投稿SS7・連志別川(後編)

※この文章はフィクションであり、実在する、或いは歴史上の人物、団体、および地名とは一切関係ありません。



連志別川(八) 二人の冒険者


未だ根雪の残る蝦夷地の春では、「暑い」と言っても過言ではない程、その日は皮膚が灼け付くような陽射しだった。
おれはあの川へと辿り着いていた。馬の如く息が乱れ汗が滴っている。休み無く半里を駆け抜けたから、だけではない。
鼓動は益々高鳴り続ける。躰と魂の内奥から燃え盛る業火に堪え切れず、おれは野の獣の雄叫びと共に諸肌を脱いだ。


叩き付けた装束から鳥兜の針を取り出し、端座する。そして二重の鞘を投げ捨てると、黒い刃を胸板へと突き付けた。
おれには一度「引き返す」機会があった。二人の少女との、狂乱と安らぎに満ちた想い出を、おれは捨てられなかった。
おれは雪に両手を突き、崩れ落ちていた。猛毒の刃が、あの川へと消えて行く。最期の幕引きの手段は、いま失われた。
熱い涙が固い根雪を融かし、孔を穿つ。それは、己の魂に巣食う「何か」と訣別出来なかった後悔か、それとも・・・


間も無くして、漆黒の影がおれの眼界を覆った。背筋が、凍り付く。咄嗟に足跡を探すが、左にも右にも見当たらない。
その人物は「川から」現れたのだ。後光を受けおれを見下ろす輪郭の主は、あの火の装束を纏った「村の少女」だった。
一条の光の通過も許さぬ厚い装束と頭巾が、少女の表情を暗幕の内に閉ざしていた。おれ達は、全ての言葉を失った。
少女の頬を止め処なく伝い零れ落ちる涙が白銀に煌めく雫となり、根雪の上で氷結しては鍾乳石のように聳えて行く。


半歩間合いを詰める少女。視線が、垂直に近い角度で交錯する。そして、膨らんだ「左袖」が、少女自身の帯を、指した。
震える指先を、藍に染められた帯へと伸ばす。生地に触れたその瞬間、爪に火花が走り、背後から竜巻がおれを襲った。
大地が砕け、氷の刃が巻き上がる。おれは左腕で顔を守り、必死に少女の装束に掴まり、吹き飛ばされまいと耐えた。


咄嗟におれは、右手で少女の左裾に縋っていた。旋風は装束の右半分と頭巾を吹き飛ばし、その神秘を剥き出しにした。
右半身には真紅の拳のみを、左半身には、精緻な火の装束を纏う少女。突き付けられた、美しくも苛烈な「現実」・・・
衣擦れの音に、おれは息を飲んだ。やがて、袖の重みから左拳も自ずと露わになり、心優しく涼やかな「村の少女」は
氷の目と濡れたような金髪を備え、装束の代わりに凍て付く程の残虐美を纏う「川の少女」へと変貌を遂げた。
「透き通るような」という比喩ではない。少女の肢体は生命に煌めく白銀の結晶だった。その美に太陽すらも狂熱し
暴力的なまでの日輪が、少女の躰を透過して七色の波動に輝く。おれの意識の最奥部へ、それは柔らかに注がれ続けた。
虹の波動を切り裂いて、色彩のみで痛みを感じる程に禍々しい紅の反射光が、左右からおれの眼球を激しく打ちのめす。


「・・・ごめんね・・・」
虹色に煌めく極光の幕の奥から、少女は、泣きながら笑っていた。いや、笑いながら泣いていたのかも知れない。
おれと少女の今までには、本当も・・・嘘もあっただろう。その全ての積み重ねが、おれ達をここに再び巡り逢わせたのだ。
「・・・いいんだ・・・おれは今日、全てを『覚悟』の上で・・・きみに、会いに来た・・・」
七色の波動が少女の複雑に絡み合う想いを魂に伝え、真紅の閃光がおれの「自ら望んだ」ただ一つの運命を示していた。


少女の「左拳」が、脱ぎ去られた装束を指す。見た事もない道具が入っている。平らな土台の付いた硝子の瓢箪か・・・?
いや、上下とも同じ円錐で、片方に紅く光る砂が入っている。逆さにすると、円錐の継ぎ目から砂が徐々に落ちて行く。
恐らく、おれと少女との間でこれから行われる「遊び」に、必要なものなのだろう。少女は、左拳で胸にそれを抱いた。


そして、少女の「右拳」が指した先・・・そこは、おれの最初にして最期の目的地だった。再び視線が交錯する。
おれ達は、二人の冒険者だった。冒険者は、冒険の中で最期を迎えてこそ、誇りある冒険者たり得るのだ。



連志別川(八) 二人の冒険者


「・・・いいの?」
渦巻き錯綜する感情を押し殺すように絞り出された、少女のその一言は、冒険者としての迷い無き覚悟を問うと同時に
その拳撃がおれに後戻りの出来ぬ破滅・・・即ち人間としての生の終焉を齎さざるを得ないであろう事を示唆していた。
「もう一度だけ、あなたに訊くわ・・・本当に・・・・・・本当に、それでいいの?」
潤む少女の眼差しからは、今までおれを氷結地獄の底に叩き落とし責め苛んできた、残酷な好奇心は感じられなかった。
心の覚悟は、出来ていた。しかし生ある人間として、躰が震えた。これ程までに命を燃やす冒険は、最初で最後だろう。


「あっ・・・」
おれは震える左手を伸ばし、少女の右拳、その手首をとった。そして右手を添え、その固く握り締められた拳を慈しむ。
柔らかい・・・!まるで、少女の躰の一部を揉みしだいているような、官能すら感じさせる弾力がおれの触覚へ伝わる。
おれは幾度となく肉を叩き潰し血を吸い尽くし魂を撃ち砕いたその拳を・・・愛おしむように、己の鼻梁へと押し当てた。
「ぐっ・・・」
凄惨なまでに変形していた鼻に痛覚が蘇り、脳に稲妻が走った。おぞましくも、懐かしい、革と血の混じった香り・・・
少女の口許が真一文字に結ばれる。弾力ある拳が自ら潰れながら骨にめり込む激痛が、おれの最後の迷いを断ち切った。
「行こう・・・」
「うん・・・時間がないわ・・・わたし達には」
おれと少女の最後の冒険が、いま始まった。それは、おれが初めて挑戦する、「誰かの為に」命を賭ける冒険だった。


先を進む少女。歩みのたびに踵が一瞬沈むが、浮き上がる。おれは今、なぜ少女が川面を歩けるのか、わかる気がした。
二度にわたっておれの侵入を拒み、躰と魂を犯し尽くした、魔性の川・・・魔性の少女・・・そして、魔性の双拳・・・
波打つ金髪を見上げる。甘く苦く紅い想い出が涼やかに脳内で弾ける。気が付くと、おれ達は向こう岸に着いていた。


