力が回復するまでには相当の時間を要した。少女のシャツの
胸元から垂れ下がっていた鮮血の帯はついにトランクスにまで繋がり、吐瀉物と涙と己の涎が混じったその色彩は
もはや醜悪を通り越しある種の美しささえ感じさせるまでになっていた。
 少女は男の言葉を黙殺すると、左拳で男の首を押さえ、コーナーへ釘付けにした。そして、語りかける。


「これで69発・・・。ここまでよく頑張って頂いたお兄様の健闘を讃えて、最後は私の得意技である右ストレートで
お兄様のお顔と、魂を叩き潰して差し上げましょう。お別れです。お兄様」



光の食卓(10) 終わりの始まり


 徐々に、徐々にではあるが引き絞られていく紅の12oz。男の脳裡に少女との美しく、恐ろしく、あるいは嫉妬と
憧憬と屈辱に満ちた記憶が、走馬灯の様に描き出されては儚く消えた。老サンドバッグを撃ち砕き内容物を噴出させた
光の凄絶なる右ストレート。それが、今まさに男の顔面へ向かって撃ち込まれようとしている。
 逃げる事は決して出来まい。首は痛いほどに固定されているし、顔面をガードしようと腕を持ち上げれば
それより早く光の右ストレートが男の顔面を撃ち滅ぼすだろう。男は、全てが今終わった事を悟った。


――俺は、これから死ぬんだな。
 パンチを待つ男の表情はむしろ安らかだった。少女との絶対的な能力差は、ついに男に諦念を抱かせるに至った。
死は、全ての人間に平等に訪れる。俺は、それが他の奴より少し早かっただけ。そう考えると、気が楽になった。


 そして、死の弾丸は限界まで引き絞られると、静かに発射された。


 摂氏18度の地下空間に響いたものは、少女の右足がリングを蹴る摩擦音と、グローブが薄ら寒い空気を切り裂く
衝撃音だけだった。固く眼を瞑り、死を覚悟していた男の左頬に、鋭利な刃物で切り裂いたかの様な傷口が開いた。
 少女から迸った死の弾丸は、男の顔面を掠めるだけに終わったのだ。少女は男の喉を締め上げる左拳を解放した。
緩慢に跪き、放心する男。少女は赤コーナーへ戻ると、呆然と左頬をさする男へ言葉を投げかけた。


「くすくす・・・惜しかったですね。死ねなくて。・・・お兄様はまだ何もわかっていません。私自身の事も
『死』という言葉の意味さえも・・・!本当に可哀相なお兄様・・・これから、じっくりとその魂に叩き込んで
差し上げますからね。さあ、お好きな時にお立ち下さい。お兄様に次のダウンは『無い』のですから・・・!」


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光の食卓(11) 人ならざる者


 ただ呆然と座り込んだまま、己の血と吐瀉物とで汚れたリング・サーフェスに虚ろな視線を彷徨わせている男。
リング上には暫しエアコンの送風音だけが規則的に響いていたが、やがてカチカチと何か硬い物同士が小刻みに
衝突を繰り返す様な音が男の口内から漏れ始めた。そして、男のやや腫れ上がった瞼が固く閉じ合わされ
目じりから堪えきれぬ情念が溢れ出すと、押し殺したような悲号が男の口内から鮮血と共に漏れ出した。
「・・・うっ、うううううっ・・・!!光ぃぃっ!・・・お願いだから昔の、優しかったお前に戻ってくれ・・・!
・・・こんな痛い、酷い事もうやめて・・・一緒に帰って、なんかうまいものでも食べよう・・・!」


 少女は赤コーナーにもたれ掛かると、退屈そうに乱れた長髪を後ろに払いつつ、男の懇願を聞き流した。
艶めく漆黒はコーナーのターンバックルに柔らかく絡み付くと、蛍光灯の光を乱反射しヌメヌメとした輝きを放った。
 男の顔面の呈する惨状とは対照的に、少女の全身はトレーニング開始時と全く変わらぬコンディションを保っている
様だったが、その瑞々しい肢体を包むコスチュームの様子は、ボクシングと言う名の暴虐を経ておぞましいばかりの
変容を遂げていた。特に少女の素肌の様にきめ細かく白かったトレーニングシャツの胸元からは、朱色の絵の具の塊を
何度も何度も叩き付けたかの如く血痕が垂れ下がり、それが徐々に乾燥し形容の術無き残虐美を見せ付けつつあった。


