投稿SS5・禁じられた遊び(後編)

禁じられた遊び(7) 衝動 Drang


 遥かな昔より、月の光は人間を狂気に引き込む、そう、考えられて来た。
三連休の最後を飾る、月曜日。日が沈み、満月の光が地上を暗く照らし始めたその頃、少女と男は向かい合っていた。
ふたりとも、正気を失っている事は、明らかであった。しかし、それは決して、月明かりのせいだけでは無かった。


「今日は・・・コンビネーションを、お前に教えてやる。今までお前には、ジャブ、ストレート、フック、それから
アッパーカット・・・という、四種のパンチを教えてきた。だが、実戦では、単発のパンチはまず使われる事は無い」
 男は説明しながらも、連日、己の顔面を叩き潰して来た少女のパンチの余韻に浸っていた。説明が後半に差し掛かるに
つれ、男の表情は更に異形にも歪んでいく。少女は全身と両拳のコンディションを確かめつつ、男の言葉を聞いていた。


「・・・素早く相手をKOする為には、有効な打撃を、連続で叩き込む必要がある。そう・・・連続で、だ」
「・・・はい、マスター・・・」
 少女もまた「連続」という単語に、昂奮していた。かつて、ボクサーである事が到底信じられぬ程に整っていた男の
顔の造形を、僅か4日の間に妖魔の如き醜怪さへと変貌させてしまった己のパンチ。それらがコンビネーションとして
男の顔面へ殺到した時、一体、何が起こるのだろうか。ふたりの残虐なる好奇心の対象は、哀しい程に、一致していた。
 全天を覆っていた叢雲が次第に微動を始めると、満月は、その美しくも妖しい輝きの片鱗を現し始めた。


 男はまず左ジャブから右ストレートのワンツーで虚空を打ち抜いた。そして、跪く。直後、軽快な2発の破裂音と共に
男の左の鼻から、鮮血が溢れ出した。フィニッシュの右ストレートが、鼻に入ってしまったのだ。跳ね上がるように
男の容態を心配し、口を開こうとする蒼星石。しかし、男の魂の絶叫が、蒼星石の全身を金縛りの様に静止させた。
「ぶふっ!・・・・・・約束っ!!」
「これは、俺の闘いでもあるんだ。最後まで・・・蒼星石、いいな?」
「はっ、はい。マスター。・・・そうですよね。ええ、わかりました・・・最後、まで・・・!」
 

――最後まで、か・・・
 男は、自ら吐き出した言葉の真意を、探っていた。鼻血の味は、塩辛かった。



禁じられた遊び(7) 衝動 Drang


 男は反動を付けて立ち上がると、ワンツーから左フックで空間を打ち抜き、膝を突いた。先の2連打により脳を
揺らされた影響か、そのスピードは若干衰え、体捌きは鋭さを失い、拳の軌道は微妙なぶれを生じていた。
 瞬く間に勃発した3発の、甘く鮮烈な衝撃。蒼星石のワンツーは男の鼻の下半分を正確に捉え、両鼻腔から迸った
鮮血は、その直後に頬を痛打した渾身の左フックにより、左前方の床へと飛散した。男は咄嗟に左肘を突き、硬い床
への激突を免れる事が出来た。流れる様な体重移動に支えられた、それは芸術的なコンビネーション・ブロウであった。
 男は、ふらつきながらも、かぶりを振って立ち上がった。その右の口許は、己の血で汚れていた。
「ふぅっ・・・!い、いいぞ・・・!さあ、次だ・・・!」
「はい、マスター・・・!」


 コンビネーションは、その連打数を1ずつ増やし、続行された。ジャブが、ストレートが、フックが、アッパーが
己の青春を捧げて来た男のボクシング技術の精髄、その全てが、今まさに蒼星石の小さな全身に吸収されていく。
 4連打、5連打、6連打、7連打・・・。蒼星石のブロウは、そのグローブの小ささ、硬さも手伝ってか、鋭利な短剣で
突き刺すかの如く、一撃、また一撃と男の顔面を抉って行く。身を焦がす激痛と運動による疲労の中、男の心中には
またしても危険な感情が芽生え始めた。嫉妬に加え、更なる無力感、劣等感が男をパンチと共に打ちのめして行く。


 もはや、体格の差など問題では無かった。今まさに、男の運命、そして生命までもが、気高きローゼンメイデン
第4ドール・蒼星石の小さな手の中に委ねられていることを、ふたりは思い知らざるを得なかった。己の人生に
己が打ちのめされる。男にとってこれ程の絶望感は、未だかつて体験した事の無いものだった。挑発的な破壊の
リズムに乗せて、顔面肉のあらゆる表面を核として爆裂する衝撃波。その狂瀾怒涛の最中で、男の宇宙は捻じ曲がり
燃え上がり、凍て付き、石化し砕け散って行く。もう、絶望も、快感も、区別が付かなくなってきていた。
 男はもはや、後戻り出来なかった。それは、少女も、同じだった。



禁じられた遊び(7) 衝動 Drang


 ついにその血塗られた全貌を現した満月は、狂気の光線をもって地表を焼き払った。


「・・・ぶぅはぁっ・・・!!ふうううっ・・・!・・・はぁっ、ぶはぁっ・・・!!!・・・うげぇごふっ・・・!!」
 馬の様に熱く乱れる男の吐息。もはや、その見るに忍びない惨状は、凡そ考え得る「レッスン」の枠を逸脱していた。
今まさに、男と少女の挑戦は9巡目に突入しようとしている。床を両腕だけで無様にも這いずり、惨めに壁を伝う男。
漸く両足で立った男の顎先からは、汗と鮮血の混合液が滝の様に滴り落ち、立ち上る瘴気と共に異臭を放っていた。


 一方、蒼星石は少しも息を乱す事すら無く、男の悲愴なる一挙一投足へと、その冷たく輝く狂気の眼光を向けていた。
かつて瀟洒な清潔感を主張していた衣装は、一片の蒼も残さず鮮血に染め上げられ、浸透し切れず飽和した血液は
その足下にどす黒い陰影を落としていた。


 もはや、男のコンビネーションは、ボクシングの形を為していなかった。両拳が重く、ファイティング・ポーズを
とる事すらも、出来ない。ガクガクと震える男の全身に、蒼星石の眼差しが突き刺さる。回転し明滅する視界の中で
男が見たものは、確かにそのオッドアイに浮かべられた、己に対する嘲弄、侮蔑の色だった。蒼星石は、自らの放った
視線の暴力に、我知らず陶酔していたのだ。その時、少女の胸の奥が、微かに熱くなった。同時に、男は動き出した。
 男は、丸1分程も掛かって、合計10発のコンビネーションをやり果せると、脱力した様に涙の雫を空間に残し、膝から
崩れ落ちた。その衝撃で白目を剥き気を失い、少女の残酷な嘲笑の前へと、その無防備なる顔面を曝け出す男。
 少女の口許が、これ以上無い程妖しく、危うく歪んだ。その柔らかな薄桃色の唇の隙間から、透明な粘液が糸を引き
細い顎に純白のラインを刻み付けて行く。少女は、身を焦がすインモラルな衝動へと、己の全てを委ねた。


 流れるような、それは目にも止まらぬ、連続業であった。男の意識を取り戻させたのは、鼻への鋭いワンツーだった。
端整な顔に、更に返り血が塗り重ねられていく。少女の胸の奥は、更にその熱量を増した。



禁じられた遊び(7) 衝動 Drang


 続いて左ジャブが顎を撃ち抜き、崩れ落ちる男の鳩尾目掛けて、右のボディアッパーを突き刺す。前傾する所に
左、右、左とフックがテンプルを猛打する。フィニッシュは右ストレートのトリプルが顎を撃ち、鼻を潰し、そして
左頬内側を撃ち抜き、男の後頭部を轟音と共にベッドへと激突させた。
 最後の右の手応えに満足したのか、拳を引き戻す蒼星石。その冷たく硬い3ozには幾層にも男の鮮血が塗り重ねられ
暗く輝いていた。男は、なおも最後の力を振り絞って立ち上がろうとするが、力が入らず、蒼星石にしなだれ掛かる
ようにして、そのまま気を失った。