「・・・抱いても・・・いいよ」
未知の体験が待つ、未踏の地。燃える高揚感が、おれを大胆にした。震える腕が、繊細で精緻なその躰を、抱き上げた。
触れた瞬間、両腕を刺す痛みに声を上げてしまいそうになる。おれが自ら少女の躰に触れたのは、これが初めてだった。
「・・・冷たい?ふふ・・・わたし、ニンゲンじゃないよね・・・わたしって・・・何なのかな・・・?」
長い脚を宙に遊ばせ、視線を彷徨わせながら、少女は自嘲的に笑った。こんな憂いを帯びた表情は、見た事がなかった。
激情が、燃え上がった。確かに少女の肌は痛みを感じる程に冷たい。しかし、それは生を失った冷たさとは、全く違う。
方向性は真逆だが、躰には「生ある凍気」が充満している。凍て付くような、息づく命の確かさがあるのだ。


川を境に、道は様相を変えつつ左へ滑らかに切り返していた。蝦夷松に代わり、立ち並ぶ七竈の枝に残雪が積もっている。
晩秋の紅葉が美しい樹だ。鶫や椋鳥に食われたのだろう、赤い実は一つも残っていない。七竈酒の清冽な苦味を思い出す。
かつて、少女に聞いた事がある。七竈は魔を祓うと・・・あの時のおれは、少女の邪悪から逃れる為に樹の霊力へ縋った。
そして今のおれは、この樹に導かれ少女という未知へ挑むのだ。澄み切った大自然の中、躰と魂の熱が交換されていく。


腕から奪われゆく熱が、沸々と胸の奥から沸き出し続けるのがわかる。「愛おしい」とは、こういう気持ちなのだろう。
投げ捨てた荷より更に軽く儚い、柔らかな少女の重みが、腕に心地良い。顔面と拳、血と血、命と命で通じ合った二人。
吹雪すら涼しく感じるおれ以外に、この少女を抱ける者はいないだろう。確信した。おれと少女は「対」の存在なのだ。
「熱っ・・・痛い・・・!」
「痛いかい・・・おれもだ・・・!この痛みこそが、生の証し・・・!きみの拳が、おれに教えてくれた命の尊さだ・・・!」


少女の華奢な背を、柔らかな太腿を、更に強く抱き締める。少女にあの悪戯な、残酷な程に歪んだ笑顔が戻ってくる。
「ふ・・・くふふっ・・・!変なの・・・!あははは・・・!」
これからおれ達は、生命で・・・「痛み」で、遊ぶのだ。誇りある存在として、命を融かし尽くす最期の遊びを・・・!



連志別川(八) 二人の冒険者


おれ達の躰と魂の熱が平衡状態に達した時、右手方向に崖が聳え、左手からあの川が迫って来ている事に気が付いた。
雪道は細くなり、ついには行き止まりに達した。川の左岸も、高い岩崖になっている。あの川の源流に辿り着いたのだ。
少女はおれの腕を足場に跳躍すると捻りを加え、舞うように川面へ着地を決めた。痺れるような余韻が腕に残っている。


「こっちよ・・・ついて来て」
少女は、川に消えた。大股で五歩余りの幅の水源・・・いや、おれが水源だと思ったその横穴には、まだ奥があった。
水面の下だ。おれは息を止め、扁平な水路を遡り泳いだ。真っ暗な水中を、少女の残す凍気だけを頼りに進んで行く。
清らかな気持ちだ。この地に来てから、人と自然全てが、この少女のもとへとおれを導いたような気がしてならない。
いや、運命はそれ以前から定められていたのかも知れない。未知なる目的地へ続く暗黒の水中洞窟は、延々と続いた。
息が苦しくなってきた頃、ふっと冷たさが和らいだ。目を瞑ったまま我武者羅に水を掻くと、硬い何かに額をぶつけた。


おれは立ち上がった。空気がある。地響きのような轟音が耳を劈き、立ち上る水煙にむせ返る。ここは、滝壺・・・!
遥か真上の水源から、夥しい量の水が白い柱と化し、目の前に放物線を描き注いでいる。おれは、少女の姿を探した。
左にも右にも、居ない。おれは、全てを悟った。そして「自ら望んだ」運命の引鉄を引くべく、滝の向こうへと叫んだ。
「いつでもいい・・・!さあ、やってくれ・・・!!」


直後、瞼の肉すら軽く貫く銀の閃光と共に、真正面から氷の嵐が巻き起こり、おれは水平に吹き飛ばされ岩壁へ激突した。
斬り付けるような窒息感と、背後と頭上を襲う清冽な痛みはすぐに麻痺し、滝の轟音が消えた事に気が付いた。
恐る恐る、瞼を開く。五歩四方の正方形の空間は、吹き抜けになっていた。濛々と立ち上る水飛沫を受けていた壁面は
磨き抜かれた大理石の如く滑らかな氷壁と化していた。乱反射し極限に増幅した日光が、少女の姿を瑞々しく照らし出す。
荘厳なる静寂の中、自らの終の舞台に立ち尽くし、おれは思った・・・「おれは冒険者になってよかった」と。


脚は滝壺に膝上まで浸かって凍り付き、後頭部と岩盤の間は厚い氷壁に埋められ、両腕は指一本動かぬよう封印され
頭頂には堅牢な氷の兜が完成していた。烈風に歪んだ滝が壁伝いにおれを叩き付け、そのまま氷に閉ざしたのだ。
おれは、第一の逢瀬・・・氷を蹴り加速する華麗な足捌きと急減速を活かした少女の拳の齎す激痛に、想いを馳せた。
そして、第二の逢瀬・・・身動き一つ取れず衝撃の逃げ場のない状況で受ける少女の拳の齎す恐怖に、想いを馳せた。
少女は、完全なる平面と化した氷面に立ち、おれを僅かに見下ろした。死を孕んだ静寂に、己の心音のみが響き渡る。


氷上に置かれた紅の砂細工が、光を反射しておれの眼を撃った。上の皿から完全に砂が落ち、上下が返されたその直後
全く視認出来ぬ足捌きで、少女の顔が肉薄した。少女の脳とおれの脳が、互いの額の皮膚と頭蓋を通して接触している。
「暫く、眼を閉じて・・・これが、わたしの技・・・・・・・・・痛さは、ふふ・・・お楽しみよ・・・」
未知の拳闘技が、瞼の裏に生々しくも流麗な映像を伴って、次々と清冽な凍結感と共に脳へ刻み込まれて行く。
額が離されると、両の拳を激しく叩き合わせる音が、均等な間隔で響き始めた。砂は、丁度三分の一程度、残っている。


