投稿SS4・光の食卓(後編)

光の食卓(15) 訪れる終焉


 少女は、男の眼がその光を失った事を確かめると拳を止めた。そして、生臭い濃霧の中から甘やかな声が響いた。
「お兄様の魂、確かに頂きましたよ・・・!流石は私が見込んだお兄様・・・!発狂する直前まで『私』の名前を
呼んでいましたね。くっくっく・・・あーっはっはっはっはっはははっ!!!・・・おじいさまとそっくり・・・!
本当に人間というのは愚かで、無様で、弱くて・・・!くっくっく・・・!でも、これで終わりではないのです。
私の『食』は始まったばかりです。さあ、私の選択に適った幸運を、その身でたっぷりと噛み締めるのです・・・!」


 ズジュッ!!湿った擦過音に続いて爆裂音が地獄を震わせた。着弾点から巻き起こった衝撃波が真紅の濃霧を一息に
吹き飛ばすと新たな鮮血が爆発飛散しコンクリート壁を叩き付けた。少女の右ストレートが、男の鼻を撃ち抜いたのだ。
 霧が晴れ、露になった少女の肢体は、まさに吐き気を催す程の危うい美を放っていた。白く清潔だったウェアは
その分子一つも残さず朱に染め上げられ柔らかな肢体に密着し、絹の様に滑らかで白かった地肌も本来の猟奇的色彩を
取り戻したかの様に地獄色に塗り潰され、流麗なる長髪は狂気のシャワーを浴び艶かしくも鮮血を滴らせ輝いていた。


 インパクトの瞬間、少女の右拳は男のゼリー状の異物と化していた鼻部を更に叩き潰し、鮮血の鞭を天井へと
叩き付けるとその莫大な衝撃は直ちに脳機能を停止させた。ついに死が、今生との永遠の訣別が男に訪れ、漸く無限の
苦しみから解放される時が来たのか。しかしそれは、大いなる錯誤だった。
 男がロープから勢い良く跳ね返されると、新たなる鮮血の爆発が起こった。左ストレートが、迫り来る男の顔面へ
カウンターとなって撃ち込まれたのだ。男の大脳は悲しむべき事に、衝撃により再び機能を回復した。そして
反動で更なる恐るべき速力をもって跳ね返る男の顔面に、少女の右のグローブがより深く、より鋭くめり込んでいく。
 そこから先の光景は、阿鼻叫喚の地獄絵図という表現ではおよそ形容し切れない程の、人外境そのものであった。 



光の食卓(15) 訪れる終焉


 徐々に細くなりゆく男の心臓の鼓動とは裏腹に、硬い12ozが男の顔肉を撃滅する衝撃音は鼓膜を破らんばかりに
その音量を亢進させていき、飛び散る鮮血は全空間を狂気に巻き込まんとしていた。
 一撃毎にその凄惨さを増していく少女の凄絶なるストレートパンチに、男は鮮血を爆裂させ、或いは天井と壁に
吹き付ける事でしか応える事が出来ない。しかしやがて、少女の眼を楽しませる異変が起こり始めた。


 高らかな放屁音と共にトランクスの隙間から漏れ出したのは、男の糞であった。物言わぬ運動機械の如く沈黙を
守る男の体内では、既に恐るべき生死の葛藤が行われ始めていたのだ。そして、加速する暴虐に耐え切れず焼き切れた
男の中枢神経系は、その生理現象の管理を放棄してしまった。続いて左ストレートをその顔面に受けては小便を噴出し
更に右ストレートが肉を叩き潰すと男は大量の涎を垂らし射精した。
 見るに堪えぬ呪われし惨景に、どの様な凶悪殺人犯であっても人間ならば、僅かなりとも躊躇が生じ暴力の手を
休める筈である。だが、少女は人間では無い。従って、男がどの様な狂態を晒そうと、暴虐は当然の如く続行される。


 鮮血の鞭はその狂勢を更に増して蛍光灯を前後に塗り潰し続ける。やがて、二人の顔を激しい赤光の明滅が照らした。
無限に続く破壊の最中、男の出血量はそのピークを迎えていた。「その瞬間」が近づいたのだ。男の脊髄は心臓に
命じて全身の血流を頭部へ殺到させ停止した脳機能を復活させんとした。だが、最期の努力もまた、徒労に終わった。


 耳を劈く轟音と共に、最後の破壊が男を現世の苦しみから解放した。恐るべき狂的速度をもってロープから発射された
男の顔面を、少女の右拳が正面から撃ち滅ぼしたのだ。ステップインと共に撃ち出された冷たく硬い12oz、そして
残虐なる欲望を最大級のカウンターとしてその顔面に享受した男は、鮮血の鞭を撒き散らす事も無く仰け反りロープに
跳ね返り、無慚に潰滅したその顔肉を血の池と化したリングへと叩き付けると、壮絶なるバウンドの後、沈黙した。
 少女は、男の脇腹を朱に染められたリングシューズで蹴り上げ仰向けにすると、呼吸が納まり心臓の鼓動が停止した
事を確認した。冷たい地下空間に、少女の両の12ozから滴る鮮血の水音だけが響き続けた。


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光の食卓(16) 不老不死の霊薬


 男は、無限の暗黒の中にいた。落下しているのか、浮揚しているのか。あらゆる灯りが遮断されたその世界の中では
それは確かめようもなかったし、確かめたところで、どうするというあても無かった。ここにいつ来たのか。ここから
抜け出したいという考えは、かつてはあったのだろうか。何もかもが、思い出せない。男はただひたすらそこに
存在し続け、そしていつしか全てを忘れ、思い出すことをやめてしまっていた。
 それから、どれだけの時が経ったのか。限りなき漆黒無音の宇宙に、一筋の光条が投げ掛けられた。光は徐々に
暗黒を切り裂き、その宇宙の全空間を満たすと、覆い尽した。


 あたり一面に競う様に咲き誇る蒼い花。清涼感に満ちた甘く芳しい香りが、男の鼻腔をくすぐる。男が佇んでいた
その場所はラベンダーの花園であった。そして、頭上から声が降り注いだ。しっとりとした、少女の声だ。
ごきげんよう。お兄様。ここは全ての人間が死後、その魂の行方を決める分岐点です」
 男は、その声の主が誰なのか思い出せなかったが、とても大切で、心が安らぐ存在だという事だけは感じられた。
相手の言葉を疑うという発想も無く、男は己の境遇を淡々と受け容れた。不思議と悲しみは無かった。


 更に、声は続いた。天を見上げる男。その眼界には雲一つ無い青空が広がっている。
「お兄様には、二つの道が用意されています。一つは、このまま永遠に独りで暗黒を彷徨い続ける道・・・」
 男の手の中には、いつの間にか透明なグラスが納まっていた。中には、黄金色の液体が満たされている。
「もう一つは、その霊薬を飲み、現世に還り人生をやり直す道・・・。さあ、ご決断を」
 男がグラスの中の熱い液体を見つめ、恐る恐る口へ運んだその時、もう一人の少女の悲痛な叫びが世界に木霊した。


――お兄ちゃん、行かないで・・・!光を一人にしないで・・・!
 その声が男の耳に届いた時には、もう遅かった。急速に歪曲し圧壊していく世界の中心で男が最後に見たものは
ラベンダーの代わりに咲き乱れた幾千幾万の廃人の屍だった。そして、降り注ぐ紅い雨が視界を真紅に塗り潰すと
交互に聞こえていた少女の嘲笑ともう一人の少女の嗚咽も、やがてフェードアウトしていった。


 
光の食卓(16) 不老不死の霊薬


 財産、権力、名声、美食、色欲・・・古来より、人間界に存在し得る全ての楽しみを極めた支配者が最後に求めた
ものが「不老不死の霊薬」であった。秦の始皇帝を始めとして、世界各国の王侯貴族、為政者がこれを求めに多くの
人間を遣わせたが、持ち帰って来た者は誰一人として居なかった。やはり、見つからず帰国する者や道程で命を落とす
者が大半であったのか。だが確かに、不老不死の霊薬は存在し、それを口にした者もまた存在したのだ。
 しかし、彼ら――不老不死者たち――の末路を知る者は、誰一人として居ない。


