投稿SS4・光の食卓(前編)

光の食卓(1)兄と妹


 男は、息苦しさに眼を覚ましつつあった。男の口をぴたりと塞ぐその物体は、柔らかく、ほの暖かく、そして
微かに脈打つ2つの肉塊だった。眼前には男にとっての、今やただ一人の肉親の顔がぼやけていた。


――光…やめろよ、朝から……
 男は、起き掛け特有の倦怠感の中、緩慢に口を動かし少女の行為を咎めようとした。しかし、少女はそんな
男の抵抗さえ許そうとせず、更に男の口蓋内へその粘ついた肉質を滑り込ませていくのだった。


 男の五感は、徐々にその感度を復活させていった。
 温度計の示度は31度を記録し、時刻は正午を丁度過ぎた位だった。きめ細かい少女の肌には、既に
珠の汗が浮かび、少女の全身の蠢動に合わせてその液体は強烈な日差しを反射しプリズムの様に煌きつつ、男の
顔面へ虹色の雫となって注いだ。少女の甘く芳しい香りが次々と男の鼻腔へと吸い込まれていった。
 少年と見紛うばかりの瑞々しい魅力を湛えた少女の顔立ち。その愛らしさはそのままに、表情に変化が
起こり始めた。ゆっくりと、少女の眼が狐の様に細められていく。綺麗に揃えられた睫毛の奥から
覗く火照った視線は、男の両眼を正面から射抜いていた。明らかに昂奮している。それは男も同様であった。
 実の妹の唾液は甘く、麻薬的な旨味を湛えていた。その液体は始め重力に従い流れ込んで来るばかりだったが
その流量が突然増し始めた。妹の悪戯は、更にその蠱惑の度合いを増していくばかりであった。男は愛する妹の
蜜を味わいつつ、ふと、昔を思い出していた。



光の食卓(1)兄と妹 続き


 男には、妹以外の肉親は誰一人として居なかった。両親は妹が生まれて間もない頃揃って他界した。
原因は交通事故と言う事であったが、男は殆どその有様を記憶していない。というよりも、事故以前の記憶が
綺麗に抜け落ちてしまっているのだ。両親を一夜にして揃って亡くすという大衝撃に、繊細な少年の心は
耐える事ができなかったのであろうか。その後、唯一の親族であった祖父に預けられ妹と3人で暮らして来たが
その祖父も4年前、妹が10歳の頃急死したのであった。資産家だった両親の遺した莫大な遺産により
当面の暮らしには困らないので、男は毎日働きもせず、家に居るのだった。
 こうして、男と少女、兄と妹は二人きりになった。あらゆる肉親を失ったふたりにとってお互いの存在は
かけがえのないものとなり、昼と無く夕と無く、お互いの肉体を求め合う様になっていったのだ。


 男の回想は中断された。結合の上の肉塊が、持ち上がっていくのだ。下の肉塊はその動きに合わせてやや上起
したが、上の肉塊を捕まえる事はできない。小悪魔たるその唇は、煌く糸を引きつつ、ゆっくりと上下し始めた。
「んっ…はぁっ……。ふふ、お早うございます。お兄様…」
 落ち着いた通りの良い美声と、愛する妹の一糸まとわぬ姿に、男は思わず放心した。そして、妹の細く繊細な
指が、男の寝間着のボタンにかかる。結合はふたりの全身、120兆の全細胞により再開された。


 男は、最愛の妹の全身をその全身で受け止めた。祖父の死後始めたボクシングで鍛えたその肉体は、海獣の様に
弾力に富み、絹の様にきめ細かく繊細で、そして、マシュマロの様に柔らかかった。止め処なく溢れ、男の五体に
塗り付けられベッドに染み込んで行く少女の汗。それは急上昇する男の体温が、その膨らみかけの乳房
引き締まった腹筋、華麗なフットワークを産み出す太腿を通じて少女に伝わり、融かしていく様を想起させた。
 結合は、いつ果てるともなく続いた。淫靡な水音が、盛夏の寝室に木霊し続けた。



光の食卓(1)兄と妹 続き


 ふたり揃っての昼食。メニューは、兄特製のモツ煮掛けご飯だ。使用人を雇う事も出来るが、アスリートである
妹の体を気遣って、毎日妹の体調に合った献立を考えるのが男の唯一の趣味となっていた。少女は小さな口に
右手に持った短めの箸で上品にモツ煮と飯を運びつつ、妙に艶のある声で男に話しかけた。
「もぐもぐ…ところでお兄様、今日でしたよね。…約束」
「ああ、そうだったな。覚えてる。メシ食ったら行くんだろ?付き合ってやるよ。光、楽しみにしてたもんな。
そうだ。昨日は朝から晩まで特訓だったみたいだけど、体、大丈夫か?筋肉痛とかなってないか?」
「ふ…特訓の事ならご心配なく。今日のために軽く、調整しただけですから」


 時節は8月半ば、中学2年生である少女は既に夏休みに入っていた。運動などまるで興味の無かった兄と違って
少女はその青春をスポーツ、ボクシングに捧げていた。よって週4日は隣町のジムに通い鍛錬を欠かさないのだ。
「丁度ジムの方々が、合宿で皆出てしまわれていますので…今日は貸し切りで使えますの。他の方は誰も
居られませんから、気兼ねなく私の練習の成果をお見せすることが出来ますわ」
「何か夢みたいだな。前からお前のボクシングを見てみたいと思ってたんだけど、見学禁止だもんな、あそこ」
 美少女は、顔を伏せて微笑を浮かべた。そして、そのまま独り言の様に返答した。
「夢…。そうですね。夢なら、このまま終わらなければいいのに…」
「ははは、ところで、ジムで何を見せてくれるんだ?いきなりスパーリングとか言うなよ?死んじまうからさ」
「うふふ、まさか。そうですわね…お兄様のお好きな様に。お兄様のための日ですもの」
 男はやや逡巡したが、考えがまとまったのか、こう答えた。
「俺が決めていいって?じゃあ、まずは…」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(2)ジムにて 


「サンドバッグ打ちだな。ボクシングと言ったらやっぱりこれだろ!」
 男は、まずサンドバッグ打ちを見せて貰うことにした。


 ジムへは電車で3駅ある。車内上部から吹き下ろす冷風が右から左へふたりを撫で回すと、少女の背中
まで伸びた黒髪はベルベットの如き艶を見せ付けつつ瀑布の如く荒れ狂った。烈風が通り過ぎると長髪は
直ちに静粛を取り戻し、寸分の狂いも無く切り揃えられたその毛先の直線は、人間的と言うよりももはや
精巧なフランス人形を思わせる様な超然とした美を感じさせた。風は左から右へ吹き返した。ワンピース
から伸びた生白い脚、スレンダーな体型とも相俟って、その美は車内の全ての人間を魅了するに十分だった。
 美少女が降車すると、車内の全ての男の嫉妬と憎悪を一身にその背に受け、男もその後に続いた。


 ふたりは目的地に到達した。そこは2階建ての所々ひび割れた古いビルで、2階部分は住居になっていた。
「なになに…『生蕎麦 しま野』。ここそば屋じゃねえか。しかも閉まってるし」
「いえ、ここでいいのです。嶋野会長は副業でおそば屋さんもやってらっしゃいます。今日は会長も合宿
ですが、特別に鍵を貸してもらっていますから、問題なく練習できますよ。入口はあそこです。お兄様」
 少女が指差す先には、ひと一人通れるかどうかの幅の下り階段があり「嶋野ボクシングジム」と記された
錆び付いた小さな看板が掲げられていた。少女を先にして、ふたりは地下へ足を踏み入れていった。