「百八十・・・わたしの全てを、その命で知ってもらうわ。あなたを・・・『お兄ちゃん』に、してあげる・・・!」
全身の血流が加速する。混乱の中、空間に反響する爆裂音を数えつつ、おれは少女の言葉の意味を、必死に追い続けた。
砂が尽きる六十弾目の代わりに、「右の正面撃ち」がおれの鼻に迫り、寸前で止まった。仰け反る事すらも、許されない。
次にあの砂の瓶が返れば、もう二度と「戻れない」破滅が待っているのだろう。心拍で四百、いや、五百余りか・・・?
半身から斜めに躰を傾け、柔らかに髪を揺らしながら真っ赤な二つの拳を構え、美少女はおれの決断を待っている。
これが己の意志を言葉で伝える、最期の機会になるだろう。おれは、少女の匂いを胸一杯に吸い込み、魂を絞り出した。


「きみを、愛している・・・!おれの命で、きみを知りたい!・・・さあ、来い!おれを・・・砕き尽くしてくれ!!」
時と命を刻む硝子細工は、返された。流れ落ちた真紅の砂は、決して戻る事はない。


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連志別川(九) 魂を導く閃光


かつておれは、あの村で少女と過ごす安らぎの中で、この子の為ならば「死んでもいい」・・・そう、心から思っていた。
「死」は今、おれの眼前に「右正面撃ち」という実体を得て迫っていた。少女は氷上を激しく舞う脚捌きの魔性により
全身に秘められた狂威を拳に集約し、おれは背後に聳える硬い氷壁によりその拳圧を逃す事すら許されない。
二度の経験が否応なく恐怖を累乗させ、非情な計算結果がおれの宇宙を赤黒い「死」の血文字で瞬時に埋め尽くす。


死を忌避する獣の本能がおれの眼球筋をかつて無い程に怒張させ、人間の成せる極限を超えて刹那の視覚を研ぎ澄ました。
右脚の爆発的な踏み込みが、左脚による急停止が、四肢関節の捻りが、一撃を織り成す少女の百の躍動が、初めて見えた。
神経と筋肉が奇跡的な連動を発揮し、おれの腕に最速で司令を下し顔面を庇おうとする。だが、しかし、動かない・・・!
迫り来る死の拳。戦慄の足掻きに腕の血管と理性が千切れていく。「見える」事が齎したものは、更なる絶望だけだった。


右正面撃ちの直撃を受けた鼻の骨は無惨にへし折られ、死を覚悟した本能が子孫を残すべく袴の中で精を搾り散らせる。
のたうち回る事も泣き喚く事も許されず、美少女の軽やかな「左弾き撃ち」が鼻を挫き視界を一瞬の内に朱に染め上げる。
正確に急所を捉える左弾き撃ちは、背後のある右正面撃ちと同等の威力でおれの鼻梁を異音と共に弄び苦悶に喘がせた。
無限に弾ける激痛と恐怖が、打撃を数える暇すら与えない。


迸る血潮が霧と舞い、喉に絡み付き呼吸を阻む。溢れ返る己の鮮血に噎せ返ると、砕けた前歯が勢い良く飛び出してくる。
舞台のみでなく少女の拳質そのものが、今まで二度の逢瀬とは全く違った。殺す者としての「覚悟」が、拳に漲っていた。
可憐で華奢な、年端も行かぬ美少女の流麗な拳闘技が、確実におれの命を殴り潰し死の淵へと追い詰めて行く。


おれは「殺されたくない」と願った。いつまでも、少女と遊んでいたかった。この甘い苦しみに、悶え狂い抜きたかった。
倒れる事も降参する事も逃げ出す事も出来ず、後ろに仰け反る事すら敵わない。
限りなく狂気に近い正気と狂気の狭間で、脳へ直接響き輻輳する左拳の破裂音と己の心音の嵐に漂いつつ、おれは想った。
眼前の少女は・・・持てる技巧の全てを以って、おれの肉体と精神を、少しも容赦せず「殺し」に来てくれている・・・!
かつてない興奮に体液が沸騰する。そうだ。これこそ究極の「勝負」だ・・・!勝負があるからこそ、遊びは面白い・・・!
脳が融ける程に狂熱している。迸る鮮血の鞭が少女の顔を朱に舐め上げる。その舌が艶かしくうねり、血潮を舐め取った。


一陣の雪風の如く舞い、距離を取る少女。休み無く交錯していた視線が、一刹那だけ逸らされ、再び互いを見つめ直した。
真紅の砂は、まだ八割以上残っている。戻された視界に紅い閃光が瞬く。右の兇器が異形の顔面に、痛烈に正面衝突する。
骨の砕片が内部組織をずたずたに斬り裂き、雄叫びと共に滾る鮮血が全方位に飛沫と化して撒き散り空間を狂気に閉ざす。
一切手心を加えぬ少女が、心底恐ろしく、そして愛おしかった。勝負は、賭けるからこそ面白いのだ。
そして最も魂の震える賭け物は、己の「命」・・・!これこそが、おれが求めていた「冒険」なのだ・・・!


左弾き撃ちの狙撃点へ、一瞬の隙も無く正確に右正面撃ちを抉り込む・・・真紅の二連弾「重ね撃ち」の連打が始まった。
拳の点滅の狭間に垣間見える、血煙に舞う少女。その表情に変化が生じ始めた。おれの顔から、もはや表情は読み取れまい。
その肢体が躍る度、肉を潰し骨を砕く手応えと共に生命の狂奔が伝わり、狂気の微笑を呼んだのだ。
人間を壁に追い詰め、鮮血に舞い踊り砕けた顔面を殴り続ける。それは誰もが吐き気を催し眼を背ける殺戮、残虐行為・・・
しかし、おれ達を結ぶ信頼の視線は一刹那たりとも交錯する事をやめない。奈落の責め苦に血の泡を吐き、嗚咽と絶叫を
迸らせる度に魂が熱く滾り、人生最高最期の絶頂の連続に熱狂し、熱狂に加速する少女の拳がおれを更なる奈落へと誘う。
それは「覚悟」した者同士だけが成せる、地上で最も満たされた暴力の連鎖・・・顔面と拳による、魂と魂の会話だった。


湿りきった破裂音の中、意識と無意識、生と死が交じり合い、過去と現在すら融け合い始めた。
人は道半ばでその生涯を閉じる時、最も愛した人の面影を心に描きながら旅立って行くのだという。
命の火消えるその瞬間まで、最愛の少女は、「愛死合う」このおれを見つめていてくれる・・・
腫れた瞼の奥から止め処なく血の涙が溢れ、少女の振るう真紅の双拳が熱い液体をおれの体内へと撃ち戻し続けた。



連志別川(九) 魂を導く閃光


――・・・おれの声が、聞こえるか・・・!?大丈夫か・・・!?もう熱は、ないのか・・・!?
――ふふ・・・だいじょうぶよ・・・わたしに「熱」なんて、ないから・・・
――よかった・・・きみにもしもの事があったら・・・おれは・・・!


