投稿SS5・禁じられた遊び(前編)

禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


 そこは何の変哲もない、都内某所にあるごく普通のアパート最上階の一室であった。つい、先刻までは。


 床を蹴るシャープな擦過音。肉を叩く様なリズミカルな炸裂音。それに合わせて搾り出されて行く、獣の咆哮の
様な一種異様の呻き。そして、何か機械が作動しているような異音。薄く開けられた窓の隙間から外界に漏れ出ずる
その調べは、まさにその内部が現世にあって現世ならぬ、倒錯の館と化していた事を示していた。


 館の内部では、対照的な二人の人物が相対していた。
 一人は、細身ではあるが鍛え抜かれた肉体を備えた青年。齢は、20代半ば程であろうか。銀色の生地に
金糸で「不死鳥」の刺繍が入った派手なトランクスとマウスピースの他には、何も身に付けていない。男はもう一人の
人物の前に跪き、腕を後ろに組みつつ顔を突き出し、何かを待っている様子だった。既にその顔面はほの赤く
上気しており、呼吸は荒く、亢奮に心臓が早鐘を打っているのがわかる。


「マスターは本当に変態さんだね・・・。人形にこんなことをされて、そんな顔をしちゃうなんて・・・」
 男の汗の匂いに閉ざされた空間に、甘く謡う様な美声が響き渡った。
 声の主は、幼稚園児にも満たない程の背丈の、童話から飛び出した妖精、いや、妖精を思わせる美少女だった。
鮮やかなブルーの半ズボンから伸びるしなやかで白い脚、清潔さを感じさせる袖口の広がった純白のブラウス
ズボンとお揃いの可愛らしい蒼のケープ、瀟洒なシルクハットから覗く明るいブラウンのショートヘア・・・
 少女の小さな全身から発散されるボーイッシュで瑞々しい愛らしさは、あらゆる人間の心を容易く狂わせる凶器と
言っても過言では無い程の魔力を湛えていた。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


 大粒のルビーとサファイアを思わせるオッドアイから放たれる、己を蔑むような冷酷極まる視線に、男は圧倒され
吸い込まれそうになっていた。何も、言葉が、出てこない。これから己に降りかかる恐ろしい運命を思うだけで
もはや、男の亢奮は最高潮へ向け亢進して行くのだ。


「うっ」
 男の左頬へ、冷たく硬い何かが、押し付けられた。それは、少女の右拳に装着された、光沢のある暗い蒼の
ボクシンググローブだった。少女は、引き続きサディスティックな視線を男へ向けつつ、右拳に力を入れ、更に抉った。
男の顔面が蛸の如く醜く歪むと、天使を思わせる美少女の口許は悪魔的に歪んだ。
「これで、どうして欲しいの・・・?くすくす・・・」
蒼星石っ・・・!ううっ・・・」


「どうして欲しいのかな・・・!?」
 蒼星石、と呼ばれた少女は、尚も圧迫を止めない。この瞬間、この男の自内の葛藤こそが、ふたりの「遊び」にとって
重要なものだったからだ。男の息遣い、心臓の鼓動、流れ落ちる汗・・・蒼星石は、男の半分程しかない身体を
逞しいその胸板に密着させると、男のあらゆる精神の動きを楽しみつつ、男の次の言葉を待った。
「それでっ・・・お前のパンチでっ・・・俺の顔を、思いっきりっ・・・!・・・殴って、くれっ・・・!!」
 まるで、臓腑を吐き出すかの様な男の言葉。蒼星石が右拳を解放すると、男の左頬にくっきりとグローブの痕跡が
刻まれた。ゆっくりとシルクハットを取り去り、跪く男の後方のベッドの上に投げる蒼星石
 

 トン、トン、トン・・・
 蒼く冷たい輝きを放つ両の3ozが顎の高さまで持ち上がると、やがて軽快なフットワークが開始された。
男は、己の言葉に深く、深く後悔した。しかし、それは心地良い後悔と言っても良かったのかも知れない。
「可愛いマスター・・・チャンピオンの癖に、こんな人形に殴られるのがそんなに恐いの・・・?」
 男からはもはや、何の反応もない。ただ、目を潤ませてそこに存在するだけの、彫像と化していたのだ。
 蒼星石は乾いた唇をその可憐な容姿に似つかわしくない妖艶さをもって嘗め回すと、男の顔面へとステップインした。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


「シッ」
 鋭い呼気音と共に、男の顔面が弾け飛んだ。ボクシングの教則に則った基本的なフォームであるが、それゆえに
洗練された美しき左ジャブである。小さな左拳は男の右上瞼を正確にヒットすると、初速と同等の速度で引き戻された。
そして、次の衝撃が全く同じ箇所に弾けたと思えば、右の硬く薄い3ozが男の鼻を正面から打ち抜き戻った。
男の鼻の左の穴から、どす黒い鮮血が垂れ落ちた。蒼星石は右拳に付着した鮮血を舐め取ると、男の様子を観察した。


「うっ、うぶぅっ!?・・・おぉっおぉ・・・」
 男は膝をついたその姿勢のまま、硬直していた。垂れ落ちる鼻血の味が、男の亢奮を更に高めていく。
「もっと?」
 蒼星石の簡潔な問いに、男はガクガクと頷いた。美しい蒼星石の口許が、更に醜く歪む。男は、そんな蒼星石の表情が
とても美しいと思い、更に顔を強張らせる。それにより、更に、更に、蒼星石の表情は醜さを増していくのだ。


「うぶっ!ぶっ・・・!ぶふっ・・・!んっ・・・!うっ・・・!・・・・・・!!」
 「遊び」は、続行された。男は膝をついたまま、蒼星石の双拳の前に晒され揺れるパンチングボールと化していた。
早くも、20発以上のパンチが、男の顔面のありとあらゆる部位へと吸収されていた。赤々と腫れた顔面の至る所には
玉の汗が浮かび、濡れそぼる皮膚と張り詰めた紺碧のグローブが接触するたび、淫靡なる水音が巻き起こった。


「シシィッ!シシィッ!・・・」 
 蒼星石は、攻撃の対象を2点に絞り始めた。即ち、左ジャブで右瞼、右ストレートで鼻を正確に撃ち抜くのだ。
それは、卓越したボクシングテクニックと人形ならではの拳の小ささ、その双方が備わって初めて実現できる
人の力の及ばぬ、まさに悪夢のコンビネーションと言えた。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


 やがて、蒼星石の思惑通り、飛び散る飛沫に紅が混じり始めた。男の右目の上は鋭利な刃物で抉ったかの様に
ざっくりと裂け、何度も何度も正面から強打された両の鼻腔からは夥しい量の鮮血が滝つ瀬と溢れ出した。
 男の全身の力が抜け落ちると、蒼星石は華麗にステップ・バックした。純白のブラウス、可愛らしいシューズ
のみならず、端整な顔にまで点々と返り血を浴びたその威容を、男は床に這い蹲りながら見上げる事になった。


「もっと・・・?」
 拳をだらりと下げ、蒼星石が訊く。男は完全に塞がれた右目の代わりに、左目でウインクを返した。続行の合図だ。
蒼星石の表情に、ごく微妙な変化が起こった。少女は、かぶりを振ってその恐ろしい表情を打ち消した。
――いけない、蒼星石・・・。僕は、マスターを・・・


「マスターは本当にいけない子だね・・・。そんな子にはお仕置きしなくちゃね・・・!くすくす・・・」
 蒼星石は、床面へ倒れ臥す男の髪を左拳で掴むと、無理矢理持ち上げた。フローリングの床面には、男の流した
鼻血により、小さな池が造られていた。そして、右拳を振りかぶり、弓を引くかの如く引き絞る。
「シッ」
 正面から鼻柱に激突した右ストレートの衝撃に、男の全身が「ビクリ」と痙攣し、止まりかけていた鮮血が再び
噴出し始めた。男からは既に腕一本を動かす能力も失われており、己の意思で上体を反らし、また顔を背けて
パンチから逃れる事も出来はしなかった。
 聡明な蒼星石は、己のパンチの質を再び変化させていた。無数のジャブ・ストレート。そのどれもが男の上体を
垂直以上に傾けない程度の威力に加減されていく。しかしそれは、「遊び」を更に残虐に演出する為の邪知といえた。


 もはや、蒼星石はパンチによって男の顔面を打ち滅ぼし、意識を奪う事はしなかった。むしろ、目的は真逆であった。
男の意識を明瞭に保ったまま、鮮血が飛び散って行く様を見せ付ける。それが、蒼星石の目的だったのだ。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


