投稿SS1・力の解放

力の解放(1)


 自宅からジムまでの長いじゃりじゃりした小道を、ロードワークがてら衛は走っていた。
車も通れないほどの細い林道で人通りも殆ど無かったが、落ち着くのでいつもここを
通ることにしていた。
 11月下旬の寒空にも関わらず、上は中央に「海神」と書かれた体操着、下は真っ赤な
ブルマーにスニーカーという寒々しい出で立ちであった。柔らかなショートカットが少女の
上下する体にあわせて、ふさふさと揺れていた。ボーイッシュな少女の顔が規則的に上下に
揺れつつほのかに上気し赤みを帯びていた。


 衛がボクシングを始めたのは1年前の事である。好奇心から始めたボクシングの
スピード感とリズムに惹かれ、夢中でジムに通って練習を続けているうちに
ジムの中では衛の相手になる女子はいなくなった。
 衛は苛立っていた。それが何から来るものなのか本人にもわかっていなかったが
1ヶ月前に4才上のジムの先輩とスパーをした時からその悶々とした感情が
衛の心を支配していた。


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力の解放(2)


 勝負は一瞬のうちについた。カウンターの右ストレートがヘッド・ギア越しに顎を
打ち抜き脳が揺れる。相手が天井を見上げる隙に鮮やかなワンツーで顔面を打つ。ようやく
上がったガードをあざ笑うかのように左右のフックでわき腹を叩き、鳩尾に左アッパーを
突き刺すと会長がタオルを投げ入れスパーを止めた。衛の右のグローブは、目標に届かず
静止して行き場を失った。


 衛はその感情を断ち切るかのように立ち止まってシャドーボクシングを始めた。
「シッ」「しゅッ」「ふッ」
 鋭い呼気を伴い間断なく続く連打。そのスピードは驚異的なもので、衛の両拳は鋭く乾いた
空気を切り裂き続けた。少女の体全体から甘酸っぱい香気を伴った湯気が立ち上り、汗で
着衣はぴったりと体に吸い付き少女の体のラインを鮮明に見せ付けていた。


 その時、衛の背後ににじり寄る影があった。一瞬のことであった。影は、衛の口に乾いた
冷たい手を当てるとただでさえ人通りの少ない林道の奥に力任せに衛を引きずっていった。
 衛は引きずられて行く最中、素早く状況、そして男の目的を理解した。
衛の運動神経をもってすれば、男の拘束を振り切って自慢の俊足で逃げ延びる事も容易であった。
だが衛はそれをしなかった。男のさせるがままにしていた。衛は顔面に得体の知れない形相を
浮かべていた。兄にすら見せた事の無い、凍りつくような微笑を。


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力の解放(3)


 ふたりは林道の奥にある今は使われてない廃倉庫にいた。老朽化が進んでいるようで
屋根のトタンが所々剥がれ薄暗い室内に何本もの光条を投げかけている。
 男は衛を乱暴にコンクリートの床に投げ飛ばしたが、衛は猫のようなしなやかさをもって受身
を取り男と距離をとった。男は衛の運動神経にも驚愕したが、少女の表情を認めた瞬間
脊髄を氷の棒で貫かれるような戦慄を覚えた。笑っているのだ。こいつは一体何なんだ。


 衛は全身の細胞が今か今かと蠢動し、刻一刻と爆発の瞬間を待ちわびているのを感じていた。
恐れや怒りの感情は無かった。あるのは、本当の「ファイト」を待ちわびる期待感だけだった。
衛は恐ろしい笑みをかみ殺しつつ、絶句している男に向かって言い放った。
「ねえ、ボクとボクシングの試合しようよ。1ラウンド3分。フリーノックダウン、どちらかが
KOされるまで。あ、KOは、ダウンしてから10カウントだよ。キミはどんな攻撃してもいいよ。」


 突拍子もない台詞だった。男はこの異様な申し出に戸惑いつつも、内心歓喜していた。
何しろ、男と衛では身長にして20cm、体重は倍近い差がある。しかも男はストリートファイト
の経験があった。男は衛の端整な顔立ち、ブラジャーをつけていない膨らみかけの胸をなめ回すように
視姦しつつ、快楽を貪る己の姿を想像し股間を屹立させ、下卑た笑いを浮かべながらいった。
「いいだろう、その可愛い顔を殴り倒して前も後ろもズボズボ犯しまくってやるぜ。」
 衛の耳に男の言葉は入っていなかった。衛もまた、快楽を貪る己の姿を想像し股間をじっとりと
湿らせ、乳首を勃起させつつ例の得体の知れない笑いを浮かべていたのであった。
 こうしてふたりの獣が向かい合った。衛にとって初めての「ファイト」が始まろうとしていた。