 更に、失神した男の顎を掴み上げ、右拳を引き絞る蒼星石。そして、3ozが男の顔面目掛け加速を始めたその時――
「つうッ」
 蒼星石は、左腕で自らの小さな胸を抱き締め、うずくまっていた。
「あ、熱・・・い・・・!?・・・マスター、まさか・・・?」
 まるで、胸の奥に、煮え滾る溶岩を流し込まれたかの様だった。行き場を失い、静止していた右のグローブを外すと
蒼星石は、うつ伏せに脱力する男の左手へ、その右手を近づけた。男の指輪は、触れない程に熱くなっていた。


「うッ・・・!えうえッ・・・!!」
 込み上げる嘔吐感。その時初めて蒼星石は、知らず知らずの内に男の生命力を吸い取り、己のパンチを加速させて
しまっていた事に気が付いたのだ。両の眼孔から涙が止め処無く溢れ、返り血に染まった顔を洗い流していく。


 蒼星石は、マスターの望みを叶える為だけに――男が己にボクシングの全てを教えようとしている、その期待に
応える為だけに――男へと拳を向け、その顔面を撃ち滅ぼした。そう、自分では思っていた。
 しかし、実際は違った。


――殴りたい
――もっと
 最終コンビネーションを男へと叩き込む最中、少女の意識を支配していたものは、2日目に抱いた「あの衝動」
ただ、それだけだったのだ。


 蒼星石は、ただひたすら、その熱い涙を男の後頭部へと注ぐ事しか、出来なかった。
 その裏で、月光に照らし出された少女の影は、ゾッとする程の凄まじき笑みを、浮かべていた様にも見えた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


 狂気の一夜が明けて数時間、蒼星石は鞄で眠る事すら忘れ、自らの両拳で叩き伏せた男の看護に、没頭していた。
 青黒い痣と惨たらしい裂傷に覆われ、熱にうかされている男の形相は、フランケンシュタインの怪物を想起させた。
蒼星石は、その額の上の氷嚢が融けてきた事を見やると、台所の椅子の上に登り、懸命にその小さな手を伸ばした。
危うい姿勢のまま、震える手で冷凍庫の奥にある氷を取り出し、製氷皿に水を注いでから男の元へと駆け寄る。
 

 アラームクロックの起動時刻まで、残り10分。男の表情を見つめる蒼星石の拳に、肉を叩き潰すおぞましい快感が
深い自責の念と共に、まざまざと蘇る。蒼星石は、アラームのスイッチを切った。そして、懸命に背伸びをして
デスクの上に置かれていた男の手帳を取る。
「日:復習(フットワーク、パンチ)」「月(祝):コンビネーション」「火:実戦(終)」
 男のスケジュール帳には、このような記述がしたためられていた。「実戦」という単語の冷酷な響きに、再び蒼星石
両拳が熱く疼く。蒼星石は、妄念を振り払う様に職場とジムへと連絡を入れると、再び氷嚢を取り替える作業に戻った。


 男は、軽く柔らかな圧迫感と共に、目を覚ました。時刻は、午後2時を回っていた。男の腹の上で、人間の子供と
何ら変わらぬ、可愛らしい寝息をたてて眠る蒼星石。男は、未だに心地良い冷たさを残している氷嚢の存在に気付くと
どう表現してよいか解らぬ己の感情を、困った様な笑顔で誤魔化しつつ、それをベッドの隅へとずらした。そして
眠れる姫を起こさぬ様に細心の注意を払い鞄に移してやると、蓋を静かに閉じ、床に転がったまま泥の様に入眠した。


 男のダメージは深く、その日の「レッスン」は中止される事となった。それは、蒼星石が男の体調を労って
そう提案したということもあったが、男もまた、体調を万全に戻してから、最後の闘いに望むつもりだったのだ。
それ程までに、この実戦練習に男は拘り、執着していた。


「行ってくる・・・」
「気をつけてね、マスター」
 翌日、水曜日は、土砂降りの雨だった。男は傘も差さず、またしても駅とは真逆の方向へと、歩き出した。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


 今日は男のボクシング・レッスンの最終日、実戦練習の日だった。男が不審者役となり、蒼星石を攫おうとする。
その魔の手に、蒼星石のボクシングが立ち向かうというのが、その練習の内容だ。


 未だ、男の顔面には至る所に裂傷と腫れが認められたが、その実、体調は万全に回復していた。しかし、関節、靭帯
そして筋肉のコンディションとは裏腹に、男の精神状態は極めて危うい状況にあった。
 今までの「レッスン」で己の半分程の背丈しかない少女人形に、自らが幾年月もの時間と青春の全ての情熱を注ぎ
極めたボクシング技術を即座に盗まれ、鮮血にのたうちながら屈辱、嫉妬、あるいはその他の激情を嘗め続けた男。
しかしそれは、言ってしまえば、半ば男が望んで無防備の顔面を曝け出した結果、そうなったというだけの事であった。


 それだけに、これから行われる「レッスン」は、男にとって最も残酷な破滅を招くかもしれぬ危険を孕んでいた。
今日の実戦練習で、男が蒼星石のボクシングの前に翻弄され、KOされ、鮮血の海に沈む事があれば、完全に男は
己の「強さ」というパーソナリティ、即ち、自我の拠り所を失う事になるのだ。
 だが、男は蒼星石のボクシングに打ち勝つ事を、心の底から望んでいたのだろうか。本当は、蒼星石の両拳から
繰り出されるコンビネーションの前に無様にも打ちのめされ、全てを失う事を望んでいたのではないか。
 連日、数十発のパンチを頭部に浴び続けた事により、この頃から男は精神に異常をきたしていたのかもしれなかった。


 けたたましく響く雨音と雷鳴の中、男自らの手により、少女の拳に蒼く艶めくボクシンググローブが装着されていく。
かつては純白だったその拘束紐は、男が繰り返し噴き付けた鼻血により、毒々しい朱の斑に染め上げられていた。
 男は蒼星石の両の3ozを強く掴んだ。少女はその瞬間、全身を跳ね上がる様に緊張させると、その煌めくオッドアイ
怯えの色を浮かべつつ、上目遣いで男の言葉を待った。3ozは、小刻みに震えていた。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


「いいか、これから俺の言う事を、よく聞け・・・!」
「はっ、はいっ・・・!マスター・・・」
 恫喝する様な男の語気に圧され、蒼星石の両拳は男の大きな両手の中で、更に硬く、シャープに、凝縮された。
「俺は今から、蒼星石、お前の敵だ。俺はあらゆる手段を使って、蒼星石、お前を攫う。お前の武器は、この拳だ。
今まで教えてきた全てのパンチを使って、俺を倒せ。俺がお前の身体を掴み、持ち上げれば俺の勝ち。お前が俺を
殴り倒し、ノックアウトすれば、お前の勝ちだ。・・・俺は一切手加減しない。お前も、俺を殺すつもりで来い・・・!」
 男は、華奢な体躯からは到底信じられぬ握力をもって引き締められていく少女の拳の感触と、真っ直ぐに己を
見つめる可憐な顔立ちとが織り成すギャップに、精神の平衡を失っていた。そして余りの昂奮と緊張に、途中から
自分が少女に向かって何を口走っているのかすら、解らなくなっていた。


 男の説明が終わった頃、蒼星石の拳の震えは止まっていた。そして、その唇が迷い無く上下し、言霊が紡ぎ出された。
「わかりました。望み通り、殺してあげます。マスター」
 自らの口から迸った言葉の意味を、蒼星石もまた、理解してはいなかった。創造主により「優しさ」の象徴として
造られたドールである蒼星石は、生を享けてから数百年もの間、只の一度も、その単語を口にした事すら無かったのだ。
従って、その言霊の裏に隠されたおぞましい真意も、意識してはいなかった。男の情熱に応えたい。蒼星石はひたすら
その一心で、男が望む己の姿、「敵」として相応しいであろう言葉を、昔観たある映画の敵役の台詞の中から選び出し
男へと投げ掛けた、ただ、それだけに過ぎなかった。それだけに過ぎなかった、筈なのだ。


