投稿SS2・氷の皇女

氷の皇女(1)


 ここではないところ、いまではないとき。男は地獄の底の、そのまた底にいた。
 

 男はここ、ルーンフェリア城付属地下闘技場において拳闘奴隷=拳奴としての人生を送っていた。
いや、それは人生と言うには余りに苛烈過ぎる、まさに家畜同然の起臥であった。
 男の記憶は、6日前この冷たく薄暗い独房の様な部屋で眼を覚ました時から始まっている。それまでの
二十数年の記憶は、残らず消失していた。自分の名前を思い出すことすら出来ないが、拳闘の技だけは身体が
覚えていた。禍々しいまでに鍛え抜かれた豪腕、岩盤を思わせる堅牢な腹筋、精悍な駿馬の様に太い首。
男の全身は、古代の武神を想起させる勇壮さと強靭さとを湛えていた。
 

 眼を覚ました全裸の男に与えられていたものは、ぼろぼろの青いトランクスと古ぼけたバンデージ
多くの拳奴の血を吸ったであろう青黒い6オンスのグローブのみだった。部屋の中には、やはり青黒く表面が
所々ひび割れたサンドバッグと寝具、それに便器があるのみだった。他の拳奴たち――男は知らなかったが
この地下空間には、大陸全土から64名の猛者が連れ去られて来たのだった――も同じ境遇だった。


 このフロア、地下10階には男をはじめとして8人の拳奴にそれぞれ部屋が与えられているが、一日中常に
サンドバッグを叩く爆音が、粗末な作りの館内全体に反響していた。
 拳奴達がこれ程までにトレーニングに没頭している背景には、もちろん試合に敗れれば殺されるという
非情な現実もあるのではあった。しかしそれ以上に、男達に自らの置かれた破滅的な境遇を忘れさせる
ものがあった。それは各部屋の重い青銅のドアの内側に張り出された、一枚の紙切れと、精巧な肖像画だった。
「奴隷拳闘大会優勝者には、神聖ルーンフェリア帝国皇女、ヒルデ・ド・ルーンフェリア陛下への謁見が
許される。そして陛下より褒美が直々に与えられ、自由の身になる事ができる」
 

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氷の皇女(2)
 

 アメジストサファイアオパール、真珠…大粒の宝石が散りばめられた銀の玉座に、少女が浅く腰掛けている。
腰まで伸ばされたシルバーブロンドのロングヘアは、さながら無数のダイアモンドが流れ落ちる滝の様であった。
中央に巨大なルビーを配した純金のティアラでさえ、銀の瀑布の引き立て役に過ぎなかった。
 アクアマリンの様に深遠な輝きを秘め、それでいて明澄な蒼の瞳が玉座の先を真っすぐ見つめている。美しい。
だが、それだけではない。その瞳に秘められた、氷の刃の様に研ぎ澄まされた強い意思は男の心までも貫いていた。


 その優艶にして絢爛たる肢体は、純白のドレスによって辛うじて覆われていた。ドレスの左胸の部分には
銀糸により王家の紋章である獅子が刺繍されていた。豊穣に実った双果が、獅子の姿を歪ませていた。
肘から手首までをふっくらと覆うフリルからのぞく、白く繊細な手は、雪を割って咲く一輪の華を想起させた。
 肩と、胸の上半分は剥き出しになっていた。ドレスの氷の様な純白と、柔らかささえ伝わる暖かい肌の純白。
二つの純白が男の心をかき乱し続けた。その丸みを帯びた艶やかな腰には、二つの花弁が左を下にしてしっとりと
重ねられていた。クリスタルの靴を通して見えるその内部は、これも暖かい輝きを放つまさに純白だった。



氷の皇女(2)つづき


 看守の足音がコツ、コツ、と近づいてくる。消灯の時間が来たのだ。男はドアの前に立ち肖像画の少女を
何とか頭の中に残そうと苦悶した。しかし無情にもカンテラは持ち去られ、暗黒と静寂が訪れた。男は
いつもの様にまだ見ぬヒルデ皇女への想いをほとばしらせた。隣の部屋からも呻く様な野太い声が聞こえた。 
 翌日は試合がある日だった。男は相手を一撃でリングに沈めた。10カウントが数えられ、相手はその場で
衛兵に心臓を貫かれ、死骸になって地上に帰された。皇女に御目に掛かりたい。男はただ一心に願った。
褒美など無くても構わない。ああ、ヒルデ姫様。男は一心不乱にサンドバッグを打ちのめし
暗闇が訪れると猿の様に自慰に励んだ。それは奇妙な、しかし一途な恋であった。


 男がここに来てから5週が経過し、サンドバッグを叩く爆音は男の部屋以外から聞こえなくなった。64名の
拳奴はすでに2人に減っていたのだ。残りの62人は死骸になった。これまで男は相手に触れる事さえ許さず
逆に一撃でリングに沈めてきた。男は全身全霊でサンドバッグを猛打し、ついには吊るしてある鎖を断ち切り
冷たい床に叩きつけた。男は壁を殴り続けた。拳から迸った声なき絶叫が、寒々しい地下の空気を震わせた。
(ああ、ヒルデ姫様!明日、必ず、必ずや勝って、ご拝謁を賜ります!!)
 その晩、男は肖像画を乱暴に剥ぎ取り己の一物に巻きつけ、そして果てた。
 果たして男は勝った。男のロングフックが相手を二度打ちのめし、相手は処刑されるまでもなく即死した。
男は一人咆哮し満場の観客の声援に応えた。翌日、男は地下2階にあるゲスト用のシャワールームの使用を
許された。栄光の勝者は全身の垢を落とし、モジャモジャと伸びた髭を剃り、髪型を整え、歯を綺麗に磨いた。
 

 そして、ついにその時がやってきた。男は屈強な4名の親衛隊に囲まれ、目隠しをされて玉座の前に跪いた。


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氷の皇女(3)


 親衛隊は隊列を変え、跪く男の後ろに横に並んだ。グローブ、トランクス、リングシューズ…男の出で立ちは
全て新品で、光沢のある青に染められていた。皇女を取り巻く侍女、衛兵、楽隊、司教、誰もがその盛り上がった
筋肉に息を呑んだ。拳闘士らしい身なりは甚だ無作法ではあったが、古代彫刻の様な造形美を感じさせた。


 一片の皺もなく均質に敷き詰められた赤い絨毯に覆われた階段を、クリスタルのヒールが1段ずつ降りて来た。
「これ、拳奴、面を上げよ」
 その人物はドレスに隠された両膝を絨毯に突き、男の前に肢体を曝け出した。衣擦れの音が静かに聞こえた。
そして、しっとりとした両手が目隠しを取り去り、男の両頬に吸い付き顔を上げさせた。
「私が、神聖ルーンフェリア帝国皇女、ヒルデ・ド・ルーンフェリアじゃ。先月で15になった。ほう、どうりで…。
爺の言うた通り、なかなか可愛いツラをしておるではないか。…気にいったぞ」


 物心ついた時から地下で暮らした男の、感受性の容量を遥かに超越する「美」が、脳を弄び感覚を犯した。
 肖像画で見るより遥かに美しい、慈愛に満ちたその表情は、未だ少女らしい瑞々しさを残していた。
皇女の視線が男の全身を上から下へ、下から上へ舐め回すと、男の視線は暴れ狂う心臓の鼓動と共に不規則に
乱舞し、やがてその粘ついた視線はお互いの眼に注がれた。それは視線による性交と言っても過言ではなかった。
 皇女の体内から吐き出される甘く暖かい吐息が男の顔面に吹きかけられ、シルバーブロンドの清冽な香りと
相まって男の鼻から次々と吸収された。血と汗の匂いしか知らない男にとって、まさにそれは
どのような麻薬にもまさる薫香だった。闘いに明け暮れた男の荒んだ心が、洗い流されるようだった。
 男は宗教というものを知らなかった。しかし、皇女の甘やかで、鈴が鳴る様な美声からは「天使」という
言葉しか想起出来なかった。皇女の言葉一つ一つが、男の脳に直接響き渡り、語りかける天啓だった。
 頬の毛穴の一つ一つに、皇女の素手の細胞が吸い付いてくる。未知の感覚。女の、それも光り輝く美少女の
これから大陸の浮沈を左右するであろう、高貴なる両手を独占している。男の急上昇する体温が少女に伝わった。