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力の解放(4)


「じゃあ、ボクが『カーン』って言ったらゴングだからね」
 その言葉が言い終わらないうちに、卑怯にも男は衛の成熟途上ながら円やかに発達した腰めがけて突進していた。
軽いが鮮烈な打撃音2発が廃倉庫の中で輻輳している。男はコンクリートの床にうつ伏せになっていた。
衛は闘牛士のように体を開いて男を招き入れると、右のダブルでこめかみを打ったのである。
軸足を支点とした最小の円運動で交わし、滑らかに反撃に移る全く無駄の無い体さばきであった。


「イテテ・・・やっぱ素手じゃ危ないよね。足もなんか変だし。やっぱ、ちょっと準備させてもらうよ」
 衛はリュックサックの中から真っ赤な10オンス、バンデージとリングシューズを取り出した。今日の
スパーで使う予定だったものだ。衛はバンデージを真っ白で可愛らしい手にクルクルと巻きながらいった。
「あ、まだゴングじゃないから今のはノーカウント。準備終わるまで休んでていいよ」


 赤い10オンスと揃いの真っ赤なシューズが衛のコケティッシュな容貌を却って愛らしく飾っていた。
鞭の様にしなやかなシャドウが繰り広げられる様を男はじっと見つめていた。動こうにも脳を揺らされ足が
動かなかったのだ。ゴング後ならKOということになる。だがそれ以上に、衛のシャドウには荘厳な魅力
があり、男はそれに我知らず魅了されていたのである。衛のジャブが、ストレートが、フックが
アッパーが、コンビネーションが見えない相手を叩きのめしている。その2つの赤い弾丸が近い将来自分に
向けられるだろうことを意識すると、男は不意うち前に感じていた少女の容貌から来る性的興奮とは別の
何か名状しがたい背徳的な興奮を下腹部に感じ、股間の屹立を抑える事ができないのであった。
 

 少女の瑞々しい舞踏は10分余りも続き、そして終わった。衛は全身から湯気を立てていた。汗が全身に
したたっていたが呼吸はやや速くなっただけだった。戦闘準備がいよいよ整ったのだった。
「じゃ、はじめよっか」
 男は衛に促されて慌てて飛び起きた。ダメージはすっかり抜けていたが、異様な興奮は冷めなかった。
「カーン」
 衛は無邪気な笑顔を浮かべながらいった。その奥に潜む本質に男はおろか、衛も気がついていなかった。


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力の解放(5)


 衛は真っ赤な艶々したグローブを顎と額の間の高さに上げ、軽快なフットワークを始めた。引き締まった
脚が男の周囲を左へ右へ回る。男も拳を上げ衛と正対するように足の向きを変えていた。
 先に動いたのは男の方だった。タックルは危険だ。力任せに両拳を打ち下ろす。乾いた打撃音が響き
口と鼻の間に熱い小爆発が起こった。男には衛のブローが全く見えなかった。衛はウィービングで
男のナックルをかわすと、体勢が崩れた男の顎を打ち上げるように左の10オンスを叩き込んだのだ。


 男は構わず一気に畳み掛けた。拳を、足を、全力で振り回す。初めて体感する男の攻撃。男の手足はスピードは
無かったが金属バットのように荒々しく空間をかき回した。それらのどれかでもクリーンヒットすれば軽量の
衛には耐え切れないだろう。はちきれそうな興奮。高揚した精神は少女の眼を研ぎ澄まし脚を疾風迅雷にした。
 衛の第一の武器はフットワークであった。踏みおろすようなヤクザ・キック、頭上からのハンマーブロウ。
男の攻撃は衛には静止して見えていた。衛はそれらを最小限の動作でかわしつつ男の顎をリズミカルに
左のグローブで叩く。速いだけではない、脳へのダメージ・体重移動に重点を置いたストレートに近いジャブだ。



力の解放(5)つづき


 男の動きは目に見えて鈍重になっていた。全力で攻撃を続けた事による疲労と、顎への左ジャブで脳を揺らされ
続けた事による酩酊感が男を支配していた。衛が初めて攻勢に出た。コンクリートの床を「タンッ」と蹴り
男の右側へ回りジャブを連打する。数発が男の腕で止められると反対側へ回って今度はボディブローも交えて
攻めてくる。男は前かがみになって両腕で顔面と鳩尾をガードしていたが、衛のブローが脇腹を容赦なく抉り
内臓へのダメージを蓄積させる。内臓を何度も何度も直接攻撃され男は喘いだ。膝がガクガク震え、悪寒が襲った。