 少女は、妖精の如く華麗な体捌きでステップバックすると両拳を持ち上げ、顎の前に小さく構えた。両のグローブは
男の掌から流れ出した大量の汗により、ヌラヌラと暗い輝きを放っていた。
「さて、始めましょうか。マスター」
 突如として迸った稲光が、少女の流麗なファイティング・ポーズを男の網膜へと焼き付ける。漸く我に返った男の
鼓膜を劈いた雷鳴は、男と少女の最終決戦の火蓋を切るゴングとして相応しい、残酷な響きを孕んでいた。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


 果たして、その時は来た。しかし男は、飛び込めなかった。雷光に浮かび上がった小さな蒼星石のファイティング
ポーズは、練習を通じて更に一部の隙も無い、芸術作品の様な峻厳さをもって男の眼前へと聳え立っていたのだ。


 踏み込みたい。踏み込まなければ、勝ちは無いのだ。しかし、男が少女の身体に触れるには、少女の反射速度を
凌駕する上体のスピード、鋭さが必要だった。蒼星石の狙いは、恐らくカウンターだ。勢い良く飛び込めば、それだけ
カウンター・パンチの威力も爆発的に上がる。男の脳裡に、2階から投げ捨てられた植木鉢の如く粉々に砕け散る
己の頭蓋骨の映像が、まざまざと再生されて行く。噴き出す鮮血、飛び散る脳漿、混ざり合う血肉と骨、臓物・・・
 その忌まわしき地獄絵図に、何故か男の鼓動は、早くなった。男の勝機は、もはや潰えた。では、その先に
待ち受けるものは何か。この少女に敗北し全てを失った時、一体、何が見えるのだろうか。


 男は、少女のパンチが顔面に届かぬぎりぎりの高さにまで腰を屈めると、全身に力が満ちるのを待った。豪雨が
降りしきる無人の公園。そこで、何百回、何千回と狂った様に繰り返した、男のタックル。この突進で、全てが決まる。
 真っ直ぐ男の顔面に注がれ続ける蒼星石の眼差しに、更なる緊張が走った。準備が、整ったのだ。男の全身の筋肉は
禍々しい程に張り詰め怒張し、今か今かと、解放の時を待っていた。男はそのタイミングを悟られぬ様、呼吸を止める。
少女のスタンスに一刹那の隙が生まれた瞬間、それが、男の勝利の瞬間である事は、間違い無かった。


 しかし、少女は微動だにしない。もしや、生命を失い、ただの人形へと戻ってしまったのか。そう錯覚させる程に
その華奢で瑞々しい肢体は、動きを止めていた。限り無き静止の拷問の最中、無情にも時間は過ぎていく。人間の
肺活量には、限度がある。男の体内に爆裂する心臓の脈動音は、自らの敗北へのカウントダウンだった。
 絶望。余りにも深い、絶望。窒息の苦しみにガクガクと揺れる男の視界の中、少女は、死の笑いを、笑っていた。
 決して極めてはならぬ終局、無限の蒼い暗黒へと、男は吸い込まれていった。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


「・・・!!!」
 声無き断末魔の咆哮と共に、少女の肢体へと猛進する男。その全身が目標点に達すると同時に、鍛え抜かれた豪腕が
龍の顎の如く少女を噛み潰さんと襲い掛かる。しかし男の双腕は、空しく虚空を掻き回すのみであった。
 蒼星石は先の静止の時間の中で、男に悟られぬよう、ごくごく微量ずつ、そのスタンスを前傾させていた。
それにより男の意識を前に引き付けておいてから、その攻撃を吸い込む様に最小限のスウェイバックでかわしたのだ。
 少女は、自らの顔面が醜悪に歪み、生臭く陰惨なる凄笑を形成していくのを、抑えようともしていなかった。
 今まさに死刑台の13階段を上りきった男は、少女のその己を蔑む様な笑みに、現世の美の極致を感じていた。


 床を蹴る擦過音に続いて、くぐもった爆裂音が、男の全ての臓器を戦慄させた。少女は後ろ足で床を蹴り飛ばし
男の両腕のアーチを嘲け笑う様に掻い潜ると、地を這う疾風の如く深く、鋭くステップインし、伸び上がる力を
活かして男の腹部へと右拳を繰り出した。鳩尾に深々と突き刺さる、蒼い3oz。気道内に僅かに残っていた酸素をも
全て吐き出し、男は膝を突き失神した。
 勝負はついた。男は少女の右拳の前に、KOされたのだ。しかし、少女の肉体の躍動は止まらぬどころか更にその速力を
増し、男を打ち据えていく。その後の酸鼻たる有様は、もはや、闘いの枠を超えた、一方的虐殺に等しかった。


 ワンツーの4連打。その人智を超えた余りの速度は、男に顔を仰け反らせる事も許さない。男はその鼻を鋭い
左ジャブで打ち抜かれ、真正面から右ストレートで圧し潰され、再び左ジャブで弄ばれた後、全身の力を載せた
右ストレートにより無慙にもへし折られた。少女は、堰を切ったかの様に噴き出す鮮血のシャワーを浴びつつ
鳩尾に右アッパーを突き上げ、レバー目掛けて左フックを叩き込む。直後、男の頬が異様にも膨らみ、黄土色の
吐瀉物の塊が毀れ出した。


 止めは、フック気味のアッパー、スマッシュが男の顎を打ち抜いた。轟音とともに男の顔面は天を仰ぎ、噴き出す
血潮は天井を犯す。そして、左に崩れ落ちて行く男の左頬に右ストレートが打ち下ろされると、男は右側頭部から
床に叩き付けられ、バウンドした後、眠るように静かになった。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


 何と言う皮肉か、それは、男がプロテストにおいて少女に披露したコンビネーション、そのままだった。


 自らの言葉通り、死んだ様に横たわる男。蒼星石は、壮絶なる連打の最中、己の胸の火照りを実感していた。
 最初の突進をかわされた時点で、男は、己の敗北を認めていた。体調を整え、あらゆる勝利の可能性を模索し
最善を尽くした上で、触れる事すら叶わなかったのだ。この瞬間、男のプライドと自己の同一性は粉々に破壊された。
そして、最後のタガが外された事で、男の中に燻っていた名状できぬ真の欲望が、その姿を現そうとしていた。


 男は5分近くも血の池に横たわると、左手を掲げ、緩慢に立ち上がろうとした。その指輪は、蒼白く熱を帯びていた。
「た・・・のむ」
 それは己の更なる破滅の為に、己の生命力を少女の拳へと注ぐ自殺行為そのものだった。しかし、それこそが己の
本当の望みであるという事に今となって、男は漸く気が付いたのであった。蒼星石は、唇を噛み締め、再び拳を掲げた。
 男の望みこそ、蒼星石の望みなのだ。蒼星石は男の狂気に、更に真摯なる狂気をもって応えた。
 

 男は、更にそこから2分程もかけ、漸く立ち上がると同時に失神した。直立したまま、棒切れの様に倒れてくる男。
蒼星石は、右拳を振り抜いた。冷たく硬い3ozは、既にへし折れていた男の鼻へと加速し、同心円状に鮮血が爆裂した。
 一撃毎に、失神と覚醒を繰り返す男。蒼星石は、灼ける様な胸の奥底の激痛と闘いながら、右拳を男の顔面の中心
目掛けて突き出し続けていた。迸る鮮血は天井にまで達し、禍々しくも不規則な、紅黒い爪痕を残していった。


 いつしか、ふたりは涙を流していた。男の生命力の限界、その奥に厳然と横たわる終局が、見え始めていたのだ。
蒼星石は右拳を止めると、左アッパーを男の鳩尾に突き刺し、そのまま屈み込んで全身を捻った。
 グギュウウウッ・・・・・・!!
 それは、少女の全身の球体関節が軋む異音だったのか。あるいは、余りにも固く、強く握り締められた3ozが発した
断末魔の呻きだったのか。


 渾身のスマッシュ、死の弾丸は男の顎先5cmで、その暴威を失っていた。
 男は、満身創痍の全身をビクビクと蠢動させると、永遠の眠りへと誘われていった。
 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(9) 終局 Das Ende