 少女が、持っていたキイで扉を開けて押すと、強烈な冷気が男の全身を襲った。入口付近にある空調の
示度を見ると「希望温度18度、現在温度18度」とある。少女は内側からドアをロックしつついった。
「昨日からうっかり付けっぱなしにしていたみたいです。いつもは会長含め私以外に10人程練習しています
から、設定は18度くらいで丁度いいのですが…まあ、練習している内に丁度良くなります」
「涼し〜!俺はこの位で丁度いいよ。しかし、結構設備揃ってるなあ。リングもすげえ立派だしさ」



光の食卓(2)ジムにて 続き


 男の言うとおり、小さいながらも設備の揃ったジムであった。入ってすぐ左には白のマットで覆われた
リングがあり、リングの前、入口の対角の位置にはサンドバッグが2台、その横にはスピードバッグ
上下支持式のパンチングボール、シットアップベンチなどが配置されていた。


 物珍しげにジム内を眺め回っている男を促す様に、甘く優しい声で少女はいった。
「ふふ、お兄様ったら…。そんなにジムが珍しいですか?でも今日はたっぷりと、お兄様に私のボクシングを
お見せしたいと思いますので…そろそろ、お着替えにしましょう」
「あっ、ごめんごめん。何しろ俺と来たら格闘技経験ゼロどころか喧嘩もしたことないからついつい
興奮しちゃってさ。ところで、俺はこのまんまでいいの?」
「お兄様の着替えもちゃんと用意してありますよ。向こうの男子ロッカーで着替えてきてください」
 少女は持参したスポーツバッグの中から白いランニングシャツと揃いのトランクスを出し、男に手渡した。
「へぇ〜っ。気分出るなぁ。でもこれ、なんか時代劇の死装束みたいじゃない?」
 少女の目は糸の様に細められ、無言の内に笑いの表情を形成した。明らかに、普段の花の様な笑みとは違う
見たことも無いその微笑の異様さに、男は硬直した。静寂の中で、己の心臓の鼓動だけが聞こえていた。


 カーン!!
 ジム内に突然、金属音が響き渡った。男は心の臓が口から飛び出さんばかりに驚き飛び上がった。
少女は普段の優しい笑みに戻って、入口付近の装置をポンポンと叩きつつ男に説明した。
「あ、これも付けっぱなしに…。これは自動ゴングです。3分1分ごとに鳴る様に設定してあります。
ではお兄様、私は女子ロッカーで着替えてきますから、着替えが終わり次第声をかけてくださいね」
 そう言い残し、少女は髪を揺らしつつシャンプーのいい匂いを残し、ロッカーへと消えた。
 男の着替えは妹より早く終わってしまったが、昼食を食べ過ぎたのか、便意を催してしまった。
「トイレ行って来るからちょっと待っててくれな」
 男はそう妹に告げると、ロッカーの隣の個室に消えた。その間、ゴングは5回打ち鳴らされた。



光の食卓(2)ジムにて 続き


 男が出てくるとそこには、美しきボクサーの姿があった。白いゆったりとした薄手のトレーニングシャツに
「光」と紺糸で刺繍の入った淡いピンクのトランクス、お揃いのピンクのリングシューズは、眩しい位
鮮やかな赤紐でその華奢な足首に吸い付く様に固定されていた。ウォーミングアップは既に終わったのか
全身から湯気と甘甘しい薫香を立ち上らせつつ、トランクスから伸びるしなやかに発達した脚をエプロンサイド
からぶらぶらと中空に遊ばせながら、小さな拳に布のような物を巻いている。息は少しも乱れていない。
 その香気に吸い寄せられる虫の様に男が近づくと、少女は手を休めこう言った。


「あ、お兄様。お先に体を暖めさせて頂きました。これが気になりますか?これはバンデージと言って
ボクサーが拳を保護する為にグローブの下に巻くものです。己のパンチで痛めない様に」
 遠目で見ると解らなかったが、リング自体がかなり高い。男はエプロンサイドに腹ばいになって登ると
ようやく腰を下ろす事ができた。少女はバンデージを巻き続ける。間近で初めて見るボクサーとしての妹。


 「ボクサー」「グローブ」「パンチ」…実の妹の可憐な容貌、声音と、紛れも無く格闘技者たるその言葉の
ギャップが、男を陶酔の世界へと誘っていった。しかし、微かに漂う生臭さがすぐに男の表情を曇らせた。
「ふ…。慣れていませんと、この臭いはきつく感じられるかも知れませんね。これは血の臭いです。
ボクシングと言うのは、つまりは顔の殴り合いですから。でも、じきに慣れると思いますよ」
 よく見るとリングの表面には大小の血痕が薄いピンクで、或いは未だ鮮烈な赤を主張したまま残っていた。
悪臭は、すぐに妹への畏敬の念となり男の心を撃った。リング上で相手の顔面を朱に染め上げる妹の姿を
想像し、暫しリング内を眺め放心していた男に、当の美しきボクサーたる少女の声が投げかけられた。
 


光の食卓(2)ジムにて 続き


「さ、お兄様。巻いてください」
 そう言って投げ出された少女の両拳には、既にボクシンググローブがはめられていた。男は己の膝の上に
少女の拳を置き、白い紐を丹念に穴に通し、引き締め、巻いていった。丁度ボディにアッパーを受けるような
姿勢になり、奇妙な感覚に混乱し、軽い窒息感を感じ前屈みになりつつも、楽しき作業は続いた。
 右のグローブの紐を固く縛ると、男は我知らずその艶のある紅の表面を撫でさすり、手の平で押していた。
「思ったより、硬いな…。かなり分厚いけど、押しても全然へこまない」
「ふっ…これは今日のため、お兄様のためだけに用意した新品の12ozのスパーリング用グローブです。
お兄様の今触っている所が、ナックルパートと言って加撃に使われる面です。ここで殴る、という事です」
 

 ジムは、再び静寂に包まれた。先程よりも乾いた、それでいて、血生臭い静寂だった。
「左も巻いて下さい」
「……あ、ああ。忘れてた。すまん」
 男は作業に戻った。


 リングから3m程離れた所に、サンドバッグはあった。表面は青黒く所々ひび割れており、丁度男の顔面と
鳩尾の位置に茶色のガムテープが何重にも巻かれ補強してある。テープ自体も色あせ黄ばみ、いかにも年季を
感じさせる、老サンドバッグと言っても良い代物だった。
 少女はリングサイドから蝶の様に音も無く舞い降りると、サンドバッグに歩み寄り、対峙した。
「では、次のゴングから、お望みのバッグ打ちをお見せしますね」
 そう言うと少女は、ファイティング・ポーズをとった。右拳を顎の高さまで上げ、左肘を緩やかに曲げ
腹の高さにその左拳を置く。デトロイト・スタイルと呼ばれるそのスタンスは、同級生の中でも長身の少女
に適していた。顎を引き、サンドバッグの顔面部分を真剣に凝視しているその姿は、まさにボクサー
その物だった。膝はゆっくりとリズムを刻み、トントンとフットワークで床を蹴る音が響き始めた。
 男はやはり腹ばいに恐る恐るリングサイドから降りると、固唾を飲んでその時を待った。