滲む少女の姿が、眼界から消えた。その直後、爆発音が足下から轟き、氷を伝わった爆滅の波紋が滾る涙を凍て付かせた。
鋭い脚蹴りと膝関節の反発により二重の狂威を纏った真紅の右拳・・・「掬い撃ち」が、垂直におれの顎へと迫り来る。
おれは半死半生の躰に残された最期の力を振り絞り、仰け反った。後頭部が氷板に擦れ、狂騒に皮膚は破れ関節は砕けた。
艶やかに張り詰めた右拳が顎を正確に捉え、骨と肉を押し潰し奥歯を強烈に噛み合わせる。ここまでは川面と同じだった。
破壊は、終わらない。頭頂の氷冠はこの刹那、処刑具と化した。氷と拳が形作る顎は、おれの頭蓋を限界を超えて噛み潰し
鼓膜ではなく脳へ直接、骨が砕け命が軋む響きを感じさせた。少女は拉げた下顎へ拳を埋めたまま、あらゆる傷口から
噴出する高圧の鮮血が、その伸びやかな脚を、引き締まった臍を、端正な顔を穿ち付ける刺戟を楽しんでいるようだった。
少女を外れ頭頂の氷に吹き付けた鮮血は瞬く間に凍り付き、紅く輝く無数の氷柱となっておれの眼前に垂れ下がった。


――あの恐ろしい悪魔が棲む川は・・・何と言う名前なんだ?
――・・・名はないわ。みんな、「ペツ」・・・ただの「川」と呼んでる・・・
――そうか・・・あの川に、名はまだないのか・・・


おれの鮮血を吸い成長して行く氷柱の奥で、朱を頭から被ったように濡れた少女の金髪からも、氷柱が垂れ下がっている。
おれ達はお互いの有様を見て、吹き出し合った。噎せ返る拍子に、砕けた奥歯の破片が鮮血に混じって転がり出してくる。
再び、同時に眼を逸らすおれと少女。時を刻む硝子、滴り落ちた血のように紅い砂は、間もなく半分に迫ろうとしていた。


僅か数拍の空白の時間でさえ、おれの意識を永遠の無へ引きずり込もうとする。血の結晶を振り飛ばし少女が肉薄する。
横薙ぎの旋風が、硝子板を割るように悲痛な激突音を響き渡らせた。氷柱を斬り落としたのは、左の「巻き撃ち」だ。
返す右巻き撃ちの連打がおれの顎骨、瞼を射ち砕き、左頬を撃ち抜いたまま横面を氷板へ縫い付けた。眼球筋がブチブチと
切れる異音を聞きながらも、左眼で必死に少女の姿を追うと、左右の兇弾がおれの左眼へ、左頬へ、命へ一挙に殺到する。
おれの全ての「血」を搾り出さんばかりの容赦無き破滅の乱舞に、魂が震える。一拍おいて、今度は鼻面に左拳が炸裂し
首が正面を向く。逆に踏み出した右脚を軸に腰を斬るように捻り、遠心力を骨まで砕く破滅の力と化し左拳へ乗せてくる。
左の巻き撃ちがおれの逆頬を氷壁に激突させ、開放された少女の狂気がおれの右の眼窩と頬骨と魂を滅多打ちに撃ち砕く。


――これだけは教えて欲しいんだ・・・きみの事を・・・なんと呼んだらいい?
――あなたは名前を付けるのが好きなのね・・・わたしに、名はないわ・・・いままでのように、「きみ」と呼んで・・・
――きみ・・・か。きみと一緒にいるだけで、おれは心が安らぐ・・・きみと暮らしていたい。いつまでも・・・


太陽はますます狂気を増し、この正方形の異空間を焼き付けている。滑らかな氷壁は、おれの正面のみではなく左右すら
完膚無きまでに血で塗り潰されていた。射し込む日輪が紅の光線に乱反射し、艶かしく幻想的に少女の肢体を照らし出す。
下顎を叩き潰す右巻き撃ちが、幻想から現実へ、死から生へとおれを叩き戻す。鼻への重ね撃ち十連が、命の鼓動を刻む。
もはや、顔を庇おうとする腕の反射すら、起こらない。おれは少女の拳打が齎す信頼ある苦痛に、魂すらも委ねていた。
おれの躰は、既に死んでいた。顔面を少女の拳が抉る度、真紅の稲妻がおれの脳へ轟き、止まった鮮血を狂奔させるのだ。


左弾き撃ち右正面撃ち左弾き撃ち左弾き撃ち右掬い撃ち左弾き撃ち左弾き撃ち左弾き撃ち右正面撃ち右正面撃ち・・・
屈辱が、煩悶が、爆裂する血の激憤がおれの生命を熱く滾らせ、新たな狂気を振り絞らせ更に少女の拳を冷徹に洗練する。
重ね撃ちの紅い閃光がおれの視界に拡がる。鼻血を掻い潜り肉薄した少女の左掬い撃ちが頭蓋を異形へと圧し潰す。
軽やかに氷面を舞う妖精の脚捌きに見とれる暇も無く、鋭い右正面撃ちが顎を撃滅し鼻を貫く左弾き撃ちに息を吹き返す。
左弾き撃ち左弾き撃ち左巻き撃ち右巻き撃ち左巻き撃ち右掬い撃ち左弾き撃ち右正面撃ち右踏み込み正面撃ち・・・
刻一刻と「その」瞬間が近づくごとに、躰の狂騒が、魂の昂奮が、そして少女の拳が更なる未知の領域へと加速し続けた。



連志別川(九) 魂を導く閃光


――きみの家族に挨拶がしたい・・・お父さんとお母さんは、どこにいるんだ?
――・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・・・・・・
――・・・・・・すまん・・・悪かった・・・・・・おれには、親父もおふくろも、いないんだ・・・


もはや、眼球を動かす活力を振り絞るだけで、恐るべき努力を必要とした。生命を映す紅い砂は、幾ばくも残っていない。
異変が、起こった。口で息を吸う事も、鼻で息を吸う事も出来ない。溢れ出す鮮血が呼吸を阻害するだけでは、なかった。
それは生ある人間として逃れ得ぬ宿命・・・その時の到来を示していた。最期の言葉を絞り出す事すらも、許されない。
全身を狂奔し鼻腔を逆流した鮮血と肉片と砕けた歯に混じった激情の泡が、半開きの口から力なく漏れるばかりだった。