「くっ、ぶっ、・・・うぁっ、ふぅっ、・・・うっ、ぶうっ・・・」
 男の悲鳴は、いよいよか細くなってきた。非情の蒼拳は男の顔面を叩き続け、その度に男は目じりから、鼻から
夥しい量の鮮血を眼前の美少女へと降り注ぎ、そのブロウの技巧を称えた。男には、後方に仰け反りパンチから
逃れる事も、前方に沈みダウンする事も、左右に倒れこの絶望の檻から脱出する事も、どれも叶わなかった。
 気絶してしまえれば、どんなに楽だったか知れない。しかし、男の意識が遠のくと、即座に蒼星石は右ストレートで
無情にも男の鼻柱を打ち抜いた。一体、この清らかな人形の何処に、この様な悪魔的趣向が眠っているのだろうか。
しかし、それは男にもそのまま同じ事が言えたのだ。目を覆わんばかりの連打の凄惨さとは裏腹に、ふたりは
お互いの絆がより固く、より深く強まっていく事を感じていた。


「ぁ・・・うっ・・・!・・・・・・!・・・・・・」
――そろそろ・・・かな・・・
 空間を覆い尽くしていた陰惨なる破裂音の間隔は長くなっていき、最も長くなった次の瞬間、左のボディアッパーが
男の鳩尾に深々と突き刺さった。男の口から、すえたような悪臭を放つ液体が溢れ出すと共に、赤く染め上げられた
マウスピースがその姿を覗かせた。蒼星石はそれを確認すると、十分な溜めから、更に急激な捻りを加えたフック気味の
右アッパーカットをもって男の左顎を斜めに撃ち抜いた。
 インパクトの瞬間、まず男のマウスピースはシャンパンの栓を抜いた様な暴威をもって、夥しい量の唾液と胃液との
混合液と共に噴射され、その暴威はそのままに天井に激突し禍々しい血痕を残した。そして、蒼星石の10倍近い
ウェイトを持つ男の上半身は蒼星石の拳の軌道と平行に一直線に硬直すると、その一瞬後、左後方へ天変地異の如き
暴威で吹き飛ばされ、右側頭部から着地するとそのまま動かなくなった。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


「ふう・・・」
 眠るように横たわる男。蒼星石は、幾層にも男の鮮血が塗り重ねられ、暗い輝きを放つ3ozに舌を這わせた。
熱い唾液が鮮血を融かし、混合液が流れ込んでくる。蒼星石は男の鮮血が染み込んだグローブをひとしきり味わうと
丁寧に外し、部屋の片隅に設置された機材へと足を運んだ。清潔だった衣装は、元の色彩が解らなくなるほど返り血に
より塗り潰されてしまった。部屋の内部にはおぞましい血と汗の匂いだけが充満していた。


 三脚を登り、懸命に背伸びをしながら真新しいビデオカメラの角度を調整する蒼星石ファインダーの向こうには
うつ伏せに痙攣している男の姿が見える。蒼星石は恐る恐る三脚から飛び降りると、男の方へ足を進めた。
「クスッ。こんな人形にボクシングでKOされちゃうなんて、悔しくないの?『チャンピオンさん』」
 蒼星石は男の胴体を蹴り上げ乱暴に仰向けにすると、その顔を路傍の石の如く無造作に踏み躙った。


 レンズに飛び散っていた返り血を、背伸びしつつ布で丁寧にふき取ると、蒼星石は再び三脚に飛び乗った。そして
ファインダー越しに見える男の表情を楽しみつつ、と書かれたボタンに手をかける。
「ふふっ・・・!無様な顔・・・こういうことをされて、気持ちいいだなんて・・・クスッ。
本当にどうしようもない変態さんなんだね、マスターは・・・」


 ほんの数秒間だけ、意識を取り戻した男の顔には、恐怖、屈辱、安堵、羞恥、悦楽、その他ありとあらゆる表情が
浮かんでは消えた。しかし、最後の表情は、最愛のパートナーである蒼星石への、信頼感に満ち満ちた微笑みだった。
 再び眠りに就く男をファインダー越しに見やりながら、蒼星石も温かい微笑を大きなカメラの奥へと隠した。
 蒼星石は、小さな胸の中心にその小さな両手を重ね、瞳を閉じると、ふたりの過去へと想いを馳せていった。


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禁じられた遊び(2) 感謝 Dankbarkeit


 男と蒼星石が出逢ってから、今月で丸2年になる。
 男はプロテストを間近に控えたボクサーである。しかし、当然ながらアマチュアでは食ってはいけないので
日中は手先の器用さを活かしてアパレル会社の縫製作業員として働き、夕刻からジムへ通うという生活を送っていた。


 男には今から3年前、蒼星石と出逢う丁度1年前まで、将来を約束し合った許婚が居た。しかし、結婚を目前にして
不幸がふたりを襲った。最愛の恋人が、交通事故で亡くなってしまったのだ。余りにも、早すぎる死だった。
 全ての希望を失い、失意の内にボクシングの夢も忘れてしまった男は、酒に溺れ、路上での喧嘩に明け暮れた。
その様な狂乱退廃の日々の中、自宅に一本の電話が入った。受話器の向こうの相手は、こう言った。


「まきますか?まきませんか?」
 男は、ただの悪戯電話と思い、受話器を叩き付けようとした。しかし、その声色に、男は確かに、聞き覚えがあった。
「まさか・・・!る、瑠璃!?何で、お前がっ・・・!!」
「まきますか?まきませんか?」
 男は混乱した。相手の意図は読めなかったが、その声の懐かしい響きに、男は無意識の内に絶叫してしまっていた。
「ああ!まく!!まくよ!!!」


 翌日、一つの大きな鞄が自宅に届いていた。差出人は不明だった。
 逸る気持ちを抑え、鞄を開ける男。中に入っていた物は、恋人の幼少時代の姿に生き写しの、一体の人形だった。
男は、震える手で付属品の螺子を慎重に人形の背中の穴へと差し込むと、ゆっくりと、ゆっくりと、まいていった。
人形が喋る、動く事にもはや、男は何の違和感も恐怖も感じなかった。男は人形を持ち上げると、強く抱き締めた。


――この子と一生暮らしていこう!この子の為なら、俺は・・・何でも出来る!!
――俺は・・・蒼星石・・・お前を守る!!!
 男の人生の歯車が、再び噛み合い始めた瞬間だった。しかし、それは破滅への歯車だったのかもしれない。
 


禁じられた遊び(2) 感謝 Dankbarkeit


 それから、男は一度は忘れてしまった夢を再び追う為に、ボクシングジムへ通うことになった。


「うわぁ、痛そう・・・。マスターは好きなんだろうけど・・・ちょっと僕、これは見ていられないかな・・・」
「そうか?面白いと思うんだけどなあ。でもいやなら仕方ないな。今チャンネル変えてやるよ。ほら」
 蒼星石は己のマスターである男がボクシングをやっている事は勿論知っていたが、テレビのボクシング中継は
痛々しくて見ていられなかった。乱暴で、血生臭い、己とは縁遠い世界だと、思っていたのだ。


 しかし、男にはどうしても、どうしても蒼星石に見て貰いたい試合があった。それは、男自身のプロテストだ。
プロテスト実技試験の前日、男は、意を決して蒼星石に己の想いを吐露した。
「お前が来てくれれば、俺は絶対に負けない。俺とお前の未来の為に、蒼星石、お前の力を貸してくれ!頼む!!」
「マスター・・・!・・・絶対、絶対・・・!絶対に、負けないで下さいね・・・!」
 

 プロテスト当日、運命のゴングが鳴った。セコンド席では、親戚の娘と偽って入場していた蒼星石が会長の膝の上から
見守っていた。いつもは緊張の余り動きが硬くなってしまう男であったが、この日は違った。新たな人生の伴侶からの
熱い視線が、男の動きを妨げる緊張感という枷を焼き切り、男のボクシングは縦横無尽にリングをかき回したのだ。
 