氷の皇女(3)つづき


「拳奴、私は貴様のような強く美しい男が好みじゃ。貴様に褒美を取らす。…貴様は、今日から私の夫じゃ」
 皇女は腰を絨毯に落とすと、未知の快感に思考能力を失い硬直している男を抱きすくめ、胸と胸、腰と腰
身体と身体を密着させるとそのまま体重を預け男の唇を奪った。次から次へと喉元に流れてくる、皇女の芳醇な
唾液。男の五感はついに全て奪われてしまった。その場にいた男全員と、一部の侍女からの、羨望と呪いの
眼差しが男の背に突き刺さり続けた。皇女は男の身体の異変に気がつき、凄艶な笑みを浮かべ結合を解いた。
「ホホホホ…貴様、勃起しておるな?大陸最強の拳闘士とはいえやはり人の子よの。全く、可愛い…」
 大陸最高の美少女に怒張した生理現象を指摘された男は、その艶美なる言葉だけで射精してしまっていた。
 そして接吻は、再開された。余りのまざまざしさに、その場にいた全員が眼差しをそらす事が出来なかった。
舌を奥まで突き入れ、男の口内をねぶりまわす濃厚なキスは皇女の息が切れるまで延々続き、そして終わった。


 両者の結合がついに解かれ、唾液の糸が垂れ下がり赤い絨毯に暗い染みを残した。そのまま皇女はいった。
「フフフ、なかなか美味かったぞ、拳奴。これより婚礼の儀式を執り行う。ついてまいれ」
 人生始まって以来の大衝撃に脳を、五感を犯された男はもはや自力で立ち上がることも出来なかった。
男は4人の親衛隊に背中を次々乱暴に蹴られ、目隠しをされ、また一匹の家畜のように引き立てられていった。


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氷の皇女(4)


 大衝撃から30分、男は辛うじて正気を取り戻していた。が、第二の大衝撃が興奮冷めやらぬ男を襲った。
 あの美しき皇女、ヒルデ姫が軽快なフットワークを踏みつつ、空間を打ちのめしている。十台半ば、15才とは
とても信じられない程発達しているが、あくまで芸術的均衡を保っている乳房が、小さなスポーツブラからその
柔らかな半身を零れさせていた。今なお男の膝に温もりを残している妖艶な腰には、丈の短い薄手のトランクスが
吸い付いていた。そしてリングシューズが疾風の如くマットを駆け巡り、軽快な擦過音が舞踏に伴奏を付けていた。
 スポーツブラ、トランクス、リングシューズ全てが、ドレスと同様の豪奢な光沢の純白に染められており
所々銀糸の刺繍や無数のダイアモンドが散りばめられているのが見て取れた。
 雪の妖精を思わせる美少女の、小さな両拳を覆う6オンスのグローブだけが、紅く妖しい輝きを放っていた。


「シッ、シィッ、シシュッ!」
 まさに絢爛豪華な、それは舞踏だった。鋭い呼気と共に皇女のアッパーカットが空間を斬り、シルバーブロンドが
風を孕んで拡がり極北のオーロラを想起させたかと思うと、左右のフックが荒々しく空間を滅多打ちにし
サラサラと靡く皇女の髪は荒れ狂う銀の渓流となった。男は、最初はこの異様極まる状況を理解すべく努力したが
その努力は舞踏によって中断された。ただただ美しいその拳舞に、男の思考は打ちのめされ、我知らず涙を流し放心
していたのだ。舞踏は突然にして終わった。皇女は汗を飛び散らせつつ男の方を向き、甘やかに上気した声でいった。



氷の皇女(4)つづき


「ほう、やっと気がつきおったか、拳奴。ここが何なのか訊きたそうじゃな。まあ無理もない、説明してくれる。
この部屋は、城の地下深くに造らせた私専用の拳闘場なのじゃ。私は純白が好きでの、リングは特注で作らせた
のじゃ。なかなか、見事なもんじゃろ?あっ、見ての通り、天井は輝水晶で覆われておるから一日中使えるぞ。
この輝水晶を集めるのがまたホネでのう…大陸中の宝石商から買い集めさせたのじゃ!」
皇女は男の言葉を待たず次々と一方的にまくしたてた。雪のように白い全身の肌に、びっしょりと汗をかき
獣の様に熱く、それでいて蜂蜜の様に甘い吐息が荒々しく出入りしている。明らかに少女は昂奮していた。
「貴様をここに連れてきた理由が知りたいみたいじゃな。ふふふっ、それは…これじゃ!」
 皇女は美しく引き締まった脚でリングを蹴ると、青コーナーに立ちすくむ男の顔面目掛けて、渾身の右ストレートを
打ち込み、鼻先3cmで止めた。グローブの革の匂いと、少女の汗の匂いとが交じり合い、爽やかな風となって男の顔を
撫で回して消えた。少女は、右拳はそのままで左拳を腰に当てる、可愛らしいポーズから挑発的に言い放った。


「拳奴、私とボクシングで闘え!私を見事打ち負かす事が出来たら、貴様を私の夫として認めてやる。おい、爺!」
「かしこまりました。陛下」
 リングの下に居た屈強そうな4名の親衛隊の後ろから、貧弱な白髪の男性がふらふらと現れリングに上がった。
「レフェリングはこの爺にやらせる。3分1ラウンド。インターバルは1分。倒れてから10カウントで負けじゃ。
実に解りやすかろう。それでは今から試合開始じゃ!爺、しっかり公平に裁けよ!」


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氷の皇女(5)
 親衛隊の一人が、左手に持ったゴングを打ち鳴らした。同時に隣の屈強な男が砂時計を反転させた。残りの2名が
皇女の脱ぎ捨てた優美なドレスとティアラ、クリスタルの靴を跪きながら捧げ持っている。


「ひ、姫様ぁ、そんなそんな、そんな、麗しきヒルデ姫様のお顔を打つなど私には出来、ブッ!」
 上ずった男の言葉はヒルデ皇女の華麗なるワンツーにより中断された。打撃の反作用でシルバーブロンドが
翻り、ふんわりとした香りが漂った。男は突然鼻を突き抜けた2発の甘美な刺激にへたり込んだ。
 殴り倒した男を真上から見つめる皇女の肩は小刻みに上下していた。怒っているのか。笑っているのか。
いや、皇女は悲しみに涙を流していたのだ。嗚咽する少女もまた、美しかった。


「グッ、ひぐッ…今まで、お父様は大陸中から私に、エグッ…私の為に何十人もの男を紹介してくれた…
しかし、どいつもこいつも、ぅグッ、はァッ…顔が良いばかりの弱っちい青びょうたんばかりなのじゃ!!
…けへっ、けへっ…そんな男に、この大陸の行く末を任せられるか!!…グズッ、なぜ、なぜ私を打つ事を恐れる?
女だからか?一生の伴侶となる、ぅうっ…グズズッ、愛する男の資質を当事者である私が試して何が悪いのじゃ!
拳奴よ、立ち上がって、私と、私と、私と闘えぇッ!!!…ひぅッ、エッ、エッ…」



