投稿SS7・連志別川(前編)

※この文章はフィクションであり、実在する、或いは歴史上の人物、団体、および地名とは一切関係ありません。



連志別川(一) 蒼い眼の少女


未だ蝦夷地の辺境には、地図に名が残らぬ地が多い。
おれは、一匹狼の冒険者・・・と言えば、多少は聞こえがマシだが
あてもなく未開の地に挑戦してみたくなる、まあ冒険狂いといった方があってる・・・そういうヤツさ。


ボロボロになった地図を広げる。親父の遺品の一つだ。掠れた汚い字と、おれが朱で書き足した字が入り交じっている。
遺品とは言っても、親父から手で渡された品ではない。去年、鹿撃ちの弾を探していたら納屋の隅から出て来たものだ。
確か、あれはちょうど十一年前だったか・・・おれが、やっと種子島の使い方に慣れてきた頃の話だ。
親父もおれと同じ、冒険者だった。今より更に謎に満ちていた蝦夷地内陸の山々を、躰ひとつで突き進んでいたのだ。
そしてある日、「北へ行く」と言い残し家を出て・・・それっきりだ。母は・・・その顔すら一度も見た事がない。
親父は、蝦夷地の更に北の最果てを目指し、冒険の中で死んだのだろう。だが「今の」おれは、親父を恨んではいない。


それからおれは今まで、この身一つで北の自然と戦ってきた。生への渇望が、そしておれを置いて消えた親父への憎悪が
親父から貰ったこの鉄の躰を、更に鋼の如く鍛え抜き技を磨いた。そして、山を駆け巡っている内に腕っ節が認められ
いつの間にか測量の任に就き、今のおれがあるって訳だ。浦賀に現れた黒い船が、既に箱館にも来た事は知っている。
江戸の都が、時代が蝦夷図に飢えているのだ。おれは武士の出でも何でもない。まさに「猫の手でも借りたい」って奴だ。


だが、おれは猫にも幕府の飼い犬にもなるつもりはない。おれの求めるものは今までと何ら変わらぬ、命を燃やす冒険だ。
実際、測量なんてのは建前・・・この松前の山を拠点に、お上のお墨付きで勝手に冒険させてもらえる、いい仕事なのさ。
藩の役人すらおれを恐れて近づかない。おれが死んでも、誰も泣いてくれる奴などいない。つくづく「いい」仕事さ・・・


さて・・・吹雪の中、誰が建てた物かは知らぬが、小屋から小屋へ地図を頼りに橇を引いて来たが、ここまでのようだ。
道が終わっている。崖と崖に挟まれ、急激な階段状の上り坂になっているのだ。少なくとも橇が通れる幅と傾斜ではない。
だが、まだ奥へ行って引き返すに充分な食糧も弾もある。鹿は天の神が人に与えていると言うが、本当にいくらでもいる。
せっかく長い冬も終わりに近づいた、羆の眠る時期を選んで来たのだから、むざむざ尻尾を巻いて帰る理由はない。
最後の小屋へ引き返し朝を待った後、おれは橇で引いていた己の荷を一気に背負うと、聳える雪山へ挑む事にした。


ふん!・・・荷を背負い直す。余りの膂力に、自分でも笑ってしまう。武器、食糧と合わせて軽く三十貫は、あるだろう。
おれの躰はでかい。しかも筋肉の塊だ。並の馬では乗り潰してしまう。松前でも、異人と間違えられた事は数知れない。
売られた喧嘩を買った事すら、ただの一度もない。人間が相手では、おれは殺さずに懲らしめる自信がなかったのだ。
街中での下らん揉め事は、大概、銅銭一文で平和的に解決出来た。指でちょいと摘んで二つ折りにしてやればよいのだ。
親父が生きていれば、恐らくおれはここまで強くはなれなかっただろう。十一年も見ておらぬから、顔も忘れたがな・・・


それに、おれはどういうわけか、寒さには滅法強かった。今も、正面から水平に叩き付ける吹雪が気持ちいいくらいだ。
おれと親父の決定的な違いは、この「冷気への耐性」だ。これは生来の能力で、日々の修練で身に付けたものではない。
親父と行った最後の鹿撃ちを思い出す。おれも親父も吐く息は白く濁っていたが、白の「濃さ」がまるで違っていた。
松前の酒場でしこたま飲んで雪に埋まったまま翌朝を迎えた時には、おれは本当に人間なのか自分でも疑ったくらいだ。


さて、親父の名が記された地図は、丁度ここらで白紙になっている。つまり親父は、この周辺で引き返したという事だ。
おれは、冒険者として親父を超えたかった。だから、ここまで来たのだ。頬を痛い程張って、気合を入れる。
狭い獣道を進む。次第に道すらも無くなり、人の分け入る事を拒むかのような朽木の網を大鉈で薙ぎ倒し踏み越える。
「引き返せ」「これ以上行けば、死ぬぞ」・・・まるで大自然の脅威が、おれにそう警告しているかのようだ。
――やはり、親父の地図が言う通り、何もないのか・・・
松前から二十日の道のり・・・当然、帰りも同じだ。この峠を越えて何もなければ、悔しいが・・・退かざるを得ない。
山を登りきったおれの眼下に、人はまばらながらも、かなりの広さの集落が飛び込んできた。そうこなくっちゃな・・・!