 少女は男の眼前にしゃがみ込むと、下を向き小刻みに震えつつ己の膝を涙で濡らす男の様子を、心底楽しそうな
表情で観察した。少女の接近に気が付いた男は、全身を硬直させた。真っすぐに己の視神経を犯す少女の
蠱惑的にして冷酷な視線。目を逸らす事は、もはやできなかった。そして、少女の口が開かれる。


「お兄様・・・貴方の愛する妹、光は、もう居ないのですよ」



光の食卓(11) 人ならざる者


 男の嗚咽が止まり、全細胞が耳となり少女の次の言葉を待った。


「覚えていますか?14年前、お兄様の両親が亡くなり、私が誕まれた晩の事件を。」
 少女は男に口を挟む間隙を許さず、ただただ淡々と、その時起こった事だけを機械的に男へ説明し始めた。


 その事件は、迷宮入りのひとつだった。被害者は一人を除いて残りの全員が、硬く重い鈍器の様な物で個人の特定が
困難な程に頭部、特に顔面を執拗に叩き潰され惨殺されていた。しかし、密室であるはずの分娩室から凶器は
発見されず、死体に付いた指紋、頭髪、そして一人だけ無傷であるという現場の状況から犯人として浮かび上がった
新人看護婦も発見時には既に死亡していた。看護婦については自殺にしても全く外傷が無く、検死の結果
死亡推定時刻は2年前という不可解さに、警察はこれ以上の捜査を断念し、事件は闇へと葬られた。それにしても
奇跡的に、赤ちゃんだけは生き残ったのだ。


「え・・・交通事故じゃ・・・?」
 男は、思わず思ったことを口にしてしまっていた。少女は恐るべき笑いを押し殺すようにして、つづけた。
「いいえ。殺人事件ですよ。くすくす・・・下手人が知りたいですか?それは私です。あなたの妹、光です」
「お話しましたよね、私が実体をもたない概念的存在である事を。前の素体は美しく能力も高く私好みでしたが
『食』を繰り返す内にこれにも飽き飽きしていたのです。それで、素体がたまたま看護婦だった事も幸いして
美しい赤ちゃんを見つけたのです。私の次の器として相応しい・・・ね。私はまず分娩室の鍵を掛け母親に飛び掛り
跨って叩き殺し、その場で素体・・・貴方が14年間『光』と呼んで来た『私』自身。それを抉り出し殺しました。
それから、周りの全員を嬲り殺しにしてあげた後に手術ランプを消したのです。ふふふ・・・駆けつけたお兄様の様子と
言ったらそれはもう・・・!くっ、くふふふっ・・・!可愛かったですよ・・・?それから、お兄様を殺さない程度に
苛めて記憶を飛ばした後、看護婦の肉体を捨てて新しい素体へと、乗り換えたのです」



光の食卓(11) 人ならざる者


「私は『お兄様』の最愛の妹にして、最愛の妹の仇なのですよ。・・・『お兄様』」
――光が、光の仇・・・?素体・・・?俺の記憶・・・?


 男の大脳は少女から紡ぎ出された言葉の意味を理解出来なかった。いや、理解しなかったのかも知れなかった。
少女は膝立ちになると、コーナーに力なく靠れる男の上体に、自分の上体を浴びせかけた。血にまみれた布地を
通じて、少女の柔らかな乳房の感触が男の素肌に伝わった。少女は抱擁の姿勢を保ったまま、男へ告げた。
「ふふ。やはり信じられませんか。それも無理の無い事です・・・。私が、お兄様方人間とは全く違う存在と言う事
それを、今から身をもって知って頂きましょうね」


 少女はそのまま上半身を揺すると、魅惑の肉質を次々と男の肉体へ擦りつけていく。男の心臓の鼓動が、早くなった。
「お兄様、うふふ・・・お兄様の魂の高鳴り、伝わりますよ。・・・私の鼓動は、聞こえますか・・・?」
 痛い程の抱擁は少女の乳房を男の胸板にギュムギュムと押し付け、男のあらゆる体液が染み込んだシャツを
媒介として男の爆裂する鼓動を少女の皮膚へと伝えた。しかし、しかしである。


――あれ?光、つ・・・め・・・たい・・・?心臓・・・動いて・・・な・・・い・・・?