「カーン。1ラウンド終了だよ。良かったね、ゴングに救われて」
 衛は少しも息を乱さず挑発的に言った。男はその場に崩れ落ちると眠るように横になって動かなくなった。
その顔面には苦悶、恐怖、憎悪、屈辱、その他の感情が交互に現れ、脂汗を浮かべて肩で荒い息をしていた。


 衛はスポーツにかけては全く妥協しようとしなかった。スポーツで100%の力を出し切った後の高揚感あるいは
達成感こそ衛の生きがいだったからである。ボクシングにおける衛の100%、それがどのような結果を生むのか。
衛はトントンとあくまで軽やかにステップを踏んでいたが、既にブルマの股間には小さな染みが出来ていた。


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力の解放(6)


 長い長いインターバルの後、二人の欲獣は再び向かい合った。ひとりは天然の鮎の様にピチピチと生命力に
満ち溢れていたがもうひとりは精気を失いただそこに立っているだけだった。ふたりの立場は逆転していた。


「カーン!どうしたの?一緒にボクシングしようよ!ほら、打ってきなよぉ!」
 衛は口で楽しそうにゴング音のまねをすると、胸の前で両手のグローブを撃ち合わせ乾いた破裂音を炸裂させ
甘ったるい声で男を招いた。男は顔面に怒りの形相を浮かべ突進し右腕を振るった。いや、振るおうとした。
「シィッ」
 少女の鋭い呼気に続いて肉を打つ打撃音が響いた。衛の左ジャブが男の鼻一点を正確に撃ち抜き素早く戻った。
男はその場で左腕を振り回した。が、男の左腕はわずかに上がっただけで衛の左の10オンスが男の鼻を潰した。
先のラウンドとはパンチの質が違っていた。脳を揺らすよりも肉体的苦痛をもたらす悪意の塊のようなパンチだ。
男は顔に狼狽の色を浮かべ一歩後ずさりしたが、男の後退より速く踏み込んだ衛の左ジャブが同じ場所を撃った。
「えへへ・・・、あ・り・が・と・う」
 衛は隙無くグローブを顎の前で構えながらそう言った。鼻を直撃するパンチの激痛と、魔法に掛かったように
自分の攻撃が届かず一方的に撃たれる恐怖とで混乱した男には、この言葉の意味はまるで理解できていなかった。
さらに5発の破裂音が断続的に響くと男はついに静止した。衛の眼は男の顔面をまっすぐ見つめていたが、男の
興味はフットワークに合わせて上下に揺れる真っ赤な左の赤い10オンス一つに注がれていた。
 水を打ったような静寂に、男の鼻血が顎を伝って落ちる音が響いた。


 衛が最も得意とするパンチは左ジャブだった。鋭く疾いそれはまさにボクシングの芸術品だった。
常人は外界からの刺激に反応して体を動かすのに平均しておよそ0.2秒程かかるという。衛は兄に勧められて
この反応速度チェックを試した事があったが、その結果は平均0.08秒という人智を超えたものだった。
 しかも、尋常ならざる練習により衛の左ジャブは初動から0.04秒で目標を撃ち抜く事を可能にしていた。
0.12秒。それが、男のあらゆる行動に課された制限時間だった。あまりにも無慈悲で、過酷な現実がそこにあった。



力の解放(6)つづき


 しかも衛は先の格闘で男の攻撃の癖を読みきっていた。行動の直前に顔面の筋肉に現れる緊張を覚えていたのだ。
もはや男は衛の左ジャブの為のサンドバッグでしかなかった。衛は男の攻撃の意思を読み取り、即座に
左の真っ赤な10オンスを突くだけで、この男の顔面を一方的にカウンターで撃ち潰しKOする事が出来るのだ。
 ジムのボクサーとて衛から見れば常人である。衛は良心の呵責からこの残忍極まるスタイルを自粛してきた。
誘拐という行為を通じてひとつのタガを外してくれたこの哀れな男に、衛は心底感謝してそう言ったのである。