連志別川(一) 蒼い眼の少女


村の人間は、大柄なおれを警戒し刃を向けた。しかし、おれもここで死ぬわけにはいかない。大鉈に手を掛けたその時
「あなた・・・だれ?・・・どこから?」
意外・・・!それは、懐かしい和人の言葉。しかも、透明感のあるその声の主は・・・年端も行かぬ、美少女だった。
入り込んだ和人の子孫であろうか、体格のいい男衆の中で、一際その幼さと小ささ、儚げな容姿が目立ったが
凛としたその美声が醸し出す緊張感が、全ての村人を一挙に凍り付かせた。死の静寂の中、その視線が村人を薙ぎ払うと
次々と彼らの刃が降りて行く。最後に氷の視線は垂直に近い角度でおれの眼球を貫き、おれも愛鉈を雪に突き刺した。


少女は精緻な蝦夷文様の装束でその身を覆い、衿に縫い合わされた厚手の頭巾は、その額と眉までをも隠していた。
おれの胸にも満たぬ、小動物を思わせるようなその体躯・・・そして生白くふっくらとした唇が、おれの目を癒し
鈴の鳴るように涼やかな声で語られる、懐かしい故郷の言葉が、おれの心を溶かしてくれた。
眩しい程の白地に濃藍が染められた装束は大人の為の物なのか、余った裾は雪面に柔らかく波打ち拡がっている。
特に、膨らんだ袖の生地が裾以上に過剰に余り、その先端が今にも地に付きそうな所が、却って愛らしさを感じさせた。
そして、雪の積もった頭巾の奥からおれを鋭角に見上げる、大粒の宝石のような蒼い眼・・・これが最も印象的だった。
――綺麗だ・・・
魂を滾らせる、静謐なる美。熱い息で視界がこれ程に曇る事など、初めてだった。・・・おい、おれは何を考えている?
やがては孤独の中で死ぬおれには、どうせどうでもよい事だ。それより、この膠着した状況を何とかせねばなるまい。


大男が、雪に片膝を突いて少女に耳打ちする。少女は男を黙殺したまま、凍て付くような視線をおれの眼球へ注ぎ続けた。
この男が村を束ねているのだろう。体格ではおれに及ばないが、なかなかいい勝負だ。おれに似た太い首と精悍な眉が
村の長としての貫禄を醸し出す。獣と格闘したのだろうか、無数に傷痕の刻まれた顔が歴戦の猛者である事を示していた。
少女は無表情でおれを見据えたまま、立木を指さした。正確には、少女の袖が示したのだ。袖の内部は、決して見えない。
袖の先には、おれの長い腕でも片抱えにやや余る程の、犬槐の枯木が聳えていた。蝦夷に挑む山男ならば、知っている。
硬く朽ちにくい木質。彼らにとっての、この樹の用途・・・それは、墓標だ。おれは、命を試されている事を直感した。
ふん、面白え・・・!愛鉈を右手に取る。常人では両手で持ち上げる事も難しいだろう、刃渡り三尺三寸の業物だ。


「ぬうう・・・ぬぅんっ!!・・・ぬおおりゃあああっ!!!」
おれは大鉈を横薙ぎに振り抜く。これ程の死力を振り絞ったのは、冬眠を逃した若い羆、穴持たずに追われた時以来だ。
犬槐はおれの胸の高さで切り株になっていた。今度は両手で上段に構えると、十貫の鉄塊を轟く大絶叫と共に振り下ろす。
「イ、イメル・・・!」
男衆から、驚愕の声が上がる。おれの膂力は犬槐を根本まで真っ二つに引き裂き、凍った大地までも叩き割っていた。
暫しの乾いた静寂の後、顎髭の大男とおれは抱擁を交わし、歓声が巻き起こった。おれは客人として認められたのだ。


食宴の後で、古い言い伝えらしき話を聞いた。村のそばを流れる川だけは、渡ってはいけないのだと。
大男の話によれば、神域であるその川を侵せばたちまち死神が現れ、魂を奪ってしまうのだという。
だからこそ、その川と険しい山に囲まれたこの村に訪れる者は、誰一人としていなかったのだと・・・
少女を介して聞いた事だが、語りながらも、決して眼を合わせようとしない大男の様子が、死神の存在を確信させた。
川の「死神」・・・おれは、羆の事だと直感した。だが、冬眠から覚めるには明らかにまだ早い筈だ。
死神とやらが獣ではないとすると・・・その川は容易く人の命を奪う程の急流と水深を持つ、恐るべき難所なのだろう。



連志別川(一) 蒼い眼の少女


あれから十日余り、他の言葉は全くわからないが、おれに「イメル」という名が与えられた事だけはわかった。
少女に聞いた事では、それは「稲妻」を意味する言葉だという。裂かれたままの犬槐の木を見て、おれは頷いた。
付き合ってみればいい奴ばかりだ。気のいい大男と村の男衆に、おれ流の喧嘩相撲の稽古を付けたり
持って来た酒と村の酒を皆で飲み比べたり、腕っ節を活かして薪運びや鹿狩り、雪除けなどの力仕事に励んだりと
村の皆とも家族同然に打ち解け、思わぬ活動拠点が出来た。おれには立派な「チセ」というらしい家も与えられた。
なぜかこの村では、人よりチセの数の方が多かったのだ。重厚な造りのチセは、新たな我が家の安らぎをおれに与えた。
そして最もおれに北の地で生きる活力を齎したのは、少女の存在だ。思えばあの子がいたお陰で、今のおれがあるのだ。


だが・・・おれがここへ来た目的はあくまでも、未開の地の探索である。他の和人の足跡を辿る物見遊山では決してない。
誰も踏み込もうとさえせぬ山や川を誰よりも早く見出し名を付け、それを後の世に残す事こそが、おれの生きがいなのだ。
おれは親父の地図を広げて薪火にかざした。やはりそうだ・・・この川の向こうからが、白紙になっている・・・!