 再び男は、息苦しさに眼を覚ましつつあった。地上では既に日が傾き始めていた。男の口をぴたりと塞ぐその物体は
数時間前に男に舞い降りた唇の様に柔らかく、ほの暖かい肉の塊であったが、視界が利かぬ男にはそれが何であるかは
わからなかった。口の中が熱い。何か、得体の知れぬ液状のものが男の口内を満たしていた。既に、いくらかそれを
飲んでしまったのだろう。その液体が胸の中から吸収され、臓腑を駆け巡り全身に浸潤していく様子が感じられた。
 急激に高まっていく口内の液圧に、男の頬が蛙の様に膨らんだ。人智を超えたその味覚を男の舌は理解できなかったが
本能はそれを求めた。男は注ぎ込まれた液体を飲み干すと口内の液体の源である肉塊に吸い付き、ミルクをねだる赤子の
様にそれをビチュビチュと吸い続けた。粘りつく肉塊の下で、男は己の心臓の鼓動が早鐘を打つ爆音を聞いていた。


 最後の一滴をその口内へ搾り出すと、男の顔面に吸い付いていた液源は、淫猥な水音を響かせつつ上空へ持ち上がり
その血まみれの威容を男の眼前に現した。男はその神々しい存在感に思考力を奪われてしまっていた。


「おはようございます。お兄様。ご気分はいかがですか?」
 蠢く肉塊の主が男に語りかけると、男の聴覚はその甘やかで安らかな美声を確かに受け容れた。ただただ、ぼんやりと
蠢く肉襞を見つめ続ける男。少女は男の表情をこの上無く残忍な薄ら笑みを湛えた一瞥をもって見下すと、トランクスを
穿き直し左の12ozで男の首根っこを背後から掴み上げた。血管に食い込む拳に、男の意識が鮮明になる。人間ならば
甘い吐息がかかるほど右耳に唇を近づけ、少女は囁きかけた。



光の食卓(16) 不老不死の霊薬


「ふふふ・・・お兄様は勇敢でしたよ。忘れましたか?お兄様が私のボクシングに破れ、その命を落とした事を」
 男の返答は無い。
「くすくす・・ご自分の死も解らない・・・!なんてお労しいお兄様・・・!」
 少女は労るような言葉面とは裏腹に、妖艶に涎が煌めく唇を心底愉しげに歪めると、恐るべき膂力をもって男の首筋を
吊り上げリングサイドの大鏡の前へと突き出した。そして右掌を男の額に当て、皮膚もろとも両の瞼を引っ張り上げると
鏡の中で窒息と言い知れぬ不安、恐怖に喘ぐ男へと語りかけた。


「さあ、見るのです」
 二人の見つめる先に拡がっていた凄まじき光景は、男に己の呪われた運命を理解させるに十分だった。
 鏡に投影された男の相好は、もはや人間のそれとは似ても似付かぬ、どの様な無慚な不具者よりも遥かにおぞましい
瘴気を放っていた。まず唇は醜悪な兎の様に上下とも真ん中付近から二つの肉塊に引き裂かれ、計四つの肉塊が
思い思いに悶え苦しみ捻じ曲がり、全ての表皮が剥げ落ち中身の赤黒い肉質が見えていた。その内部には本来ある筈の
男の歯は一本も生え残っておらず、幾つに砕けたのかも解らぬ破片が口内壁や歯茎に突き刺さっているのみだった。


「お解りになられましたか?お兄様は私にボクシングで、くふふっ・・・!完膚無きまでに叩きのめされ、そして・・・」
 腐臭を放つ己の顔面の余りの醜さ、痛ましさに眼を背けようとする男。しかし、少女の両拳はそれを許さなかった。
男には首を振るどころか、瞬きをする自由すら与えられなかった。鏡の中でヒクヒクと蠢く男の頬は、何か猛毒を有する
未開地の果実の如くある箇所は赤、またある箇所は青黒という様にサイケデリックな色彩を宿しつつ膨れ上がっていた。
無数の圧傷の中に、少女の左右のストレートによって刻み込まれた巨大な刀傷の様な裂傷が左右に一本ずつ男の頬を
縦断し、外側に惨たらしくめくれ上がったその内部からは血や脂、その他体液の混合物がドロドロと滴っていた。
 

 少女は右拳を男の瞼から解放した。しかし、男は鏡に映った己の顔面の惨状から眼を離そうとはしなかった。やがて
男の眼に混乱、悲愴、戦慄、あらゆる感情の色が交互に浮かんでは消えた。少女はその様子を満足げに見つめ続けた。



光の食卓(16) 不老不死の霊薬
 

「くっくっ・・・くふふふふふっ・・・!もうお兄様にもお解りになりましたね・・・?それがお兄様のお顔・・・!
お兄様の血・・・!そうです。お兄様は、私に、私のこの拳によって、殴り殺されたのです・・・!」
 少女は、幾度と無く男の顔面を撃ち抜き、変形させ、陵辱し、その魂ごと苛め殺した兇器たる右の12ozを男に
見せ付けつつ、宣言を下した。男は、泣き喚く事も出来ず顔面下部に開いた肉穴をあうあうと上下させ血の泡を吐いた。
 もはや、男の顔面の中心に聳えていた鼻は、見る影も無かった。そこに有ったのは、潰れた肉の塊とすら言い難い
黒く蠢く海底の得体の知れぬ軟体生物の死体の様な、細胞の死骸の集まりだった。既に何処が鼻の穴かも解らない。
孔が二つある事さえも解らない。血と肉と骨の渾沌がそこにあるのみだった。


 しかし、瞼だけは他に比べると損傷は軽微に収まっていた。少女の恐るべき拳闘技術をもってすれば、かの鼻の様に
男の眼球を叩き潰してしまう事は容易い事だった。なぜ、少女は男の視覚を残したのだろうか。
 言い知れぬ人外の狂気、鬼畜の悪意がそこにはあった。少女は垂れ落ちる涎を拭う事もせず、続けた。


「人間の出血の致死量を知っていますか?くすくす・・・何故、生きているのか、お兄様が現世に留まって居られるのか
不思議でしょう・・・?それは・・・くふふっ・・・!飲みましたよね・・・?あんなに美味しそうに・・・!
あんなにいやらしい音を立てて・・・!32223日もの間、溜めていたのですから・・・!お兄様には、私の選択に適った
幸福を『永久に』噛み締めて頂きましょうね・・・!」


 男の視線は己の顔面の惨状をすっかり眺め尽くすと背景のリングへと彷徨い始めた。赤黒い。青い筈のリングが漆で
塗り固められた様に赤黒いのだ。思わず視線を天井へ逸らす男。天井も赤黒い。ロープの一本一本に至るまで、空間は
鮮血に閉ざされていた。言うまでも無い。それは、己の血なのだ。深い、余りにも深遠なる絶望。男は、少女の言葉を
受け入れざるを得なかった。だが、己を待ち受ける未来については、もう何も、考えられなかった。考える事を恐れた
のでは無い。そこから先は、人類未踏の領域だった。永遠の空白、絶対不可侵の神域へ、二人は足を踏み入れたのだ。


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光の食卓(17) 亡者の舞


 少女の神聖なる蜜壷から溢れ出し、男の体内へ注ぎ込まれた液体。それこそが古代より人間が長く探し求めて来た
不老不死の霊薬そのものであった。少女達「護り手」は星の使命に従い、あるいは己の欲望を満足させる為毎日無数の
人間を死骸に変え、その魂、生命を吸収し蓄積している。彼女達が素体の肉体を通じて放散する無垢なる生命の粋・・・
不老不死の霊薬の正体はそれであったのだ。幾千幾万の人間の無念、悔恨、怨嗟、呪詛を一挙に凝縮した、それは
まさに神秘の妙薬であった。
 ではなぜ、彼女はそれを男へ与え給うたのか。