 翌日の木曜日は、前日とは打って変わって、寂しい程の秋晴れだった。既に時刻は、午後3時を回っていた。
「ねえ、マスター。そろそろ起きましょう。ご飯、冷めちゃいますよ?・・・ねえ、マスター・・・」
 朝食は、冷え切っていた。蒼星石は、既に8時間程も前から、同じような言葉を繰り返している。その痛々しくも
狂おしいまでに真摯な様子は、寝たきりの息子を介護している内に、精神を病んでしまった母親の姿を想起させた。
 

「おいしいお茶を淹れましたよ。マスターのぶんもはい、ちゃんとあります。もうすぐスコーンも焼けますから
一緒に・・・!ねえ、マスターも、いっしょ、にっ・・・!!・・・うッ・・・ううッ・・・!!」
 蒼星石は、涙に声を詰まらせ、瀟洒ティーセットを取り落とした。床一面にこびり付いていた男の血潮と吐瀉物が
紅茶の熱で溶かされ、馨しいアールグレイの芳香と共に吐き気を催すような死臭が、部屋中に充満した。


 ガシャーーーン!!
 けたたましい衝撃音と共に、窓ガラスを派手に突き破って姿を現したのは、蒼星石にとって唯一、姉と呼べる存在
である、ローゼンメイデン第3ドール・翠星石であった。翠星石は少し頭を打った様だったが、蒼星石と同じ意匠の
鞄に仁王立ちになると、可愛らしく腕組みをしたまま、一気にまくしたてた。
「い、痛いですぅ・・・!ふー、折角久々に遊びに来てやったのですから、さっさと茶ーでもしばきやがれですぅ!」


 蒼星石と対になっている翠星石オッドアイが見開かれると、そこには、殺人現場あるいは屠畜場の様な地獄風景の
中で、ひとり己を抱き締め嗚咽を漏らす蒼星石の姿があった。翠星石は、鞄から弾かれるように飛び降りた。紅茶に
よって溶け出した血潮のぬかるみに足を取られ、尻餅をつく翠星石
「きゃあっ!!こっ、これは一体・・・!!どうしたと言うのです・・・?・・・蒼星石!!」


 蒼星石は、自嘲に満ち満ちた泣き笑いを浮かべると、一片の蒼も残さず朱に染め上げられた衣装のまま、翠星石
にじり寄り、実の姉の柔らかな胸元へとその身を委ねた。翠星石は妹の凄まじい姿態に一瞬、全身を強張らせたが
蒼星石の心の嘆きが伝わると、その華奢な身体をしっかりと抱き寄せた。



禁じられた遊び(9) 終局 Das Ende


 蒼星石は、この一週間の内に、男との間に起こった出来事全てを、翠星石に打ち明けた。そのおぞましい内容は
姉である翠星石をもってしても容易く信じられる物では無かったが、目の前の蒼星石の姿が、真実を証明していた。
「・・・話はだいたい解ったですぅ。蒼星石・・・この人間は一般人とは違う、M男というタイプの人間なのですよ。
翠星石も、前の前の前の前の、その前のマスターがM男だったので、解るのですぅ。・・・でも、蒼星石のマスターが
ここまで酷い変態M野郎だったとは、知らなかったですぅ・・・」
 

蒼星石
 蒼星石の涙を優しく拭いてあげる翠星石。しかし、語りかける翠星石の視線は、真剣そのものだった。
「このままでは、この男は、二度と眼を覚ます事はないです・・・。多分、心の樹の成長を何かが、妨げているのです」
 姉妹は、顔を見合わせた。庭師の姉妹として今やるべき事は、ただ一つだ。
翠星石・・・本当にありがとう。マスター、今行きます・・・!」
「レンピカ!」「スィドリーム!」
 ふたりは、男の夢の中へと、吸い込まれていった。


「ふうん・・・こいつは本当にボクシングの事しか頭にないようですぅ。いわゆる、ボクシング馬鹿ってやつですね」
 ふたりが降り立った場所は、青く、微かな弾力を備えているが硬い平面、即ちリングだった。青い大地は地平線の
彼方まで続いている。その地表の所々からは、赤や青、あるいは白のコーナーが木々の様に生い茂っており、それらの
一つ一つには無数のグローブが実っていた。ふたりの頭上には、無数の照明が眩しい程に光っている。


「わっ・・・こいつもアイツみたいにちび人間かと思っていましたが・・・生意気にも、なかなか立派な樹ですぅ・・・」
 彷徨い歩くうちに、ふたりは男の心の樹を見つけ出した。ふたりの予想通り、無数の太い蔦が、幾重にも絡まり
照明の光を完全に遮断していた。ふたりはそのツタに耳を当てると、静かに目を閉じた。



禁じられた遊び(9) 終局 Das Ende


――俺は、おかしい事だが、蒼星石のパンチを受ける事自体に、無上の快楽を見出してしまった。確かに痛い。
痛いんだが、それ以上に、胸を締め付けられる様な、何とも言えないときめきを感じてしまうのだ。蒼星石
俺を殴る事に昂奮している。ならば、お互いに求めればいい。しかし、極め行くその先に待っているのは・・・
避けられない、俺の死だ。俺は蒼星石に殴り殺されるのなら、本望だと思ったことがある。でも、万が一
俺が死んだら、残された蒼星石はどうなるんだ。俺は、蒼星石が好きだ。蒼星石の為なら、何だって出来る。
もし蒼星石が望むのなら、この命を捧げる覚悟さえ、出来ている。一体、俺は、どうすればいいんだ・・・?


 男は、自己矛盾により苦しんでいたのだ。蔦は即ち、男の躊躇いの心、理性と言う名の箍であった。
「はあ・・・まったくこいつは救いようのねー変態腐れドMなのですぅ。蒼星石もこんな奴とはさっさとおさらばして
翠星石のマスターと契約するべきなのですぅ」
 蒼星石もまた、揺れていた。蔦から聞こえてきた声は、即ち、蒼星石自身の心の声でもあったのだ。
「とはいえ、このまま放ったらかしにしとけば、こいつは永遠に目を覚ます事はないのです。蒼星石、お前のその鋏で
蔦の上のほうだけちょこっと切ってやれば、こいつが変態M願望を起こす事はもうなくなるのですぅ」
 男の魂の呻きを聞き、初めて、蒼星石は己の胸の奥深くに眠っていた、恐るべき欲望の正体を認識する事になった。


――そうだ。確かに僕は、マスターを殴る事が好きだ。マスターは、僕のパンチを何も言わずに受け止めてくれる。
それが、最初の内は楽しかった。マスターに褒められるのが嬉しくて、夢中でマスターの顔を何度も何度も殴った。
でも、それは、僕の本当の悦びじゃなかった。僕が好きなのは、マスターにパンチを叩き込む事、そのものだったんだ。
マスターの柔らかい頬の感触。鼻を叩き潰した時の、身震いするような何とも言えない快感。噴き出す血の匂い・・・
僕は、もっと、マスターを殴りたい。もっと、強く。もっと、たくさん・・・。その為には、僕は今ここで
何をすればいい・・・?マスターの望みは、僕の望み。それを叶える為には、一体どうすればいい・・・?