少女の拳が二度打ち鳴らされ、おれの声なき断末魔は破裂音に閉ざされる。直後、衝撃波が激痛と共に顔面で爆裂した。
鼻が打たれ、頬が拉げ、顎が潰れ、瞼が弾け飛ぶ程連打され鼻が砕かれた。拳はおろか、肘から先を視認する事すら許さぬ
まさに神速の連撃・・・人間の視覚の限界すら超え、少女は加速し続ける。左か右かも、何発撃たれたかも、判らない。
おれはこの期に及んで、少女の未知なる拳を感じる昂奮に打ち震えた。極限に爆裂する心拍と心拍の間に二度顔面が弾け
激痛を追い抜いて新たな拳が顔面を捉える。次に気を失う、その瞬間が・・・おれにとって少女との永別の時だろう。


鼓動が急激に遅くなる。ついに、終わるのか・・・重ね撃ちの十八連打から巻き撃ち気味の右正面撃ちの七連弾を鼻に浴び
飛び散るや否や無数の氷晶に煌めく鮮血に包まれながら、おれは違和感を覚え始めていた。何故、迫る拳が見えている?
躍動する少女の肢体が神秘の白銀に輝く。極低温の波動が脳を凍て付かせ、残された生の時が無限に引き伸ばされて行く。
右の掬い撃ちが残った奥歯を砕く。鋭い正面撃ち気味の左弾き撃ちの直撃に、砕けた歯と鼻の軟骨が混じった鮮血が
噴出した直後水平に凍り付き、渾身の右正面撃ちが血と骨の氷条を破砕しつつ顔面へ炸裂し左巻き撃ちが眼窩を撃ち砕く。
失神する一瞬の隙さえ与えぬ、未知へ加速する拳。止まり行く時の中、おれは最期まで生を燃やし尽くせる喜びに震えた。
魂の叫びは、伝わった。そしてその想いが、無上の拳で返される。おれは本当に、この子に出会えて、よかった。


――この間は、ごめんなさい・・・・・・あなたも、ひとりだったのね・・・
――おれこそ、すまなかった・・・・・・ああ、ひとりぼっちだったさ・・・
――・・・いたわ。お母さんが、遠い北に・・・お父さんの顔は・・・・・・・・・知らない・・・・・・


砂が、空中を泳いでいる。一粒一粒の回転すら、見える。
今はただ存在する事だけが、少女の愛におれが応え得る、唯一にして最大の表現だった。


少女が踏み込んでくる。爆裂する右の蹴りは厚い氷に亀裂を入れる程に激しく、弾丸の如く地を這う姿から見上げる表情は
無邪気におれを弄んだ拳魔「川の少女」そのものだった。新鮮な懐かしささえ覚える恐怖に、更に時が凍り付いて行く。
左足が氷を噛み止める。靡く髪一本一本の躍動すら、見える。直後に右足が再び氷を蹴り、二段構えの爆発的加速を以って
鋭角に撃ち出された右の拳が、張り詰めた革肌を自らの拳圧に歪めつつ、煌めき漂う紅の結晶を斬り裂き迫り来る。
最後の一粒の砂が、落ち始めた。


――あなたを・・・「お兄ちゃん」に、してあげる・・・!


少女とおれの、温かで冷たく、そして柔らかで激しい愛情が融け合った切ない一撃が、おれの魂の最奥へ融け込んで行く。
既に原形を留めぬおれの鼻梁を右の拳が押し上げ、最高最期の激痛が全身の神経を稲妻の如く駆け巡り焼き滅ぼす。
確実なる死をその肉質に秘めた右拳は、逃げ場の無い狂圧に自ら限界を超えて潰れながらもおれの顔面を斜めに貫き砕く。
そしてあらゆる肉と骨、組織を巻き込み粉々にすり潰すと、聴覚を滅ぼす猛爆音と共に溢れる激情を脳へ向け開放した。
後ろにも上にも開放されぬ致命の衝撃が、顔面から全身へと駆け巡り、おれの魂を純化させて行く。
全身の血液が、人間としての最期の生命の火が頭蓋へ集中し、極限に圧縮され右拳と顔面の僅かな隙間から紅の刃と迸る。
鮮血は瞬く間に凍り付き、静止しつつある廃空間に無数の紅い氷華が彼岸花の如く咲いては散った。


そして・・・時は、止まった。
落ちた最後の砂粒も、空中に散った血の華も、おれに駆け寄る少女すら、全ての映像が静寂の時空の中で凍結していた。
柔らかな白銀の光が、止まった世界に満ちてゆく。おれはその閃光に導かれるままに、魂を委ねていった。


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連志別川(十) 極北へ続く道


最期の一瞬までおれは、愛する少女に看取られ生涯を閉じる安らぎと、少女との永別が訪れる悲しみの狭間で揺れていた。
少女の顔が、おれの為に涙を零すまいと唇を噛み締め、精一杯に作った悲しき笑顔が、静止したまま光の幕に融けて行く。


「この声が聞こえますか・・・冒険者よ・・・」
凍結した白銀の静寂に割り込んで、魂へ直接、女の声が響いてくる。誰かは分からないが、鈴の鳴るように涼やかな声だ。
「選びなさい・・・最期まで人間として生を全うするか・・・死よりも苛酷な『血の運命』を生きるか・・・」


喉を、次々と液体が通過して行く。それは氷よりも遥かに冷たく、未知の濃厚な生命に満ちていた。触れた唇と唇を通じて
慈愛が躰と魂へ沁み渡る。再び動き出す鼓動に血潮が激しく「逆流」し、「生ある凍気」が四肢へ満ちていくのがわかる。
五感が戻っても、おれは少女を「冷たい」とは感じなくなっていた。子が母の乳を求めるかの如く柔らかな唇を吸い返すと
それを待っていたかのように、少女は風に舞い距離を取る。唾液の糸が水平に引かれ、空中に水晶の粒と化して散った。


燃える夕焼けが血氷の壁に乱反射し更なる深紅に煌めき、少女の顔を、涙に濡れそぼった唇を、紅く熱く染め上げている。
「さあ、次の『冒険』の始まりよ・・・『お兄ちゃん』を、わたしの拳でめちゃくちゃにしてあげるんだから・・・!」
氷壁に激突した硝子細工から紅の砂が零れ出す。その衝撃音こそ、二度と後戻り出来ぬ運命の幕開けを告げる合図だった。