――たすけて・・・!たすけて・・・!たすけてたすけてたすけてたすけてぇぇぇぇぇぇ・・・!!
 声を上げる事も出来ずただひたすら祈り、懇願する鏡の中の男。突如、挽き肉を叩き付けるが如く嫌らしく湿りきった
打撃音が響くと、その醜く、哀しき鏡像を紅い液体がビチャビチャと音を立てて汚した。少女の声がその後を追った。
「くすくす・・・『助けて』?いいですよ。もっとお兄様のお顔が可愛くなる様、私が助けて差し上げますね・・・!」


 少女は右拳を固く握り締めると、そのまま力任せに男の顔面へと叩き付けたのだ。峻厳なまでに高められた少女の
ボクシング技術の美しさは欠片も感じさせない、それは荒々しくも恐るべき一撃だった。左拳で首筋を固定したまま
更に打撃は続く。1発、2発、3発・・・鏡の中で小刻みに仰け反り、全身をビクビクと痙攣させ屍のダンスを踊る男。
陰惨なる潰滅音が10回も響くと、いつしか鏡の中の男の姿は血の海に沈み、見えなくなっていた。それは、これからの
男を待ち受ける呪われた運命を象徴しているかのようでもあった。それでも、嬉々として少女は右拳を振るい続けた。


 生きた死人である男には、もはや失神して激痛から一時の安息を得る事も許されなかった。顔面の中心へ叩き込まれる
少女の右のナックルパートがその肉を潰し、魂を苛む度、哀れにも蘇った男の大脳には人智を超えた激痛が注ぎ込まれ
その結果全身の血流が再び頭部、脳へと集中し、かつて鼻が聳えていたその部分からスプレー状に飛散してしまうのだ。



光の食卓(17) 亡者の舞


 打撃音は20数発も響き続け、そして終わった。右の12ozには迸った男の鮮血が既に限界を超えて染み込み、また幾十層
にも表皮に塗り重ねられ形容の術無き輝きを放っていた。少女の清冽なる舌が12ozに静かに触れ、熱い唾液が表層を
融かすと、どす黒い腐臭を放つ混合液がか細く華奢な喉を通っていく。少女のトランクスの内部が、ジワリと湿った。
 再び鮮血の微粒子に覆われたリングの一角。少女は血に溺れもがき喘ぐ男の正面に立つと、こう告げた。
「お兄様は本当に幸せ者です。死を越えて私の想いの全てを、そのお顔に受ける事が出来るのですからね・・・!
ああ、この感覚・・・!実に32223日ぶり・・・!私のパンチ・・・しっかり受け取って下さいね・・・!!!
そして、悶え、苦しみ・・・!くふふふふふふっ・・・!!最高のショータイムの始まりです・・・!!!」


 少女の左拳が、万力の如き膂力をもって男の喉を抉った。全く息が出来ない。更に圧力が増し両足が宙に浮いていく。
男は未知の恐怖に喉の奥底から鼾の様な呻きを上げ、足を無様に、力無くばたつかせ唸った。骨が軋み異音を発する程
握り締められ、振り被られていく右の12oz。少女の拳が小刻みに揺れる振動が男の脳に直接伝わる。少女の全身の筋肉が
限界を超え引き絞られ、素体が悲鳴を上げているのだ。そして少女の肢体の激震が最高潮に達すると同時に、その小さな
口が開かれ、異界の咆哮が男の耳を劈いた。その瞬間、魂が石化し、己の血にまみれた男の頭髪は残らず抜け落ちた。


 爆裂音が轟いた。今までとは明らかに異質の、決して人間対人間の殺し合いでは聞くことが出来ない、定めしそれは
死という概念そのものを音波に変換し数十倍に増幅したかの様な、凄まじき冥界の虐殺音であった。
 少女は左拳を解放すると、落下する男の顔面に「それ」を叩き付けたのだ。「それ」は、彼女が85年余りの間叩き殺し
続けた数万の人間には決して向けられなかった、人肉の許容量を超過して数倍に凝縮された「死」そのものであった。
 「それ」はまず男の顔面の中心へ着弾すると、顔面の全ての肉を内奥へとミンチ状にすり潰しつつ押し込み、未曾有の
衝撃は頬骨、上下顎骨、眼窩など全ての顔面骨に無数の亀裂を走らせると、爆発的に男の全身を回転させ、発射した。



光の食卓(17) 亡者の舞


 拉げた顔面に開いたあらゆる傷口から、高圧の血液を扇状に噴射する男。鮮血の帯はまず少女の顔面を塗り潰し
リング上の天井を奔り、十数m後方の壁を叩き付けた。そして、いかなる天変地異でも考えられぬ超常的なスピードで
空中を半回転した男は、そのまま後頭部から硬いリングに激突すると、悪趣味な前衛芸術作品の如く垂直に倒立した。
 それから暫くした後、男は緩慢に傾斜し、うつ伏せに自らしたためた鮮血の池の中に沈んだ。


 少女は恐るべきパンチのフォロースルーにより自らの顔に巻きついた黒髪を払いのける事もなく、右拳に残る
確かな痺れ、惨殺の手応えに陶酔していた。そして、禍々しき殺人道具に付着した男の血肉の混合物を舐め取ると
グチャグチャと美味そうに咀嚼しつつ、少女は待ち望んだ男の狂態、死を越えた亡者の舞を堪能した。
 狂乱は直ちに始められた。うつ伏せに倒れた男は、恐るべき暴威で噴き出す己の鮮血の圧力を制御出来る筈も無く
その暴圧に弾き飛ばされ仰向けになった。少女の眼前に晒された男の顔面は、それを見た全ての人間を嘔吐させ
精神に一生消えぬ楔を撃ち込むに十分な程、見る影も無く損傷していた。
 顔面の中心よりやや下、昨日まで鼻や口が有った部分はもはや月面のクレーターの様に不規則な半球状に落ち窪み
爆心点であるその中心はもはやどの器官なのかも解らぬ、肉と血と骨と脂が混ざった暗黒になっていた。そして人間の
限界を超えた顔面肉の圧縮は、男の頬骨を軋ませ、その顔輪郭を蟹の如く横に押し潰した。
 

 半分に千切れた百足の如く左右に身を捩じらせ、海老反りになり、断末魔のダンスを踊る男。少女の振るった右拳。
フックか、ストレートか、それすらも解らぬ魔の一撃は、あらゆる人間を死に誘うに十分過ぎる威力を秘めていた。
しかし、呪いの妙薬を口にした男には、死を受け入れ苦しみから逃れる事も叶わない。
 男はもはや、無様にリングを這いずり回って少女の欲望に応える事しか出来ないのだった。
 地獄の騒乱に合わせ、リングに、天井に、そして少女に噴き付けられる男の鮮血。やがて、血の池には紅だけでなく
黄土色や茶色の濁流も注ぎ込まれた。鮮血、吐瀉物、大小便、そして涙・・・己のあらゆる体液の汚濁にまみれる男。
生と死の境界すら、少女の拳の前には意味を成さなかったのだ。


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光の食卓(18) 蜘蛛の糸


 不老不死――誰もが憧れ、力ある者は追い求めた人類の夢――それは今まさに、男へと授けられていた。しかし
永遠の命を得た男を待ち受けていたものは、限りある生を生きる者には夢想する事も許されない、限り無き悪夢だった。
 生ある者は、いつかは死ぬ。それがこの星の摂理である。男は、それを冒したがばかりに、このような報いを
受けているのだろうか。否、摂理を冒したのは、むしろ少女の方であった。


 陸に上がった魚の様に、ビチビチと汚濁の中で暴れ狂い続ける男。少女はゆったりとロープに靠れくつろぐと、その
酸鼻たる地獄風景を両のグローブ越しの手拍子を送りつつ楽しんでいた。しかし、これだけの破壊をもってしても
なお少女の残虐なる欲望が満足される事は無かったのだ。少女は手拍子を止め、リング中央の血の池へ足を踏み入れると
声無き呪詛と鮮血を撒き散らすその醜く潰れた顔面を、血染めのリングシューズで踏みつけた。


