投稿SS7・連志別川(中編)

※この文章はフィクションであり、実在する、或いは歴史上の人物、団体、および地名とは一切関係ありません。



連志別川(四) 生と死の輪舞


「・・・イメル・・・イメル!」
懐かしい顔と声が、目の前にあった。大男が、村人が、一斉におれの名を叫んでいる。あの頭巾の美少女の姿は、ない。
躰じゅう、特に顔が熔ける程に熱く、息が苦しい・・・どうやらおれは、まだ生きているようだ。
暦のないこの村では、どれほどの時を要したのかはわからない。が、皆の様子を見るに・・・一日、二日では、ないようだ。
もしもの時の為にと、荷に入れておいた松前の薬や包帯と医学書が、役に立った。そして・・・
おれは村の皆に心から、感謝した。おれが記憶を取り戻すまでその医術を施してくれたのは、村の「誰か」なのだ。
顔を覆う包帯から漂う、清冽な薬草の芳香・・・おれでさえ知らない香りだが、不思議と、心が安らいだ。この薬草を
摘んできてくれたのも、村の人間なのだろう。おれは、北国の文化と人間をどこか侮っていた己を、心から恥じた。


包帯が取れた日の晩、おれは村の長を務めるあの大男に跪いて頭を下げ、心からの感謝の印として、村へ松前の酒十貫と
更に十貫の愛鉈を贈った。こいつはおれと長年連れ添った、言わば恋女房のようなものだ。ふん・・・女房か。
皮肉なものだ。十一年前、北へと消えた親父。極寒の大自然に身一つで放り出されたおれは、生きる為に強さを求めた。
そして、松前一の山男と呼ばれた親父すらも凌駕する、人間の枠を超えた躰と技を得た時・・・
おれは世間の誰からも恐れ厭われている事に気づき、山へ身を隠した。家族の温もりや色恋とは、無縁の人生だった。


大男は涙を流しておれの名を叫び、大鉈を両腕で掲げた。そして、慌ただしく宴の用意を始めさせた。
手伝おうとすると、大男が小さな椅子を持って来た。これに座って待てという事か。おれは素直に厚意を受け取った。
――これで、帰りの荷は三分の一ちょいになっちまう事になる。だが、命が助かった事がなによりだ。それに・・・


月明かりと薪火に煌めく美少女の舞いが、おれの思考に割り込んでくる。おれは、余った袖の意味を、いま理解した。
これは本来、祭礼用の装束だったのだろう。新雪を思わせる静謐な白に輝く生地・・・その衿、裾、そして袖口から
涼やかな藍染の色彩が複雑に枝分れして伸びている。おれは直感した・・・この形は、「火」だ。少女は氷の焔を纏っていた。


全ての村人が、村を束ねているあの大男ですらも、雪に埋まるように跪いて少女を見上げている。
恐らく、少女はこの村で大男すら凌ぐ存在感を持つ、霊的な支柱・・・おれ達の言葉で言う「巫女」に近い存在なのだろう。
ならば、かつて川への道を切り開くべく鋤を借りた時の、少女が大男を睨み付けた恐ろしく冷酷な眼差しにも納得が行く。
空中に無数の凍った火炎の輪を描く滑らかな両袖の残像は、地上に降りた炎神の輪舞を想起させた。
ついに、少女の魂が神の域へと突入したのだろうか・・・極寒の中、全く少女からは白い息が吐き出されていない。


打楽器の音も村人の歌声も、消えていく。研ぎ澄まされた視覚だけが、異郷の舞踏装束とそれを纏う少女の躍動美に
吸い込まれていく。爆裂する脚捌きでおれに肉薄する少女。降りしきる雪を身に纏い、その輪舞は激しさを増した。
袖が風を切る音だけが、聴覚に蘇り鼓膜を叩く。間違いない。それは、おれだけに捧げる祝福の、命と焔の舞なのだ。
やがて少女の腕の振りは視認さえも出来なくなり、暴風に地の雪すらも舞い上げられ、少女を中心に迸り吹き荒れた。
いつしかおれは跪き、その雄大で峻厳なる迫力に凍えたまま、猛烈に顔面を叩き付ける雪の心地良い冷たさに、陶酔した。
それでも荒ぶる螺旋の中心、少女の蒼い眼から撃ち降ろされる視線は、常におれを真っ直ぐに捉えて離さない。
そして、その眼が閉じられ、覆い被さるように、少女の顔が、桃色の唇が・・・近づいて来る。お・・・おい!


少女は、おれの肩の上に倒れ、気を失っていた。おれは暴れる鼓動を諌め、その柔らかい背中を、そっと抱き締めた。



連志別川(四) 生と死の輪舞


宴は中止され、少女はチセの中へ横たえられた。髭の大男がおれの荷を担いで来て降ろすと、おれに跪いて頭を下げた。
おれは分厚い医学書をめくり、荷から解熱薬を探すと、慎重に調合した。その鬼気迫る表情を、村の全員が固唾を飲んで
見守った。大自然で生き抜く為には、医にも精通していなければならないのだ。おれは少女を少しでも楽にしてやろうと
白い額を目深に覆う、火の文様渦巻く頭巾に、手を伸ばした。大男がおれの左手首を掴み、首をゆっくりと横に振った。
この装束にはおれの知らぬ、特別な霊力や神性の類が宿っているのだろう。おれは大男に頷き返し、左腕を鉢に戻した。
少女の僅かな剥き出しの肌、生白い首筋と喘ぐ唇に、眼力を集中する。すぐ治る熱の病だ。そして、その原因も判った。


――あの輪舞による、一時の激しい運動は引鉄に過ぎない・・・恐らくこれは何らかの、長く続いた過労が原因・・・!
医学書をめくる手が、止まった。くそっ、何故に気が付かなかった・・・!考えてもみれば、この松前医学書を・・・
和人が書いた文字を読めるのは、村でこの子しかいない筈・・・!おれを毎日介抱してくれたのは・・・この少女なのだ!
摺り鉢の中の薬に、おれの熱い涙が混ざった。そして心に決めた。今度は、おれの命でこの子を守ってやろうと・・・!