少女は正方形の端へ飛び退くと、俯いたまま儚い肩を細かく震わせた。隠された表情が、ひび割れた氷面に映っていた。
一瞬の間に、少女の姿が接近し遠ざかりまた肉薄する。鼓膜を震わせる響きが音の刃と化し、両耳の肉を斬り裂いて行く。
少女は再び、意志を持った弾丸だった。あの川で魅せた氷を穿ち疾駆する足業に加え、氷壁をその弾力ある右拳で撃ち
更に自らの背後の氷を蹴る反射を繰り返す躰捌きの神技により、まさに少女は未知へ挑む白銀の跳弾と化していた。


耳から頬へ、そして鼻へ、狂怖の切先は新たなる「生」の中枢へ徐々に迫り来る。猛爆は、それを視認する前に齎された。
痛みの、桁が違った。おれは美少女の鋭い右正面撃ちにより鼻を折られる激痛に痙攣する暇も無く、次の右正面撃ちが
鼻骨を挫く激痛に悶え抜き、無数に迸る右の正面撃ちが整った鼻梁を際限無く砕き潰す熾烈なる激痛に踊り喘ぎ狂い続けた。
それを見た「人間」は悉く失明し気を違わせるであろう、人倫を超越した殴滅の奈落、無限の生地獄がそこにあった。
おれは少女と魂を通わせ、人間としての死を克服した。そして、その代償として「死よりも苛酷な運命」を背負ったのだ。


「・・・どう?わたしの拳の味は・・・ねえったら、『お兄ちゃん』・・・!?」
おれは自ら選んだ血の運命に、負けたくはなかった。それこそが、誓った愛を真に受け容れ少女を守るという事だからだ。
幾十もの致死の右拳・・・その折り重なった狂滅の波紋が氷に亀裂を入れたのか、紅く轟く激痛の雷撃に悶えのたうち回る
肉体の狂騒がついに右手の先の氷を貫き破った。おれは全身に漲る愛を振り絞り、掌を向けた指先を揃え、曲げて見せた。


「・・・くっくっ、うふふっあははははっ!・・・どうして、かな・・・いっけないんだぁ・・・『お兄ちゃん』・・・!!」
本当だ。どうして、おれ達はこうなのだろうか・・・少女の、不安の檻から解き放たれた宝石の涙に咲き誇る満開の笑顔を
見ている内に、そんな事はもはや、どうでもよくなってしまった。おれは、この子の「お兄ちゃん」・・・それで、充分だ。


真なる愛は、重く鋭く、痺れる程に痛かった。恐らくかつて時を歪めていた凍気は、痛覚すら麻痺させていたのだろう。
厚い氷を蹴破らんばかりの脚の爆震から、一撃必滅の掬い撃ちが放たれる。狙いは過たず右拳がおれの「鼻」を潰す。
更に左拳が、右拳が、瞬時に再生した鼻骨を垂直にへし折り潰し続け、剥き出しの痛覚が魂を狂気の渦へと巻き込んで行く。
細い腰を捩じ切れる程に捻り、逆転の弾みをその脚で噛み止めた凄絶なる右巻き撃ち。やはり標的はおれの「鼻」だった。
全力で振り抜く度に更に反動が逆拳に上乗せされ、一度しか味わえぬ鼻骨粉砕の破滅的恐怖を無限に齎してくれる。


かつて不死人が永劫に受ける苦しみを描いた物語を読んだ事がある。おれは今、少女の為だけに造られた生ける巻藁として
人の道を外れてしまった罰を受けているのかも知れない。だが、後悔は無かった。この子の為ならば、いつ如何なる時でも
命を投げ出す覚悟があったからだ。この子を守り抜くと、生と死の狭間で固く誓ったからだ。おれは、運命に勝ったのだ。



連志別川(十) 極北へ続く道


おれと少女を縛っていた最後の「箍」が外れ、同時に爆裂した血の絶叫が螺旋に絡み合い奈落の底から天空へと昇華する。
開放された力、死を超え加速する疾風怒涛の脚捌きはおれの知覚の壁を破り、少女の紡ぐ光の幻影は質量を持つに至った。


明滅する少女達の残像が、艶やかな深紅の軌跡に交差しつつ迫り来る。左弾き撃ち右弾き撃ち、左正面撃ち右正面撃ち
そして左掬い撃ち右掬い撃ち・・・吹き荒れる血と拳の暴風雪に、おれは呻く事も喘ぐ事も許されず翻弄され続ける。
神なる光の拳は重く鋭さを保ちつつ繊細を極める精度でおれの鼻梁へと殺到し、倍の速度で骨と魂を粉砕しては蘇らせた。
愛に染められたおれの本能はこの無限奈落においてなお、その拳を、死を願う程に幸せな少女との遊戯を貪り求めていた。
溶鉄の如く滾る鮮血は己の凍て付いた鼻腔すらも焼き、氷結の舞台を斬り裂く紅の熱線と化し濛々たる噴煙を巻き上げる。


――「訊いてもいいか・・・いっ、『妹』って、なんて言うんだ・・・?」
――頭巾の奥からおれを見下ろす眼が、一瞬だけ丸く見開かれた。
――「えっ・・・!?・・・ふふっ、どうして・・・そんな事を『わたし』に訊くの・・・!?」
――おれは思わず、唾を飲み込んだ。
――「そっ、それは・・・それは、おれが、きみの・・・」
――喉まで出かけたおれの次の言葉を遮って、少女は白く濡れた唇を、柔らかに開いた。
――「一度しか言わないわ・・・よく覚えて・・・『トゥレシ』・・・よ」
――少女は更に目深に頭巾を被り、その表情を隠した。
――「そうか、『トゥレシ』と言うのか・・・いい、響きだな・・・」
――刹那に消えた、子を見つめる母の如く暖かな、少女の眼差し・・・


・・・じゃあ、おれの事は『お兄ちゃん』と呼んでくれ・・・
村でその想いを告げられなかった事が、最大の心残りだった。
今おれは最愛の人、おれを「お兄ちゃん」と呼んでくれる少女の拳に囲まれ、気が狂う程の甘く苦い死合せに悶えていた。


灼熱の血条を掻い潜る、氷の妖精達の夢幻輪舞。髪を鞭の如くしならせる上半身の躍動は視覚を追い抜いてなお亢進を続け
反動が更なる反動を呼び、美しき少女達の幻影がおれの眼界を埋め尽くす。痛覚すら追い付かぬその拳は掬い撃ちとも
巻き撃ちとも、もはや名を付ける事も敵わなかった。未知の狂威が、あらゆる方向からおれの顔面へ襲い掛かった。
横殴りに突き上げる拳が、袈裟懸けに振り下ろされる拳が、そして垂直に猛爆する拳が鼻柱を弄び無限無窮に粉砕する。
共鳴する脚の激震と拳の衝撃波に、塗り重ねられた周囲の血氷が剥がれ落ち、熱い鮮血が瞬時に岩壁を朱に閉ざして行く。