――しんじゃうぅぅぅしんじゃうぅぅぅ・・・しんじゃうしんじゃうしんじゃうぅぅぅぅぅぅっ・・・!
 男は細かい亀裂の入った頭蓋後頭部を支点に、一個の肉ゴマの様に暴れ回った。少女は、屈辱的な行為とは裏腹の
女神を思わせる甘く優しい口調をもって、己の足下へ声を投げかけた。
「ご安心を。お兄様はもう死ぬ事はありません。何と言っても、私の大切なお兄様ですものね・・・!」


 少女が脚を離すと、男は己の顔面を踏み躙ったそのしなやかな脚に緩慢に、しかし懸命に縋り付いた。もはや
打撃に晒され続けた男の大脳は正常な思考を保つ事が出来なくなっていたのか。その浅間しき様子は、ある小説の中で
地獄に堕ちた罪人が、極楽から垂らされたひと筋の光り輝く蜘蛛の糸に縋り付く様子を想起させた。
 全身の力を振り絞って少女の肉体を這い登る男。数十秒かけて、無慚にも砕け切った両手が、やっとの事で
少女の膝に掛かったその時、男は右頬に圧力を受け、爆裂音と共に現世の地獄、血の池へと叩き落とされた。
 少女の左拳が、男の頬へと叩き込まれたのだ。先の暴打により張り出した頬骨を直接打ちのめした12ozは、更にその
亀裂を拡げ、男の首を頚椎の可動範囲の限界まで捻ると、その顔面を再び汚濁の中へと叩き込んだ。



光の食卓(18) 蜘蛛の糸


 蜘蛛の糸は、切れた。これは男の心にやましい部分があったから切れたのでは無い。差し伸べた少女が、自ら
切り落としたのだ。人間界の理を超越した、冥界の理不尽がそこにあった。
 男は、暫く血の池に死んだように沈んでいたが、更なる緩慢さと懸命さとをもって、再び少女の肉体へと挑んだ。
結果は、同じだった。少女の太腿に手をかけた男は、少女の右フックにより己の左頬骨にヒビが入り、頚椎が
人体の限界を超えて歪む異音を聞きつつ再び血の池へ沈み、激痛と絶望に悶え狂った。後は、同じ事の繰り返しだった。


 それから20分余りが経ち、6発の打撃を経て男の両頬はかつての2倍半程にも膨れ上がり、頚椎の損傷は首を僅かに
動かすだけで壊滅的鈍痛が脳を焦がすまでに亢進していた。それでも、それでも男には、少女の肉体へ縋る他に道は
無かった。時間にして10分程であったが、男にはそれが永遠にも感じられた。いつあの紅い弾丸が己を地獄へと
叩き落すやも知れぬ恐怖に戦慄し、砕けた両手と顔面、首の激痛に血の泡を噴きつつ男は無慈悲なる山脈たる少女へと
挑み、そしてついにその頂上を極めた。男の砕けた右手が、漸く少女の肩に掛かったのだ。
 少女はその膨らみに男を抱きすくめると、額に柔らかく潤んだ唇を重ねた。汚物にまみれた男の額に、生白い
キスマークが刻み込まれた。男は、これまでの辛苦、屈辱も忘れ、湧き上がる達成感に涙を流し喜びに打ち震えた。
「うふふふ・・・お兄様、よく頑張りましたね。これは私からのプレゼントです。お受け取り下さいねっ・・・!!」


 その言葉が言い終わるや否や、男は骨が砕ける爆砕音と共に飛翔していた。少女の左アッパーカットが男の顎を
穿ったのだ。血の池の飛沫が天井に達し、リングが陥没せんばかりの暴威をもって踏み締められた脚のキックを受け
恐るべき猛威を得た左の12ozは、身も心も凍る殺意を乗せ男の比較的無事であった下顎骨に直撃すると、中央部から
それを無茶苦茶にも叩き割ったのだ。しかし、少女から与えられた「プレゼント」は、これだけでは無かった。


 即死する事も、意識を失う事も出来ず空中で死の苦しみに喘ぐ男。男が落下を始め、顔面が水平になったその瞬間
更なる破壊が襲い掛かった。



光の食卓(18) 蜘蛛の糸


 左アッパーカットの直後ステップインしていた少女は、その無防備なる顔面に全身全霊全膂力を込めた右拳を
撃ち下ろしたのだ。耳を劈く爆裂音と共に、鮮血の微粒子が水平同心円状に幾十層、幾百層にも飛び散る様子は
超新星爆発の様な神々しささえ感じさせるものであった。男はおぞましき速度で汚濁へと叩き付けられていった。


 永い永い苦悶と不安に打ち勝ち蜘蛛の糸を登り切り極楽に到達した途端、またも地獄に投げ落とされた男。しかし
無慈悲なる幼き女神の嗜虐心は、男を地獄に落とすだけでは決して、満足される事は無かった。
 空中で男の顔面に抉り込まれた少女の右拳は、男の後頭部がリングに叩き付けられるその瞬間まで、なおも男の顔面を
捉えていたのだ。


 そこからの有様は、まさに言語を絶した。激突の瞬間、男の両足は反動で高々と持ち上がり、暫し静止し、大蛇の様に
うねくった。そして、少女は右拳に全体重を預け、右へ、左へ、抉って抉って、抉りまくった。グローブと顔面の隙間
から、夥しき量の鮮血がスプリンクラーの如き圧力をもって半球状に放射され、血の霧となって再び二人の姿を
リング上から消失させていく。少女は哀れなる男の顔面を存分に捏ね回し、鮮血の圧力、絶望の味をその拳で堪能すると
12ozを離し、垂直に迸った鮮血を己の顔に浴び、獣の様に咆哮した。そして鮮血がその勢力を減ずると、再び真紅に
輝く兇器が男の顔面にめり込んだ。今まさに男の全ての希望は潰え、絶望だけがそこに残されていた。


 これが、全ての不老不死者の末路であった。なぜ、彼女達は死すべき人間どもへ永遠の命を与えたのか。
その目的は、己の欲望の充足、ただそれだけであった。
 少女は言わばこの星の管理者であり、摂理の外に位置する存在である。地球開闢以来、不老不死を得た人間はその
全てが、彼女達「護り手」に男と同様に秘薬を飲まされ、人智を超えた暴虐に魂を弄ばれ、無間地獄を彷徨ったのだ。
 彼女達の与える不老不死とは、「死なない」という事ではない。不老不死者は薬が効いている限り「死ねない」のだ。
もはや、男は少女にとっての楽しき玩具でしか無くなっていた。遥かな昔から何十万、何百万の人間を死骸に
変えてもなお尽きせぬ欲望。その欲望を、男の血肉はどこまで叶えることが出来るのか。陵辱は、まだ終わらない。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(19) 涙


 あれから、どれだけの時間が経ったのだろうか。既に、地上は月明かりに照らし出されていた。
 一方、地下の神域は再び氷の様に冷たい静寂を取り戻していた。もがき苦しむ気力も体力も尽きたのか、男はただ
汚物の池に仰向けに沈み、消え入りそうな呼吸をその無慚にも潰滅した肉孔から不規則に出入りさせているのみだった。
クーラーの送風音、男の呼吸音、断続的に天井から滴る血の雨音。その三種の旋律だけが地下空間を支配していた。
 

 ぴちゃっ・・・ぴちゃっ・・・・・・・・・ぴちゃっ・・・ぴちゃっ・・・
 男の耳に届いた第四の旋律。男の脊髄は、ゆっくりと己に接近するその水音に凍りついた。暫くして水音は止まった。己の


右耳に生臭い汚濁の飛沫が掛かる不気味な感触に、男は微動だに出来ずただ呻いた。そして言い知れぬ被虐の
恐怖にその全身を彫像の如く強張らせ、固く眼を瞑った男に、意外の言葉が投げ掛けられた。