氷の皇女(5)つづき


 大陸最高の美少女の熱い涙は無数の宝石となって男の額を打ち付けた。男はゆっくりと立ち上がると
爺と呼ばれた老人にハンカチーフを要求し、涙と鼻水とでくしゃくしゃになりながらも、優美な均整を保っている
皇女の顔を丹念に拭きとり、今なお鼻先に甘美な衝撃を残す、皇女の小さな右拳にグローブ越しのキスをした。
 姫は、自分を本当の夫として、将来この大陸を統べる者として信頼して下さっている。これ以上の、これ以上の
光栄があろうか。男はひとりの少女ヒルデの熱い、悲痛な願いを容れた。男は、未だに小刻みに震えるか細い身体を
引き寄せると、その逞しく鍛え上げられた胸に、銀髪に覆われた小さな頭をかき抱き、静かに泣かせた。


 ここで1ラウンド終了のゴングが鳴り響いた。時間係の親衛隊が、一回り小さい砂時計を反転させた。
「姫様、いや、ヒルデ様、次のラウンドから私は本気を出します。必ず勝ってヒルデ様と、…結婚させて頂きます」
 「結婚」という言葉に付随する、美少女とのあらゆる関係を想像し、男は思わず昂奮に言葉尻を詰まらせた。
「ヒクッ…その言葉、忘れるなよ、拳奴!私をKO出来ねば、貴様を夫と認めることは出来んのだからな!」
 皇女の澄み切った、そして実に喜びに満ち満ちた怒号が地下拳闘場に響き渡った。純白のリング上に皇女の
はちきれんばかりの笑顔が咲き乱れた。男もその無邪気な様子を見てほくそ笑んだ。


 1分のインターバルが終わり、ふたりの表情は、昂奮と緊張に張り詰めた拳闘士らしいそれに戻っていた。
親衛隊の一人がゴングを鳴らし、もう一人が大き目の砂時計を返した。


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氷の皇女(6)


 男は、何としてでも一発で決めてしまおうと考えていた。姫は見たところ155cm程、ウェイトは42,3kgで
あろう。男には身長にして20cm弱、ウェイトでは30kgほどのアドバンテージがあった。試合の結果は見えていた。
姫には悪いが、勝つ。傷の残らないよう、得意の右で顎を一撃して終わりだ。そう考えていた。
 

 男は力強く踏み込み右のロングフックをスイングした。拳奴時代3人の対戦相手を葬った得意中の得意技だ。
 鮮烈な乾いた破裂音が響いた。それは1発では無く、5発だった。皇女は男の攻撃をウィービングでかわし
懐に入ると左ジャブのトリプルを放ったのだった。1発目、2発目は顎先を正確に打ち抜き男の脳を揺さぶり
3発目は男の鼻を打ち抜き一瞬視界を混乱させた。皇女にはその一瞬で充分だった。
 男の右テンプルに皇女の紅い左拳が添えられた直後、超至近距離からストレート気味の右フックが男の
左顎を打ち抜いた。同時に左拳がテンプルを強く押し、男の顎が右側に跳ね上がった。脳が、大きく揺れた。
男の頭部が力なく自由落下すると、そのスピードが急激に増した。左ストレートが、がら空きとなった
右テンプルに打ち下ろされたのだった。男は横向きに冷たいマットへ叩き付けられた。



氷の皇女(6)つづき


「おい、爺!カウント。…カウントはどうしたと、聞・い・て・お・る」
 老人は余りの早業に驚愕、放心していたが、皇女の右の6オンスが鼻先に突きつけられ、昂奮に火照りながらも
冷厳さを感じさせる視線が突き刺さると、弱弱しく跪き、震える声でカウントを始めた。
 男の意識はあった。そしてリングに横たわったまま、皇女の実力を侮った己を恥じた。パンチは重くないが
5発全てがよく考えられた、計算高く正確なブロウだった。至近距離から自分を打ちのめす皇女の華麗な動きを
男は何度も何度も反芻していた。清冽な汗の匂い、顎を打ち鼻を潰す紅い6オンス、舞い散る銀髪、上気した頬…


「…エイト!ナイン!」
 頭上から叩きつけられる爺のコールで、男は夢想から現実へ引き戻された。カウントは9で止まった。
「そんなに私のパンチが好きか?拳奴。ふふふ。全くしようのないやつじゃのう。しかし、そこがまた可愛いぞ」
 華麗なコンビネーションで自分をリングに這わせた美少女の、潤いを帯びた桃色の唇から紡ぎ出された
挑発的な台詞に、思わず男は下腹部に疼きを覚えてしまっていた。


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氷の皇女(7)


 男は、皇女を稀代のインファイターとして認めた。至近距離からの顔面へのラッシュは脅威になると考え
リーチの差を活かしてガードを固くし、遠距離からストレートで攻める事を考えていた。試合は再開された。


 まず男が先手を打った。コンパクトに脇を固め、顎を慎重にガードしつつ鋭い左ストレートで皇女の顔面を
狙った。直後、肉を打つ轟音が響き、男は左頬に圧力を感じた。男の左腕の内側に疾風の如く鋭く
ステップインした皇女の、フック気味の右ストレートが、男の左頬を豪腕の外側から打ち抜いたのだった。
クロス・カウンターだった。皇女の紅い6オンスが男の顔面に食い込み、衝撃は波紋となって男の精悍な顔面を
往復し右に左に波打たせた。男の口は蛸の様に醜く半開きになり、紅の混じった唾液をリングにぶちまけた。
宝石の粒の様な汗を撒き散らし、流麗な銀髪を翻しながらの全く無駄の無い、壮麗なる、芸術的一打だった。
 男は急速に薄れ行く意識の中、右を強打したが、右頬に更に強大な圧力を感じた。意識が、完全に飛ばされた。



氷の皇女(7)つづき


 男は、天上界にいた。今日は、精霊の舞踏会が行われる日なのだ。目の前に4人の光り輝く風の精霊がおり
楽しそうに銀の長髪と純白のドレスを風に靡かせつつ、左に右に軽快に舞っている。男は、輝く精霊に手を差し伸べ
ダンスに参加しようとした。風の精霊は何故か3人に減っていたが、揃って男を招いた。
 実際に、そこに精霊など居はしなかった。皇女の壮麗なる左右のクロスにより瞳孔を振るわせ、脳を揺らせた
男が見た楽しき幻影だった。皇女は、ふらふらと力なく蛇行し、しなだれかかってくる男の頭を、左腕で豊満な胸に
かき抱くと、最初のうちは甘やかな、そして最後に近づくにつれ氷の様な厳しさを感じさせる口調でいった。


「ホホホ、拳奴、私のクロスカウンターの味はどうじゃ?これは私の一番のお気に入りでの。たいそう美味かろう?
そうか、そうか、堪能したか。しかし楽しいダンスの時間は終わりじゃ。ほれ、さっさと目覚めよ」
 皇女の右の紅い6オンスのナックルパートが、男の鼻に正面からめり込んでいる。打撃音は無い。ただ、当てがった
だけである。そして、左掌で男の後頭部を固定すると、薄いグローブ越しに右拳を男の鼻へ押し付け弄んだ。
 男は天上界から引きずり下ろされ、覚醒した。そして、自らの鼻の軟骨が右へ左へ移動する嫌な音を聞いた。
男は焼け付く様な激痛と凍て付くような恐怖にのたうち、ようやく自らの置かれている屈辱的な状況を理解すると
何故か股間を反り返る程に勃起させてしまっていた。グローブ越しに見える少女は、凄艶なる美と暴力の化身だった。


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氷の皇女(8)