 ついに、男の神経は少女の異変を感知してしまった。少女が抱擁を解き男を見下ろすと、男のトランクスの
股間部分からもうもうと湯気が立ち上った。少女は、既に、確かに死んでいたのだ。それも14年前、誕まれた直後に。
余りに苛烈で、残酷な現実が男の神経を打ちのめしていく。少女は満足げにその様子を見下ろしつつ続けた。


「そうです。私が殺したのです。可愛い妹だけでなく貴方の肉親・・・全員をね」



光の食卓(11) 人ならざる者


「10年間、素体が私の食欲を満たす為の肉体を得るまで・・・それはそれは退屈な毎日でしたよ。それだけに4年前の
あの日の『食』は格別でしたね。くっくっ・・・貴方と私の事を可愛がっていた、あのおじいさんの事ですよ。
じっくりと半日ほどかけて苛め殺してあげたのですが、あの人間、発狂する寸前まで貴方の事を案じていましたよ。
『あの子だけは殺さないでくれ』って何度も・・・!それがもうっ・・・!可愛くて可愛くて仕方なく・・・
お兄様の為に何十年も前から取っておいた、あれを使おうとさえ思ってしまったくらいっ・・・!」
 男の脳裡に優しく、大らかで、時には厳しかった祖父の姿がありありと蘇る。そして、その視線は眼前の少女の
2つの拳の間を往復した。男の中に燻るある感情が、恐怖と絶望を押しのけ、その拳は握り締められ始めた。


「あれから4年間、私は何百人もの人間どもを殴り殺してきました。男、女、子供、お年寄りなど・・・中には
有名なプロボクサーも居ましたね。覚えているでしょう?半年前突然失踪した、イーグル金城。お兄様、確か
大ファンでしたよね。世界戦一緒に見に行きましたもんね。ちょっと力を入れたらすぐ動かなくなってしまいましたが」
「てめえ、ふざけんな!よくもそんなに罪の無い人々をこっ・・・殺せるな!お前には人を思いやる心がないのか!!」


 怒号が、少女の一人語りを中断させた。ついに男は眼前の少女を人ならぬ怪物と認めたのだ。そして、愛する
人々を殴り殺された悲しみが、義憤となって男の口から吐き出されたのだった。少女の返答は簡潔かつ明瞭だった。
「ええ。そんなものはありませんね。私は人間ではありませんから」
 少女はさもそれが当然の事であるかの様に、即答した。
「よくも考えてみてください。お兄様が今まで、いかに多くの生命を奪い醜く生き永らえてきたか。お兄様の為に
殺され、肉を切り刻まれ食い潰された豚それぞれに、家族がいたのですよ」
「バカ野郎!豚みたいな程度の低い動物がいくら死んだって構うこっちゃねえ!奴らは家畜だ!」
「ふふっ、そうですね。人間にとって豚は劣等種であり家畜。全くその通りです。そうなると、我々にとって
お兄様方人間は劣等種であり、食われるべき存在と言う事になりますね」
「なっ・・・?」



光の食卓(11) 人ならざる者


 男の膝が、再び震え始めた。人間界の常識は、もはや人ならぬ少女には通用しないのだ。
「『なんで、他の人間じゃなく俺達を狙うんだ』とでも言いたいのですか?」
「お兄様、あなたは豚肉の生産地にも拘っていましたよね。でも、どの豚がどのような家族構成でどのような個性を
持っている、と言う事には目もくれず、捕食してきたでしょう。それと同じ事です。お兄様方人間は、私の食糧でしか
無いのです。お兄様は知らず知らずの内に14年間、私の為だけに仕込まれ、熟成されてきたのですよ・・・!」


 この14年の間、男の記憶に刻み込まれ続けた少女との甘美なる思い出は、その全てが、少女がこの日男を存分に
味わうために仕込まれてきたスパイスだったのだ。男は、両眼に憎悪の炎を宿し少女を真っすぐに睨み付けた。


「くっふふふふっ・・・!お兄様、そのお顔は何です?ご自分の人生が滅茶苦茶にされてしまって悔しいのですか?
愛する人々を皆殺しにされ、天涯孤独の身にされてしまって哀しいのですか?私を殺したくて、復讐したくて
たまらないのですか?いいですよ・・・お兄様のお好きな様に。出来る物ならば、の話ですけどね・・・!」
 少女はゆっくりと赤コーナーへ戻ると、男の鼻血の染み込んだ両のグローブを打ち合わせ破裂のリズムを軽快に
響かせながら、ニュートラルコーナーに膝立ちになっている男へと、挑発的でかつ無慈悲なる宣言を下した。


「お兄様、この星で最後に物を言う力が何か知っていますか?それは言葉の力でもなく、祈りの力でもなく
お金の力でもない。暴力です。己の信念を貫こうと言うのなら、私をその拳でねじ伏せてみて下さい。」
 勝算が有るかどうか、相手のパンチ、正体への恐怖など、もはや男にはどうでも良かった。屈辱、怒り、悲しみ
そしてどす黒い殺意が魂を震わせ、憎悪は燃え上がる闘志となって傷ついたその身を立ち上がらせた。
「てめえっ・・・!ぶっ殺してやる!!」
 少女はファイティングポーズを取ると、1歩前進し男へ正対した。
「屠殺場で豚が人間を食い殺す・・・奇跡と呼ぶには余りにも荒唐無稽な幻想ですね。精精、足掻いてみて下さい。
さあ、いよいよメインディッシュです。14年間待ち望んだその『味』、とくと確かめさせて頂きましょう・・・!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(12) Waste days