光の食卓(2)ジムにて 続き


 カーン!!
 甲高い金属音と同時に、少女は目の前の物体に襲い掛かった。まず左腕が消え、破裂音と共に元の位置へと
戻った。更に4発の軽快な破裂音が響くが、男の眼には少女のパンチは視認出来なかった。まさに目にも
止まらぬ左ジャブ、それがボクサー・光の第一の武器だった。更に連打は続く。男は、何かに憑かれた様に
サンドバッグへと引き寄せられていった。至近距離で目を凝らしてみると、左の紅いナックルパートが
ガムテープの中心を寸分の狂いも無く打ち抜いている事が解る。そこは、丁度男の鼻の高さだった。
 一打ごとにガムテープを中心に折れ曲がり、規則的に軋むサンドバッグ。その動きに変化が生じ始めた。
まさにそれは、流れるような脚捌きだった。パンチは、左ジャブはサンドバッグをあらゆる方向から
その速力、連打を維持したまま打ち据え、陵辱した。先程より更に鋭さを増した破裂音の合間に、底の
薄いリングシューズが床を蹴る擦過音がキュッ、キュッと響いた。少女のフットワークと左ジャブの連打の
前に、哀れなる対戦相手である老サンドバッグは全方向に翻弄され、地獄の責め苦を味わい続けた。


 予想を遥かに超える妹のポテンシャルに、男はもはや放心状態に陥っていた。そんな男の眼を一際大きい
爆裂音が覚ました。サンドバッグは恐ろしき猛威をもって男目掛けて弾け飛び、寸前で速度を失った。
男は思わず尻餅をついた。少女の体重と同等かそれ以上の重さを有する砂塊を弾き飛ばしたのは、紛れも無く
少女の右フックだった。左ジャブから右のコンビネーション。鋭い打撃音に続いて重厚な破壊音が爆発
する度に、少女の黒髪は冥府のオーロラとなり、汗はダイヤモンドの粒となって男の顔面へ降り注いだ。
 コンビネーションは更にその強烈さを増してサンドバッグを襲う。今度は一瞬の内に4発の打撃が
叩き込まれた。左ジャブ、右ボディフック、左ジャブ、止めは顔面への右フックだ。哀れなる砂袋は何とも
形容し難いいびつな形状に激しく折れ、もがき喘いだ。男はその有様を尻餅のまま見上げる事しか出来ない。



光の食卓(2)ジムにて 続き


 既にゴングから2分半が経過していた。少女は、まだのた打ち回るバッグを両拳で制すると、間合いをグッと
詰めた。そして、最後の連打が始まった。軽い破裂音はもはや聞こえず、爆音だけが輻輳していた。
鋭いフットワークと腰、肩の回転により加速された左拳が、フックとなりサンドバッグの上部を叩き潰す。
その反動を利用し、瞬く暇も無く右の無慈悲なる弾丸が同じ位置を撃ち抜くのだ。老砂袋はもはや右にも
左にも吹き飛ぶ事が出来ない。ただその全身を左右前後にうねらせ、断末魔のダンスを踊るのみとなっていた。
男は、その凄美なる光景にもはや身動きひとつ出来なかった。


 カーン!!
 恐るべきサンドバッグ打ちは終わった。最後の暴打は、サンドバッグを水平に近い角度まで吹き飛ばした。
自重に従って今なお激しく左右に揺れ続けるサンドバッグの下には、銀の粉が光っていた。恐るべきパンチに
サンドバッグを支えるチェーンが激しく磨耗し、摩擦され擦り切れたのだ。
 しかし、真に驚くべきは少女のスタミナだった。あれほどの連打を続けても少しも息を乱していない。
少女は何事も無かったかの如く、愛する兄に、いつもの優しく甘い口調で話しかけた。


「ふふ、如何でしたか?私のボクシング、バッグ打ちは」
 男は、もはや気が遠くなりかけていたが、愛する妹の声に徐々に現実感を取り戻していった。
「す、凄えな。お前がこんなに強かったなんて…知らなかったよ。…ちょ、ちょっと、聞いていいか」
「ふふ…何です?」 
「こんな凄い…パンチ、お前、本当に相手に、人間に向かって…撃つのか?」
 少女は、微笑して返答した。
「ボクシングとはそういうものですから」
 

 少女は、未だギシギシと軋むサンドバッグを尻目に、男に話しかけた。
「さあ、次はどうします?」
 男は、未だ混乱が抜けきっていない頭で考えると、こう答えた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(3)バッグ・ワーク


 男はサンドバッグに捕まりつつ、己の肉体を鼓舞し立ち上げた。そして、張り付いていた口蓋が開かれた。
「…なあ、その…サンドバッグ……支えてもいいか?」
 

 男の視線の先の人物は、なおもコケティッシュな微笑を保っていた。トレーニングシャツは汗でぴたりと
地肌に吸い付き、丈の短いトランクスから伸びる脚は一種異質な程白く、珠の汗が艶々と光っている。
 男の精神構造は、もはやこの時点から平衡を失っていたのかも知れなかった。美少女の左右の拳から迸った
数多のブロウは老砂袋を叩きのめすと同時に、男の心そのものに大打撃を与えたのだ。愛する美しい実の妹の
汗のシャワーを浴びつつ目の当たりにした瑞々しき拳舞。その凄絶なる有様は、男に少女を一人の闘士として
確かに認めさせると同時に、臓腑を絞られるかの如き畏怖の念を抱かせるに十分であった。
 しかし、間もなく男に別の感情が生じ始めた。それは、爽やかな好奇心と言ってよかった。拳闘士・光は
男の唯一の肉親にして最良の友人であり、生涯の伴侶だった。初めて目の当たりにした妹の「強さ」という
パーソナリティ。それを、さらに深く知りたくなったのだ。いや、なってしまった、と言うべきだろうか。


 室内の示度は変わらず18度に保たれている。クーラーの送風音とサンドバッグの軋む音、そして早鐘を打つ
男の心臓の鼓動だけが、男の鼓膜を撲ち続けた。凶悪な程冷たい、それは沈黙だった。
「…お兄様のご希望のままに」 
 少女は男の申し出を受け入れた。思わず歓喜にむせ返る男。ただし、少女のメゾソプラノには続きがあった。
「では、まず裸足になって、サンドバッグに後ろから抱きつく様にして体重をかけて支えて下さい」



光の食卓(3)バッグ・ワーク 続き


「これで…いいのか?」
 男は言われるままに靴を脱ぎ、裸足でサンドバッグを抱いたまま実の妹の次の言葉を待った。
「ええ。お顔も正面からサンドバッグに埋めて、上半身は完全に密着させて絶対にサンドバッグから離さないで
下さい。もし少しでも離れれば、重いサンドバッグが飛んできて取り返しの付かない事になりますから」
 視界は完全に補強用ガムテープの白に覆われ、革の臭いが鼻を衝いた。運動をしてもいないのに全身を汗が
包み込み、サンドバッグが体の一部になった様な錯覚を覚える程だった。顔が見えない分、全神経を聴覚に
集中させていた男は、妹の言葉の後半に大きな違和感を覚えた。少女は男に思考する隙を与えず、畳み掛けた。


「…お兄様には私のフィニッシュブロウを、たっぷりと味わって頂きます。具体的には…左を10発打った後
右ストレートでお兄様のお顔を打ち抜きます。サンドバッグ越しですから、パンチを浴びても鼻が折れたり
脳震盪を起こす事もありません。安心して下さい…ね?……次のゴングと同時に、打ち始めます」
――取り返しの付かない事、フィニッシュブロウ、右ストレート、鼻を折る、脳震盪……
 男の脳裡は、愛する妹の放った言葉により血まみれに塗り潰された。どの単語も辞書的な意味として理解は
している積もりだったが、もはやこの状況では、その様なものはまるで意味を成さないのだった。
 