「へっ、陛下…」
 老人の声が聞こえた。その意味するところを皇女は言われるまでもなく理解し、男を青コーナーへと開放した。
「あっ、ホールディングの反則か。拳奴、すまぬ。しかし眼が覚めたであろう。準備が出来たらかかって来い」
 恐ろしき拳責めに覚醒した男は、未だ混乱する頭で次の作戦を考えようとした。もはや、カウンターの名手たる
ヒルデ姫には遠距離からの牽制など無意味だ。次にあのクロスを受ければ、恐らく終わりだろう。近距離では
あの高速のラッシュで、KOされる危険がある。どうすればいい?自分は、大陸最強の拳闘士では無かったのか!?
 男は焦っていた。なにせ一度の敗北も知らぬ男である。このような可憐な美少女に、得意とするボクシングで
劣勢に立たされる事は、全く想像の外だったのだ。男は焦り、煩悶し、懊悩し、そして恐怖し、何故か昂奮した。
混迷を極めた男の頭が辛うじて算出した作戦は、脚を使って距離を取り遠距離からカウンターを狙う事だった。


 しかし、試合が再開されると、皇女は卓越したフットワークを余すところ無く披露し、芳ばしい香りとともに
男にピタリと密着してきたのだった。男がいくら脚を使おうとも、吸い付いて離れない。皇女の端麗な顔は
常に男の目前にあった。またも男の作戦は崩れた。フットワークで皇女に対抗する事など、まさに愚中の愚だった。
「シシュッ、シシッ、シシィッ!シシシシッ!シシュシシッ!」
 皇女の、スナップを良く利かせた高速のワンツーが、男の鼻を次々と正確に、軽快なリズムで打ち上げた。
顔面を貫く甘い鈍痛にもがき苦しみ、男は両腕で頭部を覆った。直後、6オンスの標的は男の腹に切り替えられた。
一瞬の内に4発、男の鳩尾を左右のグローブが連打した。男は反射的に両腕で腹を隠した。鼻が4発連打された。
男が苦し紛れにフックやアッパーを振ると、少女の姿は消え、また目の前に現れ、そして鼻か鳩尾が打たれた。



氷の皇女(8)つづき


 打つ手を失った男は、一旦クリンチに逃れようと両腕を投げ出し、その豊穣なる谷間に顔を埋めようとした。
直後、男は跪き、ゆっくりとうつ伏せに脱力した。何が起こったのか、まるでわからなかった。
 一瞬前傾姿勢になった男の顎の先端を、皇女の左ショートアッパーが掠めたのだ。その瞬間から、四肢が全く
動かなくなった。当たり損ねではない。脳を直接上下に揺らすべく、顎の急所を狙い澄ました凄絶な一撃だった。
 

 白髪の老人はすぐにカウントを始めた。男はKOされる恐怖に喘いだ。意識は明瞭なのだが、腕が、脚が動かない。
四肢がリングにめり込む程に重く、持ち上げる事も出来ない。左の鼻の穴からは、鮮血がポタポタと垂れていた。
屈辱、悔恨、絶望、そして敗北…!男の脳裏をそれらの文字がよぎった。カウントはすでに4まで進んでいた。
 ヒルデ姫の、柔らかい唇の、全身の感覚がまざまざと蘇る。もう一度、もう一度あの感触を味わいたい…!
もう一度、ヒルデ姫を感じたい…!男はうつ伏せのまま腹筋の力だけで樽の様に転がり、青コーナーの鉄の支柱に
両脚を何度も強打する事で、強引に神経機能を回復させた。そして仰向けに転がり、腹筋の力だけで上体を
起こすと、もはやただの重荷になり下がったその豪腕を、背筋の力だけでセカンドロープに引っ掛けカウント9で
辛うじて立ち上がった。男の両膝は爆笑していた。拳闘士としての最後のプライドが震える両腕を上げさせた。


 乾いた破裂音が連打された。コーナーに靠れた皇女が、男にグローブ越しの拍手を送ったのだ。しかし
その蒼の瞳には、試合前に見て取れた輝く昂奮の色は殆ど感じられなかった。別の感情が、宿り始めていた。
 もはや皇女にも、そして男にも、この試合の勝者は見えていた。皇女は一縷の望みから、男をなおも鼓舞した。
「拳奴…貴様は敗北を知らぬ男じゃ。見事私を打ち倒し、その大陸最強の腕を示してみよ!」


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氷の皇女(9)


このエスタディア大陸の歴史は浅い。400年ほど前、創造主の手により大海に浮かべられたという伝承が
各地に伝わっている。それ以前について記された書物は、見つかっていない。ルーンフェリア家は、この
エスタディア大陸を創始以来400有余年に亘り、絶対君主制により統治してきた名家だった。しかしその統治の
裏に、一族が初代より代々受け継いでいる恐るべき能力が関わっていることを知るものは少ない。
 統治者に何よりも求められるものは、家臣を、部下を、そして国民を惹きつけるカリスマ性である。その
カリスマ性の根源となるものは、相手の人心を掌握し、動かす技術である。
 ルーンフェリア家の人間には、生まれつきにして、相手の心をその眼で見るという能力が備わっていたのだ。
初代ルーンフェリア家当主が、その能力をどのようにして身につけたかは王家の人物でも知るものはいない。
 カリスマとは本来「神の賜物」と言う意味である。もしかしたら、創造主は新しい大陸を造るにあたり
統治者としてルーンフェリア家を指名し、その眼と、力とを授けたのかも知れない。


 ショートアッパーにより四肢の神経が麻痺した男には、もはや打つ手は無かった。このラウンド、ガードを
固くして生き残るしかなかった。男は震える両腕を顔の前で交差させ、顔面への打撃から逃れようとした。
 形ばかりのガードは、皇女が振り上げた右拳により容易く破壊され、男は万歳をする形で顔面を曝け出した。
そのだらしなく引き攣った薄ら笑いの表情からは、もはや大陸最強の拳闘士としての誇りは見て取れなかった。
そこにはただ、顔面を、鼻を、顎を、頬を連打される恐怖だけが浮き彫りになっていた。
 ヒルデ皇女の高貴なるラッシュが、薄いグローブに包まれた両拳が、再び至近距離から男の顔面に炸裂した。



氷の皇女(9)つづき


「シシィッ!シシュシシィッシシュシシッシシッシシシシィッ!」
 最初の左ジャブ、右ストレートが男の鼻を正面から打ち抜くと、もはや男の膝は折れた。そこからは、まさに
滅多打ちとしか言えなかった。男の両頬に、皇女の左右のフックが次から次へと埋め込まれた。ワンツーの後
6発目のフックが男の左頬を強打し顔面を醜く歪ませると、男の両膝は漸くリングに着地したが、構わず7発目の
フックが男の右頬に炸裂し筋肉を震わせた。更に7発の打撃が、すでに意識を混濁させている男に加えられた。
 男は青コーナーからやや左にずれたロープ際で、正座した状態から上体を反らし天を見上げる、神に祈りを
捧げる様な姿勢のまま、白目を剥き動かなくなった。


 16発続いた鮮烈な破裂音の直後、17発目の異質な破壊音が拳闘場の空気を凍りつかせた。皇女から迸った激情は
青コーナーのコーナーマット上段に、右ストレートとなって爆発したのだった。恐るべき衝撃はコーナーマット
内部の綿を掻き分け、内部の金属支柱を直接暴打し歪ませ、リング全体を震撼させた。
 そして、カウントを数えようとした白髪の老人の首を、皇女の、所々血液が付着した左のグローブが掴み上げ
華奢で清らかな外見からは想像も付かない握力で締め上げた。両肩が激しく震え、整然と並んだ上下の純白の歯が
ギヂギヂと軋み合った。所々紅の点が染め付けられた艶やかなる全身からは怒気が立ち上り、その眼差しは
冥府の吹雪となって老人を凍て付かせた。憤怒の天使の姿だけが、地下のリングに聳え立っていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