 相手の左をスウェイバックでかわし、次の右をヘッドスリップですり抜けそのまま思い切りステップインする。
伸び上がる力を生かしての鳩尾への右ストレートが、最初のクリーンヒットだった。そして、顔面へのワンツー4連打。
漸く上がったガードを掻い潜る様に、ボディに右アッパーから左フックを決めた。それぞれ鳩尾とレバーを、的確に捉え
相手の運動機能を麻痺させる。苦し紛れの相手の右フックをダッキングして避けると、止めは、この日の為に
開発し、血の滲む様な練習の末完成させた、低い姿勢からの捻りを加えたフック気味の右アッパー、スマッシュが
相手のアゴを打ち抜いた。フォローの右ストレートは、レフェリーに制され空を切り、男の拳が掲げられた。



禁じられた遊び(2) 感謝 Dankbarkeit


「ついにやったな!!ははは・・・俺はお前が道端でゴロまいてた頃から、こいつはただ者じゃねぇと思ってたんだ!
お前のパンチがあれば、すぐにでも新人王になれるよ!世界だって夢じゃねぇ!俺の眼に狂いは無かったんだ!!」
 全くの無傷でテストを終えた男は、早速興奮したセコンド席の会長から、肩をバシバシと叩かれ手荒い祝福を受けた。
 蒼星石は、両目に涙を溜めて待っていた。男は、グローブも外さずその鍛え抜かれた胸板に、少女の頭をかき抱いた。
「あと・・・お嬢ちゃん!!お嬢ちゃんはまさに勝利の女神だな!!こいつの次の試合も、見てやってくれよ!!」


 過酷な減量を耐え抜き、目標を達成した男は会長やジムの先輩に飲み会に誘われたが、やんわりとこれを断った。
蒼星石との約束で、テストの後はすぐに家に帰る事にしていたのだ。
 男が家に帰ると、そこには「プロテスト合格おめでとう! 僕のマスターへ」という文字の書かれたチョコプレートが
中央に置かれた、形は少々傾いているが、苺とクリームたっぷりのケーキが用意されていた。
「うまくスポンジが膨らまなかったんだけどね・・・マスター、甘いものが大好きだからさ・・・」
 男は、蒼星石の華奢な身体を、壊れる程に抱き締めた。
「ありがとう・・・!!蒼星石・・・愛してるよ・・・!」
 蒼星石も、男の雄大な肉体を、持てる力の限り、抱き返した。
「マスター・・・!!僕も・・・愛しています・・・!」


 その後は、ケーキと蒼星石得意の手料理を楽しみつつ、ふたりは文字通り勝利の美酒に酔った。その中で
蒼星石が何気なく言ったひと言が、男の今後の命運を大きく左右する事になろうとは、誰が予想しえただろうか。
「マスターのボクシング、カッコ良かったなあ・・・僕も、ちょっとやってみたいけど・・・でも、無理だろうな。
だって、僕はドールだしね・・・あはは・・・」


 その後、男の帰りは一段と遅くなった。遅い時は、夜の11時過ぎに帰って来る事さえもあった。蒼星石は心配になり
何度か理由を尋ねた。しかし男は、新人王戦の練習が長引いていた、そう答えるばかりであった。
男の左手の指に絆創膏が増えてきたのが気になったが、蒼星石が男の言葉を疑う事は無かった。



禁じられた遊び(2) 感謝 Dankbarkeit


 それから1ヶ月余りの時間が過ぎた頃、男は、珍しく早く帰ってきた。
「あっ、おかえりなさいマスター。今日もおつかれさまです」
「ああ、ただいま。今日はな、お前に・・・俺からの・・・プレゼントがあるんだ」


 男が右手で差し出した小綺麗な瑠璃色の小箱に入っていた物。それは、一対のボクシンググローブであった。
「うわぁ・・・!まさか、これを僕のために・・・?」
「ああ・・・まあ、ちょっとな。せっかくだから、つけてみるか?本当はバンデージをまいてからなんだけどな」
 左右のグローブの手首部分の内側には、瑠璃色の糸で"Lapislazuli 3oz"という刺繍が見て取れた。3ozは、メーカーの
規格に存在しない。その表記は、これが蒼星石の拳のサイズに合わせて創られた世界で唯一の物である事を証明していた。


「おおっ、思ったより似合ってるぞ。なかなか勇ましくて・・・かっ、可愛いな・・・!」
 それは、スポーツ用品会社に特注したのではないかと思わせるほどに、蒼星石の拳にフィットした。
「ああ・・・まるで、お父様に創って貰った僕の体の一部みたいです。マスター・・・ありがとう・・・!!」
「あはは、大袈裟だな蒼星石は・・・。まあ、今は色々と物騒な時代だからな。俺が居る時なら勿論守ってやれるんだが
もし一人の時に、悪い奴がお前を攫おうとしたら、なんか身を守る手段が必要だろ?だから、これから俺がお前に
ボクシングを教えてやろうと思って、会社のパートのおばさんに作ってもらったんだよ」


 そう言って、左手の絆創膏を後ろに隠す男。男は、嘘をつくのが、下手だった。
 男は、希望を失っていた己に生きる目的を与えてくれた蒼星石に、何か恩返しがしたいと、いつも考えていた。
日々の生活で蒼星石の手に触れるうち、男の脳内にはどのような図面よりも正確に、蒼星石の両手の寸法が刻み込まれて
いたのだ。少女がグローブの握りを確かめる度に、グローブには無数のシワが顕れては消えた。
「くすっ、嘘つきなマスター・・・でも・・・大好きです」
 蒼星石もまた、己を永遠とも思われる静寂の暗黒から救い出してくれた男に、恩返しをしたいと思っていたのだ。
マスターの望みこそ、蒼星石の望みなのだ。ふたりは、無意識の内に、唇を重ね合っていた。


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禁じられた遊び(3) 畏怖 Ehrfurcht


 次の日から、男は今までとは打って変わって、早く帰ってくる様になった。新人王戦にはまだ間があったし、それに
男は蒼星石との新たな楽しみを見出したからだ。そう、美少女との甘いボクシング・レッスンである。
 男は、自室の電気炬燵をカーペットごと部屋の隅へ追いやり壁に立て掛けると、入念に、硬いフローリングの床に
何か異物が落ちていないかをチェックした。人間には大した事の無い凹凸やゴミなどでも、蒼星石の小さな身体には
重大な障害になりうるかもしれないのだ。こうして、ふたりのトレーニングの足場は万端に整えられた。


「よし、こんなもんでいいだろう。蒼星石、今日はお前に拳の握り方、基本的なスタンス、それから簡単な
フットワークを教えてやる。わかるまで何っっっ回、でも、教えてやるからな。・・・覚悟しとけよ?」
 男は最初は真剣に、最後の方は冗談めいた調子で蒼星石に語りかけた。その思いやりが、蒼星石の緊張を解きほぐす。
「は、はいっ。マスター、よろしくお願いします!」
 男は、蒼星石の拳にバンデージをまいてあげた。今日は、グローブを使う練習の日ではないのだ。


「まずは、拳の握り方だ。正しい握り方をマスターしないと、自分のパンチで拳を痛めちまうからな。まず俺が
お手本を見せてやるから、良く見とけよ。こうやって人差し指から順番に、しっかり握って・・・」
 蒼星石オッドアイは、これ以上無い真剣さをもって、男の右拳の動きを観察した。
蒼星石は熱心だな・・・。じゃあ、同じようにやってみな。基本中の基本なんだが、これって結構難しいんだぜ」


 握られていく、蒼星石の小さな両拳。男は白いバンデージ越しに握りを確かめると、思わず驚愕した。
――うっ・・・。かっ、硬い・・・!!俺の拳より、数段、硬い・・・!・・・まるで、石・・・いや、鉄だ・・・
 レッスンも忘れ、夢中で蒼星石の両拳を撫で、さすり、己の拳と合わせる男。
「マスター・・・マスター?どうですか、僕のナックル・・・ちゃんと、出来てます?」
「あ、ああ・・・結構いいんじゃないか?初めてにしちゃ、じょ、上出来だよ」
 ふと、男の脳裡をある妄想が駆け抜けた。男は、そのおぞましい雑念を振り払うように、レッスンを続けた。



禁じられた遊び(3) 畏怖 Ehrfurcht 


「次は、基本的なスタンス、構えを教えてやろう。さっきと同じように、俺の後に続いてやってごらん」
 澄み切った赤と緑のオッドアイに、拳を固め見えない対戦相手と対峙する男の全身が投影されていく。蒼星石
そんな男の雄姿を、純粋な憧れをもって見守った。その熱い視線は、男の自尊心を満足させるに十分過ぎるものだった。
 しかし、後に続いた蒼星石のスタンスは、男が未だかつて少女に対して抱いたことの無いある感情、それを
呼び起こすに十分だった。言葉で教えてもいないのに脇がしっかり締まっており、かといって硬くなっておらず
全く隙が無い。それはまるで、男自身を鏡に映し出したようだったが、美しさでは既に蒼星石が勝っていた。