 トン、トン……トン、トン、トントン……キュキュッ!…
 床を蹴るビートが、加速していく。ついに少女はフットワークを始め、臨戦態勢に入ったのだ。男は己の
言葉を、選択を深く呪った。あと数秒で、己の顔面は愛する妹のパンチにより打ちのめされるのだ。
逃げる事も出来ない。逃げれば、弾き飛ばされた50kg近い砂塊が肉体を砕くだろう。
「…お、お、おいっ、右って、それに、は、鼻、…」
 意味不明語の羅列を、少女のメゾソプラノが断ち切る。変わらぬ落ち着いたトーンだ。
「しっ。決して喋らないで下さい。パンチで舌を噛み千切りますよ」
 


光の食卓(3)バッグ・ワーク 続き


 カーン!
 その時は来た。最初の破裂音はゴングの轟音を切り裂く程、鋭いものだった。デトロイト・スタイルから
振り上げられた少女の左拳は、サンドバッグの顔面ラインの中心目掛けて正確に発射され、黄色く色褪せた
表面にその真紅のナックルパートをめり込ませ、反動で跳ね返る様に元のポジションへ戻った。
 初めての妹のパンチの味。それは、サンドバッグ越しに男の顔面を撃った。顔が吹き飛ばされそうになるのを
必死に耐える。小気味良い破裂音を称えつつ顔面に残る心地良い痺れを愉しみ、余韻に浸る。更に衝撃は
次々と男の上半身、顔面を襲い続けた。絶え間ない陵辱の最中、男の一物は膨らむばかりだった。
 それは、男にとって始めての感覚だった。あのフランス人形の様な、清楚を絵に描いた様な己の妹、誰もが
羨望の眼差しを向ける美少女が、己の顔面をサンドバッグ越しにではあるが殴り続けている。その異常さが
男の感情を更に混乱させた。屈辱まみれの至福、地獄まみれの天国がそこにはあった。


 突如として、連打は止まった。
 忘れていた。男の全身の血流が、一旦停止し、現実が男に襲い掛かる。
――右が、来る。
 

 インパクトの直後、ジム内の冷え切った空気は暴虐の旋律に閉ざされた。一切の無駄肉無く鍛え上げられた
アスリートとしての少女の肉体は、サンドバッグを、男の顔面を叩き潰す為だけに躍動し、静止した。硬く
冷たい右の12ozは鞭の如き左ジャブを遥かに超える速度で目標、男の鼻の水平延長線上に正面から着弾
すると、その破壊のエネルギーを老砂袋の内奥に余すところ無く注ぎ込み破壊した。
 まさにそれは、爆撃だった。少女の右拳に込められた暴威、狂気の殆どはサンドバッグに吸収されたが
それでもなお、少女の右ストレートは男の世界を圧倒した。爆撃の衝撃は砂塊に密着させていた鼻にまず
伝わり顔面を弾き飛ばし、背筋を限界まで仰け反らせ頚椎を軋ませ、その全身を後方に弾き飛ばすに至った。



光の食卓(3)バッグ・ワーク 続き


 ザーーーー……
 大の字に伸びた男が見上げる先には、無慚にも風穴が開けられ、その一生を終えた老砂袋の姿があった。
「…ブゲホッ、ゴホォッ!!」
 むせ返る男。顔面には、撒き散らされた砂が付着している。顔面は、その全表面が痺れ感覚を失っていた。


 少女は、全身から白い湯気を発しながら、己のパンチにより無様に這いつくばっている兄へ歩みを進めると
傍らに跪いた。噴き出す汗に長い黒髪はその顔に張り付き、男の方から表情を伺うことは出来ない。
「疲れましたか?…休憩にしましょう。今が14時30分なので、15時丁度まで」
 男は、黙って頷いた。


 休憩を経て、男の思考はかなりぼやけていたが、回復しつつあった。男は、少女のスポーツバッグ内から
水筒入りの冷えた烏龍茶を取り出し、飲みつつ己の鼻をさすった。最も激しい衝撃を受けたこの部分だけは
未だに感覚が戻っていないのだ。男は、水分補給もせずに傍らでシャドウを続ける少女に、問いかけた。
「…なあ、光、ひとつ聞いていいか」
 少女は、脚捌きを休めず、虚空を左右のフックでシャープに切り裂きつつ答えた。
「何ですか」
「あの右…相手にもし、思い切り当たったらどうなるんだ?」
 男は、昔から気になって仕方ないが隠しておこう、隠しておこうと思っていることを、ふとしたことで
口走ってしまう悪い癖があった。この場合も多分に漏れず、男は己の言葉を呪ったのだった。


 少女はシャドウを止めると、視線を遠い中空に遊ばせつつ、背を向けたまま独り言の様に返答した。
「死にますね」
「えっ…」



光の食卓(3)バッグ・ワーク 続き


 少女は振り返ると、男へ悪戯っぽい笑みを向けた。その優しく、小悪魔的な微笑みは、男の良く知っている
妹のものだった。昔から少女には、可愛い顔に似合わずきつい冗談を吐く癖があるのを男は知っていたのだ。
だからこそ、男はこの言葉と表情によって救われた。自然と男の顔もほころび、安心感が心を満たした。
――なんだ、きつい冗談を吐くぜ。昔からこいつは…。でも、凄いパンチだったな。こいつは並みの男でも
一発でKOしちまうんだろうな。可哀相だよなぁ、相手の人。ははは…


「うふふ…お兄様、もうすっかり元気になられましたね。今度は私のリクエストを聞いてください」
「ああ。今日は俺のわがままばかりだったからな。でも痛いのは勘弁だぜ」
「折角ジムに来たのですから、リングへ上がってみたいとは思いませんか?そこで、鬼ごっこをしましょう。
私の体に触れれば、お兄様の勝ちです。私は一切お兄様にパンチを当てませんから、どうぞご安心下さい」


 少女は、微笑みのまま兄をリングへと誘った。男は、恐怖心が完全に無くなった訳では無いが、少女の
「速さ」を、フットワークを体感したいという思いが、恐怖を打ち払った。
「ああ、いいよ。でも、約束は守れよ。お前のパンチ、当たったらマジで洒落にならんからな」
「…ふっ。私は嘘など一切つきません。では、リングへ上がって下さい。次のゴングから3分です」


 男はついにリングへ上がった。リング上には木製の小さな椅子があり、対角には己の妹が腰掛け、真っ赤な
2つのグローブをセカンドロープ上に寛げたまま、こちらをじっと見ている。ただの鬼ごっことは言え、実際に
百戦錬磨のボクサーたる妹とリング上で対峙すると、男の鼓動は再び速くなった。かつて左ジャブの連打を
サンドバッグ越しに鼻に、顔面に浴びた時の様なおぞましい興奮が、男の中に沸々と湧き上がってくるのだ。
 男は火照った頭でこれからの作戦、考えをまとめつつ、その時を待った。
 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(4) 殴る者・光 


 カーーーン!!
 このトレーニングに先立ち、少女の左手方向のニュートラルコーナーに移されていた装置が作動すると
その轟音は青コーナーに佇む男の両耳を劈いた。これまでリング外から聞いていた時とは比べ物にならぬ
その大音声は、彼自身に己の立つ場所は紛れも無く闘いのリングである、という冷たい現実を再認識させた。


――先ずは動きを見極めながら、光に触れるチャンスを待とう。
 男は跳ね上がる様に立ち上がると、ロープから2歩程離れた位置から、動かず様子を見る作戦をとった。
腰を引き、両腕のみ前方に突き出したその体勢は、さながらレスリングの様でもあった。
 一方、既に立ち上がり、優美たるその肢体を中空に躍らせ解きほぐしていた少女は、闘いの幕開けを告げる
その金属音と共に、格闘技者に相応しいその威容を眼前の獲物たる男へ余すところ無く見せ付けていった。
 全身の躍動がふと止まると、そのしなやかな上肢が重力の呪縛から解放されていく。苦痛と破壊を求める
かの如くヌラヌラと妖しく輝く左のグローブはへその高さで止められ、鮮血に染め上げられたかの如き深紅
を宿す右のグローブは顎をガードする位置に固定された。そして、白く長く、しかし力強く成長したその両脚は
その華奢な体躯を縦横無尽に乱舞させた。まるで靴底が床面から浮遊しているかの如き、それは疾さだった。