禁じられた遊び(9) 終局 Das Ende


「つまりは、欲望の制御が大切なのですぅ。それをしなければ、ただのサルにも劣るのですぅ」
 蒼星石の右手には、庭師の鋏が携えられていた。それを見て、翠星石の両手の中にも庭師の如雨露が現れる。しかし
次に蒼星石が取った行動は、翠星石の思惑とはまるで異なるものだった。
「そ、蒼星石!?なっ、何をするのです・・・!?」
 庭師の鋏は、無数に枝分かれした蔦の頂点ではなく、その根元へと向けられていたのだ。
「マスター、僕はマスターの為なら、何でも出来ます。例えそれが、永遠の別れを伴う事になっても・・・!」


「やっ、やめるのです!正気なのですか蒼星石!!そんなことをしたらこいつは・・・ヒッ!!」
 如雨露を放り出し、必死に妹の凶行を抑えようとする翠星石。その鼻先に、蒼星石の左拳が突き付けられた。
「ごめん。翠星石。僕は・・・僕は、マスターの望みを、叶えてあげたいんだ。・・・それが、マスターの命を
今度こそ断つ事になるとしても・・・。わかって・・・翠星石
 立ち尽くしたまま、徐々に薄れゆく翠星石の姿。その表情は、哀切を極めていた。蒼星石は、今まさに男の心の箍を
完全に取り除こうとしている。その先に待っている未来は、男の死と、己の妹の停止という、最悪の終局だ。
翠星石は次第に白みゆく意識の中、絶叫した。


蒼星石のおばかぁッ!!また、あの暗闇に帰るつもりなのですか・・・!蒼星石・・・!蒼星石・・・!!」
 翠星石の脚が消え、胴体が消え、そして、存在が消えていく。
蒼星石ッ!!!」
 悲痛な絶叫を残し、翠星石の思念体は男の夢から消え去った。


「本当に、ごめん・・・。翠星石・・・。だけど、僕はマスターを愛しているんだ・・・」
 庭師の鋏は、蔦を根元から断ち切った。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 どす黒い夜の帳の中で、昏々と眠り続ける男。見る影も無く破壊され尽くしたその顔面の惨状とは裏腹に、その
相好は、実に安らかな寝顔へと一変していた。どうする事も出来ぬ自己矛盾から解放された男は、今まさに大空
――無限に広がる欲望と言う名の蒼穹――を自由奔放、縦横無尽に飛翔する為の、翼を得ていたのだ。
 金色に輝く庭師の鋏をもって男の躊躇いの心を斬り裂き、その精神を理性と言う名の鳥籠から解き放った蒼星石
しかしその心中は、かの男とは対照的に、揺らいでいた。今度は少女の心に、躊躇いが見え始めていたのだ。


――マスターは僕に殴られたい。だから僕は、マスターを殴る。僕は、そう思っている。でも、今もマスターは本当に
心の底から、そう思っているのだろうか。マスターの夢の中・・・あの時は、もしかしたら僕がマスターの心の声を
聞いているのをマスターは知っていて、僕の欲望・・・マスターを殴りたいという僕の望みを叶えさせる為に
死にたくない、殺されたくないと思う自分の心に、必死に嘘をついていたのかもしれない。僕の為に・・・


 男の心の樹の成長を妨げる障害は、もはや全て除去されていた。よって、男はいつ目覚めても、おかしくはない。
蒼星石に残された時間は少なかった。決断の時は、すぐそこまで迫っていたのだ。


 少女は意を決して、男への態度を冷酷に一変させることにした。そして、男から教わった全てのボクシング技術を
注ぎ込み、更に自らの理性のリミッターを外し、欲望の赴くまま男を滅多打ちに打ち砕く。そうする事で、男の精神に
おぞましき死の恐怖を一生消えぬ楔として深々と刻み込み、このような愚行を止めさせるのだ。そして、男の許を去る。
それが、蒼星石の導き出した、結論だった。
 少女の美しく透き通ったオッドアイに、今まで男と過ごした2年間の映像が、次から次へと克明に投影されて行く。
蒼星石は何だかとても哀しく、寂しくなって、ヒクヒクと啜り上げ始めた。しかし、男を待ち受ける死の運命から
救い出すには、こうするしか、ないのだ。やがて、少女の哀しみは慟哭となって、闇夜を引き裂いた。


 求めれば求める程に、離れて行くふたり。何故、天はふたりを導き、出逢わせてしまったのだろうか。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


「う・・・うう・・・ん・・・」
 目覚めの時が近いのか、唸り声と共に寝返りを打ち始める男。蒼星石は、その涙を隠す為にバンデージを痛い程に
両瞼へと擦り付けると、そのまま両の拳にまき始めた。迸る男の鮮血がグローブの手首部分から染み込んでいたのか
バンデージの終端近くは朱に染め上げられ、噎せ返る様な凄臭を放っていた。


 続いて、左拳に3ozを装着する。男が精魂込めて少女の為だけに創った、世界でたった一セットしか無い、種族を
越えた愛と思いやりの結晶。これから蒼星石は、この二つの蒼いグローブにより、男の顔面のみならず、その
思い出までをも打ち砕かなければならないのだ。
 涙で再び視界が霞み、グローブが見えない。しかし、少女にとって男にこの泣き顔を見られる事だけは、何としてでも
避けねばならなかった。幸い、男は未だ眠り続けている様だった。蒼星石は、左の3ozの握りを確かめた。


 男の様子に異変が起こったのは、蒼星石がその右拳にグローブを通し終えた直後の事だった。ベッドの上で再び
緩慢に転がり仰向けになると、右手で腫れ上がった瞼を弄り始める男。ついに、目覚めの時が来たのだ。
 およそ24時間、丸一日にも及ぶ、永い眠りから覚めた男。しかし、そのぼやける視界に最初に飛び込んで来たものは
己を見つめる蒼星石の優しい笑みでは無かった。それは、己の顔面に迫り来る張り詰めたグローブの蒼色だった。


 今にも目覚めようとする男の傍らに居た蒼星石は、男の胸に飛び込んで、泣きじゃくりたくなるような衝動と
必死に闘っていた。しかし、その抵抗も空しく、美しきオッドアイからは大粒の真珠の如く涙が溢れ出し、熱い激情は
頬を伝ってベッドを濡らした。もはや、蒼星石にとって、男の未来の為にしてやれる事は、これしかなかったのだ。
 蒼星石は、男の瞼が開かれるまさにその瞬間、逞しい首筋に飛び掛り、その顔面へと固めた右拳を振り下ろした。
少女は抑える事の出来ぬ、はち切れんばかりの歓喜に満ち満ちた涙まみれの笑顔を隠す為、その拳を振るって男の視界を
奪ったのだ。そして、馬乗りの姿勢はそのままに、少女の両拳は次々と男の顔面へと吸い込まれていく。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 その拳は、フックとも、ストレートともつかぬ、まさに暴力そのものだった。振り下ろされる蒼い弾丸が男の瞼を
抉り、頬を歪ませ、鼻を叩き潰して行く度に、男の顔面に開いたあらゆる傷口、口腔、そして鼻腔からは鮮血が
無数の微粒子となって飛び散って行く。それはまるで、零れ落ちる涙と爆裂する鮮血が、争っているかの様だった。
 今、蒼星石が男の為に出来る、唯一にして最大の思いやり。それは、男の顔面を殴り潰す事により、男への一切の
思いやりの情を捨て去る事であった。哀しき双拳は、更に加速を続けた。


「あぶぅっ!!うぶっ!!ぷふぅっ!!ぶふっ!!・・・ぶうっ!!んうっ!!ぶぷっ!!ふぶぅっ!!」
「シシィッ!!シシッ!!シシッ!!シシィッ!!・・・シシィッ!!シシィッ!!シシィッ!!シシィッ!!」
 やがて蒼星石の両拳は、流麗なワンツーと化して男の顔面の中心部へと収束し始めていた。柔らかいベッドの上での
マウントポジションという不安定な姿勢ではあったが、既に蒼星石のパンチを30発近くも浴び続けた男の意識レベルは
明らかに低下していた。しかし、へし折れ、剥き出しとなっていた男の鼻の痛覚神経を、蒼く冷たい3ozが容赦無く
抉り潰す度、男の意識は意思に反して覚醒してしまうのだった。


 一方、涙と鮮血の闘いは、その終焉を迎えようとしていた。蒼星石の両眼から溢れ出す涙は次第にその勢いを失い
一撃ごとに噴水の様に噴き上がる鮮血の暴威は、いつしか少女の端整な顔を直接叩き付けるまでに亢進していた。
涙にまみれた少女の悲痛な表情を、男の鼻から迸った紅く温かい液体が、優しく、撫で回すように洗い流していく。
 やがて、突然に拳は止まり、男は再び深い眠りについた。廃空間に、暫しの沈黙が訪れた。