 男は、我知らず、膝をついて蒼星石のファイティング・ポーズの前に己の顔を曝け出し、その峻厳なる威容を確認
していた。直後、腸が震えるような悪寒が襲うと、喉に込み上げる酸っぱい液体に男は激しく噎せ返っていた。
「だ、大丈夫ですか?マスター・・・」
「ゴホッ・・・う、ううっ・・・ああ、大した事ないよ。よし合格。じゃ、次のレッスンといくか・・・」


「・・・今日最後のレッスンは、脚捌き、フットワークだ。相手のパンチを華麗にかわし、鋭いステップから自分の
パンチを当てていく、ボクシングの華って奴だな。重要なところだから、出来るまで何回でもいくからな」
 蒼星石はシルクハットを外すと、ベッドの上に投げ上げた。揺れるブラウンの髪から、微かにいい匂いがした。
「ええ、マスター。わかっています。お手本、お願いします!」
 男は、己が持てる体術の限りを尽くした。ステップイン・ステップアウト・サイドステップ。更に斜め方向への
移動、フェイントも交えて男の全身の躍動は加速する。やがて男の顔面には珠の汗が浮かび、息遣いも獣の様に荒く
激しさを増した。何故、ここまでしなければならないのだろうか。男は、胸の奥の鈍痛を堪えつつ自問した。その
答えを導き出す事は即ち、男の自尊心がかの美少女の前に屈服する事に他ならなかった。男は、考える事をやめた。



禁じられた遊び(3) 畏怖 Ehrfurcht 


 しかし、それも永遠には続かなかった。増殖する男の血中乳酸は、ついに肉体の許容量を、超えてしまったのだ。
「ハァ、ハァ・・・!ちょっと、ハァ、ハァ・・・これはっ、難しいかもなっ・・・!じゃ、同じようにやってみな・・・」
 男は、膝から崩れ、蒼星石の前に丁度土下座する様な格好となった。蒼星石は、男の期待に応えたい、その一心で
フットワークを始めた。しかし皮肉にも、その想いは男の自尊心を今度こそ脅かす凶器と化してしまったのだ。
 

 男は、見とれた。蒼星石と同じ目線で体感する、流れるような体裁きの巧みさ、全身のバランスの優美さは
既に舞踏の如しだった。オッドアイが己の眼を真剣に見据え、流麗なファイティング・ポーズは保たれたまま美少女の
小さな拳が近くなる度、男の顔面は無数の眼に見えぬパンチの幻影により左へ右へと打ちのめされた。喩え、両手両足が
使えたとしても、その疾風の如きステップから繰り出されるパンチを全てかわせる自身は、男にはなかった。
 男は、己が少女に畏怖している事を、認めざるを得なかった。そして、蒼星石のボクシングセンスを素直に称え
賞賛した。しかし、自内に燻り始めたもうひとつのどす黒い感情には、男自身も気が付いていなかった。


「・・・よし、合格だ・・・!おいで、蒼星石・・・」
 男は、膝立ちの姿勢のまま蒼星石を招くと、ショートヘアを厚い胸板にかき抱き、撫でてあげた。
「ふあっ・・・!マ、マスター・・・」
 何と、柔らかいのだろう。何と、軽いのだろう。そして、何と、繊細で、か弱いのだろう・・・
 美少女の心地良い感触が男の指先に伝わるごとに、更に、男の心の内奥は無慙にも切り刻まれていくのだった。


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禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「ただいま」
「おかえりなさいマスター。今日も一日、おつかれさま。ご飯・・・もう出来てますよ」
 ごくごく普通の恋人同士のような、ありふれた毎日の会話。しかし、ふたりにとって、この日は特別だった。
今日は男のボクシング・レッスンの2日目。男が実際に蒼星石に、パンチの打ち方を教える日なのだ。


 食事を終えると、男は昨日と同じようにレッスンの舞台となる足場を丁寧に整えつつ、少女に訊いた。
蒼星石、今日のレッスンが何だったか・・・覚えてるよな?」
「ええ。たしか、左ジャブと・・・右ストレートでしたよね」
 その何気無い言霊が男の耳に吸い込まれた瞬間、男は全身の血流が一瞬逆転した様な、そんな錯覚に襲われた。


――蒼星石のパンチ・・・あの蒼星石の、パンチを、俺は・・・今から・・・受ける・・・
「・・・マスター、どうかしたんですか?何か、顔色も悪いみたいだし・・・」
 炬燵を持ち上げたまま硬直する男。それを心配そうに見つめる蒼星石。男は、妄念を打ち払うようにかぶりを振った。
――いかん、俺がしっかりしなくてどうする!今日は、蒼星石の為の日なんだからな・・・
「ああ、大丈夫、何とも無いさ・・・じゃ、早速準備を始めるとするか!!」
「はい、マスター、お願いします!!」


 蒼星石は、愛用の光沢ある黒のシルクハットを外すと、昨日と同じくベッドの上に投げ上げた。
 男は、蒼星石の白く繊細な手にバンデージをまいてあげると、その上に自ら特製の紺碧の3ozをはめてあげた。
「これでよし・・・と。じゃ、昨日の復習から始めるぞ。いいな?」
 蒼く輝くボクシンググローブに、その小さく硬い両拳を隠した少女は、まさに拳闘の妖精そのものであった。
 男の意識は、その宙を舞う様な華麗なるフットワーク、一分の隙も無く固められた優美なるスタンスが醸し出す魔力に
完膚無きまでに打ちのめされ、ついには膝を突き美少女の前にひれ伏さざるを得なかった。
 耳を澄ませば、甲高いゴングの音が聞こえる。嘲笑と共に一瞬にして間合いを詰め、男の顔面に肉薄する蒼星石
そして蒼星石の硬く、冷たい左拳が、一閃する。男は恥も外聞も無く、両腕で亀の様に己の顔面を守るしかなかった。



禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「マスター・・・どうでしたか?僕のフットワーク。上手く出来てました?・・・ねえ、マスターったら・・・」
 全ては、男の見た恐ろしき幻想であった。実際には、フットワークの型を一通り完了した蒼星石が、左手を伸ばし
男の肩を軽く叩いた。ただ、それだけの事に過ぎなかったのだ。男は、恐る恐る両腕のガードを広げる。そこには
やはり心配そうな美少女の顔が己を覗き込んでいた。男は、動揺を隠すように右手にミットをはめ、レッスンを続けた。


「・・・ああ、完璧だ・・・!じゃ、じゃあ、今日の内容に入ろうか。よし、蒼星石。まずは、何も考えず
好きなように俺の構えるミット目掛けて打ってみろ。まずは、グローブの重さと相手の体の感触に慣れるんだ」
 男は再び膝立ちになり、蒼星石が打ちやすいよう、少女の顔の高さに右のパンチングミットを構えた。
「よし・・・行きますよ・・・マスター、覚悟!・・・・・・キャッ!!」
 男が蒼星石のパンチに備え、ミットに全身の力を込めた直後、その向こうから不意に悲鳴が聞こえた。蒼星石の身に
何かが起こったのだ。男はミットを放り投げると、弾かれるように蒼星石の元へ駆け寄った。


「どうした!大丈夫かっ!!」
「あいたた・・・。ますたあ・・・お尻、打っちゃった・・・」
 蒼星石は、思い切り振り回した自分のパンチがミットに当たった反動で、転んでしまったのだ。顔を見合わせるふたり。
そして次の瞬間、ふたりの口から一斉に温かい笑いが爆発した。
「ぷっ!・・・あははっ・・・!!」
「ははは・・・!って、おい、自分のパンチでKOされてちゃ世話ねえぜ?ま、ミットを強く構えすぎた俺も悪かったけど。
今度は、良く狙ってゆっくり、一発一発確かめるように打ってみな。足下には十〜分に、気をつけて、な?」
「もうっ、意地悪なマスター・・・。でも、頑張ります!・・・えいっ!・・・やあっ!」
 男のミットから、気の抜けた音が不規則に連打されていく。懸命に蒼の3ozを振り回す蒼星石。スイングする毎に
足下はもつれ、グローブの重さに振り回されているのは明らかだった。しかし、その拙いながらも懸命な様子は
男の心から少女への畏怖の念を完全に取り除き、逆に安らぎを齎し自尊心を回復させていった。
 


禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「よし。そこまでだ。やっぱり蒼星石もお手本が無いと、やりづらいよな。どれ、俺が見せてやるとしようか」
「はいっ、マスター・・・お願いします!」
 ミットを外して立ち上がった男の眼は、既にボクサーのそれになっていた。男は、視線を前方の空間の一点に集中
させると、鋭い呼気音と共に左拳で虚空を切り裂いた。会心の一打だ。蒼星石の両の瞳は、その一部始終をあたかも
精巧なビデオカメラの如く映し出していた。男は、少女の熱く真剣な視線に、無上の得意と優越感を感じていた。
「さて、今度はお前が打つ番だな。落ち着いて、確実に当てていけよ。出来るまで何度でも付き合ってやるからな」
 男は膝立ちになり、姿勢を低くして右のミットを軽く構えた。少女はそれに頷くと、静かにスタンスをとった。


「シィッ」
 シューズが床を蹴る擦過音、鋭い呼気音に一瞬遅れて、衝撃音が男の鼓膜を伝わり脳を犯した。男は、その瞬間に何が
起こったのかすら、解らなかった。気が付くと、右手にはめられていた筈のミットは、男の斜め後方へと転がっていた。
「だっ、大丈夫ですか!?」
 目の前の美少女の上ずった声と、痛い程に痺れる右手の感覚に、男は初めて、蒼星石の左ジャブの技巧を思い知った。
「・・・あ、ああ・・・。なっ・・・何とも、ない・・・」
 うわ言じみた精一杯の強がりの言葉とは裏腹に、男の精神は烈しく掻き乱されていた。
 男は左ジャブの切れには、特段の自信があった。会長から、関東の新人では真似できるものは居ないと言われた
男の左ジャブ。高校の頃から、現在に至るまで、毎日200本の練習を欠かさなかった男の左ジャブ。何と言う残酷か
蒼星石は、男の自尊心の根源の一端を担うこのブロウを、見ただけで完全に会得してしまっていたのだ。


「はい、ミット。・・・マスター、今日はどこか、具合でも悪いんですか?」
 蒼星石は、自らの拳で撃ち抜き、弾き飛ばしたパンチング・ミットを両手で抱えると、愛する男の元へと差し出した。
少女の優しさ、温かい思いやり、気遣い、男の期待に応えたいという真摯な気持ち・・・その全てが、今まさに
男の精神に残虐極まる血塗られた刃を剥く、無慈悲なるナイフと化していた。



禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「今日は、もうやめ・・・ひゃっ!?」
 男は、差し出されたミットを黙殺すると、突然、弾かれた様に立ち上がった。その急激さに、思わず悲鳴を上げ
ミットを取り落とす蒼星石蒼星石の言い掛けた「もうやめよう」・・・これこそ、男が真に言いたかった言葉である。
しかし、男は己の最大の武器である右ストレートに、己の全自尊心、全存在意義を賭ける事を選択したのだ。


「次は・・・右ストレートだ。よく見てろよ・・・!!」
「マ、マスター・・・」
 男の胸の奥に、再びあるどす黒い感情が燃え上がっていた。男はその感情の昂ぶりに肉体を呼応させ、硬く握り締めた
右拳を何度も、何度も、空間に叩き付けた。その度に男の全身からは珠の汗が迸り、見上げる少女へと降り注いだ。
その鬼気迫る様に蒼星石は圧倒されつつも、男の流麗なフォームから目を離そうとはしなかった。
 男の心中からは、かつて少女に左ジャブを披露した時の様な優越感はとうに消え去っていた。真っ直ぐ、余りにも
純粋に己を見つめるオッドアイの輝きに、男は止め処無く続く連打の最中、臓物が震える程の畏怖と、気も狂わん
ばかりの嫉妬とを覚えた。それらの妄念を振り払うように、無呼吸連打は更に加速していった。
――俺の、俺の、右ストレート・・・!俺の、ボクシング・・・!・・・・・・俺の、命・・・!!
 

「ふぅっ・・・!ふぅ・・・!・・・ふぅっ、ふぅっ・・・!」
 男は、40発余りも全力で空間を叩きのめすと、そのまま膝を突き、やはり蒼星石の前に土下座をするような格好と
なった。額から汗が滴り、蒼星石の足下に透明な池が造られていく。肺を直接殴られる様な酸欠の痛みに耐えつつ
男は少女の足下にあったミットを掴むと、無造作に左手を突っ込み、己の顔の前に固く、強く構えた。


「はぁっ・・・はぁっ・・・!・・・やって・・・みろ・・・!!」
「・・・わかりました、マスター。僕の全力を・・・尽くします!」
 蒼星石は、蒼黒に輝くその3ozをゆっくりと掲げていく。その心中に去来する想いは、ただ一つだった。
――僕は、マスターの期待に、応えたい。



禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


 現実は、残酷であった。
 

 ミットの奥に垣間見える蒼星石の姿が遠くなり、再び近くなった直後、男の全身を轟音と共に衝撃が貫いていた。
少女の蒼く小さな右拳によって齎されたその未曾有の爆撃は、深く構えられていたパンチング・ミットの中央部
へと炸裂すると、これを左手もろとも弾き飛ばしそのまま男自身の顔面へと叩き付けた。そして、かの男が見せた
ものと全く同じリズムで、畳み掛けるかの如く少女の全身は躍動し、連打は開始された。


 男は、耳を劈く爆裂音の洪水の中で、己の賭けが散った事を、深く、深く、理解せざるを得なかった。男の最大の
得意技であり、これまでに数多の対戦相手の顔面を血に染め上げ、マットに沈めて来た右ストレート。
 しかし、左ジャブに続き、男のボクシング、いや、これまでの人生の勝利の象徴である右のストレートまでもが
ものの数分で目前の人形に極められ、奪われてしまった。
 今まさに、男のボクシング、全自尊心は少女の右拳の前に砕け散ったのだ。畏怖、嫉妬、憎悪、亢奮、屈辱・・・
男の内奥に渦巻くあらゆる極彩色の感情を巻き込みつつ、少女の連打は更に、残酷苛烈なまでに加速していく。


 男は、蒼星石の渾身の右ストレートを、既に20発近くも薄いミット越しに顔面に浴び続けていた。少女の硬い3ozが
男の脳を蝕むダメージは、もはや厚手のヘッドギア越しにクリーンヒットを受け続けるにも等しいものがあった。
 冷酷なまでに正確なリズムを刻み続ける少女の連打の最中で、男は床中に下半身がめり込んでいくような、あるいは
泥中を漂うような、一種異様の心地良い違和感に襲われた。それが、打ちのめされリングを這い蹲りテンカウントを聞く
敗者だけが味わう事の出来る酩酊感であるという冷たい事実を、男は身を焦がす甘酸っぱい劣等感と共に認識していた。
 やがて、男の左手の感覚は完全に麻痺し失われ、その両足は意思に反して細かく痙攣した。衝撃に時折白目を剥き
半開きの口から涎を垂れ流す男の見るに耐えぬ形相は、ミットに隠され蒼星石からは見えなかった。
 そして、男の肉体と精神に蓄積されたダメージは、ついに、限界を超えてしまった。

 

禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「・・・・・・も・・・う・・・・・・・・・やめ・・・よう・・・・・・」
 男は、生きたまま臓腑を抉り出される様な嫉妬と屈辱、そして惨めな敗北感に打ちひしがれると、消え入るような
声で目の前の人形、蒼星石に「レッスン」の終了を懇願し、ミットを床に置き、再び土下座の姿勢に戻った。
 しかし、けたたましく反響する打撃音は、男の言葉を完全に覆い隠してしまっていた。


「シッ!・・・シッ!・・・シッ!・・・シィッ!・・・シッ!・・・シッ!・・・シッ!・・・シィッ!・・・」
 一方、蒼星石は、哀しいまでに純粋だった。何も言わずに、ひたすら自分のパンチをその逞しい身体で受け止めて
くれる男。その男の期待に応える為、蒼星石はボクシングに己の感覚全てを没入させていた。
 今、男の構えるミットこそが蒼星石の全てであり、その他には何も見えなかったし、何も、聞こえはしなかったのだ。