おれは次の日、食事を済ませた後、散歩に出ると少女に偽って、その恐ろしい川とやらの様子を見てくる事にした。
馬橇どうしが余裕を持ってすれ違える広さの「緑と緑の隙間」が、村から伸びている。しかし、人の往来は皆無の為
おれの肩まで積もった雪を掻き分け、踏み固め、それを「道」にする必要があった。借りた鉄鋤で柔らかな雪を掬っては
左右に聳える蝦夷松の森へ投げ捨てる。粉雪が煙る中、目標へ近づく度に熱く滾る高揚感が、おれに疲れを忘れさせた。
どうにか川までの一本道を切り開いた頃には、夕暮れになっていた。渡れそうな所は、たったの二箇所しかなかった。
村の高台から見えるほど近くに下流の渡り口、そして村から半里に余るほど離れた場所に、上流の渡り口がある。
下流には、橋を叩き壊した跡があった。村人に見つからぬよう川に挑むには、遠い上流から入る他にないだろう。
水嵩はせいぜい太腿程度、幅は大股で三十歩といったところか。おれも一応は測量士だ。見るだけで大方はわかる。
拍子抜けする程、余りにも穏やかな川だ。これならあの子ですら、歩いて渡れるだろう・・・「死神」とは、何なんだ?


「川・・・行ったのね」
少女が、言った。その蒼の瞳は、既におれの好奇心を見透かし、試していたのだ。おれに鋤を貸したのは、少女だった。
正確には少女の視線を受けて、大男が持って来たのだ。あの少女が見せた、大男を睨み付ける氷の眼光が忘れられない。


広い村だが、最低限の除雪はされている。散策に道具は不要だった。おれは思わず、少女の前に跪いて言葉を待った。
・・・まるでこれでは、母親に叱られる子供だ・・・「母」を知らぬおれは、その緊張に不思議な安らぎを感じていた。
少女は呆れたようなため息をつき、おれを見下ろすだけで、怒らなかった。おれは饒舌になって川の様子を正直に話した。
秘境の地の美少女と、同じ言葉で、同じ秘密を共有する。それだけで、おれの心は大いに癒されたのだ。
おれは知らないが・・・恐らくおれに「家族」がいれば、こういう暖かな気持ちが心に満たされるものなのだろう。
「死ぬよ」


ふ・・・「死ぬよ」、か。おれは、少女のこういう、素っ気無いような、涼やかで簡潔明瞭な喋り方も、好きだった。
あの子も、川の死神を信じているのだろう。今日はもう、やめにしておこう・・・おれは、与えられたチセへと戻った。


次の日、降り続いた雪が止み、日が照りつけてきた。おれは少女の言葉こそ気になったが、その川に挑む事を決意した。
水深はおれの膝の皿を覆いわずかに越す程度で、流れも止まったように遅い。まさに今日が最高の好機・・・!
危険を冒すからこそ、おれは冒険者なのだ。しかし・・・おれは、震えていた。決して、寒さからではない。
それは、未踏の地を侵す快感か、未知なる邪悪への恐怖か・・・おれは武者震いをおさめるため、川に用を足した。


さて、川だ。万一にも流されて溺れる事の無いよう、装備は整えてある。仕事の後の暇潰しも兼ねて、皮を剥いだ後の
白樺から二本の杖を削り出しておいた。先が鋭い三叉になっていて、川底の砂を噛む。槍としても充分に使える代物だ。
――やはり、大した事はないな・・・
おれは「死神」の脅威など忘れ、この流れの先でおれを待ち受けているだろう、未踏の神秘へと足を進めた。
親父を超える時が、ついにやってきたのだ。


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連志別川(二) 未知なる邪悪


十三、十四・・・測量の癖で歩数を数えながら川の真ん中に差し掛かった時、突如として、異変がおれを襲った。
上流から猛吹雪が、一瞬の内に巻き起こったのだ。おれは反射的に背を向け、恐るべき冷気と暴風を背中でしのいだ。
体温が急激に奪われていくのが、わかる。両手の感覚が麻痺し、川底に突いていた杖が、下流に吸い込まれていく。
常人ならばこの冷温地獄に、既に心の臓を止められているだろう。生まれつき冷気に強いおれだからこそ耐え抜けたのだ。
その有様は、川というよりも・・・「滝」を水平にしたかのような、恐ろしい激流だった。冷気には何とか耐えても
流されれば、確実に・・・死ぬ!おれは、必死に両足を川底に踏ん張り、耐える他なかった。