「・・・うあがァッ・・・!あッ・・・あがァァァァッ・・・!!!」
 男は、激痛と共に再び眼を覚ました。その異常なまでに見開かれた男の両目が捉えたものは、今まで見たことも無い
蒼星石の、美しくも妖しい、凍り付く様な微笑だった。その円らな瞳は氷の刃を思わせる冷徹さをもって男を見下し
柔らかな唇はその残虐性を隠そうともせず、醜く釣り上がり、淫らに歪んでいた。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 男は、少女の血まみれの威容が醸し出す、吐き気を催す程の冷たい美しさに、思わず目を背けようとした。しかし
瞼が、動かない。少女の右拳が男の額の肉を人智を超えた膂力で引き上げ、男の視線の逃げ場を塞いでいたからだ。
蒼星石は、心の底から男に感謝していた。少女の哀しみを洗い流したのは、紛れも無く、男の噴き上げた鮮血なのだ。
 少女は、己の魂の深奥に眠る残虐性を更に解放するべく、行動を開始した。全ては、男の未来の為に。


「おはようございます・・・僕の、大切なマスター」
 蒼星石は、己の口から迸ったその言霊の余りの冷徹さに、自ら戦慄した。そして、男の頭を枕に押し付けると
男に見せ付けるかの様に、グローブの紐を口で固く締め上げた。限界まで圧縮された3ozが、呻き声の様な異音を発した。
「何故、人形が喋るのか。そう・・・考えた事はありませんか」
 それは、質問ではなかった。蒼星石の小さな左拳は、男の寝間着の襟を掴んでいた。首が圧迫され、男の喉下から
鼾の様な奇声が捻り出される。少女はそのまま男の重い身体を90度左に引き摺ると、上半身を抜き上げ座らせた。


 硬いフローリングの床が牙を剥く奈落を背に、男が見たものは、腰溜めに引き絞られて行く少女の右拳だった。
その構えは、かつて男が最後の切り札として使っていた必殺ブロウ、スマッシュの型だ。
「うああああっ・・・ぐぅひぃぃっ・・・!!」
 男の全身から既に運動能力は失われていたが、防衛本能が脊髄に命じ、その両腕を顎の前で交差させ打撃から
逃れようとした。その情けない悲鳴と無様な姿は、少女の奥底に眠る陰惨極まる嗜虐性を呼び覚ますに十分だった。
少女の口許から狂気を孕んだ粘液が垂れ落ちると、男の半ば潰れた視界は、ガクガクと激震した。余りに、余りにも
強く、固く握り締められた少女の右拳が痙攣し、その暴虐のリズムがベッドを通じて男の全身を犯したのだ。
 魂を震わせる未体験の昂奮に、蒼星石は、男の為に用意していた次の台詞を忘れてしまった。赤黒く染まった
ズボンに包まれた蒼星石の脚と脚との間には、男の鮮血よりも熱く、粘ついた液体が漏れ出していた。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 ギ・・・ギ・・・グギギギギッ・・・ギッギッギィッ・・・!!
 肘、肩、腰、膝、足首、そして拳・・・蒼星石の全身を繋ぎ止めるあらゆる球体関節から迸る、未曾有の異音。
既に、少女の恐るべきボクシングテクニックは、男の顔面のみならず少女自身の体組成をも、脅かし始めていたのだ。
 異音の正体を認識した少女の眼界に、自らの右拳が齎すであろうおぞましき「結果」が、余りにも鮮明過ぎる
像として投影されていく。少女は、これから行われようとしている自らの所業に思わず恐怖し、拳を引き戻そうとした。
しかし、右拳が動かない。「何者か」が、恐るべき力で少女の右拳を押し出そうとしているのだ。


――だ、誰っ・・・!?
 部屋の中には、男と蒼星石のふたりしか居ない、筈だった。蒼星石が背後に視線を向けようとするその最中にも
「何者か」による少女の右半身への圧力は急激に増していく。蒼星石は、全身全霊をその小さく繊細な右拳に注ぎ込み
その暴圧に抗うしかなかった。一瞬でも集中力を切らせば、その瞬間、全てが終わってしまうような、そんな気がした。
 蒼星石の清潔に整えられた白い歯が擦り切れる程に噛み締められ、全身から発散されていた球体関節の軋む異音に
更なる狂気の調べが加えられた。


 円らな両眼を毀れ出さんばかりに見開き、血にまみれた華奢な全身を恐るべき狂音波と共に戦慄かせる少女の様子は
男にとって、万物を喰らい尽くす悪魔の様に恐ろしく、同時に、万物を照らし出す女神の様に美しかった。
 男の両瞼から、熱い雫が零れ落ちた。男は、殉教者の様な精神をもって、己の運命を受け容れようとしていた。
一方、人間としての肉体は、もはや、ただ、どうする事も出来ず、小便を漏らし無様に運命に抗っていた。


――誰!?・・・誰なの・・・!?・・・ぐッ・・・!・・・ぐううううううッ・・・!!
 蒼星石の3ozに秘められた禍々しいばかりの破壊力は、既に人間である男の致死量を遥かに超えてしまっていた。
 少女の自内で行われる恐るべき葛藤が長引くにつれ、皮肉にも、その右拳には狂おしいまでの殺戮のエネルギーが
欝積して行くのだ。蒼星石は、自らの右拳が今度こそ男の生命を絶つ凶弾と化した事を、認めざるを得なかった。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 その時、声が聞こえた。声の主は、蒼星石の背後ではなく、蒼星石自身の「内部」に潜んでいた。
――くすくす・・・可哀相な蒼星石・・・!・・・いつまで、自分に嘘をついているつもりなの・・・?
  ・・・本当はやりたくて、やりたくて堪らないんでしょ?・・・ほら、撃ち抜いちゃいなよ。君の、望み通り・・・


 蒼星石の表情に狼狽の色が走ると同時に、辛うじて保たれていた右半身の力の均衡が崩れ始めた。
――ち、違う・・・!!僕は、僕は・・・マスターを殺したくなんてない・・・僕はただ、マスターの・・・!!
――へぇ・・・そうなんだ。蒼星石はマスターを殺したい・・・!くすくす・・・正直な所もあるじゃない・・・!
  ふふっ・・・。僕は、素直な君が・・・好きだよ。・・・ねえ、「蒼星石」・・・!?
――あっ・・・!あ、あ・・・!!


「ああああああああっっ!!!!!!!!」
 魂の絶叫が、男の鼓膜を劈いた。薄く、固く、そして冷たい蒼黒の3ozの内部で、少女の容量を超えて蓄積された
紛う事無き「殺意」は、ついに解放の時を迎えたのだ。その右拳の挙動を追う事は、もはや現世のいかなる衆生にも
不可能だった。それは、全ての生ある者がかつて経験した事の無い「死」そのものだったからだ。
 圧縮と解放による爆発的速度をもって撃ち出された蒼星石の右のボクシンググローブは、弱弱しく顔面の前に
構えられていた男の左肘を嘲笑うかの様に弾き飛ばすと、男の顎の左下へと着弾し、その狂気の全てを注ぎ込んだ。


 その破壊は、神秘的ですらあった。薄ら寒い大気を切り裂いた少女のグローブは廃空間に煌めく蒼い残光を描き
暴打のフォロースルーにより華麗に舞い上がった少女は、空中で1回転しベッドの下の床へと妖精の如く舞い降りた。
 一方、男もまた虚空を舞っていた。しかし、その様子からは、少女の様な優雅さは微塵も感じられなかった。
 


禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 インパクトの瞬間、迸る激情により鋼鉄と化した蒼星石の右拳は男の顎へ深々とめり込むと、無慙にも左顎の骨格を
叩き割り、その恐るべき暴威を解放した。衝撃波は男の顔面のみならず全身のあらゆる細胞を沸騰させ脳機能を直ちに
停止させる。しかし、それは破壊の幕開けに過ぎなかった。
弾き飛ばされた男の左肘が背中に激突する異音と共に少女の耳を楽しませたものは、男の奥歯が砕け散る
クリスピーな音色だった。断末魔の爆滅的激痛により一刹那毎に失神と覚醒を繰り返す男。最後の生の瞬間、男の
網膜に焼き付けられたものは、少女の死の微笑だった。
 

 そして、蒼星石の視界は紅に犯される。人体の極限を超えて圧縮された男の顔面のあらゆる裂け目から、鮮血が
爆裂したのだ。狂気の濃霧は少女の眼前だけではなく、廃空間にその宇宙を拡げて行く。
 さながら、その様子は水泳の飛び込みか体操の跳馬の様だった。男は左肘、左肩をへし折られた狂勢のまま
空中を激しく横に回転しつつ、緩慢に縦に旋回しながら鮮血噴霧器としての機能を果たした。そして、錐揉みと共に
額から硬く冷たい床に叩き付けられ、暫し倒立した後に仰向けになると、そのまま動かなくなった。