 ゴングからはや10秒、リング上は膠着状態に陥っていた。男は全く動かない。いや、動けなかった。
少女もまた、仕掛ける事はしない。彫像と化した男を中心に左へ回り、右へ切り返す。そのたびに、背中まで
伸びた流麗な黒髪は風を孕んで拡がり、シャンプーと汗の薫りが男の鼻腔を仄かにくすぐっては儚く消えた。



光の食卓(4) 殴る者・光


 だが、ある異臭がそれを瞬く間に打ち消していく。血の臭いだ。リングサイドに招かれた時にも少なからず
違和感を感じたものだが、実際にリングに上がるとその臭気は、恐ろしき幻想と共に男の感覚を犯した。
少女は男の周囲を左へ右へ回る。しかし少女がどこへ移動しようとも、その両拳は常に確実に男の顔面を
打ち据えるべく準備されているのだ。「パンチは当てない」という約束はあっても、その美しきスタイルから
繰り出された見えないブロウは、一瞬の隙をつき突進を掛けようとする男の鼻を貫き、頬を撃ち据えた。


 年齢相応で鑑みれば長身と言える少女の体躯ではあったが、男の方が僅かながら身長で勝っていた。しかし
この時の男の視線は、少女の顔面を明らかに見上げていた。直視出来なかったのだ。その眼差しを。
 微笑みを投げかけてくれとは言わない。恐ろしい形相で睨みつけてくれるだけでも、男にとってはどれ程の
救いになったか知れない。少女のその澄み切った両眼は、何も、語ろうとはしなかった。人間性と言うものを
完全に排除したその乾いた視線は、第三のブロウと化し男の接近を阻むのだ。忌避すべき人間以外の何か
魔物、怪物と対峙している様な感覚に、男は足がリングにズブズブと沈み込んでいく様な錯覚さえ覚えた。


 沈黙を破り、異変が、男を襲った。何故か目の前に、美少女の顔があった。表情は、完全に欠落していた。
男の本能が、体を後へ進ませた。背中に、何かが当たった。それが何か解らない内に、紅い何かが
男の顔面近くを、下から上へと通過した。巻き起こった疾風に、男の前髪がフワッ、と逆立った。
 そして、紅く重い何かは男の鼻先を左右に往復し始めた。血とシャンプーの香りが混じったその奇妙なる
突風は男の頬を激しく穿ち、竜巻の中心に叩き込まれたかの様な非日常の感覚を呼び起こした。
 

「試合なら、これでKOです。いや、RSCでしょうか。お兄様」
 声が、投げかけられた。顎には、声の主の右拳が添えられていた。男は全てを悟り、全身を麻痺させた。



光の食卓(4) 殴る者・光


 男の顎先に、固く握り締めた右拳を突き上げた姿勢のまま、少女は続けた。
「ボクサーのフットワークには、2種類のものがあります。それは、攻めのフットワークと守りのフットワーク
と言っても良いかも知れません。解りやすく言い換えれば、相手のパンチから逃れる為の技術と、パンチから
逃れようとする相手を追い詰め、パンチを浴びせるための技術ということになります」


 少女の右拳が元の位置に戻ると、男の全身は脱力し、緩慢にリングへ腰を落とした。少女はなおも続ける。
「お兄様は攻めて来なかった。となれば、私の『守りのフットワーク』をお見せする事は出来ません。
お兄様は私の『攻めのフットワーク』を所望された、ということです。…左アッパーカットで怯ませた相手を
左右のフックで追撃し、右アッパーカットで止めを刺す…インファイト用のコンビネーションなのですが
如何でしたか?大抵は、連打の途中で相手が…いや、試合を止められてしまいますが」


 男は、強烈な吐き気、悪寒に苛まれていた。もしもあの時、己の顔面があと少しでも前に出ていたら…
その想像からくる恐怖もあった。しかし、それにも増して男を苦しめたのは、己の顔面を連打する実の妹の
コンビネーションブロウの華麗さだった。実際、連打の最中、男の上半身は微量ではあるが、前傾していた。
 男は妄念を振り払うかの様に、己を見下ろす少女へ言葉を吐きかけたが、それは中途で遮られた。
「……おっ、…おい!!さっきは」
「ええ、パンチを『当てない』とは申し上げました。ですが、『出さない』とは誰も言っていません。
フットワーク技術とは、パンチの技術と結びついて初めて意味を成すものなのです。それに…」



光の食卓(4) 殴る者・光


 男からは言葉も無い。少女は、かぶりを振ってその表情を艶やかな黒髪のヴェールに覆い隠すと、続けた。
「…ふっ……まあ、それは後にしましょう。それより、ここはリング上ですよ。ボクシングではカウントは
10まで行くとKOとなり、敗北です。さあ、お立ち下さい。……ワン……ツゥ…」
 愛する妹から甘い声で投げかけられるカウントの最中、男は必死に「敗北」という言葉の意味を探った。
それについて説明は無かったが、無いだけに本能が恐怖し、腸が震えた。少女の凶暴なまでの身体能力の
前には、男はもはや手足の付いたサンドバッグでしかないのだ。男はカウント4で立ち上がった。


「ナイスファイト。続けましょう。さあ、ボクシングなのですから、両腕はこうです」
 少女は、力なく垂れ下がった男の両腕を掴むと、顔の前に持ち上げさせた。グローブは、硬かった。


 男はもはや混乱していた。いつ、あの紅く冷たいグローブが己の顔面をかのサンドバッグの様に撃ち抜くか。
そう考えると、もはや体を動かさないと発狂してしまいそうだった。
「わぁぁぁぁっ」
 麗しき実の妹の勇姿を眺める事も出来ず、顔を両手で覆いつつ前方に突進する男。だが、その勇気が実を
結ぶ事は無かった。めくら滅法の突進は少女が軸足を僅かにずらすだけで易々と交わされ、男のスタミナは
無駄に浪費されていった。流麗に髪を靡かせ、輪舞の様なステップを踏む少女の華麗さは、童話の世界から
飛び出した妖精といったものを想起させた。兄と妹、醜と美の舞踏はいつ果てるとも無く続いた。
 


光の食卓(4) 殴る者・光


 だが悲しいことに、男には人並みの持久力というものが無かった。無謀無策の突進は、ついに相手を捉える
事が無かったばかりではなく、更に悪い事には男自身の身体機能を蝕んでいったのだ。半開きの口内の唾液は枯れ
肺は焼け付き、膝は小刻みに震え、己の心臓の鼓動は鼓膜を破らんばかりに響いた。もう一歩も動けなかった。
進路も退路も失った男が振り返ると、そこには両拳を顎の高さに持ち上げた愛する妹、光の姿があった。 


「フットワークを失ったボクサーがどうなるか知っていますか」
 男は、もはや生きた心地も無かった。ただ、少女の右拳が固く握り締められ、まさに己の顔面を打ち抜く
べく発射されんとしているその有様を、ガードを上げる事も忘れ殉教者の様な心持で見守るばかりだった。
「こうなるのですよ……ふっ!!」


 カーン!
 右ストレートは、まさに男の鼻先1cmの精度で、寸止めされていた。しかし、巻き起こった拳風はその顔面を
容赦なく叩き、男を再びマットへと沈ませた。少女は全身の緊張を解くと、抜け殻の様になった男へ言った。
「お疲れ様でした。これで、今日のトレーニングは終わりです」