その晩、ただの思いつきは、確かな希望へと変わった。松前に持ち帰る筈だった荷と地図を、ここに置いていく・・・
つまり、この村で「イメル」として村の皆、そして・・・あの少女と暮らす。そういう人生もあるのではないかと。
おれは天涯孤独の身。どこで消えようが、誰も探しには来まい。藩もおれを山で死んだ事にして、それで終わりだろう。
しかし、その「希望」を鋼の「決意」とさせなかった唯一の障害は・・・あの、謎めく川の美少女への、恐怖だった。
痺れるような、未知の衝撃だった。激痛だった。屈辱だった。そして、忌まわしい程に・・・眩しい経験だった。


今となっては、断片の連続としてしか覚えてはいないし、その記憶を脳裡に蘇らせる事すら、おぞましかったが・・・
おれは、あの美少女の姿をした死神・・・いや、死神よりも恐ろしい、まさに凍り付くような邪悪の化身に
その真っ赤な拳で・・・もて遊ばれた。あの子が、おれを殺そうと思えば、いつ殴り殺せてもおかしくなかった筈だ。
おれは、殺さない闘いは決してしない。ガキの頃から親父に厳しく叩き込まれた、それが山に挑む男の掟だ。
残さず食って血肉にするのが、おれにとって殺した獲物への礼儀であり、最大の供養だった。ふん、「闘い」か・・・


幕府の造った泰平の世の中で、人は闘いを忘れていった。だが、おれ達は未だ自然と闘いながら、自然に生かされている。
近い内に、箱館の港が世界に開かれる。松前にも諸国の文明が齎されるだろう。恐らく、おれが死んだずっと後の世・・・
人は、更なる「力」を手にするだろう。自然を侮り造り替える事に喜びを覚えた人間の辿る道は、力による自滅だけだ。


川の少女の力は、人為的と言うよりはむしろ自然の脅威に近かった。おれは少女という「自然」の化身に、敗れたのだ。
山の男にとって、自然への敗北は、即ち死を意味する。だからおれは、ただ一度の敗北さえも、知らなかった。
しかし・・・あの川の少女の目的は、おれを「殺す」事ではなかった。血の泡を吹き、激痛にビクンビクンと痙攣し
迫り来る真っ赤な拳の恐怖に涙を流して命乞いするおれの返り血にまみれ、あの美少女は無邪気にも「遊んで」いた・・・
おれは「敗者」であり、いま屈辱の生を「生きている」。その矛盾が、常におれの心の臓を、締め付けて離さなかった。


おれは半死半生で下流の渡り口、橋の残骸に偶然引っ掛かっていたらしいが・・・包帯が取れ、歩けるようになった日の昼
頭巾の少女を連れて村人に聞き回ったところで、その時の有様は、誰一人として教えてはくれなかった。
ただ、彼らの表情から・・・聞かない方がおれの為だという事だけは、よくわかった。


だが村の人間ならば、あの川には決して近づかない筈だ。いったい「誰が」おれを川から引き上げたのだろう・・・
様々な疑問と、目頭に浮かぶ真っ赤な拳の幻影を打ち消すかのように、おれは寝酒をあおって一日を終わらせた。



連志別川(四) 生と死の輪舞


以前の「イメル」の力ではないが、並の男衆が二人がかりでする仕事ぐらいは、難なくこなせるようになった。
粥とて貴重な穀物なのだろうが、やはり山男の食は肉が最高だ。おれは合掌してから、自ら仕留めた鹿の肉に貪り付いた。
何という旨さだろう・・・!食った瞬間から、おれの筋肉に変わっていくかのようだ。おれは大自然の恵みに感謝した。
炙り焼き、鹿汁は勿論、何と言っても鹿は刺身で食ってこそ最も旨さがわかる。これは捕らえた日だけのご馳走であり
酒の友にも最高だ。村の酒の中でもおれは、この七竈の実を漬けた薄紅い酒が気に入っていた。上品な香りもそうだが
少女によれば、七竈は魔を祓う樹なのだという。呑む度に清冽なほろ苦さが、あの迫る拳の恐怖を忘れさせてくれるのだ。


だがこの後、食をも超える無上の楽しみが、おれを待っている。それは少女のチセでの、ひとときの語らいだ。
この村では、男と女は分かれて食事をする事になっているらしい。そういう掟なのだと、かつて少女から聞いた。
そういえば少女はいつも同じ装束だ。あのぶらぶらと余った袖で、一体どうやって食事をするのだろうか・・・


「あなたを襲ったのは・・・カムイね」
「カミ?・・・女の神なのか?」
「ちがう。カムイ。恐ろしい・・・悪いカムイよ」
蒼い目の少女が言う。薪火の明かりで煌々と照らされる、金色の睫毛と蒼い瞳、新雪のように真っ白な頬が愛らしい。
少女は、やはり過労が祟っていたのだろう。おれの薬が効いてくれたのか、もう既に以前の様子を取り戻している。
少女だけが、おれを「イメル」ではなく「あなた」と呼んでくれる。それが、どこか恥ずかしくも・・・嬉しかった。


土と茅萱と雪に保温され、寒さに強いおれにはやや暑い程の室内でも、腰掛ける少女は厚手の頭巾を目深に被っている。
おれは、その脚から腰にかけての、丸やかな曲線に心を奪われた。装束の中が透けて見えるような錯覚さえ、感じた。
そして、その、胸に・・・雪の大平原に、神秘の起伏が生じる角度を探す。ここか?いや、もっと下、奥か・・・!?
「・・・ねえ・・・どこを、見てるの?」
はっ・・・!おれは、その撃ち下ろされる視線の冷たさに、己が冒険の過熱を恥じた。だが、すぐにその緊張は溶けた。
おれは腕を組み、左足と右足、そして脳天で躰を支える、言わば三つ足の構えで、少女の神秘の魅力に挑んでいたのだ。
ふたりは必死に堪えていたが、ついに、暖かい爆笑が同時に巻き起こった。
涙を拭う程に笑う少女もまた、美しかった。雪のように白い額、そして咲き誇る福寿草の花のように鮮やかな睫毛・・・
こんなにも儚く美しい少女が、おれを毎日介抱してくれた。そして極寒に耐え、おれの為に舞ってくれたのだ・・・!


カムイは赤い手をした女の姿で下流から現れる・・・川を汚す者を氷に閉じ込め、怒り狂ってその手で殺してしまう。
だからこの村では、あんなにも近くにある豊かな川の恵みを活かせなくなり、他の村との交流も途絶えたのだという。
少女はそれきり語らなかった。話しながら恐怖を思い出したのだろう。柔らかそうな白い頬が、俯いたまま震えている。
恐らく、この子もおれの惨たらしく潰されたその顔を見ている・・・カムイの残忍さを知っている。この子は、強い子だ。
もう何も語らずともいい、ただ、同じ空気を吸っては吐き、交換している・・・それだけで、おれは心が安らぐのだ。
おれは「死んでもいい」・・・そう思った。今まで誰にも抱いた事のない、熱く確かな感情がおれの胸に芽生えていた。


――間違いない。そいつだ・・・あの悪魔は、カムイというのか・・・!
今夜まさにおれは、ついに邪悪の正体を掴んだ。少女と別れ自らの床についても、その興奮は少しも収まらなかった。
「う、う、うっ・・・ぐわあっがっ・・・!」
鼻が、疼いた。おれの鼻の骨は、所々で折れていた。へし折られていたのだ。「カムイ」の拳に、叩きのめされて・・・
触っても痛みが無い程度に修復されてはいたが、整っていた鼻梁の線はへし曲がったまま、固まっていた。


満月の晩、おれはチセの外へ飛び出すと、凍った水瓶に映った醜いおれ自身を、声無き雄叫びと共に頭で叩き割った。
あの川の少女への復讐は、おれ自身の人間としての、男としての矜持に関わるだけの問題ではなくなっていた。
おれは、やっと見つけた自らの居場所と、あの少女との未来を守る為にも・・・「カムイ」、貴様を・・・殺す!