 男は静止の拷問に耐えかね衛に背を向け逃げ出した。いや、逃げ出そうとしたのだった。振り返ると、わけも
わからないまま顔が後方に弾け飛んだ。衛がそこにいた。衛は男の移動の意思を読み取ると、瞬間移動を思わせる
得意の脚で男の正面に先回りし、左の弾丸で鼻を潰したのだった。衛の端整な顔がゆっくりと歪み、微笑した。
 それは恐怖の、悪夢のダンスだった。男は風見鶏のようにせわしなく四方八方に向きを変えては、その度に鼻に
衛の10オンスを埋め込んだ。意識を混濁させ酔っ払いのように徘徊した後、戦慄に背筋を硬直させ振り返り
また殴られた。男の平衡感覚と体力はすでに限界に達していたが、衛の歪みに歪みきった微笑と真っ赤な
10オンスを脳が認識すると、防衛本能が無情にも男を振り返らせるのだった。天使の様な美少女との無限輪舞に
湿った破裂音が伴奏をつけていた。


 突如、男の喉もとから得体の知れない笑いが爆発した。とうとう衛の美しき左ジャブは、男が人間としてこの
世界で生活を営むのに不可欠なそれをも、殴り潰してしまったのだ。男は錯乱しパンチを滅茶苦茶に連打した。
「シィっ、シュゥッ、シッ、しゅッ、シッ!」
 連打されたのは男の顔面だった。衛の左ジャブは、男の鼻を正確に5度カウンターで潰しそして素早く戻った。
このラウンド、衛はついに相手に指一本触れることさえ許さなかった。男の鼻は衛の芸術作品・左ジャブを
余すところ無く正面から浴び続け、無惨に真紫に腫れ上がり、ポタポタと鮮血を垂らしていた。
 男は異様に弛緩した笑顔を浮かべたままゆっくりと膝を突きひれ伏した。衛は髪を靡かせステップバックすると
男の皮脂・鼻血・鼻糞が付着した左のグローブをブルマで拭い、男に向けゆっくりカウントを始めようとした。


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力の解放(7)


 血走っているが異様に虚ろな両眼が、衛の顔面を見据えていた。男の右手が何かを取り出した。
衛はボクサーの勘で危険を察知し、自慢の脚で床を思い切り蹴り飛ばし横ッ飛びに跳躍した。衛の
5メートルほど後に高々と積まれた木箱の中段に何かが刺さっている。スペツナズ・ナイフだった。
グリップに内蔵した強力なスプリングにより刃を発射するロシア発祥の仕込みナイフだ。
木箱はスペツナズ・ナイフの刀身を丸々飲み込んでいる。
 兇刃は衛のショートカットを一部切り落し、端正な顔の左耳の下に紅いラインを刻み付けた。
「エヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ」
 男は腹ばいのまま人外境からの笑いを笑った。


 衛の顔から表情が消えた。その眼を見つめていた男もすぐさま表情を失い沈黙した。廃倉庫の
天井の穴から漏れる光の帯に照らされ男を見下ろしている衛はまさにボクシングの、格闘の女神だった。
 サラサラとしたいい匂いのショートカット、ピッタリと地肌に密着し、引き締まっているが女性らしい
体のラインを浮き上がらせている体操着、毒々しい程真っ赤なグローブ・ブルマ・シューズ。そして全身を
覆っている香ばしい体臭を伴った湯気はまるでオーラか後光の様に男の眼には映った。その峻厳な存在感に
男は、自分のしでかした行為もすっかり忘れてしまって、嬉しいのか苦しいのか痛いのか幸せなのか
恐いのか分らなくなって子供のようにメソメソと泣き出した。



力の解放(7)つづき


 揺らいでいた。衛の最後のタガが。良心の呵責は既に捨て去っていた。その最後のタガが何なのか
衛にもわかっていなかったが、それを捨て去ってしまうと、もう戻って来れないような気がした。
自分で決めた3分1ラウンドのルールさえ既に忘れ去ってしまっていた。


 下腹部が異様に疼く。まるで体内で焔が燃え盛っているようだ。衛は焔を鎮めるべく己の鳩尾に左アッパーの
トリプルを叩き込んだ。衛の口が開けられ、粘ついた唾液が糸を引いている。甘い吐息が荒々しく出入りした。
 その「何か」は衛のブローを吸収してさらに勢いを増し、黒く赤く焼ける溶岩となり、衛の中のもうひとつの
大切な何かを飲み込みつつ、火砕流となって衛の小さな体を駆け巡り内側から焦がした。燃え盛る「何か」が
衛の脳に極めて過激で、悪性で、そして上等な興奮剤を注ぎ込む。そして盛んに訴えかけるのだ。
「足りない!足りない!!足りてない!!! 100%! 100%!! 100%!!! 100%!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