 男は、ニュートラルコーナーマットに凭れながら、恐怖と屈辱と安堵が交じり合った泣き笑いの様な
表情を浮かべた。男の口が何か言いたげにもぞもぞと動いたが、その努力は、柔らかい2つの肉塊、即ち
押し付けられた少女の唇によって阻まれた。少女はそのまま体重を預け、劣等感と敗北感に乾き切った男の
口蓋内を、甘い甘い己の唾液で潤し満たした。男ははじめ、全身でビクンと抵抗したが、やがて妹のさせるが
ままに任せた。男の両目から涙が溢れた。それは開放感と達成感が入り混じった、実に爽やかな涙だった。
男は夢中で少女の唇を吸い、唾蜜を啜った。それだけで、全身に活力が満ち溢れていく様だった。
 本日何度目かの結合が解かれると、少女は自動ゴングのスイッチを切り、精気を取り戻した男へ語りかけた。



光の食卓(4) 殴る者・光


「…お兄様、申し訳ありません。さぞや恐かったでしょうね。でも、ボクシングというものの片鱗だけでも
味わって頂きたかったのです。お許し下さい」
「あ、ああ。お前が謝る事はないよ。俺もボクシングというものについて全然知らなかったから、その…
すげえ勉強になったよ。ありがとうな。じゃ、片づけをするとしようか」


 リングを降りようとする男。しかし、少女は電光の如き体裁きを以って、男の退路を塞いだ。
「えっ、お前……!!!ぷぁっ!?」
 男の視界が一瞬、赤に閉ざされ、天井が見えた。そして、込み上げる激痛に思わず、両手で鼻を押さえた。
紛れも無くそれは、妹が兄の顔面を、パンチで、左のショートジャブで打ち抜いた瞬間だった。男は激痛に
喘ぎつつも、己の鼻っ柱を叩き潰した最愛の妹の表情から眼を逸らせなかった。少女の両眼は、男の両眼へ
その視線を注ぎつつも、ゆっくりと細められ、笑みを形成した。それは、全ての人間が人間として存在する為に
決して同族へは向けてはならない、まさに禁忌の凄笑だった。少女の体温が加熱し、水蒸気となって立ち上る。


「私、お腹が空いてしまいました。お食事にしましょう。……今日のメニューは『お兄様』、あなたです」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(5) フォア・シュパイゼ


――・・・え?なに、これ・・・?・・・い、た・・い?


 不規則に脈打つ心臓の鼓動、身を苛む鈍痛、込み上げる吐き気。男の揺れて定まらぬ視線の見上げる先に
あったものは、何という残酷か、確かに己が愛する妹の姿であった。眼が痛い。今まで分泌された事の無い
生ぬるい汗が男の見開かれた両目へ注ぐ。しかし眼を閉じる事すら、もはや男は忘れていた。


 男の大脳は、辛うじて「痛い」という感覚を脊髄から受け取るや否や、この未曾有の異変を理解し究明すべく
努力を開始した。しかし、幸か不幸か麻痺を免れた男の感覚、視覚が少女の異変をその瑞々しい美しさと共に
認識すると、その努力は直ちに打ち切られたのだった。


「ふふっ・・・」
 今まで顎を守る位置に浮遊しているだけだった光の右拳が徐々に、徐々にではあるが、引き絞られ後退して行く。
その表情は最初の加撃の際に男へ向けられた、禁忌の微笑みのままだ。
 それは、時間にして10秒は下らぬ、ボクシングの技術としては稚拙としか言えないバックスイングであったが
却ってその遅さが、男の呼び覚まされてはならぬ感覚、聴覚を回復させてしまった。


・・・ギュゥゥゥウッ・・・ギッ、ギッ・・・
 

 14才の美少女の白く繊細な右拳を包み込む、真新しく清潔な紅のボクシンググローブ。しかし、少女から迸った
異様なる握力は、それを強く固く握り潰し、その造形を醜く歪ませた。暴虐に悶え苦しむ12ozの断末魔は、男の
両耳へ否応なく叩き込まれていく。ついに男の大脳は、少女の禍々しき意思を理解するに至ってしまったのだ。
 


光の食卓(5) フォア・シュパイゼ


――あの右…相手にもし、思い切り当たったらどうなるんだ?


――死にますね。


 男の意識は、哀しい程の明瞭さを取り戻していた。
 一輪の百合の花の如く細く可憐な妹が、サンドバッグ越しに己を吹き飛ばした右ストレートの脅威。
それが今、己の顔面に向けられている。俺の顔面に、あの右ストレートが直撃する・・・!


――このままじゃ、俺は――
 スローモーションで視界を覆い尽くす紅い弾丸。冷たく硬い皮の感触。一瞬の激痛。へし折れる鼻。潰れる眼球。
砕け飛ぶ歯。哀れなる老サンドバッグの内容物の如く全方向に爆裂飛散する鮮血、頭蓋骨と脳漿・・・
 男の全精神、全宇宙は恐るべき暴虐の妄想に塗り潰された。


「・・・う、うううっ・・・うおおぉぉぉっあぁぁぁぁぁぁっっ!!! 」
 男は絶叫とともに両腕で固く顔面を覆った。両腕の隙間から辛うじて覗く少女の右拳が、なおも己の顔面を
狙っている事を認識すると、男はえもいわれぬ戦慄に硬直したが、生存本能が肉体を後退させていった。
 やがて背中に、硬い感触があった。ロープだ。少女の右拳、右ストレートは男の顔面を射程内に捉えていた。
 少女の口許が醜く歪み、フットワークの擦過音と共に右拳が加速を始めると、男の全身は凍りついた。


 肉を撃つ爆音。その莫大なる衝撃は両の下腕から伝わり、全身を突き抜け陵辱するとその全身をかつての
砂袋の如く吹き飛ばし、ロープとの摩擦は薄布越しにその背肉、臀肉に3本の赤いラインをくっきりと刻み付けた。
 ロープの弾力で無機物の如く跳ね返され、意識を朦朧とさせている男に無慈悲にも連打が襲い掛かる。



光の食卓(5) フォア・シュパイゼ


 左!右!左!右!左!右!左!右!
 全身ごとぶつける様なフックの連打の前に、男はKO寸前のボクサーの如く両腕で顔面を覆い耐えるしかなかった。
少女の全身の躍動がそのスピードを増していく毎に、男の全身は無様にも沈み込んでいく。男の、決して細くは無い
両腕は少女の打撃により真っ赤に腫れ上がり、感覚を奪われつつあった。もはや、ガードが弾き飛ばされるのは
時間の問題となっていた。そして男の両腕の触感が完全に消失し、気力が尽き果てたその瞬間・・・


 少女は両腕を止め、戦闘態勢を解いた。半笑いの表情で放心し尻餅をつく男の頭上から声が投げ掛けられる。
「ボクシングをお兄様に『お見せする』のは、前のラウンドまでです。ここからは、私のボクシングをお兄様に
じっくりと『味わって』頂きます。先ほどまでのは、ほんの戯れ・・・前菜に過ぎないと言った所でしょうか」


 少しも息が上がっていない、まるで何事も無かったかの様な、それはいつもの優しくたおやかな妹の声であった。
男の脳裡は、無数の疑問符で満たされた。男は爆裂する心臓の鼓動を制し、唾を飲み込み意を決して問いかけた。
「おっ、おい!!一体、こっ、これは、どういうことだ!?それに『味わって』頂くって・・・?」
「ふふっ・・・むしろ『味わう』のは私の方と言った方が良かったですか?14年もの間、あらゆる手筈を尽くし
この日を待っていたのです。愛しい愛しいお兄様を『味わう』この瞬間を・・・。ふふっ、くすくす・・・」