吹雪が収まるまで、おれは、決して取り返しのつかぬ異変に気が付かなかった。足下の水が、凍り付いていた事に。
あの激流が幻であったかのように、川面は全くの水平を取り戻していた。「水面」が、「氷面」に替わった事を除けば。
もはや、左脚も右脚も、一寸も動かせない。硬い氷は両膝の関節を丸々飲み込み、おれの両脚を二本の棒と化していた。
氷面を両手で押して脚を抜こうにも、びくともしない。まるで、死神の操る地獄の亡者に魂を掴まれているかのようだ。
そして、凍った川の下流から、何者かが近づいてくる。まさか・・・羆か?おれの心までもが、凍り付いた。


おれは、その姿に魂を奪われた。それは野の獣ではなく、幼い少女だった。
未知の地で、未知の境遇で出会う、未知の少女の存在感に・・・足を凍らせながらもおれの脳は焼かれ、只々圧倒された。


驚いた事に、川も凍るこの寒さで、何も身に着けてはいない。その細い首筋も、臍も、脚も、剥き出しになっていた。
幼子だが、松前でも見た事のない、美人だ。ドキドキと不安を感じさせる程に白く、透明感のあるきめの細かい肌。
黄金色に輝く髪は濡れたような光沢を湛え、柔らかに波打ちながら肩に付くか付かないかの長さまで伸びていた。
脚は和人では考えられぬ程にすらりと伸び、その眩しい肢体の神秘は人間と言うよりも、精霊や天女の類を想起させた。
雪の彫刻の如く日の光を反射し、神々しいばかりの美を魅せつける少女の姿から、おれは一刻も目を離せなかった。


そして、氷の刃を思わせる蒼い眼とは裏腹に、その両拳のみを覆い隠す、鮮烈な真紅に煌めく色彩がおれの眼を撃った。
はち切れんばかりの内圧が、その磨き抜かれた革の表面を膨れ上がらせている。少女の細い手首に紐で厳重に固定された
「それら」は、寒手袋と言うには、余りにも肉厚すぎた。親指部分だけが独立した「それら」は少女に固く握り締められ
苦悶するかの如く皺を寄せ、二個の球に近かった。おれには禍々しく照り光るそれが、真に何なのかわからなかった。
わからないだけに、更に得体の知れぬ不安がおれの魂に突き刺さる。なぜ拳だけに・・・?何の目的で・・・?


斬り付けるような冷気の中、裸足で凍った川の真ん中を、一歩、また一歩と近づいて来る、日輪に光り輝く美少女。
脚が凍っていなくとも、おれは一人の男として、その場から少したりとも動けなかっただろう。
不思議と、吹雪を受けた背中どころか、今まさに氷に閉ざされている下肢にすら、おれは痛みを感じていなかった。
そして少女は、立ち止まった。おれの、目の前で・・・寒風に髪が艶かしく靡き、滑らかな純白の額が更に露わになる。


少女は小柄だが、氷の上に立っている。したがって結果的に、おれは僅かながら見下ろされた。
親父が消えてから、おれを見下ろす人間には一人も出会った事がない。おれの本能が、年端も行かぬ少女を恐れさせた。
――何を・・・何を、おれは、されてしまうんだ・・・?
身も凍る恐怖とは裏腹に、熱く煮え滾らんばかりの好奇心と興奮に、おれは包まれていた。



連志別川(二) 未知なる邪悪


「おしっこ、したわ」
少女は和人の言葉で、確かにそう言った。おれは、心の臓が口から飛び出そうになった。
更に、その氷の眼が、近づいてくる。後ずさる事も出来ず、仰け反ったおれは、更に鋭角に見下ろされる格好となった。
おれと少女の視線が斜めに交錯し、その直線の中点で、三度、爆発が起こった。乾いた破裂音に、おれの鼓膜が
そして魂までもが、戦慄した。張り詰めた真紅の拳は、おれの目の前でお互いを叩きのめし、淫靡に歪ませていた。
轟く破裂音とは裏腹に、柔らかそうに見えたその表面は、殆ど圧し潰れていない。脳裡に興奮が恐怖と共に増殖する。


「あなたがしてるの・・・ちゃんと見てたもの」
おれが否定の言葉を口にする暇も与えず、少女は一陣の疾風の如く飛び退き、見た事もない構えを取る。
半身から斜めに躰を傾け、赤く艶やかで禍々しい二つの拳を、顎の高さで構え、氷の上を風の如く舞い踊る。
こいつ、やる気か・・・!初めての人間相手の喧嘩が、こんな光り輝く美少女と・・・思考が、とても追い付かない。
格闘技・・・それも、一足でおれの間合いに飛び込んでその拳を叩き込んでくるだろう事は、わかる。だが・・・
それが「何なのか」が、わからない。無意識におれは両腕を広げ、己の唯一知る相撲の構えで対峙せざるを得なかった。
膝関節は完全に封印されて動かせない・・・殴りに来た腕を、取るしか、な、いっ・・・!?