氷の皇女(10)


 桃色の唇が開かれ、呪詛が紡ぎ出された。一言一言が、咆哮しそうになるのを堪えた、静かなる怒号だった。
「爺、この男は、一体、何じゃ?最強の、男を、連れて、くる、筈、では、なかったのか?………答えよ」
 老人は、皇女から静かに紡ぎ出された恐るべき怒号の迫力に思考能力を失い、ひたすら謝罪を繰り返そうとした。
「もっ、もっ、もっ、もっっ…!申し訳御座いません陛下!申しわげぇっ!グッ…」
「答えよ」
 老人の言葉は、皇女の左拳を覆う6オンスによりまさに握り潰された。皇女は、そのまま、何度も何度も
同じ言葉を老人に吐きかけた。優美にして高貴なる肢体が怒りに激震し、全身の筋肉が張り詰め怒張していた。


 皇女の小刻みに震える右の6オンスの内部から、液体が漏れ出した。それはバンデージの内側中央を流れ、腕の
側面を経由し、右肘の先端にかけて流れ落ちる奔流となった。激情が筋肉を震わせ、奔流を右へ左へ蛇行させた。
血だ。強く、余りにも固く握り締められた右拳が肉を裂き、鮮血を流したのだ。それは皇女の心の涙だった。


 ヒルデは、男が自分を打ち倒す事を強く願った。男が、好きだったからだ。一目惚れだった。一生を捧げても
いいと思った。謁見式の時無理やり唇を奪った。ヒルデのはじめてだった。好きだったからだ。大陸中から
自分の為に強く美しい男を集めたと爺は言っていた。こんな優秀な家臣をもった私は、本当に幸せだと思った。
 

 男は、ヒルデの両拳に屈した。その時、希望は失望へ、愛情は憎悪へ、そして信頼は殺意へと変わった。



氷の皇女(10)つづき


「そうか、もう、よい」
 ヒルデは最後の呪詛を吐き出すと、喉を掴んだまま老人の頭をニュートラルコーナーに押し付け、己の鮮血滴る
震える右拳を構えて止め、老人の顔面に向けた。ヒルデの右肩と、老人の顔面と、6オンスとが同じ高さに並んだ。
 ギヂッ、ギヂヂヂヂヂヂッ、ヂッ…ギギギギヂッ、ギヂッ、ヂッ、ヂッ…
 ヒルデの綺麗に揃った上下の歯の間から生じた異音は、弓の弦が極限まで張り詰める様子を想起させた。
老人は、王家の人間であるからヒルデ皇女の心中もはっきり見えた。しかし決してそれは、見てはいけなかった。
 そこには、現世の言葉では到底表せない、身も心も凍て付く人外境の意思だけが渦巻いていた。そして
その意思は老人の宇宙を侵蝕し、覆い尽くした。その瞬間、全ての白髪が、体毛が抜け落ち、脳が石化した。


 激甚なる撃滅音が地の底に爆裂した。空気を切り裂く衝撃波を伴って発射された6オンスは、老人の鼻に着弾し
顔面のあらゆる筋肉組織を、脂肪を、骨格を、器官を押し潰し破壊し尽くすと、コーナーマットを暴打した。
 恐ろしき暴打の衝撃は老人を突き抜け、ニュートラルコーナーを伝わってリング全体を激震させると、少女の
全身へ跳ね返り、凄麗なる銀髪を神々しく逆立たせた。全身に鮮血と臓物を浴び、純白のコスチュームに忌まわしき
地獄模様を染め上げた。ヒルデが左拳を離すと、死骸は極めて緩慢に、弛緩し切った全身をリングへと落とした。
 リングの一角は冥府と化した。幅広で純白のコーナーマット、その上段に、巨大な血塊が投げつけられたかの様な
禍々しい模様が炸裂し、垂れ下がっている。その下には、血と骨と臓物の池がじわじわと拡がりつつあった。



氷の皇女(10)さらにつづき


 皇女ヒルデは、哀れなる老人の死骸をそのままにリングから舞い降りると、鮮血に彩られたその凄艶なる全身を
ゆっくりと親衛隊の方へにじり寄せた。歴戦の勇士達は皆、凍り付いていた。身体が、指一本動かせなかった。
殴り殺される、と誰もの本能が感じていた。そして砂時計を持った親衛隊の鼻先に、真紅の兇器が突き出された。
「拭け」
 砂時計男は悲鳴を上げる事も出来ず小便を漏らし失神した。残りの3人は発狂寸前の恐慌状態のまま命令に従った。
震撼する2枚のタオルは空中で大蛇の様にのたうちまわった。ヒルデの全身の肌と、両の6オンスは清められた。
残った男がすぐ様、新品の同じコスチュームを持ってきた。ヒルデはそれを無造作に掴むとリング上に投げ捨てた。
「片付けよ」
 3人の親衛隊のうち2人は、老人の死骸と、砂時計男を担いで走り去った。もう一人は何か言いたげにしていたが
その兇器が鼻に押し付けられると、腰を抜かし失禁、脱糞し、凍った狂い笑いのまま尻で後ずさりし去っていった。


 ヒルデは、未だ眠る男の眼前に裸身を曝け出し、銀糸で獅子が刺繍されたトランクスにその伸びやかに成長した
両脚を通すと、2つの柔らかな果実をスポーツブラに押し込み背中の銀紐で封印した。そして、きめ細かく白い
素足を純白のリングシューズに収め、銀紐を引っ張り固く結んだ。少女の全身は、再び純白に覆われた。
 少女はゆっくりとその男へ歩みを進めていった。そのアクアマリンの瞳は、ヌラヌラと昂奮に輝いていた。
昂奮剤は、試合前感じていた期待感でもなければ、純然たる殺意でもなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


氷の皇女(11)


 ポツ、ポツ…ピチャ、パチャ…
 気持ちいい。雨だろうか。男は、顔に繰り返し当たる水滴の冷たさを楽しんだ。真上から、光り輝く美少女が
見下ろしている。ここは、妖精の国だろうか。いや、妖精にしては美しすぎる。もしや、天使様ではないか。


 その時、男の鼻の右の穴に一際大粒の、黄色く粘ついた雨が吸い込まれた。男はむせ返り現世に帰された。
美少女は、艶かしき下唇に付着した輝く液体を、右拳に装着された殺人器具で拭うと眼下の男に無邪気にいった。
「おーっ、入った入った。余りに長いことマヌケヅラをさらしておったので、タンツボかと思うたぞ」
 跪く男の顔からは、美少女の虫歯一つ無い清麗な口内から生み出された、透明や、薄黄色の粘液が垂れていた。


 ヒルデは、左の6オンスを腰に当て、右の6オンスをストレートの形で鼻先に突きつけるお気に入りのポーズで
男に己が勝利を気高く、可愛らしく宣言した。男は、その右拳から漂う謎の異臭に吐き気を催した。
「拳奴、貴様は私、神聖ルーンフェリア帝国皇女、ヒルデ・ド・ルーンフェリアとボクシングにて決闘を行い
無様にリングを這い、KOされたのじゃ。貴様は敗者じゃ。試合に敗れた拳奴がどうなるか、当然…知っておるな?」



氷の皇女(11)つづき


 男は全てを思い出した。苦しかった拳奴生活、謁見式、ヒルデ姫の涙、笑顔、そして視界に拡がる紅いグローブ…
そして、自分の恐ろしい運命を理解した。が、余り実感が沸かなかった。否、男の脳は「それ」を理解することを
断固拒んだのだ。当然である。全ての人間は、「その」瞬間が到来して初めて、「それ」を真に理解するのだから。
「ふん、全くわかっておらんようじゃな。仕方ない。私が貴様の運命を示してくれるわ。これを見よ!」
 ヒルデは男の背後に回ると、左腕をその精悍な首に巻きつけ、未だに自由の利かぬ男の身体を90度左に向けた。