 そして、その瞬間はついに、やって来た。


「ぶっ!!」
 ミットを叩く爆音とは明らかに異なる、肉を潰す生々しく湿った破裂音が響くと同時に、ふたりの時間は凍結した。
 蒼星石は、硬く握り締めた右の3ozを男の顔面にめり込ませたまま硬直し、男は、冷たく蒼いボクシンググローブの
ナックルパートを自らの鼻肉に埋め込んだまま、動きを止めていた。
 石の様な沈黙の最中、ふたりの間に、名状出来ぬおぞましき亢奮がスパークした。そして、時は動き出した。


「あっ・・・!!」
 弾かれるように蒼星石が右拳を戻すと、暗く輝く右の3ozの表面と男の鼻腔との間に、粘つく鮮血の糸が渡された。
「はあああぁっ・・・!・・・おうおぉおあぁああおおぉっ・・・」
 男の両の鼻の穴から溢れ出した鮮血は、ひと筋の奔流となって拉げた鼻の頭からフローリングの床へと
流れ落ちて行く。男は、ビチャビチャと垂れ落ちる己の鼻血の前に、うわ言めいた唸りを発するばかりだった。


「ああっ、マスター!・・・僕は・・・なんて事を・・・!!すっ、すぐに手当てをっ・・・!!」
 蒼星石は、己のパンチが齎した凄惨にして残酷なる「成果」に圧倒されていた。グローブを外すのも忘れ、薬の
置いてある台所へと走り出す蒼星石。男の目は、既にその後ろ姿を見ていなかった。



禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


 隣室から聞こえる、何かを探すような物音を聞きつつ、男は、蒼星石の鋭い右ストレートの味を、反芻していた。
 素人のパンチなら、たとえミット打ちの最中に顔面にグローブを向けられたとしても、完全に避ける自信はあった。
しかしそれが、出来なかった。なぜなら、速過ぎて、パンチが、見えなかったから。男は力無く笑った。
己の弱さに、己の半分しかない人形に圧倒され顔面を血に染められる己の余りの弱さに、男は己を嘲り笑ったのだ。
 未だに噴出を続ける鼻血が注ぎ込み、男の眼下の血溜まりはその版図をじわじわと広げていった。やがてその中に
熱く、透明な液体が一滴、また一滴と注ぎ、波紋が広がった。それは、男の目から溢れ出した涙だった。
 男は、ミットを外す事も忘れ、そのまま左手で目を激しく擦った。ミットの縫い目が目じりと擦れ、血が滲んだ。


 血相を変えてドアを蹴り開け、全速力で駆け寄って来た少女の目にも、涙が光っていた。
「マスター・・・!・・・ごめんなさい・・・!・・・ごめんなさい・・・!!」
 血まみれの顔面へ吐息が触れる程にその端整な顔を近づけ、今にも泣き崩れそうな、沈痛な面持ちで、男を見上げる
少女。涙の蒼星石もまた、美しかった。男は、その美しさへどう反応すれば良いのか、自分でも、解らなくなっていた。
「レッスン」の中で男を苦しめた、嫉妬や憎悪も、勿論あるにはあるのだった。しかし、蒼星石の拳の前に己の人生を
全否定された男の心中には、少女への、男自信ですら未だ認識できぬ、ある危険な感情が芽生えていたのだ。


 片や蒼星石は、丁寧に丸めたティッシュの束を男の鼻腔に詰める作業の中、男の目じりの傷の原因を、悟っていた。
そして、無意識下に己の拳が男の肉体と、精神に刻み込んでしまったダメージの重大さを思い知り、深く、後悔した。
しかし同時に、蒼星石の全身を、ある恐ろしい衝動が駆け抜けていた。蒼星石は精神の動揺を隠すように、己の両拳に
装着されたままだった妖しい輝きを放つ3ozを外すと、真っ赤に染め上げられたティッシュを交換する作業に戻った。


「・・・はい。終わりました。マスター・・・」
「ああ、うん・・・」
 ふたりの視線が一瞬だけ交錯すると、ふたりは一瞬だけ見つめ合い、そして、同時に目を逸らした。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


 ベッドの上に横たわる男と、床に置かれた鞄の中の蒼星石。その夜、ふたりは、未体験の昂奮に苛まれていた。


 蒼星石の鞄が静かになった事を確かめると、男は、恐る恐る、両鼻に詰められたティッシュの束を取り、口に
含んでみた。血の味が、した。そして、暴れる心臓を諫めつつ、ダストボックスを漁ってゆく。銀色の細長い円筒の
中からは、血にまみれたティッシュの塊が、十数個も出てきた。全て、男の流した鼻血を蒼星石が拭き取った物だ。
男は、我知らず紅い紙屑の山に顔を埋めていた。生臭い鉄の匂いが、蒼星石のパンチの感触を呼び起こす。
 下ろしたミットの向こう側から己を見据えるオッドアイ。刹那の内に視界に拡がる、蒼いボクシンググローブ。
冷たく、硬い感触。鼻の軟骨が移動し、潰れるおぞましき水音。顔の中心に生まれた熱源。激痛。そして、快感・・・
 男は、後方の鞄を見やると、音を立て蒼星石を起こす事の無きよう、細心の注意を払ってベッドに潜り込んだ。


 蒼星石の鞄が薄く開けられていた事に、男は気が付かなかった。薄い月明かりの中で、男の奇行の一部始終を
そのオッドアイは映し出していたのだ。蒼星石は、両手をその脚の間に挟み込み、細かく震えていた。両の拳の疼きを
抑えるのに、必死だったのだ。頭上から男の不規則な寝息が聞こえ始めると、蒼星石は静かに鞄を開けた。
 足音を鎮め向かった先には、一対のボクシンググローブがあった。蒼星石はそれを丁寧にはめると握り締め、己の
右拳を覆う3ozを、まじまじと見つめた。中指の第一球体関節がある部分の少し下に、男の鼻血が固まっていた。
 突然下ろされたミットの向こう側に見えた、哀れな程に弱弱しい男の表情。男の鼻目掛けて加速する己の右拳。
全身を襲う凄まじい反動。柔らかくて、とても硬い、男の軟骨の触感。噴き出す鮮血。全身を貫く優越感・・・
 蒼星石は、己の脳裡に投影されたおぞましい映像を掻き消すように、グローブを丁寧に仕舞うと、静かに鞄を閉じた。



禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


「ぐううっ・・・あっあああっ・・・・・・・・・ふううううっ・・・」
「マスター・・・マスター・・・マスター・・・!どうしたんですか?うなされてましたよ・・・?」
 男が目を覚ますとその目前には、胸の前で両拳を握り締め、目を潤ませた蒼星石の美貌があった。男は、反射的に
顔を両手で覆ってしまった。その鼻の穴の周りには、乾いたグロテスクな血塊が幾つも付着していた。
「わひぃっ!!・・・あ、ああ。大丈夫、だ・・・。何か、悪い夢を見てたみたいだ。お、お前も、前髪が乱れてるぞ」
 男は、全身を貫いた緊張から開放されると、蒼星石の髪の柔らかさを辛うじて楽しむ事が出来た。
「あっ、すみません・・・。ええ、僕も何か、悪い夢を見ていたようです・・・」
 ふたりの間を、乾いた沈黙が流れた。秋の風が室内に吹き込み、生臭いダストボックスの匂いを空間に拡散させた。


「行ってらっしゃい、マスター」
「ああ。行ってくる・・・」
 蒼星石は男を見送ると、己の左拳と右拳とを、思い切り叩き合わせた。涙が出るほど、それは、痛かった。


 その日、男は家を出ると、駅とは真逆の方角へと歩き出した。そして、携帯電話を取り出し、職場へコールする。
「すみません、本日は体調不良で・・・。ええ。はい。わかりました。来週、火曜日には・・・」
 男は、名も知らぬ小さな公園まで来ると、ブランコに腰を掛け、うずくまった。もはや、男の頭の中には、かの
少女の姿・・・己の肉体を、精神を、そして人生を打ち砕いたボクシングの天使・蒼星石の姿しか、映し出されては
いなかった。男は眠っているようで、実は、そうでは無かった。男は、昨晩に続き、蒼星石のパンチにより3度目の
敗北を迎えようとしていたのだ。男の全身はさながら試合の後の様に上気し、中秋の寒空に湯気が立ち上っていた。



禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


「ねえ、お兄ちゃん。ブランコ貸して!」
 男は、ブランコから後方へ転げ落ちた。左ジャブに続いて、蒼星石の右ストレートが、男の顔面を叩き潰したのだ。
鼻骨に加え、眼窩、頬骨までがその圧力に拉げ、屈服する様な、凄まじき一撃だった。狂乱する男に迫り来る蒼星石
そして無慈悲にも、フィニッシュへ向け連打は加速する。男の肉と骨が腐ったトマトの様に潰し尽くされると、返り血に
真っ赤に染まった蒼星石の小悪魔的な嘲笑を、身を焦がす敗北感と共に見上げつつ、男はテンカウントを聞いていた。
 名も知らぬ少女は、男を不審そうに見下ろしていたが、それにも飽きたのか、無邪気にブランコを漕ぎはじめた。


 そのころ、日課の洗濯と掃除を終えた蒼星石は、エプロン姿のまま、鏡の前に佇んでいた。悪戯めいた笑みと共に
男に教わったスタンスから、軽いジャブ、ストレートを鏡の中の己の鼻先を狙って打ち込む。すると、その人物が
打ち返して来た。蒼星石はその人物が突き出した左拳に、自らの渾身の右ストレートを合わせる。鈍い音がして、相手の
左拳はガラスの様に砕け散った。泣き叫ぶ男の顔に、左ジャブを連打する。10発、20発。途中で鼻の骨が折れたのか
男は小便を漏らし痙攣していた。更に、顔面の中心へと、左ジャブを突き刺す。30発、40発。50発。60発。70発・・・
蒼星石は、いつしか鏡を蹴倒しその上に跨ると、狂った様に上半身を振っていた。昨晩から数えて、これで3度目だった。
 鏡の中の美少女の顔に、透明な雫が一滴、また一滴と垂れ落ちた。涙を流し、自らの華奢な体躯を抱き締め、えづき
震える鏡の妖精。やがて、その愛らしい姿は自らが吐き出した濁流に侵され、見えなくなっていった。


 男は、無言で帰宅した。
「おかえりなさい、マスター。今日は、早いね・・・どうか、したの?」
 いつも通りの笑顔で、平静を装う蒼星石。しかし男は、蒼星石がシルクハットを被っていない事に気が付いていた。
それが一体、何を意味するのか。蒼星石のしたい事、そして、己が真に、蒼星石にされたい事・・・
 男の背後で、ドアがガチャリと音を立てて閉まった。何気無いその生活音は、轟音と化して男の脳を犯した。


 
禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


 男は、蒼星石をベッドの上に座らせると、真っ白な新品のバンデージを少女の細く、繊細な手指に巻いていた。
男の両手は既にじっとりと湿っていた。男は、自問していた。
――俺が今、蒼星石にしている事は、一体、何なのだろう。俺は何を求めて、蒼星石が俺に何を齎してくれる事を
期待して、バンデージをまいているのだろう・・・
 片や蒼星石も、バンデージをまかれている最中、必死に拳の疼きを抑えていた。
――僕は、マスターにバンデージをまいて貰っている。では何故、マスターは僕の拳にバンデージをまくのだろう。
マスターは、僕に、この僕の拳に何を期待しているのだろう。僕は、マスターに一体、何を返せるのだろうか・・・
 それぞれの答え。ふたりは、本当にそれを知りたかったのだろうか。恐ろしき緊張感の中、バンデージ巻きは続いた。


 続いて、男は自らが創り出した少女専用のボクシンググローブを、手に取っていた。だが、様子が、おかしい。
「うっ・・・!」
 男の眼に飛び込んできた物は、蒼いグローブに炸裂しまざまざとその姿を主張する、どす黒い己の鼻血の痕跡だった。
男は思わず噎せ返り、グローブを取り落とした。
 蒼星石は床に飛び降りグローブを拾い、両拳にはめ、握りを確認すると、白い紐を口で引っ張り、固く結んだ。


蒼星石・・・」「マスター・・・」
 男は膝立ちになり前傾、ミットをはめずに蒼星石と対峙し、頷いた。その行為が意味するもの。己のマスターが
自問の末導き出した「答え」を、聡明な蒼星石はたちどころに理解した。ふたりの「答え」が、視線と共に交錯する。
「本当に・・・いいんですか」
 それは、男への確認であると同時に、己への問いでもあった。男の返答は、yesとも、noとも、つかなかった。


 蒼星石の両拳がゆっくりと浮上すると、美しきオープン・スタンスが、男の眼前に形成された。その両拳は、男を
射程圏内に捉えている。プロテストの時以上の、凄まじい緊張と重圧。汗が、運動もしていないのに流れ、顎から滴る。
 蒼星石の口が、真一文字に強張ると同時に、左のグローブが動く。張り詰めた、硬く冷たいナックルが緩慢に
男の顔面へと迫り「パチン」と、頬を叩いた。小さな拳は男の頬を軽く歪ませたまま、静止していた。



禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


「あっ・・・」
「うっ・・・・・・・・・・・・続けて、くれ・・・」
 

 蒼星石の左ジャブは、徐々にその鋭さ、破壊力を取り戻しつつ、男の顔面へと叩き込まれていった。一発ごとに
硬く冷たいグローブを顔面にめり込ませたまま、今にも泣き出しそうな表情で男の顔面を見上げ、容態を伺う少女。
 男は、そんな少女が殴り倒してしまいたい程に厭わしく、そして、抱き締めたい程に愛おしかった。しかし
少女のボクシングの前に翻弄され続ける男には、そのどちらも、叶わなかった。


 ついに左ジャブの速度は、前夜、ミットを弾き飛ばした時のそれと同等にまで加速していた。もはや、男の優れた
動体視力をもってしても、その弾丸の影を捉える事は出来なかった。更に左拳のスピードは、男自身の技量をも遥かに
凌駕して加速を続ける。男は、薄ら白む視界と混濁する意識の中、顕在化した己の感情を、少女へのどうする事も
出来ぬ嫉妬と己の中で理解すると、それに狂った。しかし、それがこのような美少女、己の愛する世界でたった一つの
生きた人形によって与えられていると言う危うい現実が、その激情をむしろ心地良いものとしてしまった。
 一方、肉体は、少女のパンチから逃れようと、無駄に藻掻いていた。しかし、男の全身の機能は蒼星石の華麗なる
ボクシングの前に、次々と屈服させられていく。脚は痺れ、腕は垂れ下がり、視界は歪み、顔面の皮膚の感覚は残らず
消え失せた。尚も断続的に顔面に爆裂する衝撃音の中、男は、現世からの跳躍を果たした。


「マスター!・・・」
 結局、男は、蒼星石の左ジャブの前に打ち倒され、気を失ってしまったようだった。
 右眼の上が、染みた。薬液を染み込ませた綿棒を片手に、男の真上から泣き笑いの表情で語りかける蒼星石
「もう・・・やめましょう、こんな事・・・!このままじゃ、マスターがっ・・・・・・!!」
 言霊が、完結することは無かった。蒼星石はその白く清潔な歯を閉じ、舌を、上の歯の根元に近づけたまま息を殺し
その姿勢のまま、硬直していた。このまま続けたとしたならば、男は果たしてどうなってしまうというのか。
 男の望みは、即ち蒼星石の望みである。即ち、蒼星石の望みもまた、男の望みなのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(6) 異変 Etwas Außergewöhnliches


 翌日も、爽やかな秋晴れだった。土曜日。男を含め多くの働き手にとって、楽しい三連休の始まりとなる筈の日。
しかし、男の心中の空には、目の前の少女への恐るべき妄執が、蒼黒い暗雲と化して垂れ込めていた。


「ちょっと・・・体を動かしに行って来る」
 男は流し込むかの如く朝食を済ませると、何かに追われる様に、家を後にした。別段、何の用事もあった訳ではない。
ロードワークをする気も、ジムに行く積もりも、無かった。男は、気がおかしくなってしまいそうだったのだ。
蒼星石と一緒にいるだけで。蒼星石の煌めくオッドアイが己を見つめる。ただ、それだけで。