「ぶうッ・・・!」
紅い小爆発と共に、鼻から勢い良く迸ったおれの鮮血が空中で凍結し、紅い水晶のようにキラキラと舞った。
疾すぎて、拳の出掛かりを眼で追う事すら出来なかった。いつの間にか、おれの視界が紅に閉ざされている。
おれは今まさに、美少女に、顔面を殴られたのだ。そして二の矢、右の拳は・・・おれの鼻先で、寸止めにされている。
強烈に降り注ぐ日輪が、その握り締められた右拳の光沢を、皺を、威容を、嫌という程におれの脳へと刻み付ける。
心の臓が、倍の激しさで暴れ狂う。おれには、その真紅の拳が視界を覆う二十拍余の間が、永久にも感じられた。


「ひゃあっ、あひっ・・・!」
潰れた鼻に押し付けられた拳。じんわりと鼻の奥に拡がる鈍痛と恐怖感に思わず、女のような悲鳴を上げてしまう。
少女が力を込めるごとに、軟骨が歪む異音と共に、弾力ある拳が自ら潰れながらおれの肉に食い込んでいくのがわかる。
溢れた涙が凍りゆく痛みと、躰を仰け反らせる燃えるような屈辱感、そして少女の美貌が、おれの脳に一挙に殺到する。
謎の吹雪、謎の凍結、謎の少女、謎の拳打、謎の激痛、謎の圧迫、謎の屈辱・・・
様々な謎の中、おれは己の骨肉を蹂躙しているこの赤く丸々とした拳当ての正体を探った。


自らの拳を痛めず人を打ちのめす為、何か詰め物をした、柔らかな革の籠手といったところか・・・
少なくとも、この弾力では「武器」とは言えまい。自らの拳を砕く躊躇を無くす為には、極めて有効なのだろうが・・・
おれは鼻を潰されながら、頚椎を軋ませつつも、必死に少女の姿を眼球筋で追った。
透明な氷の上に立つ細身の少女は、まるで空中を舞う妖精のようだった。妖精の眼は、おれを蔑み嗤っていた。
真っ赤なその拳が捻られ、鼻の軟骨をメチメチと音を立てて移動させる。鈍痛が脳を貫き、思考は恐怖に塗り潰された。


まさか、この子が・・・こんな可憐な美少女が、「死神」だとでも言うのか?
そんな、そんな筈は・・・



連志別川(二) 未知なる邪悪


少女は、突然に右拳を引き戻した。反動でおれは勢い良く前にのめり、ビチビチと飛び出した鼻血が氷面に
真っ赤な池を造り、瞬く間にそれは凍り付いた。少女は、真っ白な息を吐き苦しみに喘ぐおれの顎に左の兇器を当てがい
持ち上げると、おれですら痛みを感じる程に冷たく「透明な」吐息を鼻腔に吹き掛けながら、死神の笑みを笑った。
それは、稚児が虫けらをいたぶり苛め殺す時に見せる、人間的な良心の呵責の一切入らぬ、純粋な好奇心の笑み。
凍り付いた。顎を伝い氷柱と化すおれの鼻血だけではなく、おれの心までもが。
おれは顔を殴られる痛みと恐ろしさを、全く知らなかった。おれに殴り返されれば死ぬ事を、誰もが判っていたからだ。
間違いない。この少女は、これからおれの顔面を打ち据え、息の根が止まるまで殴る気だ。おれは・・・殺される!


おれの中で、自制し続けていた「何か」が弾けた。握り拳を作り、恐怖の絶叫と共に少女の整った顔めがけ突き出す。
少女の姿が瞬く間に遠くなり、急激に踏み込む勢いを利した左が迫り、おれの視界を赤に閉ざし日輪を見上げさせる。
その、鮮やかな打撃の後の先に見とれる暇もなく、左右の連打がおれの顔面を何度も芯から捉え縦横無尽に弾き飛ばす。
牛の革か・・・光を浴びてテラテラと艶めく拳、それが発する独特の香気に、おれはむせ返るようだった。
そして、その匂いにおれの鮮血の臭いが交じり合い、おぞましい破裂音と鈍痛と共に、次々に鼻腔に叩き込まれて行く。


屈辱に右腕を突き出せば、左の拳で叩き逸らされ、細い腰の捻りと後ろ足の蹴りを活かした右の真っ直ぐな拳が
がら空きの顔面に正面から激突し、鼻の骨と背骨が激しく軋み海老反りに噴き出した鮮血が寒空に弧を描き水晶と舞う。
今の返し撃ちは・・・効いた。そして・・・美しくすらあった。点々と返り血を浴びた美少女の像が二体に分裂する。
眼を擦ると、腕に付いた血糊に悲鳴を上げてしまう。少女の腕力は、その儚くも美しい容貌に見合ったか弱さしかない。
しかし、未知の技巧の鋭さと、一切躊躇いの無い幼さ故の残虐性が、おれを確実に死の淵へと追い詰めて行く。
これはもはや「喧嘩」ではない・・・言葉で表すとしたら・・・「処刑」、或いは「惨殺」・・・!