 広い地下ボクシングジムの温度は、依然として18度を保っていた。冷たい沈黙に、エアコンのファン音だけが
響いていた。やがて、男が緩慢に口を開いた。が、言葉は再び飲み込まれた。その単語の意味を更に深く知る事を
男の中の何かが、拒絶したのだ。それは、決して確かめてはならぬ事に違いなかった。
 しかし、無慈悲にして残酷なる美少女はそれを許さなかった。
 少女はしゃがみ込み、男の顎を左拳で掴むと、蒼白な顔面を持ち上げ鼻が接さんばかりに見つめ合った。男は最初
恐れたような表情を浮かべていたが、全視界を覆うしっとりと柔らかい美少女の微笑みが、男の心を融かしていった。
 そして愛する妹の口がゆっくりと開かれ、甘い言霊が紡ぎ出された。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(6) 糸引く水滴


「お兄様は、私の糧なのですよ」
「俺が、光の・・・カテ?」
 少女の言葉は、男の理解力の範疇を超えていた。狐の如く心底嬉しそうに目を細めつつ、更に少女は続ける。
「ええ、その通りです。これから、お兄様は私の血肉となる栄誉に与るのです」
 光、と呼ばれた少女は、男をその小さいながらも芸術的均衡を保っている胸元へ抱き寄せると、右の耳元へ
優しく囁く様に語りかけた。少女の表情は優美なる黒髪のヴェールに隠された。


「私達は、お兄様方が生まれる遥か昔、この星に生命が誕生したその瞬間から存在している、言わば概念的存在です。
人間どもは私達の事を何と呼ぶのか知りませんが、私達はお兄様方、人間が大好きですよ。ふふふ・・・。
私達は人間を狩って暮らしているのです。人間どもの楽しみ方は色々なのですが、病を植えつけたり、権力者を
操って争いを招いたり・・・自然に働きかけ災害を起こす者もいますね。つまり一切の衆生、特に人間どもの苦しみ
こそが私達の最高の活力となるのです。人間は放っておけばすぐに増えますから、『食』には事欠きませんしね」


「お、おいっ!光!何言っ・・・うぶっ!?」
 愛する妹の口蓋内から迸った恐るべき言霊。それは、男の精神を激しく蝕みかき乱した。何を言っているのか
全く、判らなかった。男は恐怖からか、さては好奇心からか、絶叫をもって真相を求めた。しかし、男の言葉は
中途で遮られた。少女は、右拳を固く握り締めると静かに男の鼻柱に押し付け、恐るべき剛力をもって
そのまま押し倒したのだ。青いマットと紅いグローブに挟まれもがき苦しむ男を見下ろしつつ、少女は続けた。



光の食卓(6) 糸引く水滴


「くすくす、うふふふっ・・・!お兄様、とてもいい格好ですよ・・・!そう、私の得物は、これです・・・!
この両拳で人間を殴りつけ、血にまみれ悶え転がり屈辱の内に死にゆく様を楽しむ事こそ、私の『食』なのです」


 男は、硬く冷たい12ozの下で醜く、激しく暴れ回り少女への返答とした。少女の口許から、涎の雫が毀れ落ちた。
「フゴォッ!ムグォーーーッ!!」
「何故か?そんな事は、どうでもいい事です。人間どもの基準で言うなら肉が好きか魚が好きか、その程度の好みの
差なのです。私は、お兄様の様な美しく若い人間を殴り、苛め殺す事が好き・・・好きな事に理由などありませんね。
さあ、お立ちになって思う存分抵抗し、そしてどうかその可愛らしい絶望の表情を見せて下さい。私の愛しいお兄様」
 少女は、その右拳をゆっくりと解放した。皮製のグローブのナックルパート部分に男の鼻梁の跡がくっきりと
刻印されると、12ozの内圧の高まりがそれを次第次第にかき消した。


「ぶはぁっ!!・・・はぁっ、はぁっ・・・!お、おいっ!どうかしちまったのか!しっかりしろ、光!!」
 圧迫と窒息から逃れた男は、リングに横たわったまま愛する妹の正気を願った。だが、男の願いは叶わなかった。
「ふっ・・・どうもしていません。これが、私です」
 

 くすくす・・・・


 笑っていた。薄笑いをその切れ長の瞼、薄紅色の艶やかな唇に湛え、少女は男を跨いだまま見下ろしていた。
しかしその残忍なる笑みは、人間が人間に向けて良いそれとは、全く異質のものであった。その意味する所は――


――お・い・し・そ・う



光の食卓(6) 糸引く水滴


 ぴちゃっ・・・ぴちゃっ
 未だ皮の圧迫痕の残る男の顔面を、暖かく、糸引く水滴が打つ。その水滴の正体を男の大脳が認識した瞬間
男は弾かれるようにリング外へ飛び出していた。ついに、男の理性を繋ぎ止めていた糸は切れてしまったのだ。


――殺される!光に、俺が・・・!?
 リング外に逃げ出し、地下ジムの唯一の出入り口に逃げ出す男。しかし、開かない。狂った様にドアを蹴る男。
1回、2回、渾身の力を込めた体当たり。しかし申し訳程度に付けられた小さいガラス板が割れるだけで、ドアは
びくともしない。男の努力もそこまでだった。
 振り返るとそこには、あの凄笑を浮かべた麗しき妹の姿があった。男は、もはや生きた心地もしなかった。
右拳はスポーツドリンクの瓶を持ち、左掌は何か銀色の物体をカチャカチャと弄んでいる。少女は悪戯っぽくいった。


「ふふふ、ここでお兄様にクイズです。これはいったい、何でしょう・・・?」
 男の視線の先にあるもの。それは、男にとっての最後の希望といえた。少女は構わず続けた。
「正解は、このジムの出入り口のキイでした。・・・このジムの錠は両面シリンダと言いまして、内側からもキイで
施錠できるようになっています。それでですね、これを、うふふ・・・あーーーーーーん」
「ああっ!何すんだっ!やめろぉっ!」


 ごくり。
 少女はビタミン剤を飲むかの如くキイを口中に放り込み、スポーツドリンクで呑み下してしまった。


「これで、このジムから抜け出すには私を殺し、腹を割くしかなくなりました。お兄様に与えられた選択肢は2つ。
愛する妹に殴り殺されるか、愛する妹を殺して脱出するか、いずれかです。さあ、お選び下さい」 



光の食卓(6) 糸引く水滴


 絶望。深い深い、それは絶望だった。男は、もはや己の全身を少女にリング内に投げ入れられるに任せた。
「ルールを説明致しますね。お兄様のすべき事は、先ほど申し上げた通りです。ダウンは2回まで許可とします。
3回目のダウンは不許可です。『不許可』の意味は、判りますね?それでは、次のゴングから、ラウンド開始です」


「これは夢!そうだ!俺は悪い夢を見ているんだっ!・・・光!お前も目を覚ませ!」
 男は突然絶叫と共にガンガンと己の顔面を殴り始めた。余りの非現実的状況を、受け入れることができないのだ。
 少女は呆れる様子も無く、これまでの笑みとは一線を画す、最も意味深で小悪魔的な含笑を浮かべいった。


「夢、ですか。ふふふ・・・。夢だといいですね。私もそう、願っていますよ・・・くすくす・・・」
 

 現実。全ては現実であった。殴った左頬がひりひりと痛んだ。男は、現実を受け入れるしかなかった。
 少女の左拳には、トレーニングの時使った自動ゴングが握られていた。赤コーナーの少女はそのスイッチを
入れる・・・事はせず、高々と放り投げた。落下と同時に、少女の全身が急激に躍動した。