「うふふふ・・・良くここまで頑張りましたね、お兄様・・・。さぞや、恐かったでしょうね・・・。もう、休んでも
いいのですよ・・・?あと1分もしない内に『お薬』の効果は切れ、お兄様には永遠の消滅が訪れます」
 少女は、繊維の一本一本にまで男の鮮血が染み込んだトランクスをするすると下ろし、男の醜怪なる腐肉に跨る様に
屈み込むと、その内部に蠢く神秘の肉襞を男の顔面の上空20cmに浮遊させ、そのまま言葉を続けた。
「お兄様に、選択権を差し上げます。このまま消滅を選び、永遠の安らぎを得るか・・・もしくは・・・」


 少女の言葉が終わらぬ内に、男の体内に異変が起こり始めた。男は、突如として水中に沈められた様な窒息感に
喘いだ。少女の言う通り、霊薬の効力が切れたのか。もはや、死人である男には地球上の大気を構成する全ての元素が
猛毒となって襲い掛かっていた。朽ちた両手を懸命に伸ばし、脚を複雑怪奇に曲げ、胃液を噴き上げ運命に抗う男。
 少女は言霊を止め、男の生死の葛藤を存分に楽しむと、涎に艶かしく光る唇の隙間から、再び言霊を紡ぎ出した。



光の食卓(19) 涙


「もしくは・・・!私の『ここ』に『誓いのキス』をし、永遠に私を楽しませ続ける栄誉を手に入れるか・・・!!」
 急速に歪み、ブラックアウトする男の視界。男の大脳は、おぞましい煩悶の中、少女から与えられた「選択権」の
意味をしっかりと理解していた。視覚が失われ、聴覚が失われ、己の存在が消えていく。完全なる漆黒無音の宇宙の中
男は肺を直接抉られる様な窒息の苦しみと損傷した頚椎の激痛に苛まれながらも、その首を、懸命に持ち上げていった。
暫くして、男の脳に直接、甘やかな天啓が響き渡った。


「・・・お兄様の願い、確かに受け取りましたよ・・・!さあ、たっぷりと味わうのです・・・!!!」
 ・・・ぐぢゅうぅっ!!・・・・・・ぷっ・・・ぷしゃあっ・・・じゅわぁぁぁぁ・・・
 男の望みは、叶った。体内に直接注ぎ込まれる霊薬を飲み干すと、あれだけ苦しかった呼吸が、嘘の様に楽になった。
やがて男の目じりから、紅い液体が脈々と伝った。それはひと時の生を得た歓喜と、死を受け容れる事が出来なかった
悔恨が入り混じった血の涙だった。少女は男の呼吸が戻った事を確かめると、静かにトランクスを穿き直した。
「くっくっ・・・お兄様もそれを選ばれましたか・・・!人間と言うのは本当に誰も彼も、殴られる事が好きで好きで
仕方が無いのですね・・・!いいでしょう。これから、お兄様の心行くまで、その望み・・・私のこの拳で叶えて
差し上げましょう・・・!!そう、『永遠』に・・・!!!」


 少女は、左拳で男の喉を鷲掴みにすると、ゴミを持ち上げるかの如く軽々とその肉体、顔面を己の頭上へと差し上げ
止め処なく溢れる血の涙を味わった。もはや、悲哀と絶望の権化たる男は、少女のされるがままに任せる他無いのだ。
「うふふっ・・・!!どうしました・・・?私のパンチをそのお顔に受ける事が出来るのがそんなに、血の涙を流すほど
嬉しくて嬉しくて堪らないのですか?・・・もう、仕方ないお兄様ですね・・・!では、これから、そのお顔の
あらゆる骨を粉々に砕き尽くし、血を一滴残らず絞り取って差し上げましょうね・・・!!!」



光の食卓(19) 涙


 少女がその左拳を離すと、凄まじい爆裂音と共に衝撃波がリングの中央から巻き起こり、男の身体は赤く染め上げ
られたニュートラルコーナーに激突していた。少女の右ストレートが、男の顔面をまたも撃ち潰したのだ。
 もしも少女が人間ならば、数時間にも及ぶ暴虐の疲労の為その威力は若干なりとも衰えているはずだった。しかし
人ならぬ少女の内奥より溢れ出した欲望の権化たる右の12ozは、全くその暴威を衰えさせる事無く、逆に男の無念と
絶望、血の涙を糧にして更にその速力を激増すると、おぞましき破滅の口火を切るに至ったのだった。


 噴き上げられた男の鮮血は天井に到達する前にその勢いを失い、放物線を描くと血の池に直接ビチャビチャと注いだ。
既に、男の全身からは致死量の倍以上の血液が失われていたのだ。少女は狂気のアーチを掻い潜る様に、一条の閃光を
思わせるフットワークをもって男に肉薄した。暫し男の視線は、垂直に迸り己の顔面を叩き付ける鮮血に注がれて
いたが、その眼界が正面を向いた時には、少女の姿は無かった。そして、次なる破壊が齎された。


 何か、硬い物同士が激しく衝突し、摩滅し、擂り潰される様な異音。それは、男の顔面内部から発せられ、あらゆる
顔面骨を駆け巡り共鳴すると幾十倍にも増幅され、大脳に冷たく非情なる現実を認識させた。
 それは、少女の左アッパーカットだった。ダッキングの要領で男に密着しつつ屈み込んだ少女は、そのまま、これから
己が貪るのであろう破壊の有様に想いを馳せた。それだけで、少女の欲望、どす黒い破壊衝動は幾十倍にも膨れ上がり
全身の筋肉が細胞の一つも残さず嗜虐の歓びに赤熱し、爆発していくのだ。後は、それを叩き付けるだけで良かった。
 その瞬間、既に腐敗を始めていた男の顔面は踏み付けられた空き缶の如く上下に押し潰され、蛇腹状に圧縮された
その肉質のあらゆる隙間からは、鮮血と死臭を放つ体液とがグチャグチャに混じり合った呪液が噴射された。



光の食卓(19) 涙


 そして、少女の左拳が鮮血滴る天井へ流麗なる軌跡を描き気高く聳え立つと、男は哀れなる一本の赤い棒切れと化し
垂直に発射された。だが、破壊はこれに留まらなかった。顔面の全細胞から毒液を噴霧しつつ舞い上がった男の脳裡を
再び、あの恐ろしき異音が埋め尽くしたのだ。それは、人界のどの様な強靭なるボクサーにも真似する事すら許されぬ
有史以前から永劫の研鑽を経て神の領域に達した左右のアッパーカットによるコンビネーションであった。
 そのおぞましき破壊音は、もはやどう表現すれば良いのだろうか。内部に無数の死肉を詰め込んだ巨大な壷に鉄槌を
打ち下ろし、砕き、掻き回すかの様な、それでも足りない悪魔の交響曲と言うしか無かった。最初の一撃から既に17発
男の両足は、一度もリングに帰還してはいなかった。少女から迸った美しきアッパーカットは、男を、一個の人間を
血肉の通った玩具、お手玉に変えてしまっていたのだ。男の顔面は、少女ですら久しく見ぬ惨状を呈していった。
 打撃音は、その圧倒的なる音量を更に亢進させていたが、それが爆裂する間隔は徐々に開いていった。嗚呼、ここに
来てもなお、少女の両拳はその勢いを止めぬどころか、虐殺、撲殺、惨殺の悦びにうち震えその狂威を増していたのだ。
男の顔面は一撃ごとにより高く舞い上がり、より凄惨に体液を噴射し、そして、潰され、潰しに潰され、潰し尽くされて
ついにはもうそれ以上潰れなくなった。それを見届けた少女は連打を止めると、右拳を顎に宛てがったまま語りかけた。