「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
 男は、己の愛する者全ての命を弄び奪い去った、憎むべき悪魔の懐へと突進していた。もはや疲労はおろか打たれる
恐怖感すら男からは消え失せていた。無限に増殖する怒りと悲しみが、男の傷ついた体を爆発的に猛進させたのだ。
 

 男のラッシュが少女を徐々に、しかし確実に追い詰める。少女の表情からは余裕、嘲弄の色が消えて行くかに見えた。
気迫の連打に、少女は後退を余儀なくされているのか。やがて少女の背中に、赤コーナーの硬い感触があった。
 くぐもった打撃音。男の拳はついに少女の12ozを撃ったのだ。力感に満ちたパンチの衝撃が、少女の全身に伝わった。
華麗なる少女のフットワークを制し、防御にグローブを使わせたという事実は男の劣等感を払拭し、大いなる自信を
与えた。しかし、更なるラッシュへ移行しようとしていた男の両拳は、突然その勢いを失った。


「やめて、お兄様っ・・・!」
 男の拳勢を失わせしめたものは、少女の悲痛な懇願であった。その言葉の響き、甘く切ない声色はまさに、己が
愛する妹・光のそれであった。男は、己の置かれた悲惨なる状況、相手の正体、生き残る為になすべき事を頭で
認識はしていた。だが、14年間の少女との思い出が、男の魂に一瞬、ほんの一瞬の隙を与えてしまったのだ。
 少女には、その一瞬だけで十分だった。
 

 湿った破裂音と共に、硬い12ozが男の顔面の中心を押し潰した。鼻がひしゃげ鮮血が噴き出すと、その飛沫は瞬く間に
リングへ噴き付けられ、その一瞬後には真上に噴き上がり、やがて少女の全身に霧雨の如く降り掛かった。
 それは目にも止まらぬ左ジャブ、右ボディアッパー、左アッパーカットのコンビネーションであった。たたらを
踏み後退する男。少女は無数の微粒子により朱に染まった顔面に再び嘲りの色を浮かべると、男に言い放った。


「ぷっ・・・!くっ、くっくっくっくっふふふふっ・・・・!本当にお兄様、いや、人間と言うものはどこまで馬鹿
なのでしょうか・・・!それでこそ、14年間仕込んできた甲斐があるというものですがね・・・!」



光の食卓(12) Waste days


 少女は、キュ、キュッという擦過音と共に男の眼前まで足を進めると、その精緻な人形の如き美貌を曝け出した。
「本当に可哀相なお兄様・・・。私の顔はここにあります。今度は一切防御しませんから、お好きなだけ殴りつけて
その、くっふふふふふふ・・・馬鹿げた下らない家族の無念とやらを晴らしてみてはどうですか?」
 屈辱的な言葉とパンチに我を忘れた男は、右拳を振るった。少女の、恐らく一度も打たれた事が無いのであろう
気高く聳え立つ鼻梁と右拳の距離が急速に狭まり、鮮血の華が咲いた。それは男の鮮血だった。男の顔面に、少女の
フリッカー・ジャブが突き刺さっていたのだ。一方、男の右拳は少女の鼻先5cmでその速力を失っていた。男は激痛に
全身を悶えさせ怯んだが、湧き出す義憤が恐怖を克服し、再び右拳を少女の顔面目掛け進ませた。結果は同じだった。
男は勢い良くアーチを描いた己の鮮血の軌道を見上げつつ、己の無力さを心から呪った。男の頬を熱い涙が伝った。


 嘲笑に満ちたその顔面を突き出し相手に攻撃させ、己の顔面にその拳が届く寸前にフリッカー・ジャブで鼻を潰す。
これこそ、少女が開発し最も気に入っている「食」の方法の一つであった。残虐なる遊戯は止め処なく続いた。
 数分前に男の全身を包み込んでいた覇気は、7発の悪意を経て鼻血と共に体外に抜け去りつつあった。それでも
負ける訳にはいかなかった。男は鼻血をボタボタと垂らしつつ青コーナーまで下がって助走をつけると、己の全肉体と
全精神、一族の無念をその右拳に賭け、少女の顔面、鼻柱に渾身の力をもって叩き付けた。
「畜生!畜生ぉぉっ!!・・・うがあああーーーーーーっ!!!」 