 そこは冥府だった。血と骨と臓物の人外境だった。


 どのような言葉で説明されるより明確に、男は自らに間もなく訪れる「それ」への理解を深めざるを得なかった。
禍々しき惨状から眼を逸らせない。男の脳裡は、赤黒く明滅する一文字「死」で瞬時に埋め尽くされた。
 ヒルデはスポーツブラに辛うじて覆われた豊満な乳房を、男の背中にギュムギュムと押し付け、その柔らかな
肉質を男の背中に伝えると、男の右耳もとにその上気した唇を熱い吐息が聞こえるほど近づけた。そして限りなく
甘やかでとろみを帯びた、吐息交じりの艶声をもって、男に死の宣告を言い渡した。
「ようやく解ったか、拳奴。貴様は、フフフ…私のパンチによって、あそこへと葬られるのじゃ…!」


 男は、唯一動かせる腹筋の力だけで、醜く、浅間しく、もがき狂った。しかし、ヒルデのしなやかな左腕から
逃れる事はできなかった。ヒルデは、巨魚の様に暴れ狂う敗者を赤コーナーまで引きずって来ると、コーナーを
支える金属支柱の裏側に隠された赤いレバーを右拳で掴み、力任せに引っこ抜くとリング外へ放り捨てた。
 無数の歯車が軋み合う轟音が響き渡り、ふたりは、地獄の底の、そのまた底へと吸い込まれていった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


氷の皇女(12)


 リングは、轟音と共に30m程ゆっくりと落下し、さらに大きな轟音を爆発させ止まった。最後の轟音が狭い狭い
空間に反響し、長い長い不協和音となってふたりの耳を犯した。そこはまるで井戸の底の様だった。真上から
投げ掛けられる輝水晶の強烈な光が、勝者と敗者の姿を、白いリングに鮮明な陰影として刻み付けていた。


 ヒルデは、男を青コーナーへ投げ付け、太く長い豪腕を1本ずつトップロープに巻きつけ固定すると、目前で
両拳を3度打ち鳴らした。地の底に高らかに鳴り響いた破裂音は、男の脳に鮮明に、その時が近い事を理解させた。
 反響し共鳴し増殖する死の破裂音を、大音声の絶叫がかき消した。
「い、い、いい命だけは、いいい命だけ命だけはだけはお助けをぉーーーっ!姫様ぁーーーーーっ!!
こっこころここころころころ殺さないでぇ殴らないでこっ、殺さないで殴り殺さないでぇぇーーっ!!」
「フフフ…そう怯えるな。私は寛大じゃ。命乞いをする者は殺さぬ」
 その言葉の裏に隠された、身も心も凍り付くような真の意味を男が理解することは、ついになかった。


 死の恐怖に泣き喚く男の絶叫は、意外な手段により中断された。少女の唇が男の唇に重ねられていたのだ。
愚かなる男は、この接吻により「許された」と思った。赤く腫れ上がった顔面に弛緩した安堵の表情を浮かべ
少女の甘美なる唾液を一心不乱に味わうと、自らも舌を突き出し、少女のそれと絡ませた。至福に全身が舌から
溶けてしまいそうだった。死の恐怖すら、押し寄せる官能の前に吹き飛んだ。
「28」
 ねっとりと結合が解かれ、少女の口から謎の数字が漏れた。直後、汗と香水の匂いを残して、少女は消えた。



氷の皇女(12)つづき


 未曾有の爆撃が男の顔面を襲った。少女の右アッパーカットが、男の顔面を醜く押し潰したのだった。左拳は
男の頭頂部を押し付け、固定していた。暴虐の限りを尽くした一撃だった。恐るべき破壊兵器と化した男の下顎は
上顎との間に挟まれた障害物を物ともせず、あっさり断ち切ると何事も無かったかの如く目標を猛爆した。
 ふたりの足元に、肉塊が転がった。それは、噛み千切られた男の舌だった。少女は蠢く肉塊を黙殺した。


 男は、全身を駆け巡る激痛に咆哮しリングをのた打ち回ろうとしたが、それは許されなかった。またすぐ
少女の柔らかい唇が口を塞いだのだ。舌は男の、鮮血溢れる口内を弄んだ。少女の口は肉食獣の様に、真紅に
物凄く染め上げられた。そして、またしても数字が紡ぎ出された。それは、最初の暴力を経て9だけ減っていた。
「19」


 それは間違いなく、男の歯茎から生えている歯の本数だった。接吻は、それを数える為に行われたのだ。
幼き皇女ヒルデは、この男の歯を全てへし折るつもりだったのだ。大陸中の全ての男が羨望の眼差しを向ける
麗しきヒルデ姫との甘くとろけるような接吻。しかし、今行われているそれの、余りの忌まわしさは
地上の人間の理解を遥かに超越したものだった。まさに、地獄の底でしか許されない死の接吻といえた。
そこから先は、もはや、同じ事の繰り返しだった。



氷の皇女(12)さらにつづき


 老人の命を一撃にして消し飛ばした右ストレートが、男の口に正面から埋め込まれた。加速した弾丸は男の
全ての前歯を歯茎もろとも砕き尽くし、そのまま口を塞いだ。そして、ヒルデ皇女の甘い、甘いキスが
男の口腔を犯した。男は激痛と官能に全身をビクンビクンと痙攣させた。一物は反り返った。
「8」
 右拳が男の口を塞いだ。左フックのトリプルが男の右顎を猛打した。鮮血は行き場を失い、鼻から溢れ出した。
上半身を密着させての、濃厚なキスがもたらされた。ヒルデ姫の乳首の位置まで、はっきりわかった。痛いのか
気持ちいいのか、もうわからなかった。物凄く痛くて物凄く気持ちよかった。赤熱する下半身は天を衝いた。
「3」
 左拳が男の口を塞いだ。渾身の右フックのダブルが男の左顎を猛打した。男の右頬が風船の様に膨らんだ。
男の口腔内の全ての骨が遊離し、鮮血に浮いては沈んだ。そして、全身を密着させての、最も濃厚な接吻が
男を襲った。男は死ぬ程殴られ、死ぬ程愛され、死ぬ程苦しみ、そして死ぬ程官能に喘ぎ、射精した。
 最後の接吻が終わると、少女はその端整な顔に満足げな血の冷笑を浮かべ、右拳を戻し左拳を振るった。


 男は破裂した。口腔内の全てが、冥府へ向けて噴射された。青コーナーと冥府との間に、血と骨の道が
渡された。その惨景は、この男の運命を象徴的に、しかし実にまざまざしく物語っていた。
 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


氷の皇女(13)


 ――――たすけてくれぇぇぇぇぇーーーーーーっ、まだしにたくないぃぃぃぃぃーーーーーーっ


 男は絶叫した。声を限りに泣き叫んだ。しかし、力なく半開きになったその口は、ゴポゴポと血の泡を
吹き出し獣じみた唸り声を上げるだけだった。口が、全く動かない。閉じる事も、開く事も出来ない。
幼くも美しき皇女から迸った暴力は、無慈悲にも男の顎の骨格を砕き、言葉と、味覚とを奪い去っていたのだ。
 男の顔面の鼻から下は、激烈な内出血によりもはや青黒く腫れ上がった半球になっていた。顔面の鼻から
上だけが、もちろん試合のダメージは残していたが、精悍な若者らしい造形を辛うじて保っていた。
 無駄だと知りつつも、男は強く願わずにはいられなかった。生を、開放を、そして、愛する姫との結婚を。