身を焦がす激情に支配された衛は、我知らず左の10オンスで最も手ぢかにある目標、自分の顔面を滅多打ちに
していた。拳がスペツナズ・ナイフで出来た傷口を抉りべっとりとどす黒い血液が付着した。
 そのさびた鉄の様な匂いが、衛の思考を回復させた。そして眼前に這いつくばっている男の姿を認めた。
衛の視線は真っ黒な血のりの付着した左拳と男の間をしばらく彷徨っていたが、やがて男の方に固定された。


 衛の最後のタガが外れた。


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力の解放(8)


 衛の両腕がスゥーっと持ち上がり、ファイティング・ポーズを形成した。左腕と左足を前に出し完全に
半身になった状態から、少しだけ男に正面を向け膝を柔らかく曲げている。衛得意の、中距離からフックや
アッパーでカウンターを狙うスタンスである。そして、その美しいスタンスは保たれたまま
「スリップ」
 の宣言が発せられた。スリップダウンの場合カウントは数えられない。試合続行である。衛の唇、眼は
何の感情も語っていなかった。衛はボクシングに全神経を没入させていた。目前の相手をいかに素早く、深く
叩きのめすことが出来るか。衛のスポーツ、ボクシングへの純粋なる探求、限界への挑戦が始まった。


「ーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!」
 やっと立ち上がった男は人外境の雄叫びを上げつつ突進し少女の顔面を狙った。衛の脳は瞬時に男の攻撃を
解析し無数の選択肢から最もKOできる可能性の高い反撃を選出し、全身に行動指令を下した。
 衛の顔は瞬時に男の腕の内側に移動した。ダッキングである。踵、脹脛、膝、太腿、腰、胸、肩、上腕、肘、
下腕、手首、全身の全ての関節と筋肉が収斂し、鍛え抜かれた脚のキックを伴って爆発的に加速された
真紅の10オンスが正確に目標を撃ち抜き天井に向かって聳え立った。
 インパクトの瞬間、男の全身は一直線に硬直し空中へ飛び立ち、斜めに暫し滞空した後水平になり
頭から地上へ墜落した。
 右のアッパーカットによって破壊された男の歯6本が、9個の破片になって血の池に沈んだり浮かんだりした。
同時にサーモンピンクの肉塊も落ちてきた。蜜柑のふさの様な形に噛み千切られた男の舌の先端は、床に
落ちると鮮血を撒き散らしつつエビ反りになって苦悶したが、やがて静かになった。
 男はその瞬間脳を頭蓋骨内壁に強打し失神したが、頭から着地すると衝撃で回復し、半分にちょん切られた
百足のように全身全霊で断末魔のどんちゃん騒ぎを起こし衛のブロウを讃えたが、これもやがて静かになった。



力の解放(8)つづき


「スリップ」
 男の舌の破片をグジュっと踏みにじると衛はいった。ピクリとも動かない男の首を両のグローブで掴むと
「よいしょ、っと!まったく、重いなあ。もっと運動して痩せなきゃダメだ、よっ!」
 と引っ張り上げて廃倉庫の一角の石壁に乱暴に投げつけた。そしてステップバックして隙無くグローブを
顎の高さに持ち上げ、2つの赤い破壊兵器の撃鉄を起こした。
 心優しい衛は、たとえスパーでもコーナーワークで相手を攻めきれないでいた。賢い衛は、逃げ場の無い
コーナーでコンビネーションを全弾浴びせる事の意味を理解していた。しかし、ここにいる衛はどちらの衛
でも無かった。限りなく透明な衛がそこにいた。
 哀れな事に意識を取り戻してしまった男は、目の前の目標に向かって本能で殴りかかった。