 肉を撃つ生生しい破裂音が響いた。少女の左のグローブのナックルパートは男の顔面にその半身をめり込ませていた。
ジャブではない。男の顔面を襲ったそれは、少女の左ストレートであった。鋭く踏み込まれた左脚は少女の全体重と
全悪意とをその左拳に伝え、リングに根を下ろしたかの如く固定された右脚は、パンチの衝撃を男の顔面へ余す所無く
伝え切ったのだ。暴打の衝撃は男の顔面を波紋と化して伝わり全身を波打たせると、莫大な圧力は男の顔面を醜く変形させ
人皮の耐久力を超過したその暴圧は打撃に晒されなかった男の右頬すらも引き裂き、鮮血をスプレー状に噴出させた。
その瞬間、ある異音が男の脳髄内で無限に増殖し、少女の拳を震わせた。それは、男の鼻骨に亀裂が入った音であった。



光の食卓(12) Waste days


 華麗なる少女のボクシングテクニックが男の顔面をその最後の希望と共に叩き潰し、リング中央までその体躯を弾き
返すと、男の鼻腔と硬い12ozとの間にねっとりとした鼻血の帯が渡された。男は自らの鼻を、震える両手で押さえた。
「・・・!!!」
 余りの壊滅的激痛に呻き声を上げる事も出来ない。うずくまる男の両手の内部は己の鼻血でたちまちの内に満たされ
指の隙間から溢れ出す鮮血は幾条もの真紅の奔流となりリングをビチャビチャと叩き付けた。大量の鼻血を飲み
極度の興奮と嘔吐感に息を詰まらせ涙を流しながらえづく男。もはや、男にはどうする事も出来はしなかった。


「ふふっ、うふふふふ・・・おにいさま〜、ど〜こ〜だっ?」
 少女の悪戯な嬌声が、中腰のまま両手で鼻を押さえ立ちすくむ男の耳へ届いた。しかし、男が恐る恐る視線を上げた
その先には、少女の姿は無かった。その直後、未曾有の破壊が男を襲った。


 少女は左ストレートで男の鼻を潰した直後、悶え苦しむ男の向かって左横へ電光の様なフットワークをもって
移動していた。そしてその右拳を握り締めると、肘を固定しゆっくりと振りかぶり、恐るべき破壊衝動を載せた
アッパー気味のフックとして男の顔面へ折り重ねられている両手へと叩き付けたのだった。
 限界まで引き絞られた全身のあらゆる腱、関節がその呪縛から開放された直後、破壊の弾丸は流麗なる円弧の軌跡を
描いて男の顔面を覆う遮蔽物に着弾すると、その関節と骨格を完膚無きまでにすり潰し破壊し、暴打の衝撃は男の全身を
吹き飛ばし青コーナーへ激突させた。それはまさにボクシングの芸術と言うべき荘厳さと芸術性を備えたブロウだった。


 インパクトの瞬間全天を覆う冥府のオーロラの如く拡がり、芳しい香りを血染めの空間に振り撒いた少女の黒髪が
静粛を取り戻すと、直ちに男の絶叫が始まった。少女はその狂態を、実に柔らかな笑みをもって見守っていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(13) 死の烙印


「うぎゃああぁぁあぁあぁあぁぁぁーーーっっ!!」
 男は、掲げた己の両手の惨状から目を逸らそうとしなかった。右手は手の甲の骨が神経もろとも砕き潰され
左手は親指を除く全ての指の関節が砕け皮の内部の組織が見え隠れしていた。もはやその血肉の塊は人間の手
としての機能を保ってさえいなかったのだ。男は外聞も無く泣き喚き、涎と鮮血を垂れ流しながら己の運命を呪った。
その眼前に、かの少女は降臨した。少女は両手を顔の前に掲げすすり泣く男の姿勢を見るや、薄笑いを浮かべいった。


「まあ・・・お兄様ったら・・・随分とご立派なファイティング・ポーズですね・・・!そんな拳でまだ私と
ボクシングをなさるお積りですか・・・?くふふふふっ・・・!いいですよ。その敢闘精神に敬意を表して・・・
私のボクシングの真髄を、お兄様のお顔に存分に、たぁーっぷりと、叩き込んで差し上げるとしましょうね・・・!」
「ぎゃあああああひぃぃいぃぃーーーっ!!!・・・ち、ちげびぶっ!」
 