「お兄様、随分男前が上がりましたね・・・?くふふ・・・!あのお爺様にも、お兄様の晴れ姿、見せてあげたかった
ですね・・・!!それでは、私の大切な、最高の玩具のお兄様には特別に、私自信の事を語って差し上げましょう・・・」
 少女の右拳に力が込められると、そのナックルパートは黒く死滅した男の顔面肉を半分に拉げさせるまでにめり込み
死臭を放つドロドロとした赤黒い絞り汁を男の瞼からブクブクと毀れ出させた。血を吸い尽くした紅い12ozの前に男は
一刹那ごとに死に、次の刹那、薬により蘇生する事を繰り返していた。男から迸った粉々の微粒子となった下顎骨と
肉、血と脂、死と生の混じった噎せ返る様な汚濁をその身に浴びながら、少女は一人語りを続けた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(20) 存在の闇


「まず何故、私達が誕まれたのか。それからお話し致しましょう。・・・遥かなる悠久の昔、無からこの星を創り上げた
『お母様』は、地上に数多の生命を齎し、その繁栄を見守り、楽しき微睡みの時を過ごしていらっしゃいました。
どこまでも拡がる蒼く澄み切った海、地上一面を覆い尽くす色とりどりの草木・・・全ての生ある者は創り手である
『お母様』への感謝を一度たりとも忘れる事無く、この星を慈しみ、共存共栄してきたのです。しかし・・・」
 語気に合わせて更に張り詰める少女の右拳。赤黒い汚濁は、男の耳孔からもゴボゴボと溢れ出した。


「・・・生を受けた大恩をも忘れ、この星を愛するどころか、我が物にしようとする邪悪な生命が現れたのです。それが
お兄様方、人間です。人間どもは、お母様が46億年もの永い間見守り、幾多の奇蹟の上にバランスを保ってきたこの
星をたかが3万年程の間に滅茶苦茶に破壊し、己が都合の良い様に醜く造り変えてしまいました。お母様は嘆き、悲しみ
大粒の涙を流しました。その涙が結晶し誕まれたのが、私達『護り手』です。私達にとってはお母様の意思を
実行する事が最大の悦びであり、その悦び、欲望を貪る為だけに、私は存在しているのです・・・!」


 少女の右拳が離されると男の顔面は自由落下を始め、破裂音と共にその落下は止まった。少女の左ジャブが男の左頬を
捉え、硬く、厚いコーナーポスト上段へ固定したのだ。男は少女の言葉に、錆び付いた蝶番が軋むが如き異音をもって
応えた。それは、余りの拳圧に男の頬骨が変形し、無数の亀裂が擦れ合う魂の呻きであった。
 そして、その姿勢のまま、少女の右のグローブが引き絞られていく。男の鮮血を浴び朱に染め上げられていた少女の
頬には幾つもの純白のラインが刻み込まれ、震える右の12ozの内側からは鮮やかな真紅のラインが幾条にも奔った。
少女の魂をここまで震わせるものは、母なる創造主より授けられた残虐にして純粋なる欲望、ただ、それだけであった。


「お母様は、今日も涙を流していらっしゃいます・・・。お兄様には、その罪を贖う責務があるのです。さあ、今こそ
贖罪の時です・・・!!その血を・・・!!その骨を・・・!!お兄様の全てを私とお母様に捧げるのです・・・!!!!」



光の食卓(20) 存在の闇


 男の魂の慟哭を遮るように、爆砕音とも潰滅音ともつかぬ、鼓膜を破らんばかりの轟音が冷たい地下空間を犯した。
 その一撃は、まさに少女の内奥に渦巻くあらゆる思念を具現化したかの様な、人智を超えた凄絶さと人ならぬ
純粋さとを兼ね備えた、右のフックであった。
 止め処無き悲しみは、その小さな拳を血が滴る程に強く、硬く握り締めさせた。悲しみは尽きせぬ怒りを呼び起こし
右拳へ注ぎ込まれた怒りは、その質量を無尽蔵に増加させた。そして、全ての思念はどす黒い殺戮の欲望へと昇華され
無限に増殖する破壊衝動は、死すら弄ぶ狂気の弾丸たる12ozの速度を亜音速へ向けて亢進させていった。


 全ては、一瞬の内の出来事だった。
 既に人類の視覚を超越し、現世の理すらあざ哂う神速をもって男の左頬へ着弾した右の12ozは、その瞬間左頬の
ありとあらゆる骨を叩き割り、血肉と混じり合わせしめた。しかし、少女から迸った莫大なる欲望は、その拳が男の頬を
無慚にも陥没させ衝撃が全身の筋肉を戦慄させるだけでは、当然、到底、満足される事は無かった。


 何という事か、男の顔面左側面を砕き尽くした少女の右拳は、人界の物理法則すら叩き潰し、更に猛進を続けたのだ。
少女の右のナックルパートはまず男の顔面肉と骨と血を瞬時に硬く厚いコーナーポストへと叩き付けた。そして、圧縮が
始まる。コーナーポストと12ozの狭間で限界まで押し潰され、痙攣し、汚濁の泡を噴き出す男の顔面。しかし、欲望は
少女に人体の圧縮限界を、忘れさせてしまった。そしてついに、神なる破壊は人間を超越した。
 少女の右フックは無慈悲なる弾丸、いや削肉機と化し男の顔肉を、骨を粉々に擂り潰し血と混じり合わせつつ
メヂメヂという怪音と共に邁進を続けた。もはや、頬も、鼻も、口も、なかった。男の全ての顔面肉、皮膚、骨の残骸が
右頬へと集められ、そこでどす黒い塊になっているのみだった。だが、それでも、少女の拳が止まる事は、無かった。



光の食卓(20) 存在の闇


 男の顔面を陵辱し、弄び、あろうことか抉り進み続けた少女の右フックは、ついに男の右頬骨を「直接」撃ち砕くに
至った。恐るべき事に少女の右拳の速度、圧力は、おぞましき顔面掘削の地獄絵図を経ても、少しもその暴威を失う事が
無いばかりか、飛び散る血肉を糧に更にその暴威を増していた。右の頬骨もまた微粒子へと還り、血肉と混じり合った。
 そして、未曾有の轟音が、超越者の一撃を締め括った。男の、弱き人間の顔面を潰滅するには、少女から迸った破壊の
エネルギーは明らかに過剰であった。その衝撃は男の顔面を貫通すると、打たれ、弄ばれ、潰され、抉られた死肉を通して
直接ニュートラルコーナーを暴打し、内部の支柱へ注ぎ込まれたやり場の無い激昂はそれすら破壊した。コーナーポストは
鋭角な「くの字」に悶絶し、リング全体が激震と共に傾斜し、ロープは力なく弛緩したり、ブッツリと千切れたりした。


 漸く少女の拳がその前進を止めると、すぐさま、男の狂乱が始まった。コーナーポストであった金属塊と12ozとの
狭間から、どす黒い半液体の何かが扇状に噴射されていく。それは、男の体細胞、存在そのものであった。砕き尽くされた
男の肉と骨の微粒子が、溢れる鮮血と共に圧縮され、既に顔面と呼ぶのも憚られるその塊の表面から舞い散っていくのだ。
少女は右拳を男の左側面に強く押し付けたまま、腐臭を放つ屍の散華を浴びるに任せた。


――・・・し・・・・て・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こ・・・・・ろ・・・・・・・・・・て・・・・
 男から既に一切の言語能力は失われていたが、その魂の呻きは、少女の右拳から伝わった。その慟哭を聞くや否や
少女はコーナーから男を引っ剥がし、その血まみれの瞼を引き破り無理矢理こじ開けた。己の顔を叩き付ける腐臭の
飛沫にも瞬き一つせず、少女の狂気に満ち満ちた視線は男の両眼球へと突き刺さり、この上無く無慚にも死滅し切った
顔面へ注がれた。生と死の狭間、正気と狂気の臨界で、男の脳は少女の呪詛を聞くしか無かった。



光の食卓(20) 存在の闇


「弱い・・・!!!弱いっ・・・!!!何故!!!!何故お兄様は、人間はそんなにも弱く、壊れるのです・・・!!!!!
何故っ・・・!!お母様はこの様な生物をこの星に誕まれさせたのです・・・!!!」