 キュッバシィ!!ガゴォォォォンンン・・・・
 渾身の右ストレートにより爆発的に発射されたゴングは男の1mほど横、青コーナーのポストへ激突し砕け散った。
「さあお兄様。第2ラウンド開始です。どこまで苦しむか・・・とくと見せて頂きましょう」
 

 再びゴングが打ち鳴らされる事は決して無い。断末魔の如き金属音と共に、今まさに冥府の門は開け放たれたのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(7) 妖精拳舞


 突如激発した金属の爆裂音は、冷たく広い地下密室により反響増幅され、立ちすくむ男の聴覚を犯した。異音は
男を覚醒させ残虐極まりない状況を理解させるに十分だったのか、男は両の拳を握り締め、愛しい妹と対峙した。
 幼く美しきボクサー・光は、かつて兄に見せたものと同じスタンス――左拳を腹の高さに置き、右拳は顎の
位置に構えるデトロイト・スタイル――をとっていた。ホバリングを思わせる程に縦横無尽、自由闊達に流れる
脚捌きはリング・サーフェスを蹴るたびにキュッ、キュッと軽快な擦過音の旋律を奏で、背中まで伸ばされているが
精緻な人形の如く横一文字に切り揃えられた黒髪を千変万化に靡かせた。


 正気を取り戻した男は、このような状況に叩き込まれてもなお、対面のコーナーの美少女、己の妹の一挙手一投足に
心を奪われていた。それは決して愚かな事では無かった。伝承に登場する神魔セイレンの様に、少女から発散される
人間を惹きつけて止まない超自然的魅力は、実の兄の抵抗が敵うものでは、もはやなかったのだ。
 美しい。その一切の無駄肉無く白く引き締まった脚、なめし鞭の如く長くしなやかなる腕、年相応以上の
女性らしさを湛えた丸みを帯びた腰、そして、俺の顔面に迫るギラギラと輝くグローブ・・・?


 12ozが空気を切り裂く衝撃音と、皮膚とグローブが接触する破裂音が、幾十層にも重なって響き渡った。男は
何をされたのかも判らなかった。リングマットの硬い感触を背中が確かめると、鼻が焼け融ける様に熱くなった。
それは恐るべきスピードと正確さとを兼ね備えたワンツゥの連打だった。赤コーナーから弩の如く飛び出した少女は
寸時の夢想に浸る男の眼前へ舞い降りると、その顔面、鼻頭へ10度、乾いた12ozの表面だけを触れさせたのだ。


「ワン・ダウン。カウントは数えません。お好きな時に立ち上がって下さい。残りのダウンは・・・1回です」



光の食卓(7) 妖精拳舞


 未だ灼けつく様に痛む鼻をさすりつつ、男は己の顔面を軽快に打ち付ける少女のパンチの余韻に浸っていた。
少女の殺人技術は、既に下界の人間の想像が及ぶ所ではなかった。極め尽くされた拳舞は男に苦痛を与えるどころか
逆に恐るべき倒錯の世界へと誘うに十分であった。視界の下半分を覆う艶々した紅い弾丸。真新しい皮の匂い。
鼻頭を襲う甘美な痛み。俺を真っすぐに見つめる冷たい眼差し・・・赤コーナーへ戻る少女の背中を呆然と見送る男。
 しかし、男の心中に一つの引っ掛かりが残された。それは、少女の残した「残りのダウン」という言葉だ。
――残りのダウン。俺に残されたダウンはあと1回。もし、3度のダウンを喫したら、どうなる―― 


 男はリングに転がったまま、倒錯の世界から冷たく生臭い現実へ再び戻された。そして、唾を飲み込む。
――くそっ!こうなったら、光には悪いが殴ってでも正気を取り戻させるしかない!光、すまん!
 男は一縷の望みを抱いて立ち上がった。しかし、その望みが叶う事は決して無いのだ。哀れなる家畜たる男へ
嘲笑の色を含んだ一瞥をくれると、少女は左拳の甲を男へ向け、手招きをする屈辱的なポーズをもって挑発した。
「愛しい愛しい私のお兄様・・・精精、頑張って下さいね。生きる為に・・・!」


「うおおおおーーっ!!」
 男は右手を振りかぶり、赤コーナーに佇む少女の左頬へと力任せに叩き込んだ。痛いほどの手応えが、あった。
「お兄様ったら、くすくす・・・コーナーマットを素手で打っては、お手手を傷めますよ?」
 振り返ると、訳もわからない内に右頬内側に圧力を受け、顔が吹き飛んだ。左ジャブだ。先程の10発とは違い
軽快ながらも確実に顔面を変形させ、破裂音と共に筋肉を波打たせる速力を備えたブロウだ。頬の感覚を失った男は
よろめきつつ顔面を何度もさすったが、再び雄叫びを上げ突撃した。少女は男の奮闘に嘲笑と拳打をもって応えた。


 そこから暫くは、全く同じ事の繰り返しだった。男の突進をかわし、バランスを崩した男の顔面に左拳を叩き込む。
ドタドタと猛進する男の足音、キュッキュッと軽快な少女のフットワーク音、男の顔面と少女の拳が織り成す
乾いた破裂音。その3種のリズムが地下空間を支配し続けた。だが、それも長くは続かなかった。



光の食卓(7) 妖精拳舞


「はぁっ、はぁっ・・・ゲホッ、ゴホッ・・・うはぁっ、はぁ、はぁ・・・」
 3種のリズムの内、既に2つは失われ、代わりに男の不規則に乱れる呼吸音が空間に響いていた。猪突猛進の代償は
大きかったのだ。全身全霊を込めた打撃がかすりもせず、体勢を崩した所にスナッピーなジャブを浴びるという
運動の繰り返しは、格闘経験の無い男に大いなる屈辱と疲労をもたらした。
 リングを滑る様に舞い攻撃をかわす少女の様子は、童話の世界から抜け出した妖精という形容が相応しかった。
妖精の舞踏は最小限の動き、即ち体を若干ターンさせるだけで行われた。可愛らしいピンクのリングシューズが
青いマットの表面を蹴るだけで、空しくも男の攻撃は妖精の顔面をかすめる事も出来ず空を切るのだ。そして
悪戯な妖精は顔面へのジャブという形で魔法を掛け、男をリングから生えた樹木へと変身させてしまった。
 ついに、暴虐の妖精たる光は、樹木たる男の眼前へと舞い降りた。


「お兄様、どうかなさいましたか?そんな所で立ち木みたいにじっとしていると、くすくす・・・」
 少女は間合いを詰めた。男は恐怖に膝が笑い、身長で劣る少女に逆に見下ろされる形となった。そして両拳を男の
眼前で構えると、思い切り打ち鳴らし恐ろしき爆発音を反響させた。衝撃に、少女の黒髪がオーロラの如く拡がった。
「叩き殺してしまいますよ?」


「ひぃっ!・・・おわあああああっ!!!」
 男は反射的に、右拳を少女の顔面目掛け突き出した。一拍遅れて、少女の耳には爽快感に満ちたやや強烈な破裂音が
男の脳内には己の鼻の軟骨が圧迫され、変形する陰惨なる旋律が響き渡った。
「うぶっ!」
 突き刺す様な激痛と共に男の右鼻孔が鮮血で満たされると、それは真紅のラインとなりツーッと口蓋内へ注いだ。
生まれて初めて味わう己の鼻血の味。時を同じくして、少女の紅いグローブの表面を一滴の鮮血が流れ落ちた。