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連志別川(五) カムイの幻影


おれは村で快復を待った。昔から殺しても死なぬと藩の役人に皮肉ばかり言われてきたが、実にその通りだと思った。
快復を更に早めたのは、少女の言う宿敵「カムイ」への、憎悪と復讐心だ。おれは、神や仏の類には関心が無かったが
床に就くたびに、必死に祈った。あの少女に求めていたのだ。あいつを殺すに足る肉体の再生と、恐怖に折れぬ勇気を。
あれから毎日、美少女は一日も欠かさずにおれの夢枕に舞い降りては、考え得るあらゆる方法でおれを撲殺し続けた。
あの真っ赤な拳は、おれの脳を確かに変質させていた。それも、凡そ全ての人間が体験し得ぬ、未知の暴力によって。
そして悪夢から醒めるたび、あいつと決着を付けねばならぬこの世界が夢ではない事に、おれはなぜか安堵していた。


村の外れ、男衆が春楡の大木を囲んで叩いている。おれが教えた相撲の修行法だ。ぱらぱらと舞い落ちる樹氷が美しい。
大男は辺りが曇る程に白い息をつくと、男達を太い腕で制し、道を開けさせた。緊張が張り詰める。恐らく、おれの形相は
餓えた羆の如く見えているのだろう。そうだ。おれは今日、超越者に挑む覚悟・・・言わば、狂気を試しに来たのだ。
「ぬうううふうううおおおお・・・ぬうりゃあああああっ!!!」
野の獣そのものの唸り声と共に、おれの両腕で二抱えもありそうな春楡を目掛け突進し、鼻面から激突する。
衝撃に大樹が激しく震え、樹氷が氷の雨となり降り注いだ。鮮血と氷にまみれたおれを心配して、村人が集まってくる。
――痛え・・・!
だが、あの少女の拳が齎した激痛には遠く及ばない。それが何なのかはわからないが、確実に「何か」が、足りなかった。


鼻をさすり砕かれた躰の全快を実感したおれは、機が熟すのを待ち、十年来の愛銃の種子島を手に、村の出口へ赴いた。
もはや、未開地探索の事など、既にどうでもよくなっていた。男として、あんな幼い、柔らかそうな小娘ごときに・・・
あんな、光り輝く、伸びやかな肢体の・・・脚と拳による、華麗なる未知の拳闘技で、おれを魅了した氷結の妖精・・・
そんな美少女に躰一つのみで肉を、骨を、命を、魂を弄ばれた事が・・・一人の男として、許せなかったのだ。
しかし、最も許せなかったのは、美少女との苛烈な思い出にひとときでも酔ってしまった・・・己の心に巣食う闇だ。


冬から春へと移ろい始めた蝦夷地の山は、気まぐれだ。昨日は猛吹雪だったが、今日は雪に反射する日差しが眩しい。
上流の渡り口へ向かう。一旦種子島を背に戻し、鋤に持ち替える。怒りに任せ、背丈ほどもある雪壁に鋤を突き入れると
白い壁は奥へと「倒れ」、全く起伏のない「道」が現れた。まるで、おれをその魔性で招き入れるかのように。
――「誰か」が、川の向こうからやって来たとでも言うのか・・・?そうだとすれば、そいつは・・・!
おれはついに、挑発されている事に気が付いた。咆哮と共に怒号の切先を叩き付ける。蝦夷松は一撃で切り株と化した。


おれの視覚は鷹並みだ。遠目にもわかる。川の流れはあの屈辱の日に増して穏やかで、水深も向こう脛程度に浅かった。
それは偶然ではない。おれは何日も前から悪夢に耐えながら、この時を・・・カムイを殺す好機を待っていたのだ。
あの恐ろしい、脚の自由を奪う猛吹雪。あれがもしもカムイとやらの霊力のなせる業であって
もし万が一また氷漬けにされたとしても、これだけ水が浅ければ、筋力で足が抜けるに違いない・・・!
昔からおれは大自然の脅威と闘ってきた。狩人は、用心深くなければ生き残れないのだ。


川辺まで来た。狂気が今にも絶叫として暴発しそうになるのを堪え、銃身と火薬、そして弾を素手で念入りに点検する。
狙撃手としての冷徹な殺意が戻ってくる。使うのは、この特殊弾一発だ。通常の鉛弾とは違い、中に水銀が仕込んである。
獲物の体内で無数の鉛の破片と水銀の猛毒が破裂する、狩人の中でも忌み嫌われる・・・最も残忍卑劣な弾丸だ。
あの少女の、抱き締めたら折れてしまいそうな、儚い躰・・・。撃てば間違いなく、当たった先が、千切れ飛ぶ・・・
こんな、大自然への冒涜そのものの弾は、大羆にすら使うつもりはなかった。こいつで脚を撃って、動けなくした後
最高の屈辱と痛みを舐めさせ、心までも引き裂いてやる・・・かつて、あの「カムイ」が、おれにそうしたように。



連志別川(五) カムイの幻影


おれは道端に除けられた雪を背中にかぶると、種子島を構えつつ、飯綱の如く雪中に隠れながら川面の様子を窺った。
そのまま四半刻ほども待っただろうか。カムイの姿は、下流にも上流にも見えない。


――カムイは赤い手をした女の姿で下流から現れ、「川を汚す者」を殺してしまう・・・
おれはふと、村の少女の言葉を思い出した。成る程、そういう事か・・・ならば、貴様の望み通り汚してやろう・・・!
小便の為に褌を脱ぎ捨てた時、おれは異変に気付いた。おれ自身が・・・臍に食い込む程に反り返っている。
おれの腕力でも水平にさえ出来ないどころか、少しでも川へ向ければ、折れてしまいそうだ。なぜ・・・何故だ!?
間違いない。おれは「何か」に、興奮している・・・!「何か」が、おれ自身を鋼と化しているのだ・・・!


困惑するおれの脳裡に川の少女の悪戯な笑顔が蘇り・・・そして、あの紅く艶かしい拳が、幻影となって迫ってくる。
おれは渾身の膂力をもって、おれ自身の心の闇と闘った。閃光の如く軽快に顔面に弾ける左が、何度も視界に拡がった。
溢れ出す恐怖に思わず顔を覆えば怒張したおれ自身が臍を衝き、また手を戻せば、今度は顎を垂直に掬い上げられる。
おれはもはや、両手をおれ自身から離せなくなっていた。少女の、鋭い右の正面打ちが、鮮やかにおれの鼻を叩き潰す。
――痛えッ・・・!!
少女の幻影は、ついにおれに「痛み」すら齎し始めた。鼻の奥につぅんと拡がるその余韻に、おれは・・・魅了されていた。