 少女は、男の上瞼と眼球の僅かの隙間に両親指を差し入れたままリング中央へと振り返ると、憤怒に震える両指へ
その狂気の全てを込め、引き上げた。薄肉片が飛び散ると共に、男から、また一つの自由が奪われた。これから
繰り広げられる、少女が男へと行う行為の結果の全てを、男はその眼球に永久に焼き付ける大命を負わされたのだ。
 男の剥き出しの眼球が最初に捉えたものは、己の鳩尾に深々と食い込む少女の右腕だった。拳は、己の腹に深々と埋まり
もはや見えなかった。その瞬間、男の宇宙は停止し、思考は凍結し、自内では恐るべき狂奔が始まった。胃袋内の空気
未消化物、その他のありとあらゆる物質は、少女の拳に込められた禍々しき狂気と共に頭部へ逆流し、顔面肉の幾千万の
亀裂から暗黒の泡沫となり、あるいは汚泥、屍毒の濃霧となり扇状に爆裂飛散し蒸発した。


「何故っ!!!何故っ!!!!何故っ!!!!!!」
 少女は、泣いていた。そして、狂乱していた。拳が止まらない。神なる暴虐の力は、もはや制御出来なくなっていた。


 少女専用の腐肉の詰まったサンドバッグとして選び抜かれた男。だが、人の子たる男にその宿命は、余りにも重すぎた。
 少女は85年前も、212年前も、301年前も――生を享けてから数万年もの間、ずっとそうしてきた様に、今まさに己の
欲望を満たす為の玩具を、己の狂気により破壊しようとしていた。少女は欝積した己の欲望を満たす為、男に永遠の命を
数十年もの間蓄え続けてきたその全てを与えた。しかし、人ならぬ無限の生命を享ける「器」たる男の肉体は、それに比べ
余りにも弱く、脆く、儚かった。男には、85年もの間欝積し続けた少女の欲望を叶える事など、出来はしなかったのだ。
 求めれば求める程に、離れていく。永遠とも思える年月を経て、なお満足されぬ少女の欲望。何故、母なる創り手は
彼女を創造してしまったのか。何故、彼女に永遠に満たされる事の無い欲望と、永遠の命を与えてしまったのか。
 咆哮と共に最後の箍が外れ、哀しき狂乱の拳は、神速をも超越した。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(21) 収束する輪廻


――――――憎い――――――


 憎悪。この世界への、全ての生きとし生ける者への、人間への、そして己の存在への果てし無き、憎しみ。それだけが
今の少女の全存在を支えている物だった。そして、数十年の刻を越え呼び覚まされ、自内より止め処無く湧き上がる狂気は
少女の60兆の細胞に神なる力を、素体の限界を遥かに超えた力を、与えてしまった。


 それが何の音なのか。それは男にも、そして拳を振るった少女にすらも、解らなかった。折り重なった二つの衝撃音が
互いに反響し、輻輳し、幾百倍にも増幅され爆裂した未曾有の狂音波が、二人を襲った。全てのリミッターが外された
少女の左拳は、ついに、越えてはならぬ一線を、越えてしまった。それは、拳が音速を越える爆発音だったのだ。


 男には、己の聴覚が抹殺される爆裂音すら「聞こえなかった」。少女から繰り出された超音速の左フックは
ボディアッパーにより突き出された男の右頬の腐肉の裂け目に着弾すると、第二の衝撃波を解放したのだ。
 それは、かつてこの星に生を享け、死んでいった全ての人間が体験し得なかった、未知にして神秘なる破壊だった。
体内に送り込まれた衝撃波は、男のあらゆる体液と共鳴しそれらを急激に振動させ、瞬く間に気化させた。その瞬間
男の顔面は紅い濃霧に包まれ、全身の毛細血管が破裂し、鼓膜は破壊され聴覚は永久に失われたのだ。
 紅の微粒子の内部では、更に無慈悲なる破壊が進行していた。全ての筋肉が寸断され、自重で醜く垂れ下がるのみと
なっていた黒くただれた男の顔面肉には、もはや少女の狂拳の暴威を吸収する権能すらも残ってはいなかった。少女の
左の12ozは親指の部分が完全に隠れる程に男の顔面へ、生命の内奥へと埋め込まれた。少女から迸った幾百ものパンチが
男の顔面を弾き飛ばし、あるいは鼻血を飛沫かせ、屈辱と激痛とある種の昂奮を齎し、原形を止めない程に陵辱する度に
男の頚椎はその衝撃を甘受し吸収し続け、人間サンドバッグとしての責務を果たしてきた。
 ついに、その重責から男が解放される時が、やってきたのだ。少女の左拳は、男の頚椎を直接撃ちのめし、叩き割った。



光の食卓(21) 収束する輪廻


 頚椎の呪縛から解放され、異音を発しつつ亜音速で発射されゆく男の顔面。死を越え、少女の玩具としての境涯をも越え
永遠の安息が、ついに男に訪れようとしていた。しかし、暴虐は、終わらなかった。
 左拳を振り抜いたその瞬間、少女の全身を「何か」が奔ったのだ。そして、それから先は、もう何も、解らなくなった。


 男の左顔面肉に、少女の右の12ozが着弾した。同時に、冷たい地上の地獄を映し出していた大鏡が爆破されたかの如く
粉々の破片と化し、エプロンサイドに降り注いだ。少女の右フックの狂速は、先の暴打の比では無かったのだ。左フックに
より頚椎を粉砕された男は、その瞬間に少女の欲望を叶える能力を完全に失った。では一体何が、少女の右拳を男の
顔面へと音速をゆうに超える狂速をもって、誘わせたのか。それこそが、狂気なのであった。少女ですら制御出来ぬ
認識する事すら出来ぬ「何か」――もはや、ここから先は、神すらそれを忌避せざるを得ない領域であった。


 男の全身の血肉は衝撃波により再び沸騰した。異様なる体温の上昇に伴う全身の内圧の高まりはあらゆる臓物を破裂させ
全身の毛を一本残らず吹き矢の如く飛び散らせると、力無く開いた毛穴という毛穴から男の肉体を構成する内容物を
黒煙へと化し蒸散させた。立ち上った濃密なる不死の煙は血塗れの蛍光灯の弱弱しき朱光を遮り、地下空間に黄昏が訪れた。
 少女の右のナックルパートは、インパクトの瞬間男の顔面へと、これまでのどの様なパンチよりも深く、鋭く、哀しき
までに抉り込まれ、その全てのエネルギーを解放した。狂気により無限の質量を得た冷たく硬い12ozが、音速すら超えて
無限に亢進した狂速をもって空間を斬り進み、亜音速で迫り来る男の顔面にカウンターで着弾する衝撃――男の全身が
リングから飛翔し、空間を乱舞するその様子は、宙を舞う鼠花火の様な滑稽ささえ、感じさせた。ただし、飛び散る物は
美しい火花ではなく、腐臭を放つ血肉と体液の混合物、即ち男の肉体そのものであった。



光の食卓(21) 収束する輪廻


 超音速の右拳、少女の凄絶なる狂気を直接、その顔面に浴びた男は、無慚にも歪んだリングへと叩き付けられた。
しかし、男の様子がおかしい。血肉の濃霧から垣間見えるその内部には、既に現世ならざる惨景が拡がっていたのだ。
 男は、うつ伏せに倒れていた。しかしその顔面は、一体、どの方向を視ているのかさえ判別し難かったが、確かに
真上へ、リングへ向けてでは無く、中空へ向けて、汚濁の微粒子を噴霧していた。つまり、男の頸は、頚椎が砕け散った
事により、捩くれてしまっていたのだ。それも、180度ではない。狂気、殺意をも超えた少女の暴虐の全てを吸収するには
頚椎を失った男の頸の筋肉は余りにも、弱すぎた。男の頸は900度捩れ、己の頭蓋を支える大命から解放されたのだ。