 少女の両腕がしなやかに動き、流麗な銀髪を後ろに払った。そして、研ぎ澄まされた氷の刃の様な切れ長の
瞼が、うっすらと細められ冷笑の色を浮かべると、艶やかに朱に彩られた口がゆっくりと開かれた。
「ならぬ」
 実に簡潔、明瞭なその返答は、男の人権を全否定する宣言そのものだった。男は言葉を失って初めて、自分の
心が皇女に直接見透かされていた事を悟った。言葉にならない戦慄に、両足の内側を黄色い液体がつたった。
 皇女は、凍てつく様な笑みを浮かべたまま両のグローブをゆっくりと持ち上げると、顎の高さで止めた。


「シィッ」
 少女の血塗られた口から鋭い呼気が発せられると、直後、恐怖に震える男の鼻を鋭い刺激が駆け抜けた。
ヒルデの左ジャブが、男の鼻を正確に撃ち抜いたのだ。男の全身が「ビクン」と震え、鼻血が右からツーっと流れた。



氷の皇女(13)つづき


「シッ、シッ、シッ、シィッ、シッ、シッ、シッ、シィッ、…」
 ヒルデの左肩が鋭く回転し、薄く紅いグローブのナックルパートが、コーナーに磔にされた男の顔面、鼻一点を
規則的に撃ち続け、破裂音を響かせた。スピードと正確さを重視した、鋭く弾く様な左ジャブだ。鼻血はやがて
両側から止めど無く溢れ出し、半開きの口腔へ吸い込まれたり、顎を伝ってリングにボタボタと垂れたりした。
 度重なる官能と衝撃に犯された哀れなる男の神経は、この鼻へのジャブを「気持ちいい」と感じた。一発、また
一発と少女の左拳が軽快に男の鼻を潰し、鼻血が溢れ、甘美な激痛を伴った衝撃が脳を貫くたび、男の下半身は
我知らず徐々に隆起してゆくのだった。紅いグローブ越しに自分を見据えるヒルデ姫の瞳に浮かぶ、蠱惑的にして
冷ややかな笑み、芳ばしい汗と血の匂い、冷たく弾力に富んだ6オンスの感触、波打つシルバーブロンドの美しさ… 
 男は魔界の陶酔に浸っていた。一物は既に破裂せんばかりに膨らみ、汁を滲ませていた。浅間しき光景だった。


「シッ、シッ、シッ、シッ、シッ、シッ…シシィッ!」
 湿りきった破裂音の連続を、生々しい破折音が締めくくった。ヒルデの右の6オンスが、男の鼻を正面から
押し潰したのだった。少女の全身を覆う淡雪を思わせるきめ細かい肌に隠された、獰猛なまでに鍛え抜かれた
筋肉から瞬時に迸った純然たる破壊のエネルギーが、その血塗られた右拳を爆発的に発射させた。
 そして、強烈な捻りを伴い加速した暴虐の弾丸は、男の鼻を、鼻骨の先端を正確に捉え、すり潰した。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


氷の皇女(14)


 男は、魔界から地獄へと引き戻された。そして、紅い6オンスをその鼻にめり込ませたまま、失神した。
 真左にその甲を向けた右拳を男の顔面へ埋め込んだまま、美少女の全身が突然、上下に小刻みに振動しだした。
泣いているのか、怒っているのか。いや、そのどちらでもなかった。ヒルデは笑いを必死に堪えていたのだ。
湧き出す衝動はその努力をあっさりと打ち破り、あられもない笑いを地獄の底に爆発させた。


「アーーーッハハハハハハハハハハッ!!貴様!貴様は私のパンチが恋しくて恋しくて堪らないようじゃのう!
しかも鼻を、鼻を散々撃たれて欲情し、ナニをおっ勃たせてしまうとは!何という、何という浅間しさよ!!
クッ、クククククハハハハッ…!よかろう!拳奴…貴様の望み、このヒルデが残さず叶えてくれようぞ!!」
 ヒルデは素早く男の後頭部に左掌を当て頭部を固定すると、未だ男の鼻にめり込んだままの右拳を強く握り締め
押し込み、そのまま270度時計回りに捩じり、抉った。そして、全体重をかけて抉って、抉って、抉りまくった。


「アーーーーーーーーー!!!!!!アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
 男は瞬時に覚醒した。全身を貫く絶滅的激痛に、半開きの口から血の泡と、獣そのものの咆哮をぶちまけた。
鼻骨が砕かれ、掻き回される粘ついた音が脳内に無限に増殖、反響し、男は悪夢と、地獄と、冥府とを彷徨った。
 右の紅い6オンスが男の鼻を圧迫し抉り回す度、無惨に潰れきった鼻とグローブの隙間からは、水道のバルブを
全開に捩じ切り親指で蛇口を塞いだかの如く鼻血が全方向に霧散し、美少女の上気した全身を朱に染め上げた。



氷の皇女(14)つづき


「アハハハハハハッ!!ほーれ!ほーれ!!ほぉーーーれっ!!!もっと欲しいか!?もっと欲しいのか!?
ならば、貴様の大好きな私のとっておきのパンチを、望むだけその鼻にくれてやるわ!!たーんと味わえよ!!」
 ビクンビクンと痙攣し、鮮血を撒き散らす男の鼻に、ヒルデの紅い右拳が無茶苦茶に叩き込まれた。フックでも
ストレートでもない。それは、暴力そのものとしか言えなかった。最初の暴打を加えるべく右の6オンスが引かれ
ると、男の鼻腔内で極限まで蓄積され、加圧されていた鮮血が、常軌を逸した恐るべき猛威で扇状に噴射された。
しかしそんな事は歯牙にもかけず、薄いグローブは男の鼻を執拗なまでに殴り潰し続けた。鼻血とナックルパート
とが壮絶に押し合い、まるで争っている様だった。争いは常に6オンスの圧倒的勝利に終わり、敗者は無惨に
撃ち潰された。そして、酸鼻たる残虐遊戯に飽きると、もはや骨が粉々に擦り潰され血肉と混じり餅の様になった
それを、全体重を載せた右拳で抉り回すのだった。眼を覆いたくなる様な凄惨極まる暴力と、吐き気を催す程の
更なる無慈悲な暴力とが、いつまでも男の顔面を、鼻を、精神を、命を弄び、責め苛み続けた。


「アーーーーー!!!!!アーーーーー!!!!!!アアアアアアアアーーーーーーーー!!!!!!!」
 既に、気高いヒルデの全身には白い部分は皆無となっていた。そして、青コーナーの周辺も、もはや
血の池地獄だった。いや、地獄という言葉では到底表現し得ない程の、鮮血と狂気の人外境だった。
 男は、発狂しかけていた。いっそ狂ってしまえればどんなに楽だったか知れない。しかし、ヒルデの持つ
冷ややかなアクアマリンの瞳には、男の精神がそのまま投影されているのだ。無様な敗者には、発狂する自由
さえも許されなかったのだった。ヒルデは、男の精神が限界に近づいている事を感じ、更なる遊戯を求めた。



氷の皇女(14)さらにつづき


 恐ろしき剛力で男を無理やり青コーナーから引っ剥がすと、背後からしなやかな左腕で男の首を固定しつつ
忌まわしき右拳で顔面の中心を押さえ、まずリングの中央へと引きずってきた。そして、右拳を離した。
 男はもはや、単なる鮮血噴霧機と成り下がった。黒い肉塊から迸る鮮血はリング上の全ての箇所にスプレー状に
降り掛かり、白い部分を残らず塗り潰した。血の出が悪くなると、調子の悪い機械を叩いて直すかのように
少女は男の鼻を何度も殴打した。純白だったリングは、ついに一片の白も残さず男の鮮血により塗り潰された。