少女は唇を歪めると、三体に分身した。華麗な脚捌きで空中を滑るように舞い、おれの顔面をその六つの兇器で弄ぶ。
左右の重ね打ちで仰け反ったかと思えば右の巻き打ちが頬をしたたかに叩き首を戻す暇も無く左拳がこめかみを叩き付け
鋭い左の連打で溢れた鼻血に口で呼吸を求めれば渾身の右の掬い打ちが顎を強制的に噛み合わせ歯の付け根に鈍痛が走る。
まるで拳大の血の雹が、無数に降り注ぐかのようだ。ギラギラと張り詰め皺を寄せた、真っ赤な弾力ある屈辱の弾丸が
おれの顔面の皮膚を小気味良く叩き、脳へ直接血と革の匂いを注ぎ込む。竜巻の如く渦巻く拳風がおれの理性を巻き込み
鼻は拉げ、両の瞼は破れ、唇は引き裂かれ、爆裂する破壊音がおれの自尊心を焼く。そして、妖精は輪舞を踊り始める。


拳が風を切る音が、聴覚に蘇り鼓膜を叩く。それは、おれだけに捧げる呪詛の、死と氷の舞なのだ。
やがて妖精の肢体の躍動は視認さえも出来なくなり、おれは猛烈に顔面を叩き付ける拳の心地良い激痛に、陶酔した。
それでも荒ぶる螺旋の中心、少女の蒼い眼から撃ち降ろされる視線は、常におれを真っ直ぐに捉えて離さない。
右の拳が鼻だけに集中し始める。鼻が打たれ、鼻が潰され、鼻が折られ、折れた鼻を弄ばれ撃ちのめされ擦り潰される。
止めは、銃弾らしく捻りを加えた艶めく右拳がおれの顔面に真正面からめり込み、全てを圧し潰し、砕き尽くした。
・・・ついにおれ自身から迸り出た熱い液体は、垂直に近い放物線を描いて、澄み切った川面へと吸い込まれていった。


たった今、おれは川を・・・汚した。まもなく下流から、「カムイ」が来る筈だ。急いで、脱いだものを履き直す。
おれは、おれ自身の狂態に深く、心から恥じ入った。しかし、その行為が、おれの脳に一時の冷静さを取り戻させた。


――死ぬよ。
静寂の中、少女の言葉を、思い出す。恐らく今日これから、どちらかが死ぬのだろう・・・それは、決しておれではない。



連志別川(五) カムイの幻影


――来た・・・!!!
下流から水面を沈まず歩いてくる影。一糸纏わぬ姿、太陽を浴びて銀白に輝く肌・・・間違いない。「カムイ」だ。
おれは雪に隠れながらその瞬間を待った。誤射は、ただ一度も許されない。おれは愛銃の精度を知り尽くしている。
銃身を固定し、少女の行く先、太腿の高さに「射線」を作る。死の直線に少女が足を踏み入れるその瞬間、引鉄を引く。


あの少女・・・いや、「カムイ」を、射殺する。「射殺」という言葉に、おれの鼻骨が、またも疼いた。
走馬灯のように、かつての「カムイ」との悪夢の思い出が、あの美しく血に濡れそぼった金髪が、無邪気で冷酷な笑顔が
そして、何度も何度もおれの顔面を打ち据える真っ赤な弾丸の齎す激痛がおれの鼻を抜けて脳を痺れさせ魂を焼いた。
くそったれが・・・!何故「おれに」走馬灯が見えているのだ・・・!今度はおれが貴様を撃ち砕いてやるというのに・・・!


おれはもう既に、おれ自身が再び熱を持ち始めている事に気付いていた。死を孕んだ激情に、銃身を支える手が震える。
負ける訳には、断じていかぬのだ・・・!死の恐怖に冷静さを保てない、それを認識するだけの冷静さは、まだ残っていた。
射線を僅かに上流側に引き付ける。次の弾は、込められない。撃てばあいつが死ぬ。外せばおれが死ぬ・・・それだけだ。
さあ、来るのだ「カムイ」・・・もっとだ、そう、あと七歩、あと五歩だけ、近くへ・・・


その刹那、全視界は暗黒に包まれ、天が泣き叫ぶような雷鳴と共に雹が混じった猛吹雪が「道側から」おれを襲った。
おれは雪ごと川に転げ出され、溺れた。銃を探す余裕もなかった。吹雪が、今度は向こう岸側から川面を叩いている。
いや、違う!これは・・・「垂直」だ!吹雪の圧力は「真上」から、おれを川に沈めようとしているのだ・・・!
水深は浅くとも、凍った川に沈められればたちまち死んでしまう。おれは瞬く間に川底へ顔面から埋め込まれた。
全身の関節を捻り、額で、腰で、爪先で泥を蹴り、おれは必死に仰向けになる。今度は後頭部が川底に激突する。
呼吸だけは奪われまいと、泥にめり込む足腰を支点として腹筋を鋼の如く怒張させ、喉を裂ける程に仰け反らせると
鼻と口だけは辛うじて水面から出す事が出来たが、容赦無く吹雪が顔面に積もっていく。


――た、助けてくれえっ・・・!死にたくないっ・・・!
おれは心から願った。消えた親父にでも、顔すら知らぬ母にでも、神仏にでも、村人にでもない。
それはもっとおれの魂の奥底に深く、柔らかく、そしてしっとりと冷たく入り込んでいる、「誰か」・・・
川の水に奪われゆく意識の中、おれは「誰か」へ祈り続けた。祈りと共に、歪んだ鼻が、焼ける程熱く疼いた。


気が付くと、仰向けで川に浮いていた。
正確には、「浮いていた」のではないのだが。
おれは、助かった。
本当は、「助かった」わけではないのだが・・・


誰か、おれを遥かな高みから見下ろす人物が、いる。逆光が眩しく、その細身の影が誰なのかは、わからない。
そして、その銀白に輝く影に名を聞こうとしたまさにその瞬間・・・
その正体を認め、おれは凍り付いた。いや、「凍り付いていた」事に、ついに気が付いたのだ。


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連志別川(六) 神秘の暴虐美


おれは、確かに川に浮いていた。浮いてはいたのだが・・・両腕を含めた全身は、身動きが取れぬまま厚い氷中に没し
顔面だけが、川面から水平に剥き出しとなっていた。つまり首から下の部分は、完全に氷面下に閉じ込められていたのだ。
悪意を、感じた。それは、おれが先刻までこの少女に向けていた、小賢しき人間ごときの殺意などとは比べ物にもならぬ
人智を超えた計算に基づいた、神なる邪悪だ。恐らくおれの計画も、躰の力の程度も、必死に呼吸を求める醜い足掻きも
全てが、少女の掌の内だったのだろう。陽光が残酷な程に眩しい。おれは封印された己の躰を、茫然と見下ろしていた。


・・・ぼふ、ぼふん、ぼふんっ・・・ばんっ、ばぐんっ・・・
どこか緊張感の欠落した、しかし確かに鼓膜を震わせる衝撃音。おれは、弾かれるように視線を真っ直ぐへと戻した。
拍手の破裂が止むと同時に、二人の視線が氷面と垂直に交錯する。少女はその掌を、見せ付けるように拳へと変えた。
・・・ぎゅうぅ・・・ぎ、ぎ、ぎ・・・ぐ、ぐぎゅうぅ・・・
その真っ赤に張り詰めた、「未知の物体」が少女の両膝の上で握り締められ、悶え苦しむかのような唸り声を上げている。