 男と蒼星石が2年間の間、種族を越えた愛を育んできた住処は、今まさに地上に現出した冥府と化していた。
冥府を覆う霧が薄らいでいくと、その中心では、更なる悪夢の光景が繰り広げられようとしていた。
 屍の如く脱力した男を無理矢理掴み起こし、その醜く潰れた鼻柱に右ストレートを叩き込む蒼星石。1発、2発、3発。
やはり、男からは何の反応も無い。蒼星石は、嬉々として物言わぬ男の顔面を叩き潰し続けた。


 もはや、蒼星石は死んでいた。ここに居るのは、もう一人の蒼星石・・・暴力と破壊の化身の姿だった。
13発目のパンチが男の鼻を叩き潰すと、突然、堰を切ったかの如く噴き出す鼻血が少女の狂態を塗り潰した。
 男は、まだ死んではいなかった。鍛え抜かれた左腕と顎の骨格が一回限りの盾となり、殺意に満ち満ちた
スマッシュの脅威から男の脳を守ったのだ。しかし、男の意識は戻らない。男は、動物的反射により鮮血を
撒き散らす事しか出来はしなかった。少女は、全身に鮮血のシャワーを浴びその味を堪能すると、更なる遊戯を求めた。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 蒼星石は、男の襟首を掴んだまま身体の向きを微調整すると、右のアッパーカットで男の顎を撃ち抜いた。
直後、男の体躯は廃空間の壁の角に凭れ掛かっていた。アッパーカットにより男の腰が浮き上がった瞬間、電光の様な
スピードのワンツーが男の鼻柱を捉え、その躯を吹き飛ばしたのだ。それは、蒼星石会心のコンビネーションだった。
 男は今までに、「レッスン」において数え切れぬ程の蒼星石のワンツーをその鼻に浴び続けていた。しかし、その
全てにおいて、蒼星石の男を労る思いやりが、無意識下に拳にブレーキを掛けてしまっていた。男は未だかつて
「本当の」蒼星石のワンツーの味をその顔面で味わった事は、無かったのだ。


 男に迫る蒼星石の脚が、止まった。力無く壁に凭れていた男の全身が、蠢めき始めたのだ。頭を強打したショックで
意識を取り戻してしまったのか。それとも、至高のワンツーが、男の内なる悪魔を呼び起こしてしまったのか。男は
止め処無く迸り溢れる鼻血に溺れつつも、干からび死に行く蚯蚓の如く、異様極まる亡者のダンスを踊り始めた。
 理性と欲望の決戦。既に蒼星石の闘いは、欲望の勝利に終わっていた。今まさに、男の中でもまた、最後の決戦が
始まっていたのだ。己を見据える蒼星石の眼は、大いなる光――殺意――に満ちていた。蒼星石のマスターとして
死を断固として拒む理性と、最愛のパートナーによる死を受け容れたいという欲望。二者が、激しく火花を散らした。
 

 男の人間能力は既に限界を超越していた。いつ意識を失い、また絶命しても、決しておかしくはなかった。およそ
5分もの時間を掛け、男が取った姿勢・・・それは、両膝を突き顔面をかの少女の前に曝け出す、かつての
「レッスン」と同じものであった。男の指輪からどす黒い煙が立ち昇り、肉の焦げる異臭が蒼星石の鼻を衝いた。
 男は、ついに、死を受け容れたのだろうか。


 冥府に陰惨なる破裂音が3度轟き、輻輳した。蒼星石が両のボクシンググローブのナックルパートを男の眼前で
叩き合わせた爆発音だ。そして、一分の隙も無い峻厳なるファイティング・ポーズが、男の眼界に聳え立った。
 今まさにふたりは、破滅への最後の階段に一歩を踏み出し、それを登り始めたのだ。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 そこから先の酸鼻たる有様は、もはや言語を絶した。それは紛れも無い、禍々しき猟奇殺人の過程そのものだった。


 左!右!左!右!・・・少女の左右のフックの連打は、留まる所を知らない。ここに来てもなお、少女のパンチの
フォームは、男から教えられた技法を忠実に守り、流麗な様式美を保っていた。けたたましい爆裂音と共に、一撃毎に
魔物の如く拉げ、物言わぬ運動機械の如く発射される男の顔面。しかし、その度に壁面に激突し跳ね返される男には
吹き飛びパンチから逃れる事さえも、許されはしなかった。少女は時折連打を止め、男を前に脱力させると、無情にも
渾身の力を込めたアッパーカットで顎を撃ち砕き、後頭部を壁角に激突せしめた。そして、暴力は再開される。


 男の最後の闘い――理性と欲望の決戦――が欲望の勝利に終わってから、既に50発以上のパンチがその顔面を
撃ち滅ぼしていた。しかし、ドールである蒼星石の肉体には、疲労と言う概念すら存在しなかった。顎、頬を的確に
撃ち据え、テンプルまで及ぶ少女の両拳によるラッシュ。少女の全身は男の返り血を養分とするかの如く
その躍動感を増し、薄い3ozが肉を撃つ爆砕音と側頭部が壁に激突する撃滅音は冥府の交狂曲を奏で上げた。
 

 人間を、殺す。それも、自らの拳で、殴って殺す。それは、優しく聡明な蒼星石にとって、初めての体験である事は
間違いなかった。
――マスターは、僕のパンチ・・・何発で、殺せるのかな・・・?
 狂気が、蒼星石を犯していた。蒼星石は、限り無き純粋さをもって、その問いに答えを出すべく、運動を続けた。


 「その時」は、着実に迫りつつあった。再び立ち込めた生臭い死の濃霧の中、178発目の右フックが男の頬を
抉り抜くと、跪く男の背後から、爆裂音と共に異臭が漏れ出した。それは、男の中枢神経系までもが少女の
ボクシングに屈し始めた、厳然たる証拠であった。常人であれば吐き気を催し、目を背けざるを得ない死の無限舞踏。
しかし、少女は嬉々としてそれを楽しんだ。連打は、更なる狂威を孕み続行されていく。
――もうすぐ・・・!もうすぐ・・・!マスター・・・!!
 狂気。狂気としか、それは言いようも、無かった。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 何の変哲も無いアパート部屋の一角に忽然とその姿を現した、赤黒い濃霧に覆われた異次元空間。もはや、その中で
行われている惨劇を外部から確認する事は、全く不可能であった。それは死の国へと繋がる、冥府の門だったのか。


――・・・んあぁっ!!・・・んふぅぁぁぁっ・・・!!!・・・マスター・・・!!
 蒼星石は、全身を貫く未曾有の法悦に震えていた。その白く繊細な左拳が男の顎を砕き、儚く華奢な右拳が鼻を
叩き潰す毎に、少女の理性は崩壊し、欲望は満たされると共に無限に増殖して行くのだ。
 一方、男の肉体における闘いは、その終焉を迎えようとしていた。迸る体液は、鮮血だけでは無くなっていたのだ。
少女の暴虐のリズムに合わせ、鮮血を噴き上げ、吐瀉物を撒き散らし、大小便を垂れ流す男。それでも、それでも
少女のパンチは、止まらない。湿り切った破裂音は、無慈悲にも、加速を続けるばかりであった。


 324発目の右ストレートが男の潰れに潰れ切った鼻を更に叩き潰し尽くすと、男は聞くに堪えぬ獣そのものの咆哮と
共に、スイッチが入ったかの如く一物を屹立させ、精を放った。それは、人間である以前に一個の動物である男の肉体が
最期に子孫を残そうとする、哀しき生存本能の顕れだった。硬い壁と、更に硬い紺碧の3ozの狭間でビクンビクンと
その顔面肉を痙攣させ、動かなくなる男。少女もまた、全身の躍動を静止させた。ついに、その時は来たのだ。