鼻の奥につぅんと拡がり脳を犯す激痛。おれは溢れ出す涙を隠すように蹲り、そして、見てしまった。
そうか、足、足の指だ・・・。こいつは、氷を足の指で「噛んで」やがる!
その伸びやかな後足で氷面を削り取る程に激しく蹴り、その爆裂の勢いを前足で急激に「噛み止める」事で
全身の速力に変換し、足腰の捻りと共に、その脅威をおれの顔面目掛けて叩き込んで来るのだ・・・!
間合いを開け、拳を垂れ下げ、薄ら笑みのまま垂直に跳ねる少女。ふさふさと揺れる髪からは清冽な香りが漂い
吐気を催す血潮の臭いと混じり合い、紅く膨らんだ両拳からはおれの鮮血が滴り真下の氷面を朱に染めていく。
少女の拳闘技は、拳のみの業ではない・・・真に恐るべきは、そのしなやかに伸びた「脚」なのだ・・・!


トン、トン・・・トン、トン・・・
華麗に空中を舞う少女の拳が、持ち上がった。その時を待つ。少女は着地と同時に、氷を蹴り踏み込んで来る筈だ。
今度はおれの鉄拳で、後の先を取ってやるのだ。一撃だ。おれの金剛力で一撃さえ入れられれば、それで、終わりだ。
そして少女の姿は、おれの視界から消え失せた。立ち竦み怯えるおれの顎が「真下」から勢い良く押し潰された。
左の、掬い打ち・・・少女の技巧に魅了される暇も無く、右の拳が視界の下半分を一瞬に覆い、激痛が追ってくる。
鼻が正面から、またも殴り潰された。無防備の顔面への一撃に、おれは引き付けを起こし、自らの鼻血を吸い、溺れた。
むせ返り、鼻と口からボタボタと溢れ垂れる鮮血を震える両手で受け止めると、たちまちおれの手の中で凍っていく。
それは、おれの魂が美少女の拳の舞いの前に、凍て付いて行く有様を表しているかのようだった。
こいつには・・・「死神」という言葉すら、生ぬるい・・・!もっと・・・もっと、邪悪な「何か」だ・・・!


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連志別川(三) 加速する弾丸


未知の技巧は、熾烈な攻撃だけではなかった。少女は常に、おれの顔面を、その真紅の兇器の射程圏内に収めている。
逃げられない。おれは恐怖に駆られて、丸太のような腕を振り回す。だが、更なる挑発が、おれの魂を熱く弄んだ。
先刻から少女の足はその場より一歩たりとも、動いていないのだ。その上躰捌きの流麗さのみで、おれの努力を嘲笑い
無にする。いや、「無」ではない。紅い閃光が、六度瞬いた。左右左右左右の連打だ。ギラギラと輝く革の感触が
おれに眼球が弾け飛ぶ程の苦痛と混乱と屈辱と、名状しがたい渦巻く感情を、血の破裂音と共に爆裂させていく。


おれは空間を六度打ち、少女はおれを六度打った・・・おれは、狂乱の雄叫びと共に拳を少女の顔目掛けて突き出した。
その数、実に十二。十二発の紅い弾丸がおれの顔面を「滅多打ち」にした。だが今度の返し打ちは、今までとは違った。
おれの拳を「躱しながら」、少女の拳がおれの骨肉へと同時に叩き込まれて行く。まるで、おれ自身の金剛力がそのまま
少女の拳に乗り移り、おれの顔面へ叩き返されるかのようだ。流麗な動きの中であっても、全ての打撃は力強い脚捌きを
伴っておれの顔面を正確に捉え、確実に脳へ衝撃を蓄積させて行く。おれは打たれながらも、その格闘の芸術に酔った。
十三発目の、右の正面打ちが放心したおれを現世の地獄へ叩き戻すと、おれは両腕で顔面を守らざるを得なくなった。


少女は、くすくすと心底楽しそうに笑って再び距離を取る。その無邪気な様子は川に遊ぶ年頃の稚児、そのものだ。
おれの返り血を吸った波打つ金髪、広い額が日光を乱反射し、何とも形容し難い凄絶なる人外境の美を眼に焼き付ける。
艶かしく唇を歪め、右の拳を鞭のように振るうと、人を斬った刀の如く、川面に鮮やかな真紅の氷線が引かれる。
何という・・・何という、邪悪な笑顔なのか・・・!美しさが針を振り切り醜悪とさえ言える狂気の暴虐美がそこにはあった。
引き締まった臍、しなやかに伸びた脚・・・少女はおれの血を全身で吸い上げ、血化粧により更に美しさを増して行く。


己の鍛え抜かれた腕の中で、おれは顔を隠しながら、怯え切って泣いていた。こんな・・・年端も行かぬ・・・稚児に!
目が霞み、腕の僅かな隙間から覗く少女が、三人に分身している。まずい、さっきの返し打ちが「効いて」いる・・・!
医の心得もあるおれは、戦慄した。今度は眼ではない・・・おれの「脳」がいま、少女の拳撃により、犯されつつあるのだ。
だが、人間の脳がどの程度の打撃に耐えられるか、それを、おれは知らなかった。不安と恐怖が、絶望を呼び起こす。
一糸纏わぬ美少女による拳打ちは、再開されていた。まるで巨大なる血の雹が、無数に降り注ぐかのようだ。
おれの腕が、十貫の大鉈を片手で振り回す豪腕が腫れ上がり、無数に弾ける拳に骨が軋んでいく。