――全ての人間は、真なる恐怖を知らぬまま死んでいく。なぜなら、未だ知らぬ事こそが、恐怖の正体だからだ。
若い頃から西洋かぶれだった親父は、大坂商人の船が松前へ来る度、毛皮を売った銭で洋学書を買い集めていたらしい。
親父の書棚から出て来たある思想書の一節が、今になって脳裡に蘇る。恐怖の正体は、逆光を浴びて紅々と輝いていた。


「ぜんぶ、見てたわ・・・・・・ふふっ・・・すごいのね」
少女の冷たく上気した笑顔が、真上から覆いかぶさってくる。その蒼く、狂気に爛々と血走った瞳が、近づいてくる。


――「すごい」だと・・・?まさか・・・まさか、「あれ」も、見られていた・・・!?
おれは恐怖と羞恥に、思わず涙を溢れさせた。堪らず、眼の筋肉だけで視線を逸らす。だが、少女はそれすら許さない。
眼球を左に逃せば氷に寝そべり、右に切り返せば跨いで飛び越し、無邪気な蒼い宝玉がおれの視覚と魂を残酷に陵辱する。
伝承とは違い、その眼に「怒り」の色は感じられない。だが、その好奇心に満ちた悪戯さが、おれの精神を更に狂わせた。
「ひ」
おれは、逃げ「ようとした」。這いずり回って。だが、氷に閉ざされたおれの肉体が、言う事を聞く筈もなかった。
照りつける強烈な日射しが少女の肢体を透かし、華奢で繊細な均整美を、一刹那の暇も無くおれの脳へ叩き込み続ける。
おれの眼球筋と少女の躍動との攻防は、再開された。但し、今度は逃げる者と追う者との立場が、逆になっていた。


この期に及んで、おれは改めて下から見上げる少女の、日輪を浴び光り輝く肉体の瑞々しい躍動に、夢中になっていた。
無邪気な稚児そのものの笑い声と共に、金色の髪を波打たせながら舞い踊る少女。いかなる肉質も、隠そうとすらしない。
しかしその清冽なる美は、常に凛とした品性を保っている。少女は恐らく、人間よりも自然に近い存在なのだろう。
そしておれはついに、何故か懐かしい、角度によってわずかに浮かんでは消える繊細な起伏を少女の胸に見出した。
神秘の曲線が、再び涙に滲み歪んで行く。おれの命は、恐らく、もう終わろうとしている。何の身寄りもないおれだが
美少女との別れだけが、無性に、悲しかった。おれの人生に、これ程の「悲しみ」という感情は、あっただろうか・・・?


「あなたは、泣き虫さんなのね・・・でも、だいじょうぶ」
なにが大丈夫なのか、全くおれにはわからない。だが、おれは少女の慈愛に満ちた頬笑みと、その拳の生ぬるい感触に
倒錯した安らぎすら感じていた。そして膝立ちからやや前傾し、おれの頬を真上からその右拳で撫でる少女に、訊いた。


「えっ・・・・・・なっ、なっ・・・・・・殴らない・・・、のか・・・?」
「ううん」
少女の波打つ金髪が、「横に」柔らかく戦ぐ。それから何の前触れもなく、少女の左拳がおれの眼界一杯を犯し尽くした。
おれの顔面に真上から降り注ぐものは、毎晩心を引き裂かれてきたどの悪夢よりも冷酷で残忍無情な、「現実」だった。



連志別川(六) 神秘の暴虐美


――生まれたままの姿の美少女に、凍らされ、硬く厚い氷板の上で、縫い付けられるように・・・
少女の冷たい拳の下で、おれは自らの人間としての生涯が、既に閉じてしまったという事実を、悟らざるを得なかった。
だが、それは死の到来ではない。現に、おれの鼓動は異常な程に高鳴っている。終焉は今、始まったに過ぎないのだ。
少女は、おれが少女を撃とうとしていた事も、恐らく知っている。殺さなければやがては殺される。それが戦闘の掟だ。
もしおれが少女なら復讐を恐れ、おれを今すぐ殺すだろう。しかし、少女の拳は、あの弾力ある真紅で覆われたままだ。
おれは、真に戦慄した。この川は「戦場」でも「狩場」でもなく、少女だけが知る禁断の「遊び場」だったのだ・・・!


――鼻に左、鼻に右、鼻に左左右、鼻に左右、鼻に左右、鼻に、左、左、左左右、左右・・・
もはや顔面以外に、殴る所など、ひとつもなかった。狂気に満ちた少女の視線と拳は、おれの顔面を決して外す事はない。
おれは、もうおかしくなっているのだろうか、その拳の人智を超えた正確さに、一種の絶大なる信頼感とでも言うような
そんな感情さえも、抱くようになってしまっていた。糸引く鮮血が、少女の両拳を更なる淫靡な真紅へと磨き上げる。
勢い良く溢れ出す鼻血が喉に逆流し、おれは溺れた。更に左右左左の連続打ち、一拍おいて痛烈な右が鼻を殴り潰す。
むせ返り爆裂したおれの血が少女の上半身に飛沫き、その神秘の曲線を艶かしく彩った。そして、遊戯は再開される。


――赤い、おれの鼻血にまみれた、弾力のある、革の、赤い、おれの、血を、吸った、赤い、血を、赤い、血の・・・
矢継ぎ早におれを苛む魔の双拳。脳を犯す破裂音と紅い閃光の点滅は、おれの魂を再び紅の狂空間に誘うに充分だった。
全身が凍っている痛みなど忘れさせる程に、おれの顔面に弾ける少女の拳の連打は疾く鋭く、そして正確で綺麗だった。
しかし、絶え間ない苦痛をおれの顔面に真正面から与え続ける少女は、そんな思考の暇すらおれに与えない事を
むしろ楽しんでいるかのようだった。憧憬、畏怖、恍惚・・・おれの脳裡にどす黒い劣情が浮かんでは真紅の兇弾に
激痛として上塗りされる。絶望に身をよじろうにも、それすらも許されない。それが、真なる絶望の正体だった。


――痛え・・・!痛えっ・・・!!い、痛ええッ・・・!!!いッ、いッ・・・痛え痛えッ痛ええよおぉッッ・・・!!!!
川面に「立つ」少女の拳は、痛かった。未知の脚捌きによる加速と急停止が、その破壊力を芸術にまで高めたのだ。
しかし、川面に「寝た」おれに降り注ぐ拳もまた、異質の痛みがあった。嗤う少女の歯にまで、おれの血が飛んでいる。
おれの頭蓋は、真上から降り注ぐ少女の拳と硬い氷板との間で垂直に圧縮され続け、その威力は決して後方へ逃げない。
人体の中でも、脳は豆腐のように脆く、唯一鍛錬する事が出来ぬ部位だ。おれは脳を直接叩き潰される恐怖に喘いだ。
実際、おれは「効いて」いた。もはや氷の呪縛が無くとも、おれは百まで数える内に、上体を起こす事も敵わないだろう。
これは、人間を「殺す」為の体勢だ・・・!しかし、少女の弾力ある双拳は、おれに決して「死」を与えようとはしない。
人界の理の外、「未知」の世界へ、少女の狂気はおれを誘って行く。そう、「生」でも「死」でもない、どこかへ・・・


――あっ、あっ・・・!
異変が、始まった。それは、頭蓋の内にだけ静かに深く響いた、異音。骨に、おれの鼻梁の骨に、亀裂が走る音だった。
おれは今、少女だけの玩具として「壊される」恐怖に、打ち震えた。そして・・・目の前の「少女へ」願った。
どうか少女がおれの異変に気づき、その拳を・・・、その、真っ赤な拳を・・・、止め・・・、と・・・め・・・?