 冥府の門を潜り、廃空間の中央へと還って来たふたり。その肢体からは、もはや紅以外の一切の色彩は失われていた。
蒼星石は、自分の右脇に男を跪かせ髪を左拳で掴むと、スマッシュの要領で、右拳に力を溜め始めた。もはや
葛藤は無い。そこにあるのは、狂おしいまでに透明な欲望、ただ、それだけだった。
――これから、僕は、マスターを・・・殺す!!!・・・このパンチで、マスターを・・・殴り殺す・・・!!!!!
 蒼星石は全ての視覚を、潰れ切って赤黒い餅の様になった男の鼻一点に集中させ、己と男の全ての欲望を、その硬く
張り詰めた右の3ozに注ぎ込んだ。欲望の果てに、彼らは、一体、何を見るのだろうか。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 かつて、少女の渾身のスマッシュによりその靭帯と骨格とを完膚無きまでに撃ち砕かれ、重力に引かれ垂れ下がる
ばかりの死肉の塊と化していた男の左腕。その先端付近から眩いばかりの蒼光が、一条の稲妻の如く迸った。既に
男は生ける屍と化していた。このまま放置されたとしても、恐らく永久に意識は戻るまい。それでも男の欲望は
最愛のパートナーである蒼星石のパンチの味を、求めていたのだ。
 光は、少女の胸の中心からも溢れ出し、光と光が、冥府を覆い尽した。光の奔流の中で溶け合い、シンクロする
ふたりの透明なる願い。この世ならぬ人外境の愛とは、かくなるものだったのかも知れない。


 煌めく光輝のヴェールの中枢から発生した、激甚なる衝撃波。その波動は生臭い瘴気を構成する分子全てを
発狂せしめると、窓ガラスと蛍光灯とを爆砕し、一瞬にして冥府は漆黒に覆われた。竜巻の如く凄まじき捻りを伴った
蒼星石の右の3ozが、男の顔面の中心へと叩き込まれたのだ。
 虐狂の魔拳は、既に無数の破片に砕け散っていた鼻骨を更に残虐にも撃ち砕き、無慈悲にも掻き回し、凄惨にも
抉り潰し抜き蒼黒い宇宙を形成すると、その衝撃の片鱗は頬骨、顎骨、眼窩、あらゆる顔面組織の組成を脅かした。


 少女の右拳が振り抜かれると、男の魂は轟烈なる破滅音と共に異界へと瞬転する。その頸は頚椎の可動範囲の
限界を超えて仰け反り、喉の皮膚は短剣で抉り取ったかの如く張り裂けた。男は、両爪先と顔面の三点で己の体重を
支えたまま、かつては鼻が聳えていた箇所をフローリングに擦り付けると、夥しい量の血と肉と骨の混合物を硬い床に
塗り付けつつ、一直線に地獄の滑走を続けた。そして、台所とリビングとを隔てる扉に腹から激突すると、体内に
遺されていた全ての子種を天井へ向け垂直にレーザーの如く叩き付け、そのまま仰向けに脱力した。


「・・・・・・あははははははははははははははははははははっ!!!!!!!!!!!!!」
 微動だにせぬ男。その顔面に飛び掛る少女の狂態は、さながら、自らの獲物の肉を貪る飢えた狼の様だった。
そして、更なる拳が振り下ろされんとしたまさにその時、蒼星石の全身に、異変が起こった。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


――!?
 蒼星石は、右拳を引き絞ったその姿勢のまま、石化した様に硬直していた。既に、その華奢な肢体の運動を司る
権能は何もかもが失われ、腕一本、指一本を動かす事さえも、叶わなかった。
 ・・・ガチャッ!!
 意思を持たぬ、うち捨てられた只の人形の如く墜落する蒼星石。見開かれた両の眼球は動かす事も閉じる事も出来ず
ひたすら虚空を見つめていたが、脈々と右頬に伝わる男の魂の響きが、少女に己の置かれた状況を理解させていく。


――あっ・・・あああああっ・・・!!
 その鼓動が徐々に弱まり行くにつれ、余りにも強大な睡魔が、少女へと襲い掛かる。蒼星石は、全てを今、理解した。
 ついに男の生命力が、尽き果てたのだ。蒼星石翠星石を始めとするローゼンメイデンと呼ばれる生きる人形達は
基本的には媒体となる人間の力を必要とせず、現世での活動を続ける事が出来る。しかし、蒼星石は、流血の宴の最中
己の持てるエネルギーの全てを、自らと男の宿願の成就の為に、我知らず絞り尽くしてしまっていたのだった。
 男の眼から最期の涙の一雫が毀れ落ちる。その心音が収束していくと共に、少女の意識もまた、幽冥へと堕ちていった。


――う、ううっ・・・。ここは・・・どこだ・・・?
 男が目を覚ました場所。そこは、じっとりと湿った木製の床だった。床の隙間から垣間見ると、眼下には真紫の大河が
滔々と流れているのが解る。濃密な靄が辺りを包み込んでおり、その向こう岸の様子を確認する事は、出来ない。
一糸纏わぬ姿のまま、ただ呆然と立ち尽くす男。その眼界に、意外の人物が現れた。


――る、瑠璃・・・!?
 瑠璃、と呼ばれた人物は、この上も無く慈愛に満ちた微笑みをもって、男の許へと歩を進めて行った。
――もう、頑張らなくても、良いのですよ・・・
 生まれたままの姿の二人。少女のしなやかな右腕が、男へと差し伸べられる。
――さあ・・・お味噌汁が、冷めてしまいます・・・これからは、ずっと一緒に・・・!?
 少女の透き通った掌が男に触れようとした、まさにその瞬間、少女の姿は光の粒となって靄の奥に消えていた。
男は、渾身のスマッシュを雄雄しく突き上げたまま、絶叫した。


――俺は・・・蒼星石・・・お前を守る!!!!



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


「う・・・ううっ・・・ん・・・」
 蒼星石は、男の胸の上で目を覚ました。冥府を覆っていたどす黒い瘴気はすっかり晴れ上がり、穏やかな月の光が
ふたりを照らし出していた。少女は、頭上に温かな違和感を感じていた。
 その違和感の正体を蒼星石の明晰なる頭脳が認識した瞬間、全てが、一本の糸に繋がった。
 蒼星石の頭を優しく撫で上げていたものは、他でもない、男の右手だったのだ。


 男はかつて少女の心の内奥に生じた躊躇いを、察知していたのだ。気づかれぬ様、薄く開かれた瞼の隙間から覗く
少女の悲愴な表情。男が少女の意思を汲み取るのに、もはや言葉は、必要無かった。そして男は、その全ての拳撃を
顔面に受け止める事で蒼星石と己の欲望を叶え、見事に生還する事により少女を守り抜いたのだ。
 蒼星石は、男の逞しく、温かい胸板の上で、いつまでも、いつまでも、熱い涙を流し続けた。


 暴打の衝撃波により崩落し、錆び付いたサッシを残すのみとなっていた窓。その外から、ふたりを見下ろす影があった。
「まーったく・・・こいつは本当に救いようのねー変態ドM野郎もいいとこですね。でも、蒼星石・・・あの人間には
お前しかいないのですよ。・・・精精、大切にしやがれですぅ。うー、思い出したら何か腹たってきたですぅ!
何であのちび人間はいっつもいっつもあいつとばっかり・・・!キーッ!むかつくですぅ!!」
 鞄に乗った人形の影は、夜闇へと消えて行った。その表情は、己の妹と同じく、実に穏やかな安堵に包まれていった。


 誰の手配か、男はすぐさま病院へと搬送された。左腕、鼻骨、両頬骨、上下顎の骨格は原形を留めぬ程に複雑怪奇に
砕け、骨と内部器官とが見える程の顔面裂傷に加え、常人の致死量を超える出血多量により脳神経にも若干の障害が
出ていたが、医師団の懸命な治療と本人の生への執着により、男は奇跡的にも一命を取りとめた。


 それから3年、とあるスポーツ紙の終面を飾ったその記事は、全ての人々に驚きと感動、そして勇気を与えた。
「謎の暴行集団から少女を守り、顔面骨折から奇蹟の復活を果たした不死鳥ボクサー、必殺スマッシュで新人王獲得!」
 その毎日のリハビリに、一体の精巧なアンティーク・ドールが関わっていた事を知る者は、いない。