五感すらも容易に超越し苛速する少女の疾さへ、残像と激痛で懸命に追い縋る。齎された新たな生を重ね行く瞬間の全てが
縦横無尽に迸る少女の愛により、禁断の輝きに塗り潰されていた。妖精達の舞いはあらゆる軸からおれの顔面を責め苛み
おれに残された人間としての熱い血を吸い取り、「お兄ちゃん」として魂を純化させ続けた。


異変は、始まっていた。少女の肢体を幾十層にも覆っていた血の氷膜が融け崩れ、無垢なる神秘の白が露わになって行く。
沈む事を拒むかの如く、真っ赤に狂熱する太陽。ついに「雪融けの季節」は、訪れたのだ。川を渡る直前、少女は言った。
「時間がない」と・・・その意味が、いま漸く解った。滂沱の涙が溢れ出し、頬の鮮血を熱く融かして行くのがわかる。
少女はその左拳でおれの顎を持ち上げると、その儚い体重を掛け、腫れ上がった瞼を血に塗れた右拳で、優しく拭った。


「・・・泣かないで・・・わたしのたった一人の『お兄ちゃん』・・・」
悲しみに震える唇に割り込んで、少女の柔らかく濡れた舌の肉質が入ってくる。恐る恐る自らの舌を絡め、唾液を貪る。
白銀の極光がおれの宇宙へ直接沁み渡る。絶対の凍気がおれの不安すら凍て付かせ、残された時を急激に拡張させて行く。
「・・・だいじょうぶ・・・また、逢えるわ・・・!あなたは、わたしの『お兄ちゃん』になったばかりなんだから・・・!」


少女は涙の雫を振り飛ばし距離を取ると、半身から斜めに躰を傾け、赤く艶やかで禍々しい二つの拳を顎の高さで構えた。
それは初めてあの川で体感した、未知の拳闘技の構えそのものだった・・・その右拳が軋む程に絞られ、左拳と同じ方向を
向いていると言う事を除けば。おれは死合せの渦の中で、与えられた最期の愛を振り絞り、氷を砕き両手で少女を招いた。



連志別川(十) 極北へ続く道


その右脚が氷を力強く噛み締め数多の蹴りを重ねるごとに、光の少女は太陽を斬り裂く氷結の弾丸と化して、逃げ場のない
磔のおれへと加速する。爆滅する狂気が一瞬を千の刹那に分かち、おれの最期の記憶へ少女の凛々しき勇姿を刻み付ける。
純白の左爪先が氷を突き砕き、光の速力がそのしなやかな脚を、円やかな腰を、少しでも強く抱けば折れてしまいそうな
儚い肢体を伝い、激情に張り詰めた右拳へ完全に充填される。獣の絶叫と共に撃ち出された禁断の一撃「螺旋正面撃ち」は
自らの血塗られた運命に哭き叫ぶかの如く唸りを上げておれの顔面の中心へと迫り、「逆さまに」着弾した。


恐るべき暴打は触れた鼻骨を容易く砕き尽くし、おれの肉へ、魂へと喰い込んだ右拳は更に渦を穿ち竜巻の如く突き進む。
猛り狂う破壊の螺旋輪舞に、鼻骨を支える頬骨、上顎骨までもが残らず粉々に潰滅され、骨と肉と神経が一挙に摺り潰れる
未知なる激痛が止まり行く時の中で無限に増殖し理性を斬り刻み滅ぼし尽くす。永劫の昂奮に満ちた一瞬がそこにあった。
そして、その甲を真横に向けると、約束の拳はその秘められた激情を開放した。柔らかく峻厳なる愛に満ちた撃滅の狂気は
既に亀裂の入っていた背後と頭上の氷壁を粉々に粉砕する。そして顎から、瞼から、砕き尽くされた鼻と拳の僅かな隙間から
幾千万の閃光の矢の如く迸った最期の鮮血が、女神の如く慈愛に満ちた少女の眼差しを狂熱の幕へ閉ざしていった。


一刹那ごとに瞬く生と死の狭間でおれは、ついに「別れ」の時が来た事を悟っていた。だがそれは、悲しみの永別ではない。
雪融けの季節が来る限り、雪もまた降るのだ。少女の脚が最後の氷枷を踏み砕き、慈愛漲る右拳が顎へと垂直に迫り来る。
煌めく血の宝玉に彩られ、一陣の銀の風となって儚く散りゆく少女。おれは少女の拳に導かれ、茜色の天空へと融けて行く。
――また逢おう・・・愛するおれの「トゥレシ」よ・・・!
誓いの微笑みを交わす。再会を約束した別れ、それの齎す柔らかな安らぎに包まれながら・・・おれは静かに意識を閉じた。


・・・・・・・・・・・・


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・・・・・・・・・・・・


光の差さぬ暗黒の中で、おれは夢と現の狭間に這い回っていた。ここが、地の獄か・・・左の掌を壁に突き、辺りを探る。
壁や天井へ何度も激突し這い蹲る内に、あらゆる表層が氷に覆われている事がわかった。壁に滑らせていた手が宙を掴む。
長く狭い氷の階段を四つ足で登り切ると、外界から漏れる閃光が眼を貫いた。その驚愕が、おれの足を滑らせてしまった。
氷段を勢い良く転げ落ち、宙空に投げ出され、叩き付ける激流に呑まれ・・・そこから先は無我夢中でよく覚えていない。
躰中に残る鈍痛が生と「現実」を認識させる。おれは、あの正方形の舞台へ続く・・・七竈の立ち並ぶ渓谷に佇んでいた。


現実は、おれの想像を遥かに絶していた。七竈の真っ赤な実に、白銀の雪が積もっている。足下の浅い雪を踵で払うと
落ちて間もない紅葉が出て来た。今おれが生きているのは、冬・・・それも、雪すら降り出したばかりの「初冬」だ・・・!
まさか、時が戻っているとでも・・・?恐る恐る、川面に両足を乗せる。すると、ほんの僅かの間ながらも・・・浮いた。
時は、戻ったのではない。次の冬へと「進んだ」のだ。これこそが、あの子の「お兄ちゃん」になるという事なのか・・・!
全身に優しい凍気が漲る。おれは雪化粧した七竈の実に愛する少女とその拳を重ねつつ、小さな足跡を追って走り出した。