突然に、少女は立ち上がった。首を跨ぐ両の脚、しなやかな二の腕、腰から胸へと続く魅惑の流線美、広く白い額までも
破裂したおれの返り血で斑な水玉模様に染められ、太陽を浴び透き通るようなその威容は、精緻な硝子細工を思わせた。
静寂が、訪れた。突き刺さる少女の悪戯な視線が、おれの鼓動を滾らせ、おれの鼓動が、おれの魂に語りかけた。



連志別川(六) 神秘の暴虐美


――まだ・・・まだだ・・・!まだ、何も、終わってはいない・・・!
金の睫毛を閉じ、おれの血に塗れた右拳を、高々と掲げる少女。そして、再びその眼を見開き、氷の「射線」を作る。
標的は、おれの頭蓋の中心、鼻の骨だ。少女は、片目を瞑ると、迷い無く、その真紅の兇器の引鉄を引いた。
おれは、恐るべき捻りと共に射線上を加速し視界を犯し尽くす破砕の兇弾を、決意に歯を食い縛りながら、迎えた。
砕けた。その音で、わかった。革がおれの皮膚を撃つ破裂音とは違う、革の内部の拳までも命へ直接食い込む一撃だ。
そしておれは、勢い良く水溜りを踏んだかの如く爆裂四散し赤色の硝子粒の如く氷結し舞い落ちる鮮血の粉雪の中で
自らの魂が、未だに少女の世界の入り口にしか到達していない、その冷厳なる事実を思い知らされる事になった。


――・・・!!!
肉体がひとつの限界を迎え、少女が立ち上がった瞬間、おれの心を冷たく吹き抜けた・・・何とも言えぬ、寂寥感。
何故だろう、鼻の骨をへし折られる寸前、おれは確かにその真っ赤な拳を・・・止めて「貰えない」事を、願っていた。
だがまさに今、加速する激痛が魂に追い付いたその時、眠っていた生存本能が覚醒し、おれの肉体と醜く抗い始めた。


――・・・・・・・・・!!!!!!!!!
おれの躰は全力で転げ回れも、鼻を押さえてのたうち回れもしなかった。魔氷の呪縛が、それを決して許さない。
全身の筋肉が痙攣し、厚い氷の下で虚しく藻掻き足掻く。肉体と神経の乖離に、満たされぬ本能は苛立ち、暴走した。
人の限界を超えた狂騒に皮膚は破れ、関節は砕け、排泄物は瞬く間に氷結し、少女の狂気はおれの本能すらも嘲笑った。
生の醜さを堪能したのか、再び少女の顔が、近づいて来る。まず哄笑が降り注ぎ、血塗られた拳が、後を追って来た。
微塵の情け容赦もない、殺す拳だった。その衝撃に、砕けた鼻骨の刃が肉を滅茶苦茶に引き裂き、視界が七色に明滅した。


――んぶっ、ぐゥゥッ・・・!!
少女は右拳に全体重を掛け、おれの折れた鼻ごと魂を潰しにかかっていた。全身の血流が頭に集まってくるのがわかる。
肺臓一杯に鮮血混じりの空気を吸い込み、血にまみれ破れた唇を固く閉じ、涙を流しながら必死に息を殺して、耐えた。
一旦この口が開き、叫びが漏れ出したら、もう決して「戻って来れない」事は、判っていたから。
少女の目は、好奇心に爛々と輝いていた。鼻腔と張り詰めた拳の間から、圧縮された血の矢が、徐々に漏れ出し始めた。


――軽い・・・!なんと、余りに、軽く・・・儚いのだろう・・・!
紅く爆裂する激痛と窒息と圧迫の地獄の中、おれは少女の躰の軽さ、細さ、そして弱さを、想った。
少女はただ真っ直ぐに、視線を突き刺してくる。少女とおれの狂気と正気が、一刹那の暇もなく激突し続けている。
おれは決壊寸前だった。少女は更に右腕に左拳を添えて、血の螺旋を描き始める。その爪先が氷を蹴る度、真紅の右拳へ
おぞましき渦模様が刻み込まれ、骨と肉が摺り潰れ神経が引き千切れる破滅音が脳へ直接響き渡る。頭上の少女が廻り
やがて逆さまになる。悪戯な視線はそれでも常におれを犯し続けている。そして、ふたりの顔が再び正対した時・・・


「くおっ・・・!あっああっ・・・!・・・・・・おうおおぉおぁああぁああぁああぁああーーーッ!!!!!!」
その瞬間は訪れた。少女が拳を開放し立ち上がる寸前、垣間見せた狂喜の瞳は、おれの正気を氷の焔で焼き尽くした。
今までずっと垂直に、おれの顔面にのみ注がれていた少女の視線が浮き上がり、おれの眼先と同一点上で、交差した。


「うぎゃああおおおああああああぁああぁーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!!!!!」
それは、まるで血の間欠泉だった。完全に骨が砕け異形と化したおれの鼻腔から螺旋を描き垂直に迸った真っ赤な鮮血が
新たに噴き上げられた鮮血と空中で闘い、烈しく飛沫を散らし激突点から真紅の氷霧と化してあらゆる方位に舞い散る。
その酸鼻たる地獄の有様は、おれと少女を現世の呪縛から開放し、新たな宇宙へと誘って行くかのようであった。
その血塗られた好奇心の極め逝く先、それは、おれも少女も・・・未だ、知らなかった。


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連志別川(七) 紅の更紗眼鏡


「ーーーーーーーーッ!!おっブッ!ブッ!ひっおぶぐッ!!ブッ!ぶふッ!ああおおッぎゃあぶッ・・・!」
その一部始終を見届ける事も無く、少女はおれに飛び掛かった。狂気の少女は二体の魔獣を従えているに等しかった。
耳を劈く破裂音と共に、魔獣達はおれの血を、命を、魂を喰らい尽くし、無邪気な残虐性と化して少女へ捧ぐのだ。
真紅の拳が迸る血潮を体内に押し戻し、おれは倍の勢いで噴き返す。そして、更に血を吸って狂気を増したその拳が
おれの躰と心を粉微塵にすり潰す。まるで、おれの正気と少女の狂気が、紅い火花を散らしているかのようだった。
少女の左拳が口を塞いだ。そして、鮮血滴る右拳を掲げたまま・・・左拳を鼻へとずらし、おれの言葉を待った。