反撃を試みれば、その威力が正確に脳へと跳ね返される。脊髄を引き抜かれんばかりの恐怖が、涙すら凍り付かせた。
助けを呼ぼうにも、半里離れた村におれの悲鳴は届かず、村の人間ならこの川を恐れて近づかないに決まっている。
吐く息も凍る冷気の中、少女の凍て付く拳の雹にさらされ発熱したおれの上半身からは湯気が立ち上り始め
流麗な金髪を靡かせながら拳を叩き付ける少女は、薄赤い氷の絨毯の上で異国の舞いを踊っているようにさえ見えた。
狂気の少女は氷上で苦もなく宙を舞う。虚空に浮かぶような全身の躍動は、さながら神の輪舞だ。美しい・・・


おれの視界に、一気に血の赤が拡がった。しなやかな少女の格闘美がおれの脳を焼き、精神の緊張を一刹那だけ弛緩させ
鍛えられた腕と腕の間に発生した僅かな間隙に、少女のしなやかで細い腕、そして右の拳を割って入らせたのだ。
まるで、おれ自身が少女の拳を迎え入れているかの如きその無様さ、滑稽さは、幼く残酷な少女を大いに楽しませた。
メチメチと、おれは自らの鼻の軟骨を、玩ばれるに任せざるを得なかった。少女がその右拳を躰ごと捻り
抉り込むたび、激痛に両腕の機能が失われ、丸晒しになったおれの涙と絶望の表情が少女の嗜虐心に更に油を注ぐ。


圧迫の地獄から開放されたおれは、うなだれながらも、少女の、おれを再び見下ろすその好奇心に満ちた蒼い眼から
己の眼を逸らせずにいた。視線の中点で、またも三度の爆発が起こった。破裂音は、おれの命を吸い、湿っていた。



連志別川(三) 加速する弾丸


少女の艶やかな舞踏に、ついにおれは巻き込まれてしまった。誰にも止める事は出来ぬ、それは死出の舞踏だ。
一刹那のうちに、川の両岸、雲一つない青空、凍った川面、全ての元凶の少女が視界を上下左右に駆け巡る。
そして、溜めを作った右拳が微塵の良心の呵責も無くおれの眼球を抉り潰し、またも視界が縦横無尽に弾け飛び始める。
瞼も、頬も、顎も、鼻も・・・何発、どこを、打たれたのかさえも、わかりはしない。おれは少女の為の巻藁だった。
少女の責めはあらゆる角度から、あらゆる回転をもっておれの頭蓋と、歴戦の冒険者としての自尊心を吹き飛ばした。
脚捌きのたびに黄金の髪が波打ち、血塗れの額が見え隠れし、氷を蹴る音も異国の舞踏曲のようにおれの心を高鳴らせ
そしてその拳は容赦無くおれの顔面を抉り砕き、冷たく苛烈な現実世界へとおれの精神を引き戻した。


絶望に打ちひしがれれば、川面が朱に染まった鏡となり、おれの無様に蹂躙され尽くした顔を映し出す。
何という、何という醜さなのだ・・・!鼻は拉げ、両の瞼は腫れ上がり、唇は引き裂かれ、顎は歪み頬は・・・
突然に、美少女の紅い顔がおれの視界に現れた。おれは混乱した。少女に変身してしまったというのか?
いや、違う・・・!あの美少女が、何という事か・・・おれの顔を「真下」から覗いているのだ!
氷に背中で寝そべったまま、鮮血の滝をその整った顔で受けながら、少女は、逆さまに笑った。掌を振りながら・・・
間違いない・・・間違い、ないぞ・・・!こいつは・・・おれで、「遊んで」いるのだ・・・!!


おれは迸った殺意に最後の筋力を暴発させ、生き鹿の肉を削ぐ握力を誇る両手を、眼前の美少女の細い首へと伸ばした。
真下から「逆さまに」迫る拳が、見開いた眼球を軽快に弾いた。おれは天を仰ぎながらも、その挑発に更に狂気を滾らせ
全膂力で反動を付けた鋼の指先を振りかぶった。美少女が既に眼下に居らぬ事に気が付いた時には、もはや、遅かった。
膝関節の烈しい反発を活かした右の掬い打ちがおれの顎を狂おしく跳ね返し、反動で戻るおれの「顎先」を、捻りを加え
更なる狂威と美しさを得た左が、僅かに、しかし正確に、掠めた。日輪を浴び、拳を掲げ飛翔する美少女を見上げながら
おれは、おれの躰がおれ自身の脳の支配を離れ、完全なる少女の所有物、即ち「玩具」へと堕ちた瞬間を、感じていた。


ふわりと舞い降りた少女は、軽く左拳を突き、おれを直立させる。そして構えに戻ると右拳を舐め、氷の笑みを笑った。
身動き一つ出来ず玩具にされる未知の恐怖に、おれは喘いだ。何の前触れも無く、閃光の如く撃ち出された少女の左が
おれの鼻骨に幾十度と破裂し続ける。おれは、自らの頑強さを呪わざるを得なかった。鍛え抜かれた筋肉はおれの顔面を
再び少女の前へと投げ出し、更なる鋭さをもって弾き飛ばす遊戯を少女に見出させるに充分だった。遊戯は、加速した。