 重々しい破壊音と共に、少女の右のグローブが男の左頬にめり込んだ。その刹那、男の顔面は恐るべきスピードを
もって真横に発射されたが、男には奥歯をへし折られた激痛に悶える自由すら与えられない。少女の左のグローブが
更なる暴威をもって男の顔面を弾き返すのだ。そして、無慈悲なる拳は少女の欲望を乗せて更に加速し、往復し続けた。
 斬る様な腰の回転を受けて少女の上半身が躍動し、湿りきった陰惨なる破裂音と共に美しい黒髪が振り乱される度
男の顔面は惨たらしくもその様相を変え、少女の眼を楽しませた。もはや男の顔面に無事な箇所はひとつも無かった。
加速する暴打の前に瞼は腫れ上がり、両頬の傷は更に抉られ皮膚の表面がザクロの様に爆ぜ、その血まみれの口内には
既に一本の奥歯も残っていなかった。その惨憺たる光景は、既に地上の人間の理解を遥かに超えるものになっていた。
 男は薄れ行く意識の中、全ての力が抜け膝が崩れていく感覚を味わっていた。その胸に去来するものは、愛する者と
己の人生を弄んだ仇敵に敗れる屈辱感ではなく、3度リングを嘗める事で破壊から逃れられるという安堵感だけだった。



光の食卓(13) 死の烙印


――ああ、これでなにもかもが、おわる・・・おやじ、おふくろ、じじい・・・ひかり・・・ごめんな・・・
 狂拳の暴風が男の顔面を弄び、膝がまさにリングに接しようとしたその瞬間、男は何故か爪先立ちになっていた。
少女の左アッパーカットが男の顎を撃ち抜くと左拳はそのまま全身を支え、男の3度目のダウンを阻んだのだ。


「ダウンは、2度までと申し上げた筈です」
 男は、かつて少女から投げかけられた言葉の意味を履き違えていた。3度のダウンで敗北という訳ではない。
まさに言葉通り、2度までしかダウンは許されなかったのだ。その言葉の真意を男が悟った瞬間、魂が凍てつき
内股を小便がつたった。少女は、左拳を小刻みに震える男の顎にあてがったまま、淡々と続けた。


「弱い・・・。お兄様には失望しました。この星においてお兄様の様に、闘いを、魂を放棄した生物がどうなるか
知っていますか?他の生物に食われるのですよ。私は最上位種として、この星の意志を実行する責任があります。
もう少し楽しめるかと思っていたのですが・・・残念です」
 少女は言葉とは裏腹に醜く唇を歪めると、青コーナーとその右にあるニュートラルコーナーの中間地点まで男の
重い体を引きずっていった。喉を握り潰す窒息感に男の意識は回復したが、もはや男には指一本を動かす力も
残ってはいなかった。暫くしてふたりの足取りが止まると、少女は男に語りかけた。
 

「さあ、着きましたよ。お兄様の墓場へ。・・・くっふふふふふふふ・・・これから、お兄様は死ぬのです。
まず、闘いに敗れたお兄様には私の取って置きのパンチで、死の烙印を押すとしましょうか・・・!」
 拘束から解放された直後、男の視界に紅いフラッシュが起こった。少女のフリッカー・ジャブが鼻を正面から
叩き潰し打ち抜いたのだ。大きく首を仰け反らせロープの弾力で跳ね返った男が見たものは、今まさに己の顔面へ
叩き込まれようとしている、禍々しい程に紅く艶めく烙印の姿だった。
 その瞬間までが、男にはスローモーションの様に永く、永く感じられた。しかし、破滅はすぐにもたらされた。


光の食卓(13) 死の烙印


 肉が無慚にも潰れ骨が粉々に砕ける爆裂音が、冷たく生臭い地下ジムの空気を分子の一つ一つまでも震撼させた。
少女の残虐非道にして純粋なる破壊衝動は、その刹那無限に増殖し60兆の細胞全てに溢れる程注ぎ込まれると素体の
運動能力のリミッターを解除させたのだ。おぞましい異音と共に全身の筋肉、腱、関節が14才の可憐なる乙女の
いや人間の限界を遥かに超えた速度で収縮し引き絞られ、その華奢な体内に破滅のエネルギーを満たしていく。
 そして、人智を超えた破壊は遂に具現した。少女の全肉体と全精神、そして惑星の意思を載せ撃ち出された右拳は
男の鼻先に正面から着弾すると、鼻骨を血肉もろとも巻き込みへし折り、あらゆる筋肉、脂肪、器官を押し潰し
顔面の中心へ到達すると、その紅く燃え滾る殺意を解放したのだ。