 ヒルデの美意識は、全てに完全を求めていた。謁見式の時着ていたドレスも、完全な純白だった。拳闘場の
リングも赤青のコーナーを除いて全て純白に染めさせた。狂気の遊戯を経て、ヒルデの美意識は全てを鮮血で
染め上げる事を望んだのだ。その望みは叶えられ、リングが、男が、少女が、空間が、壮絶なる美にまみれた。
 

 リング中央に、言葉と、味覚と、嗅覚とを殴り殺された男がぐったりと横たわっていた。ヒルデは、この男の
「不完全さ」が気に入らなかった。男は、熱病患者の様に全身を痙攣させ、辛うじて半開きの口だけで今にも
消え入りそうな不規則な呼吸をヒコヒコと出入りさせていた。ヒルデは、男を再び青コーナーへと叩き付けると
真左を向かせて、男の右側頭部をコーナーマット中段へ押し付けた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


氷の皇女(15)


 永遠の静止、不断の静寂、果てしなき暗黒の中に、男は、死んだように横たわっていた。ついに、美しき皇女の
気高き双拳は、男の全てを撃ち砕いたのだ。男は、皇女の峻烈なる、そして華麗なるブローを反芻していた。
 あらゆるパンチが、男の顎を、頬を、鼻を、テンプルを、そして耳を、眼を正確に、完膚無きまでに叩き潰した。
物凄く痛かったが、同時に、身震いする程気持ちよかった。自らのストレートに容易くクロスを合わせる姫の、風を
孕んで拡がる流麗なシルバーブロンド。リングに跪く自分を左右のフックで打ちのめす姫の、さげすむ様な切れ長の
眼差し。そして、鼻を軽快に撃ち続ける左ジャブの、冷たく紅い6オンスのもたらす甘美なる激痛…
 急激に呼び覚まされた心臓の鼓動が、男の全身を再び脈動させた。男は、まだ死んではいなかった。


 ヒルデは、己の期待を裏切ったこの男が、憎くて憎くてたまらなかった。殺したかった。自らの両の拳で可能な
限りの暴虐を尽くし、地獄以上の痛みと苦しみを嘗めさせ、命乞いをする体力も気力も奪い去り、自ら死を願わせた
上で発狂させ、身も心も殴り殺したいと思っていた。だが今は、この男が、愛しくて愛しくてたまらなかった。


「かっ、か、可愛いッ…!! …何という愛らしさなのじゃ…!!」
 アクアマリンの瞳が大きく見開かれ、震える唇が強く閉じ合わされると、細い喉が、ゴクリと鳴った。
 男の顔面には、もはや無事な所は一箇所も無かった。顎は骨ごと潰され、歯は全てへし折られ、舌は切断され
鼻は黒色の粘ついた餅になっていた。耳は赤黒い塊となってリングに叩き付けられ、瞼は青黒く異様に腫れ上がり
眼球は長年課され続けたその使命を終えていた。ヒルデの美意識は、この男の顔面にこそ「完全」を見出したのだ。
そしてヒルデは、その「完全」を、最も敏感な、取っておきの部分を使い味わい尽くすべく行動を開始した。



氷の皇女(15)つづき


 ミチィッ……ニヂャッ…
 真紅に染め上げられたトランクスがゆっくりと取り除かれ、その内部から、湯上りを思わせる清潔に上気した肌と
ふさふさと生え揃ったまばゆき銀の茂みとがその姿を現すと、一面冥府と化した呪われし地の底に神秘の光を放った。
 そして、幾条もの輝く粘液の糸を引き冥府を彷徨い蠢く幼き蜜壷は、男の、無惨に破壊された顔の真上で静止した。


 熱い。顔が、熱い。冷たい6オンスではなく熱い液体が、顔面を止めどなく叩いていた。熱い雨は、降り止んだ。
次に、ふさふさとした、柔らかい幅広の刷毛の様なものが、顔中を濡らした液体を丁寧になぞり取って行くのが
感じられた。それが何なのかは判らなかったが、心地よい、気持ちがふんわりと安らぐような感触だった。
 少しの間を置いて、熱源が男の顎に吸い付いた。他の全ての感覚を失い、無意識に研ぎ澄まされていた男の触覚は
ヒクヒクと脈動する熱源の正体を、はっきりと、はっきりと認識した。その瞬間、60兆の細胞が、泣いた。


 夢中だった。男の顔面に跨り、腰を振りまくった。見る影も無く損傷した顔中に、沸き立つ蜜壷を這い回らせ蜜を
塗りたくった。腰を浮き沈みさせ、顎に、頬に、鼻に、瞼に、顔中に、最も淫靡なる接吻を無数に降り注がせた。
幼き蜜壷と醜悪なる顔面とが織り成す、凄艶と凄惨、肉と肉の狂想曲が、冥府に木霊し続けた。
 突然、身体が浮き上がった。快楽の絶頂に上り詰めた男が、全身を激しく震わせ最後の精を放ったのだ。
すると、少女の端整な顔が突如として歪み、血塗られた頬に幾条もの純白のラインが刻み付けられた。


 少女は、泣いていた。
 まだ、「完全」ではなかったのだ。触覚を、奪わなくては。その行為は、愛する男の生命を今度こそ絶つもの
であった。止めど無く、涙が溢れた。少女の両頬はすっかり純白を取り戻していた。その時、男の心の声が見えた。



氷の皇女(15)さらにつづき


「………わかった」
 少女は、男の願いを容れた。左右のグローブで涙を拭くと、男の顔面に跨らせていた腰を首筋に乗せた。そして
鮮血と愛液にまみれた男の顔面を両脚で挟む様にして膝立ちの姿勢をとり、両拳に装着された紅い6オンスを
ゆっくりと顎と鼻の間の高さへ持ち上げた。紡ぎ出された最後の言葉は、両耳を失った男には届いていなかった。


 肉を穿つ爆裂音、骨をすり潰す破砕音、そして少女の哀しき咆哮が、冥府に不協和音となって鳴り響き輻輳した。
インパクトの瞬間、少女の全身を襲った爆発的反作用は、美しき銀髪を舞い上げ、引き締まった肢体を震わせ
そして、薄い綿と布に保護された自らの右拳を砕いた。少女の全身から一瞬にして絞り尽くされた筋肉、関節の力
名状し得ぬ激情、その他のあらゆるエネルギーが、真紅の6オンスのナックルパートに凝縮され男の顔面の中心部へ
開放された。紅い弾丸は進路を塞ぐ全ての骨肉を押し潰し、ついに頚椎にまで達し、へし折った。
 激痛と快楽に塗り潰された男の一生は、最愛の少女の最高の右ストレートによって、その幕を下ろしたのだった。


 ヒルデは、砕けた右拳を冷えゆく男の亡骸へ埋め込んだまま、咽び泣いた。やがて、嗚咽は無数の歯車が
軋み合う轟音によって掻き消された。リングは、ふたりを乗せてゆっくりと上昇を始めた。


 ヒルデの強引な希望により、拳奴としては異例の事ではあるが、男の亡骸は王立墓地へ埋葬される事となった。
翌日、墓地の一角にヒルデはいた。その肢体は純白のドレスに覆われ、砕けた右拳には厚手のバンデージが
きつく巻かれていた。ヒルデは、棺の前に敷かれた赤い絨毯にその両膝を突くと、ゆっくりと片手で棺を開き
二つの真っ赤な6オンスのボクシンググローブを、亡骸の胸の上へそっと置いた。そして、静かに棺を閉じた。


 2つのグローブの甲には、よほど考えないでは読めない様な覚束ない字で、以下の文言が記されていた。
「私の愛した完全なる拳闘士へ捧ぐ」「神聖ルーンフェリア帝国皇女 ヒルデ・ド・ルーンフェリア」