血の遊戯を更なる高みへ導いたのは、少女得意の、右の正面突きだった。それは、最高の速力でおれの鼻骨に炸裂した。
背後のまだ辛うじて透明さを保っている氷に映し出された、おれのあられもない絶望の表情が急速に近づき、そして
ついには、激突した。新たな冷たい激痛がおれの顔面を襲う。同時に、邪悪に満ちた純粋な好奇心が、少女に芽生えた。


もはや、後は同じ事の繰り返しだった。
一度反動が付けば、もう、止まりはしない。おれは、最期の賭けに無様にも敗れ去った事を、理解せざるを得なかった。
おれの背筋と腹筋と頭蓋と脳と命は、全て少女の所有物、玩具として、その硬い右の拳と、背後の硬く凍った川面の間を
往復していた。この期に及んでも少女の拳打は、その流麗にして堅固なる脚捌きを忘れてはいない。
打撃の破裂音と氷への激突音がおれの魂に直接交互に響き、しかも、その間隔が徐々に、しかし確実に狭まっていく。
朱に染まる太刀の如く空間を斬り裂き噴霧された鮮血が空中で凍て付き、ハラハラと雪の如く舞い、川面に降り注いだ。
おれは川面に顔面から激突し意識を失っては跳ね返り、鼻梁に容赦無く右拳を撃ち込まれては意識を取り戻させられた。
確実に狭まる正気と狂気の狭間で、少女の右拳の軌道が徐々に変わりゆく事に気づく。
爆発的な後脚の蹴りと共に、肩と肘を捻り入れる少女。真紅の拳が破壊の螺旋と化し、美しくも激しくおれの魂を砕く。
洗練されゆく少女の拳打に興奮するかのように、凍った川面はおれを更に激しく撃ち返し、少女の拳が顔面へ炸裂する。
それはおおよそ人間の所業とは思えぬ、閻魔ですら正視出来ぬ程の、阿鼻叫喚を極める光景だった。



連志別川(三) 加速する弾丸


徐々に眼界が暗くなり、血の味と匂いが消え、耳鳴りが止み、意識が戻りにくくなっていくのが、わかる。
人間、死ぬときというのは、こういう気分がするものなのだろうか。無論、悔しかった。身震いする程の、屈辱だった。
だが何故か、そんなに悪い気は、しなかった。おれはいつか、冒険の中で、孤独に死ぬ定めにあったのだろう。
その日が、偶然、今日だった・・・ただ、それだけだ。羆に食われるくらいならば、いっそこの美少女の拳で・・・


少女の顔が、すぐ間近にある。冷たく透明な吐息が潰れた鼻に当たるのが、心地良い。
おれの腫れ上がった両頬に、ふっくらとしたあの真紅の拳が、あてがわれている。皮膚の感覚が、薄く戻ってくる。
そして少女の顔が近づき、鼻に、ふっと稲妻が走った。少女の桃色の唇は、おれの鼻血でどす黒く染まっていた。
その瞬間、全身からあらゆる熱が奪われ、心音が、そして「時」が、止まった。背を向け、下流へと歩き始める少女。
凍て付く桃色の雷撃は全身を駆け巡り、止まった時と鼓動が倍の激しさで動き出す。おれは硬直したまま立ち尽くした。


おれは、許されたのだ。小さくなってゆく少女は、まるで寒空へ消えて行く悪戯な冬の精霊のようだった。
しかし、おれは・・・もう、わからなくなっていた。少女が振り返ってくれる事を、今となっては心のどこかで
期待していたのかもしれなかった。もはや限界をとうに超えていたおれは、意識を閉じ、旅立とうとした。


それは、許されなかった。見えなくなった少女が、近づいて来る。それも、人間の限界を超えた異常な速度で。
何という事か・・・少女は氷の上を裸足で滑走しているのだ。まさに今、少女は一弾の弾丸だった。
おれは今、射殺される重罪人と何ら変わらなかった。いや、それよりも、現実は冷酷で非情だった。


その弾丸は、「意志」を持って、「加速」していたのだ。
少女が散々おれに魅せつけた、右脚の爆発的な蹴りが幾十重にも重ねられ、少女は光を纏った流星だった。
おれは、深く深く、後悔した。一瞬でも少女に「許された」と思ってしまった事を。
そして、倒錯と狂気に溢れた「期待」を抱いてしまった事にも。何故・・・何故だ・・・?


少女はおれの魂の歪みから生じた、激痛と屈辱と興奮に満ちた「期待」に、最高にして最期の破壊をもって応えた。
銃弾の如き速度で迫り来る少女、そして、目の前に紅い氷霧が立ち上る。踏み込んだ少女の左足がその速力を
一瞬にして噛み止め、足下の血氷が削り取られ舞い上がったのだ。その速力は、微塵の損失も無く右の兇器へと伝わる。
狂烈なる加速に銃弾の捻りを加えた艶めく右拳がおれの頭蓋に真正面からめり込み、全ての骨肉を圧し潰し砕き尽くす。
それは、決して人間へ、生きとし生ける全てのものへ向けてはならぬ、禁断の一撃だった。


幾十度も蹂躙され続けた川面の氷は、ついに開放された少女の狂気に耐え切れなかった。
川面は大亀裂と共におれの顔面を杭の如くめり込ませ、凍て付いた川に、おれの肉体による橋が「水平に」渡された。
そして・・・そして、おれは・・・なにも、わからなくなった。