村へ真っ直ぐ続く足跡は、「あの男」のチセの前で消えていた。唾を飲み戸を蹴破ると、封じ込められた死臭が鼻を突く。
真新しい血潮が四方に飛び散り、天井からも雨のように滴っている。
男は跪き壁に凭れたまま、腫れ上がった瞼をおれに向け・・・「和人の言葉で」語りかけた。
「・・・ふん・・・やはりな・・・お前、も・・・来た、か・・・」
百の言葉の代わりに、渾身の足蹴りを一発くれてやる。部屋の隅まで吹っ飛んだその激震に、神棚から大鉈が転げ落ちた。
「・・・ふっ、ふふ・・・強く、なったな・・・・・・お前らが来るのを、待って、いた・・・さあ、行くが、い、い・・・」
「ああ、行くさ。どこまでもな・・・もう、会う事はない・・・・・・・・・・・・・・・ありがとうよ、クソ野郎・・・!」


地図を出し、指先を噛み切る。おれは艶かしくうねるその儚い川筋に沿わせ、自らの血で「トゥレシペツ」と書き込んだ。
眠る男の表情は血と涙に塗れながらも、穏やかだった。地図を押し込んだ重い給金袋をその顔へ投げ付け、村を後にする。
冒険者として、人としての・・・最後のけじめが、終わった。さあ、帰ろう・・・「お兄ちゃん」を待つ、「あの子の川」へ。



連志別川(十) 極北へ続く道


地吹雪舞う野道を駆け抜ける。藩の役目も、遠い故郷も・・・もはや俗世間での全てが、どうでもよくなっていた。
もうおれは、ひとりではない・・・あの子とならば、きっと、どこへでも行ける。その時、脳天へ稲妻の如く天啓が閃いた。
――そうだ、おれ達は「北へ」・・・いつまでも春の来ない、あの子と永遠を過ごせる、北の更なる最果てへ・・・!
それは決して戻れぬ、おれの生涯最大最期の冒険になるだろう。苦笑が漏れる。やはり全ての男は、親父の息子なのだな・・・


濛々と正方形の空間を包む水煙の中、あの子の姿を探す。滝の裏に入った直後、白銀の烈風が「天空」からおれを襲った。
眼を見開き、光の奔流へ懸命に抗う。その帯が風圧にほどけ、血に塗れた藍染めの装束が四角い太陽へ吸い込まれて行く。
舞い降りた神秘は、おれを僅かに見上げた。周壁へと滑らかに繋がる氷の摺鉢の底から、白く潤んだ唇が迫ってくる。
「おはよう、お兄ちゃん・・・ふふ・・・かっこよく、なったね・・・・・・お兄ちゃんが来るのを、待っていたわ・・・」
「きみこそ、ますます綺麗になった・・・待たせて、すまなかった・・・ちょいと、野暮用を片付けてきたところでな・・・」


柔らかい口づけの余韻と躰を包む清冽な拘束感の中、おれは雪道での幸せな思い付きを、余す事なく眼前の少女へ話した。
「・・・と、いう訳なんだ。途中で、きみのお母さんのお墓に・・・な、何で構えっ・・・ひっ、ひぃぶッッ!!」
右の螺旋正面撃ちが鼻面へ深々とめり込み骨を爆砕した。紅い激痛と共に、氷の檻の中で藻掻き喘ぐ懐かしい狂気が蘇る。
「あのね、お兄ちゃん・・・悪いけど、勝手にわたしのお母さんを殺さないでくれる?・・・それに、ふふ・・・」
血飛沫に濡れた少女は、おれの顎をその拳で慈しみ支えると、痺れる程に冷たい舌で迸る血潮を舐め取り味わった。


「この血・・・まだ『熱い』し、『薄い』わ・・・だけど、確かな『素質』の味がする・・・
北へ行くのなら・・・お兄ちゃんには、『もっと』お兄ちゃんになってもらわないといけないの」
――いったい、どういう事だ・・・!?血の、「素質」・・・!?おれは、「もっと」お兄ちゃんに・・・!?


「その前にお兄ちゃんに訊くわ。北は、どっちか・・・わかる?」
川は源流から、確か、南へっ・・・!思考を纏める暇も無く、左右の重ね撃ち六連が鼻を真芯から捉え血煙が氷霧と散った。
「くっふふ・・・ざーんねん。時間切れ・・・!北への道は・・・」
血と涙に溺れ悶えるおれに見せ付けるように、少女は今まさに鮮血を滴らせているその右拳を、真っ直ぐに天へ突き上げた。
「『ここ』よ・・・!今から、お手本を見せてあげる・・・!」
頭頂の氷冠まで響く脚震の恐怖に思わず目を瞑ると・・・少女は、忽然と消えていた。


今度は「横」だ・・・!足で氷面を捉え、背中まで伸びた金髪を靡かせながら、少女は大理石の如き氷壁を垂直に滑り上る。
「北へっ・・・!行くならっ・・・!他にっ・・・!道はないからっ・・・!この壁を登るしかっ・・・!ないわっ・・・!」
その落下の勢いを利して皿状の底面を駆け抜け、更に疾く高く舞い上がって行く神技。芳しい香りを孕んだ烈風と残像が
空間を左へ右へ斬り裂き続ける。少女は滝口の向いにある横穴に飛び移り腰掛け、脚を宙に遊ばせおれを見下ろしていた。


「お兄ちゃんの図体じゃ、無理ね。でも、安心して・・・ちゃんと『別の昇り方』を考えてあるわ」
少女は、続けた。
「吹雪も、拳も・・・全ての力は『お母さんの血』からもらったの・・・
お兄ちゃんにも、きっと流れているわ。わたしの力を、受け容れる力が・・・!」
氷を伝わって、少女の言霊が、隠された真なる願いが・・・おれの骨へ、魂へと響いてくる。おれは漸く全てを、理解した。
これが自ら選んだ「血の運命」の正体・・・!そして、その運命を切り開くものは・・・更なるおれの血、この子の拳だ!


「ふふ・・・全く、聞こえんな・・・百の言葉より、一の拳・・・おれ達はいつだって、そうだったろう・・・?
御託はいい・・・降りて来て、その生涯無比の拳で語ってくれ・・・!!おれは永遠に、お前のお兄ちゃんだ!!!」
「ふふ・・・ばかなんだから・・・でも、うれしい・・・!!お兄ちゃん、大好き・・・大好き!!!」


氷の火花を尾と散らし、加速する光輝の彗星と化して天から降臨する少女。狂い咲く満開の笑顔。骨すら砕く血の拳嵐。
おれは自らの鼻梁に、閃き迫る右拳を迎え容れ・・・少女と紡ぐ永遠への希望を胸に、白銀の光の中へ融けていった。


北への道・・・それは真なる「お兄ちゃん」を目指す、天へと続く血塗られた旅路。
未知へと挑む終わらない冒険・・・それは今、幕を開けたばかりなのだ。