「ひっ・・・あっあっあ・・・!殺さ・・・ひぃっ・・・!ふゥッッ!!許っ・・・ひぶッ!あひッわあああ!!!」
第一の願いは、叶えられた。おれは、美少女の玩具だったからだ。玩ばれる道具として、おれは愛され続けた。
少女の右拳が太陽に掲げられ、咆哮と共におれの顔面の中心目掛けて墜落する。紅の弾丸は垂直に迸るおれの鮮血を
その表面で吸い尽くすと、鼻先で止まった。拳から染み出す少女の残虐性を、おれは血の雨としてただただ浴び続けた。
第二の願いは、叶えられなかった。氷は、溶けない。しかし、今おれの魂を弄ぶ煩悶の正体は、凍傷ではなかった。
肘の回転のみによって繰り出された少女の左拳が、おれの潰れ切った、鮮血に濡れそぼった鼻を、軽快に弾き続ける。
脚捌きのない、そっと触れるだけのような、儚く弾ける妖精の拳。しかし、その「弱さ」こそが、真なる恐怖だった。
おれは少女の打楽器だった。皮膚の破裂音だけではない。折れた鼻を打たれれば苦痛が稲妻と化して脳を貫き、その度に
喉からは魂の絶叫が、鼻からは真紅の鮮血が、眼からは七色に眩く激情が迸り、少女をいつまでも楽しませ続けるのだ。
ここは、逃れ得ぬ無間地獄の底だった。魔性の少女の終わらぬ「遊戯」が、おれの正気を、ついに、焼き滅ぼした。


――ああ、ひんやりして・・・いい、気持ち、だ・・・
鼻に感じる心地良い冷たさは、少女の吐息だった。血に染まった美少女は悪戯に、そして「逆さまに」笑っていた。
少女は腕を組み、左足と右足、そして脳天で躰を支えている。
なぜ・・・なぜだろう・・・おれは、必死になって笑いを堪えていた。そして、暖かい爆笑が同時に巻き起こった。
両の目蓋から熱い涙が溢れ出し、頬に凍て付いた自らの鮮血を溶かしていく。少女は両脚を揃えて川面を蹴ると
滑らかな額を支点に、日輪を浴びて倒立した。美少女の顔が、紅い唇が、急接近し・・・おれの鼻先で、止まった。
少女は、おれを見下ろしている。おれはこれから、また、殴られるのだろう。だが、不思議と、心は安らいでいた。
その腋に隠されていた煌めく兇器が、神秘の光と共に現れる。


少女は抉り込んだ右拳を支点に、おれの顔面の周囲の氷を膝で旋回し始めると、左右の拳を交互に目蓋へと降り注いだ。
全ての拳が、おれの顔面へまさに捻り込まれて行く。正面から、逆手で、或いは傾き、絶望の紅に閃く激痛が瞼に弾ける。
鮮血の結晶を纏い眩しい日輪を背に旋回する金髪の少女は、おれの脳裡に、親父の洋学書で見た異国の玩具を蘇らせた。
それは更紗巻きの筒眼鏡で、覗いて廻せば転がる内部の色粒が光に煌めき、眼界一杯に回転美の世界を織り成すという。
様々な紅があった。噴き上がった鮮血、返り血に塗れた少女、そして螺旋を描きおれの視界を犯す二つの拳・・・


「くふっ・・・くふふっ・・・!・・・あはははははははッ!!・・・あーーーっはははははははッッッ!!!!」
おれの上で、美少女が、血と命にまみれ、無邪気に遊んでいる。撃ち下ろす拳それ自体にも強烈な捻りを加える事により
反動で躰の旋回が加速する事に、少女は気が付いたらしい。ますますおれの顔面は烈しく摺り潰され、あらゆる傷口から
鮮血が止めどなく垂直に迸り、激痛に弄び尽くされたおれの脳は、少女とその拳を、三つにも六つにも分身させた。
躰の旋回と拳の捻り、二重の螺旋が、おれの生命を根源からもて遊ぶ。おれは、血に明滅する美しき錯乱を、楽しんだ。
更に竜巻の如く狂威を増す美少女の円舞に、波打つ髪が水平に浮き上がる。三人の少女は六人へ、六の拳は十二の拳へ
十二の拳はおれの眼、顎、鼻あらゆる肉を無慈悲に抉り抜き骨を砕き潰し、紅の更紗眼鏡は更に絢爛なる精緻を極めた。
全ての色彩が強烈な陽光を浴び、輝いていた。魂爆ぜる激痛は、その美が生命の煌きである事の証左に他ならなかった。
おれと少女、顔面と拳、そして魂と魂が垂直軸上に並び、血の螺旋に遊ぶ。まさに今おれ達は、一対の更紗眼鏡だった。



連志別川(七) 紅の更紗眼鏡


ついにおれは、完全なる茜色の硝子細工、生命美の完成を見た。もはや、その波打つ髪、綺麗に並んだ歯、きめ細かい頬
細い首筋、神なる起伏を秘めた胸、柔らかな丸みの腰、そして何度も氷を蹴りおれを苦しめたそのしなやかな脚までもが
一片の白も残さず、おれの鮮血、おれの魂、おれの迸る命により、朱に染め上げられている。


少女は眼を閉じると、脚を前後に開き・・・伸ばした両腕を水平からやや高く掲げ、胸を反らせて雲一つない天を仰いだ。
感動があった。迸ったおれの血が日輪を照り返し、少女は柔らかく清冽な狂気に満ちた、命に溢れる生きた芸術だった。
「未だ知らぬ事」・・・残り少ないおれの人生は、それを求める為だけに費やされてきた。「恐怖」こそが、おれの求める
究極だったのかも知れなかった。もう何も思い残す事は、ない筈だった。だが、少女の躰は、再び涙の奥に霞んだ。
少女は、おれの顔面へ視線を戻すと、一歩、二歩と後ずさり・・・止まった。その金色の眉尻が上がり、緊張が走る。
おれは、途切れかけていた意識の糸を必死に繋ぎ、腫れた瞼へ残る全ての命を注ぎ込み見開くと、その瞬間を、待った。


助走から川面を蹴り、太陽へと飛び立つ少女。爪先で削り取られた氷の破片が、その回転の凄まじさを物語った。
遠心力で振り飛ばされた鮮血が、紅の粉雪と散る。その有様は、数十年に一度の日食を思わせる程に、神秘的だった。
更に急激な捻りを加え、その躍動美の全てを魅せつける。切り取られた全ての輝く瞬間が、おれの脳裡に深く刻まれた。
そして、最期に刻まれたものは、猛り狂う紅い雷の如き右拳が、おれの鼻梁に垂直に抉り込まれる、その瞬間だった。
迸った鮮血は、大輪の氷の牡丹と化して咲き乱れた。その爆裂する激痛に、おれは意識を失う事すら許されなかった。
少女は右拳だけでおれの鼻を摺り潰したまま、なおも熾烈なる摩滅を齎し続け・・・そして倒立したまま、静止した。
ふたりの視線は、再び垂直に交錯した。少女の蒼い瞳が震え、凍て付く涙が、おれの見開かれた眼球を叩いた。
おれは、強い人間だった。しかし、人間という生命存在の極限・・・避けられぬ「終わり」を、おれ達は共感していた。