 インパクトの瞬間、顔面と硬いグローブの狭間で極限まで圧縮された鮮血は全方向に幾千幾万の飛沫と化して爆裂し
リング全土のみならずその周辺を囲む大鏡をも塗り潰した。直後、男の顔面の中心、もはや赤黒い肉の塊になっていた
その部分から夥しい量の鮮血が水道管が破裂したかの如く噴出し始めた。暴打により男の顔面が凄まじい速度で仰け反る
動きに合わせ、天井へ向け迸った鮮血の鞭はまず真上にあった蛍光灯を奥から手前へ叩き付け、次に首が稼動範囲の
限界を超え喉の皮が張り裂ける程曲がると後方の壁を暫し噴き付け、最後は後ろから再び蛍光灯を塗り潰した。


 男は恐るべき速度で少女の胸元へお辞儀をするかの如く墜落した。少女は控えめながらも弾力あるその膨らみで
もはや血袋と化した男の顔面を受け止め、男の顎を右拳で掴み上げると、瞬きもせず飛び散る鮮血を顔面に浴び
あるいはその小さな口内を満たし、己の右拳、ストレートパンチが勝ち取った破滅的戦果に酔い痴れた。
 白目を剥き細かく痙攣する男。少女のとどまる所を知らぬ欲望はいったい、何十万、何百万の人間を死骸にすれば
満たされるのだろうか。既に男は、冥府への階段を下っていた。かの暴打の瞬間、男の頭蓋骨は己の脳を強打し
その衝撃に蝕まれ暴走した脳機能は、自らの生命の維持を放棄してしまったのだ。徐々に男の鮮血は、その狂威を
失っていく。そして、男の心臓の鼓動は徐々に、徐々に弱くなり、ついには聞こえなくなった。


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光の食卓(14) 邪智暴虐の化身


 しかし、少女は男の死を許さなかった。この星の管理者にして最上位種たる彼女にとって、この程度の破壊は人間が
三度の食事をするかの如く毎日の様に行っていることであり、とくに別段の快楽を齎すものではなかったのである。
男の鮮血により犯された蛍光灯が投げかける紅く暗い光は、少女の華奢でしなやかな肢体を更に凄惨なる朱色に
染め上げていった。少女は、男の鼻血に己の顔面を打ち付ける勢いが無くなった事を確かめ、その口を開いた。
「あらあら大変・・・お兄様のお鼻・・・ぷっ!くっくっくっ・・・!私の右ストレートでへし折れてしまいましたね。
大丈夫ですよ。すぐに手当てを致しますから・・・安心して、もっと私を楽しませて下さいね・・・っ!」


 少女は、右拳を突き上げたまま飛翔していた。その紅い凶弾を追う様に、男の鼻血が真上に迸っていく。
 それはこの上ない正確さと華麗さ、そして猟奇性を秘めた魔性のブロウだった。少女は男をロープに放り投げると
跳ね返りうな垂れる様にダウンしていく男の鼻柱だけを、渾身のアッパーカットをもって撃ち抜いたのだ。
フォロースルーにより美しく舞い上がった少女が、再び血に染まるリングに舞い降りると、男に異変が起こった。
 それは、まるで間欠泉が湧き出すかの様な狂勢だった。峻厳なる一撃は男の脳機能を強制的に再起動させ、男の死を
断固阻んだのだ。全身を満たす鮮血は、男の生命の危機を回避する為一斉に頭部へ殺到し、忽ちの内に天井を叩き付け
豪雨となって二人の全身を叩き付けた。男は制御できぬ己の血流に、まるで喜びに震えるかの如く全身を律動させた。


「ーーーーーー!!!!!」
 もはやその悲鳴は、人間の可聴周波数をゆうに超えた、まさに魂の慟哭であった。少女は男の生の嘆きを
己の精神と共鳴させ愉しむと、満面の血に染め上げられた笑顔と、更に無慈悲極まる暴虐陵辱をもって応えた。
「そうです・・・やっと、その可愛い悲鳴が出ましたね・・・!聞こえますよ・・・!お兄様の生命の、魂の声が・・・!!
『痛い?殺さないで?』くっ、くっ、ふふふふっ・・・!体は正直ですよ。そんなに震えるほど気持ちよかった
のですね・・・?お兄様ったらもう・・・!それでは、もっともっと、もっと苛めて差し上げますね・・・!」



光の食卓(14) 邪智暴虐の化身


 残虐なる一撃により、暫し天を仰いだまま硬直し、己の鮮血の雨を浴びるに任せ声無き悲鳴を上げ続けている男。
無慚にも破壊された顔面が緩慢に前傾すると、更なる悪夢が男を待ち受けていた。