 電車で8駅。男が向かった場所は、勤務先の縫製工場だった。当然の事ながら、シャッターは下ろされていた。
茫然と引き返す男の背後から、軽く、小刻みな足音が追い掛けて来る。男は、走った。走りに走り、2つ隣の駅まで
ラソンランナーの如く駆け抜けると、山手線の列車に這い登る様に転がり込んだ。
 休日、正午前の山手線は寂しい程に、空いていた。男は座席に座る事もせず、鈍色の連結幌の上で揺れていた。
 視界が、揺れる。左へ右へ、交互に、揺れる。蒼星石の左フックが、男の顔面へ直撃する。飛び散る唾液。
右フックが、男の頭部をパンチングバッグの様に撃ち返す。唾液に、紅が混じり始めた。時折、視界は縦にも激震する。
左の、アッパーカット。顎を撃ち抜かれる瞬間、眼球に焼き付けられた少女の姿は、美しかった。蔑む様な冷たい視線が
堪らなかった。衝撃で男の全身は直立し、幌に凭れ掛かり再び膝を突く。そして、右のテンプルが強打された。
 列車は不規則に、左へ、右へ、そして上下へと、男を乗せていつまでも揺れ続けた。


 既に日も沈みかけていたが、男は、未だに車内で揺れていた。2枚の引き戸に閉ざされた、都会の喧騒の中心に
現出した鈍色の廃空間。狭く埃っぽいその中で、男は人知れず、揺れ続けていたのだ。
 環状鉄道線を6周余りも彷徨った後、男は幽鬼の様な形相で、己の街へと戻って来ていた。
 男は、2度、死んでいた。



禁じられた遊び(6) 異変 Etwas Außergewöhnliches


 家事を一通り済ませ、いつもの衣装に着替えようとする蒼星石。衣擦れの音と共に、男特製の豪奢なフリルの付いた
薄桃色のエプロンが取り除かれると、少女は控えめな花柄のスリップ、純白のドロワーズのみという格好となった。
剥き出しとなった球体関節が、その妖しくも危うい美しさに、更なる背徳感という魅力を加えていた。


「ねえ、蒼星石
 少女の声が響いた。部屋には、蒼星石ただ一人しか、居ない筈だった。蒼星石は、言いようの無い不安にかられ
その声の主を探した。やがて、目の前に置かれた鏡の中の自分と、目が合った。
蒼星石は、マスターが好き?」
「うん。僕は、マスターが好き・・・大好きだよ」
 蒼星石は、笑った。蒼星石もまた、同時に笑いを返した。


「どのくらい・・・好きなの・・・?」
 蒼星石は、何故かその両手に蒼いグローブをはめつつ、蒼星石に尋ねた。答えに逡巡する蒼星石の目前に、異変が
起こった。蒼星石が見つめる先には、生まれたままの姿で跪く男の姿があった。蒼星石の拳が、痛い程に疼いた。
「僕は、マスターが、好き。マスターの為なら、こんな事だって出来る・・・!!」
 蒼星石の下着は、瞬く間に朱に染め上げられた。男はザクロの様に爆ぜた顔面を蒼星石に向けたまま、絶命していた。
「あっ・・・あああっ・・・!!マスター・・・!!・・・・・・わああああああああっ!!!!」
 蒼星石は、蒼星石に向かって、殴り掛かった。しかし、同時に己の顔面へ迫る蒼い右拳に、蒼星石の拳は静止した。


「ううっ・・・何で・・・!何でこんな酷い事を・・・するの・・・!?」
「簡単な事だよ・・・。マスターの望みを君が叶え、君の望みをマスターが叶えた。ただ、それだけ」
 前髪から、ドロワーズから、そして両拳から鮮血を滴らせつつ、蒼星石は答えた。
「そんなの、嘘だ・・・!!」
「嘘・・・?嘘つきの君に、僕の嘘が嘘であると何故言えるの・・・?嘘つきなのは蒼星石、君の方だよ」
「・・・うるさい!!うるさいっ!!・・・黙れぇっ!!嘘つき!!・・・消えろっ!!消えろっ!!消えろぉっ!!!」


 無数の亀裂が入った鏡の前で、蒼星石は自らの身体を抱き締め震えると、泣き崩れた。



禁じられた遊び(6) 異変 Etwas Außergewöhnliches


 男は、夢遊病患者のようにアパートの階段を登り、降り、10往復近くも徘徊した後、悲愴な笑顔でドアを開けた。
「・・・・・・ただいま」
「お帰りなさい、マスター。ご飯、出来てますよ・・・」
 無言の夕食。しかし、ふたりはお互いの存在を無視している訳では無い。むしろ、それは逆だった。ふたりの間には
異常なる緊張感が張り詰めていたのだ。ふたりは、目の前の献立へと逃げ込む様に、食事に没頭した。
「マスター・・・。今日は・・・」
 蒼星石は、食事を終えてふと気を緩めた瞬間、口をついて出た己の言葉を、禍々しい程の笑顔で呪っていた。
「ああ・・・わかってる・・・」
 男は、その時、自分がどの様な表情でその言葉を返したのかすら、解らなくなっていた。


 その夜、男は少女にフックとアッパーカットを教え、次の夜には、今まで教えた全てのパンチの復習を行った。
 蒼星石は男のボクシング技術を、細かい指導を受けることすら無く、一度見ただけでまるでスポンジの如く吸収し
男を遥かに凌ぐレベルで己のものとしていった。蒼星石には、男と出会う以前から、ボクシングの経験があった訳では
無い。その人智を超えた学習能力の裏には、少女の出生に隠された恐るべき秘密が、その影を落としていたのだ。


 男がこの世界に生を享ける遥か昔、蒼星石は、生きる人形「ローゼンメイデン」シリーズの第4ドールとして創造され
生命を与えられた。その創造主である人形師は、自らが創り出した7体のドールに「究極の少女・アリス」を構成する
特徴を分け与えていた。その中でも特に蒼星石に与えられたものは、優しさ・誠実さ・聡明さ・勤勉さであった。
 蒼星石は、己が見たあらゆる物事、男のボクシング技術を映像として自内に完璧に記憶する事が出来るのだ。
そして、その技術を最も己の体格に最も合った方法として、最適化して身に付ける事が出来る。小さく柔軟なドール
としての肉体は、当然の如く疲れを知らず、筋肉の束縛も受けない。いかに訓練された人間でも、決して追い付く事の
出来ぬ、異常、不条理、残酷なまでの性能差。生まれ持った天分の差が、男の顔面を叩き潰し続けていたのだ。



禁じられた遊び(6) 異変 Etwas Außergewöhnliches


 もはや、「レッスン」の最中、二人の間に言葉が交わされる事は、殆ど無かった。まず、男が立ち上がり、空間を
その両拳で掻き回した後、跪く。蒼星石は流麗なスタンスで男と対峙する。男は頷く。それが、開始の合図だった。
 蒼星石は、男の期待に応える為その顔面を殴り潰し、男は、蒼星石の技術を確かめる為その薄く硬いグローブを
己の顔面に受け止めた。顔面から鮮血の粒子が飛沫となって上がる度、男は、蒼星石の心の揺れが、手に取るように
解るような、そんな気がした。その可憐な顔に血化粧を施した蒼星石も、男と、同じ事を感じていた。
  

 連日、3ozの薄いボクシンググローブ越しに少女のパンチを浴び続けた事により、男の様相は様変わりしていた。
 両瞼は赤々と腫れ上がり所々裂けており、鼻はジャブ・ストレートの衝撃によりへし曲がり、左右のフックの連打に
晒された両頬には至る所に青黒く痣が出来、口の中も数箇所切れていた。顎を直撃したアッパーカットにより幾度も
脳を揺らされ続けていた為か、男は歩きながら白目を剥き、狭窄した視界を宙に彷徨わせる事すらあった。


「マスター・・・。やっぱり、こんなの・・・いけない事だよ・・・!!」
 心優しい蒼星石は、そんな男の異変を誰よりも熟知しており、何度も何度も「レッスン」の中止を男へと願った。
男の持てる限りのパンチ技術を修めた今でも、その切ない想いは、少しも変わってはいなかった。
「ありがとう、蒼星石・・・。けど、俺はまだ全てを教え切ってない。お願いだから最後まで、やり切らせてくれ・・・」
 己の鼻血に噎せ返りながらも、強い意思で語りかける男。蒼星石は、そんな男の願いを、断り切れないのであった。


「マスター・・・!!」
 蒼星石は、大の字に脱力する男の上へと飛び掛かると、血まみれの唇に、己の清潔で柔らかい唇を重ねた。それは
約束のキスであった。男は、一瞬の緊張の後、上半身を圧迫する心地良い肉感に酔っていた。
――軽い・・・。こんなにも小さく、軽い人形に、俺は、俺はっ・・・!!!
 男は唯一動かせる筋肉、舌を少女の口蓋内へ突き刺すと、その柔らかな肉質と乱暴に絡ませ、せめてもの抵抗とした。