背を向けて歩き出す少女。おれは、意識と無の狭間で、藻掻いていた。迸り凍る鮮血が、目も耳も鼻も口も塞いだ。
鮮血の色が、血潮の音が、鼻血の臭いが、血液の味が、血氷の冷たさが・・・五感が、命の熱が、緩慢に失われて行く。
とうとう少女は、晩冬の寒空へと消えていった。爆裂していた己の鼓動が、脳へ、響きにくくなっていくのが、わかる。
心臓が、命が・・・止まる。闇がおれの全てを包もうとしたその時・・・おれの中で、決定的な「何か」が、爆発した。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!」
魂そのものを絞り出す大絶叫が、蝦夷の山々に木霊した。己でも何を叫んだのかさえ、判らない。
だがおれは、確かに「少女に」叫んだのだ。おれの、少女への、灼熱に燃え盛る想いを。


爆熱した「何か」はおれの中の新たな鮮血を滾らせ、顔面に開いたあらゆる傷口から噴出し氷を融かし尽くした。
失われていた五感が、極限の高揚感と共に蘇ってくる。そして、見えなくなった少女が、戻って来るのがわかる・・・!
氷を蹴るその脚の爆震が、幾十重にも重ねられたその波紋が氷を伝わり、熱く蘇った聴覚を、心地良く犯したのだ。
少女は再び「意志」を持った「弾丸」だった。しかし、その「意志」は更に強く、更に疾く少女を「加速」させた。
そして、ついにおれの視覚が少女の姿を捉えたその次の刹那、名状出来ぬ激情に満ちた破壊が、おれを迎えた。


最期の一撃はおれの鼻を「水平に」爆撃した。掬い打ちの要領で逆手に固く握り締められた右の艶めく魔性の拳は
おれの鼻梁を、少女を探す視線の先から正確に捉えた。全身を一弾と化して起爆した少女の激情はおれの激情と共鳴し
無限無量に爆裂する狂気が鼻を起点としておれの全身を駆け巡り、その反動は一条の稲妻と化して少女の全身を貫いた。
溶岩の如く噴出した灼熱の鮮血が血の雨となっておれの瞼へ降り注ぎ、視界と意識を懐かしき茜色へと閉ざしていく。
そして・・・またしても、おれは・・・なにも、わからなくなった。



連志別川(七) 紅の更紗眼鏡


――ここは・・・三途の川、か・・・
背が、冷たい・・・おれは、またしても「生きている」ようだった。だが、おれが美少女との苛烈なる遊びを通じて
人間として失ったものは、余りにも、大きかった。「死ねなかった」と言ったほうが、正しかったのかもしれない。


中洲に乗り上げ、おれは息を吹き返したようだった。川の両岸は、切り立った崖となって月光を照り返している。
おれは、泣いた。眩む意識の中で涙に溺れながらも、少女の躰を、悪戯な笑顔を、そして甘苦い拳の味を、思い出す。
そして少女との間に「血」による奇妙な繋がりを得た事に、戸惑いながらもどこか満たされている己を、感じていた。
懐中の、二重の鞘で封印された刃へ、手を伸ばそうとした。山鳥兜の汁を幾十層にも染ませた、この小指程の黒い毒針は
狩りの道具ではない。冒険者として、誇りある死を選ぶ・・・その時が来たら使えと、十一年前に親父から渡された物だ。


腕が、指一本すら、動かない。その代わりに、躰のある一部分が痛い程に疼き、熱を帯び脈動している事に気が付いた。
おれは力なく嗤い、そして、また泣いた。慟哭に咽びながらも、両手も両足も動かせず、鼻は呼吸器としての役を成さず
そして、少女との想い出が熱く蘇った。少女の華麗な拳闘美を、しなやかな手脚を、美しく儚い重さを、顔面で想った。


背に、摩擦を感じる。水嵩が増して来たのだ。これから恐らく、おれは再び、流されるのだろう。
再び薄れゆく意識の中、何故だろうか・・・おれは、見も知らぬ筈の母の面影を、腫れた瞼の中へ想い浮かべていた。
その涼やかで優しい眼差しは、何故か「逆さまに」おれを慈しみ、そして、廻りながら、遠くなって・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


懐かしいチセの中で、おれは目を覚ましていた。恐らく、また、あの少女と村人達が介抱してくれたのだろう。
村人と話す時はいつも、あの少女が一緒だった。短い語ならば、おれは自然と彼らの言葉が判るようになっていた。
おれは礼を言い、村の言葉で「あの子は」と訊いた。髭の大男の表情が、複雑に曇る。「昨日から」だけは、聞き取れた。
そして村人の沈痛な表情が、何よりもおれの心に訴えかけていた。・・・「次こそは死ぬ事になる」「命を惜しめ」と。


随分長く眠っていたらしい。躰が快復しても、魂が目覚めを拒んだのだろう。包帯が取れるまでは二日と掛からなかった。
一人一人、村人の手を取り、礼を言って別れる。全ての村人が、おれが見えなくなるまで、手を振って見送ってくれた。
いつまでも響く惜別の声は、わずか十貫にも満たぬだろう帰りの荷を、その目方以上に、重く感じさせた。


右方向へ柔らかな曲線を描き続ける、浅い雪道をざくざくと歩く。この蝦夷地にも、雪解けの季節が、近づいていた。
道の端々から残雪を割って福寿草が蕾を出し、愛らしい花を咲かせ始めている。日輪を浴びて眩しく煌めく雪の銀白
そして、霜の露に濡れた黄金の花・・・その色彩に、おれは言い知れぬ不足を感じながら、分かれ道へと差し掛かった。
左は遠い松前へと続く、おれがかつて切り開いた山への登り口。右へは、あの川へと伸びる起伏のない道が続いている。


おれは、左へと進んだ。そして、全ての帰りの荷を蝦夷松の森へ投げ捨てると、山とは逆の方向へ、足早に歩き出した。
いつしか、おれは雪道を駆け出していた。今や異形と化した鼻腔を打つ春風の香りが、却って心地良かった。
これからおれは、少女の拳によって解き放たれた自内の「何か」と命を賭けて対峙し、そして、決着を付ける・・・!
畏怖、憤怒、混乱、憎悪、緊張、興奮、焦燥、怒張、絶望、希望、熱狂、狂乱、狂喜、狂騒、共鳴、陶酔、そして・・・
全てが綯い交ぜになった凍て付く熱風が、おれの全身全霊を柔らかに激しく包み込み、「あの川」へと疾走させていた。