 その刹那、鮮血は左へ噴射され、次の瞬間右へ噴き返した。そして、二人の姿は真紅の濃霧に覆い隠されていった。
一体、何が起こっているのか。もし地上の人間がこの狂奇景に精神を犯されず、リング上を直視できたとしてもそれは
理解不能であった。少女のボクシングはもはやあらゆる人間の動体視力の限界を超えるスピードを宿していたのだ。
男を本当の鮮血噴霧器と変えてしまったもの、それは少女の両拳が織り成す凄絶かつ玄妙なるフックの連打であった。
 この連打は、正確性、残虐性において有史以前から蓄積されてきた少女の拳闘技術の集大成と呼べるものであった。
一撃一撃が剣豪の振るう太刀の如き鋭い回転と破滅的暴威とを有しているが、決してそれは荒々しいものではなく
腰の回転と肘の固定に重点を置いた、十分に体重と狂気の載った鋭いパンチであった。それを、まさに精密機械の
如き精緻をもって、男の鼻だけに撃ち付けるのだ。全ての人間の常軌を逸した、暴力の極致がそこにあった。


「ーーーーーーー!!!ーーーーーーーーーーーーー!!!!!・・・!!!」
 もはや打撃音は、グローブと鮮血がぶつかり合う水音と、空間を震わせる男の声無き呪詛に完全にマスクされていた。
嗚呼、何という残酷か、男の意識は鮮明を極めていた。もはや二人の姿は鮮血の濃霧により完全に消失していたが
男の極限にまで張り詰めた瞳孔は己の鮮血の分子一つ一つを掻き分け、眼前の超越的存在の威容を脳に焼き付けた。
 少女は、笑っていた。笑いとは、獣が牙を剥く行為が原点である。少女はまさに、原初の笑いを笑っていたのである。
更に少女の全身の躍動は加速する。男の精神は、既に常人の許容限界を超えていた。少女が少しでもその拳を休めれば
その瞬間、蓄積された激痛が脳へ注ぎ込まれ男は発狂し、廃人と化すであろう。男の精神を支えるものは、もはや真紅の
グローブにより刺激される生への渇望だけであった。何という皮肉か、男は少女のパンチにより活かされていたのだ。



光の食卓(14) 邪智暴虐の化身


 人ならぬ存在ゆえ、疲れを知らぬ少女。その拳は更に加速を続け、鮮血の霧は竜巻の如く二人を包み込んでいた。
既に男の顔面の中心には、肉と体液と骨が混ざり合ったどす黒い肉質が蠢き、鮮血を撒き散らしているばかりだった。
 男の下半身に、異変が起こった。己の血に染め上げられたトランクスが隆起していく。そして、少女の紅い
グローブが己の鼻を弄ぶ度に、トランクスの表面に粘液が染み出し、鮮血と交じり合って流れ出す。
それは、男の本能が「死」を避け難い宿命と捉え受け入れ始めた証拠であった。男の脊髄は少女の拳を「死」
そのものと捉え、「死」が己の精神を完全に打ち砕くまでに子孫を遺そうと、男を勃起させ射精せしめたのだ。
 少女は男の変化に気づくと、拳の往復は一切休めず笑いを押し殺しながらいった。


「くっくっ、くすくす・・・・!!!お兄様ったら、とんでもない変っ態・・・!『光、助けてぇぇ許してぇぇ』
なんて、勃起させながら言う言葉じゃありませんよ・・・?そんなに、そんなに射精するほど気持ちいいなんて・・・
くふふふふふふふ・・・・・・!!!・・・あはははははははははははははは!!!!!!」
 ついに堪え切れず、少女の口内から高らかな笑いが爆発すると共に、連打のスピードはまさに光速へ向け加速した。
フックだけでなくアッパーカット、ジャブ、ストレートまで、少女の内奥から湧き上がる無限の邪智暴虐が正面、下
左右、斜めなどありとあらゆる角度から男の顔面の中心、謎の黒い肉塊と化した鼻梁目掛けて炸裂する。それでも
それでもなお少女は冷徹にも男の意識を奪おうとはしない。生き地獄という言葉では生ぬるい程の、それは惨劇だった。


「ーーーーーーー!!・・・・!!!・・・・・・・!!!!!・・・・・・・!」
 それから先は、同じ事の繰り返しだった。紅い竜巻と化していた男の鮮血はその形状を千変万化に変え二人を
包み込んでいたが、その源である男の内奥では悲しむべき破綻が起こり始めた。ついに、男の精神は少女のボクシングの
前に叩き潰されたのだ。かつて半開きのまま明瞭な少女への懇願、生への渇望あるいは打撃からの解放を訴えていた
その口は何も物語る事は無く、異常な程血走っているが虚ろな眼は、もはや現世の何の物の影も映してはいなかった。