 男は、生きても、死んでも、いなかった。もはや、生と死という概念を男に当て嵌める事すら、少女から迸った狂気は
許そうとしない様だった。常人ならば数千、いや、数万人分もの死の苦しみを嘗める男。しかし、死は決して
かの男の頭上に落ちては来ない。全ての体毛が抜け落ち、全ての皮膚が張り裂け鮮血が噴き出し、全ての臓腑が沸騰し
破裂してもなお、少女から与えられた無限の生命はその大脳を研ぎ澄まし、己の苦しみを永遠に認識させ続けるのだ。
 だが、男の肉体にはもはや、その苦しみを、脳にマグマを流し込まれるかの様な絶滅的激痛を少女に伝える術も無い。


 一方、少女は、男の上に居た。何故、そこに居たのかさえ、わからなかった。少女の内奥から、もはや一切の感情は
消え失せていた。重力が逆転したかの如く天井へ向け豪雨と化し噴き上がり降り注ぐ男のどす黒い存在液が、少女を
塗り潰していく。きめ細やかなる白い肌が腐汁に汚される毎に、少女の中の「何か」はその透明さを研ぎ澄ましていった。


 いつしか、少女はマウント・ポジションの状態から膝立ちになり男の両腕を押え付けていた。右拳は、高々と掲げられ
異形と化したその顔面肉の中心へと照準を合わせていた。



光の食卓(21) 収束する輪廻


 振り上げられた右の12ozは、振り下ろされた。
 それは、男の顔面へと瞬間移動し、めり込んだ。逃げ場の無い衝撃に、男の全身は波打ち、あらゆる皮膚表面から迸った
血肉の煙がふたりを再び覆い隠した。しかし、それだけでは、なかった。男の顔面から、血飛沫や煙とは違う、より粒子の
粗い、黒く、確かに重い何かが、飛び散り始めた。それは、男の顔面の肉片だった。
 

 その瞬間、少女の右拳は一発の銃弾、決して還らぬ凶弾と化し、目標を撃ち抜いた。
 音速をも嘲笑うかの如き初速で撃ち出された12ozは、まず人間の可動限界を遥かに超過した肩の捻りを受け、恐るべき
狂威で回転を始めた。そして、その狂気は己の腕、肘、手首を伝わる毎に指数関数的に激増され、拳は空間を食らい尽くし
消し去った。少女にとって最初で最後、この素体で一度しか撃てぬ、禁断のコークスクリュー・ブローであった。
 己の右腕が破壊される音すら、少女には聞こえていなかった。まさにそれは、狂気そのものであった。


 壮絶なる撃滅音が鳴り響くと、冷たく暗い地下リングには大輪の薔薇が咲き乱れていた。それは、幻想的な光景であった。
噎せ返るような死臭を放つその幾多の花弁は、全て男の顔面肉が飛び散ったものである。男の視界には、己の顔面肉が
まるで漆黒の雪華の如くハラハラと舞い落ちる様が焼き付けられた。その一生の殆どを少女の欲望の為に打ち砕かれ
屈辱と激痛の無間地獄を彷徨った男。しかし、地獄の底で男は他のどの様な人間にも決して真似の出来ぬ芸術作品を
完成させたのである。それは、美しく、雄大で、繊細で、そして儚い、人間の尊厳の結晶であった。
 咲き誇る薔薇の下で、男は意識が遠のいていく感覚を味わっていた。どうやら、死はすぐそこまで来ていたようだ。
男の見開かれた目からは、大粒の涙が伝った。そして、意識の最後の糸が切れ、男は無限の暗黒へと還っていった。



光の食卓(21) 収束する輪廻


 大気中に漂う赤黒く濃密な瘴気、螺旋状に陥没したクレーターにしたためられた血の池、天から降り注ぐ紅い雨・・・
そして、目の前に転がっている首の無い死体。男は、ついに人間界に暇を告げ、冥界に降り立った。そう、思っていた。
 正確に言うと、その死体は頸が2回転半程捩くれ果て、全身の皮膚は剥げ血まみれになっており、顔面は惨たらしくも
下顎ほどの高さでブッツリと千切れてしまっていた。その壮絶な死に様からは、この男は何か得体の知れぬ恐ろしい怪物に
頸を捻り殺され、全身の皮膚を剥がされた挙句に頭を食い千切られてしまったとしか、男には思えなかった。
 しかし、この死体、男には確かに見た覚えがあった。何処で見たのか、いつ見たのか・・・こいつは、誰なのか・・・?
男の記憶が己の視覚とリンクしたその瞬間――男は、現世に戻された。


――うおおおおおおおおおおおおわあああああああああっ!!!!!!!!!!!!!!!
 男は、泣き叫ぶ事も、目の前の光景から目を逸らす事も出来なかった。男が視ていた物、それは、少女の最後のパンチに
より切断され、打ち捨てられた己の残骸に他ならなかったのだ。絶叫し、喚こうにも口が無く、目を閉じようにも瞼が無い。
――おっ、おおっ・・・!!!!俺っ・・・!!!!これが・・・俺・・・!!!?
 死体の切り口は、その牛肉の様なビロビロを男に見せ付けつつも、未だにブジュブジュと蠢いていた。男は暴打の衝撃で
鞠の様に「跳ね」、「転がり」、そして「設置」されていた。その有様が、出来るだけ、よく見えるように。
 男の無間地獄は、ここから始まるのだ。己の肉体が朽ち果てて行く様を永遠に見守り続ける・・・。これこそが
狂気の少女から与えられた最大の報い、永遠の命の代償であった。男は、身動きする事も、発狂する事も、自ら命を絶つ
事も出来ず、己の肉体が腐っていく様を見つめ続けた。もはや、涙すらも枯れ果て、男は心中から願った。


――助けてぇっ!!!助けてくれぇぇぇ・・・!!!光ぃぃぃ・・・!!!これは、夢・・・!!!!
  全部、夢なんだあああああぁっ・・・!!!なあ、光ぃっ、そうだと言ってくれよぉぉぉぉっ!!!!



光の食卓(21) 収束する輪廻


「・・・お兄様!・・・お兄様っ!・・・」
「う、うぅ・・・ん・・・?・・・うわあああああっ!!!!!!・・・ぐぁっ!」
 眼前の少女の姿態を認めるや男の全身は後退りし、後頭部をベッドの角に強打した。その鈍痛に、意識が鮮明になる。
「ひどい汗・・・!何か、恐ろしい夢でも見ていらしたのですね・・・?今、慰めて差し上げましょうね・・・」
 

 綺麗に切り揃えられた睫毛の奥から、男を心配そうに見つめる優しい眼差し。開け放たれた窓から吹き込む熱風に
煽られ、甘く芳しい香りを漂わせる流麗な黒髪。柔らかく、ほの暖かい唇から男の口蓋内に滑り込んでいく唾液の甘さ。
 紛れも無く、今、男に重ねられている肢体は、己が愛する妹、光のそれであった。全ては、男の見た悪夢だったのだ。
男の強張った表情に、安堵の色が浮かぶ。正午を丁度過ぎた位であったが、温度計の示度は45度に迫ろうとしていた。
男はエアコンを入れる事も忘れ、灼熱の中、己の妹を求めた。妹もまた、兄を求めた。


 ふたりの結合が解かれると、少女はゆっくりと立ち上がり、窓を閉めエアコンのスイッチを入れた。一瞬にして気温は
設定温度まで下がり、男は全身と魂が凍て付く様な錯覚に襲われた。だが、それは、錯覚などでは無かったのだ。
「お兄様、そろそろ『お食事』に致しましょう。用意を致しますので・・・少し、お待ち下さいね・・・!」
 甘やかな残響と共に、少女は下階へと消えた。しかし、戻って来た少女の両手に携えられていた物は、料理では無かった。
 それは、紅く、冷たく、硬い――


「お母様は、これが恐らく・・・最後だと仰いました。もうすぐ、私はこの星にとって、必要ではなくなるのでしょう・・・
さあ、お兄様、遊びましょう・・・!!今度こそ、私の望みの全て、叶えて下さいますよね・・・!!!」


 付けっ放しとなっていたコンピュータのディスプレイだけが、ふたりの狂態を映し続けた。その時計の日付は――
 [2207年7月24日]