「シィッ!シュッシュッ、シシシシシシシシシシィッ!ふっ!」
 石壁に男の身体を通して刻まれた無数の破壊音が、廃倉庫の中に不協和音となって広幅し輻輳した。
 まずカウンターの右ストレートが顎を撃ちぬいた。グローブと石壁のわずかの隙間で男の頭部は十数回
バウンドし脳機能を一旦停止させた。間髪入れず鮮やかなワンツーが鼻を弄ぶ。男の防衛本能は最後の力を
振り絞って重い重い両手を持ち上げ、顔の前で力なく交差させ打撃から逃れようとした。
 左右のフックでわき腹が何度も何度も猛打された。それが何発だったかもわからなかった。無数の砲丸を
投げつけられるかのような猛打の衝撃は、男のあらゆる内臓を右に左にかき回した。そして鳩尾に左アッパー
が突き上げられた。グローブは男の皮下脂肪と腹筋を掻き分けその奥の臓物を直接突き上げた。男の胃は
未知の衝撃に驚愕、混乱し内容物を吐き出した。悪趣味な一個の前衛彫刻のように男は硬直し静止した。
 全てのタガを取り去り透明になった衛にもう迷いは無かった。衛は左のジャブで男の顎を軽く撃ち石壁に
釘付けにすると、静かにステップバックした。


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力の解放(9)


「シッ」
 サディスティックな呼気とともにひときわ大きな破裂音が空気を震撼させた。恐るべきパンチの衝撃は
男の顔面だけでなく背後の石壁をも砕き、亀裂から初冬の明るい日差しを差し込ませた。
 足運び、呼吸、筋肉の収斂、体重の移動、関節の固定、スピードどれも申し分ない、衛の人生最高の
右ストレートだった。衛の鍛え抜かれた全身の肉体に宿る全てのエネルギーが、拳を加速させるため
男の顔面を破壊するためだけに一瞬の内に絞りつくされ消費された。真紅の10オンスは空気を切り裂く
悲鳴の様な異音を伴い発射され、最短の距離を最速で通過し男の顔面、鼻に正面から着弾し破壊した。
 暴打の衝撃は強大な反作用となって衛の全身を襲い、ショートカットを猫の毛の様に逆立たせた。
男の鼻からホースの口を塞いだかの様に鮮血が霧状に噴出し、まず衛の顔面を真っ赤に彩った。純白だった
体操着に降り注いだ鮮血は染み込んでいた衛の汗と交じり合い、凄惨なグラデーションを染め上げた。


 ビチャッッ!
 男は暫く硬直していたがやがて緩慢に前傾し、顔面からコンクリートの床にできた血の池に墜落した。
男の歯は下の奥歯を残して全て無数の破片となって血の池に浮いていた。鼻骨は粉々に破裂していた。


 衛はボクシングの女神だった。その強大な暴力は、セクメト、カーリーといった破壊の女神を想起させた。
鮮血でより真っ赤に染め上げられたブルマからは愛液が染み出し、雫となり男の鮮血と交じり合っていた。


 衛は、紐まで真っ赤に染まり、白いラインも見えなくなった右のリングシューズで男の左脇腹を蹴り飛ばした。
男は吐瀉物と鼻血を勢い良く噴射しつつ鉛筆のように転がり、2回転半すると仰向けになって止まった。
「もう疲れたの?だいぶ運動不足なんだなぁ・・・よぉし、腹筋10回だ!手伝ってあげる・・・よっ!!」



力の解放(9)つづき


 失神してなお鼻血を噴出し続ける男の首根っこを掴んで無理やり上体を起き上がらせると、身体の右側に
男を座らせるようにして、ボディを撃つ要領で顔面に渾身の力を込めた右フックを叩き込み殴り飛ばした。
単なる力任せではない、斬るような腰の回転と、肘の固定に重点を置いた衛らしい理詰めのブロウだ。
 右フックにより硬い床に目掛けて爆発的に発射された男は、鼻血をスプリンクラの様に吹き上げつつ後頭部を
コンクリートに強打すると反動で勢い良く起き上がり、元の角度に戻ると跳ね返されるようにまた発射された。


 一体、誰がかかる地獄の腹筋運動を想像し得ただろうか。
 肉を打つ生生しい打撃音と床に激突する湿った重低音が、交互に20回轟き廃倉庫内に反響して魔界の狂想曲を
奏でた。衛はその調べに合わせて全身の筋肉を躍動させ、真珠の粒のような大粒の汗を飛び散らせながら
物言わぬ運動機械を撃つ様に、リズミカルに右拳で男の顔面を、鼻を、生命を叩き潰した。身体が横に
なるたび断続的に吹き上げられる男の鼻血が大粒の赤い雨となって降り注いだ。
 やがて衛の体操着に新たに真っ赤な破裂模様が叩きつけられ、すぐに汗と交じり合ってそれぞれ滲みあった。
それを見た人間は、ことごとく気絶し盲目になるであろう魔界の美がそこにあった。


 衛に課せられたノルマ、「腹筋10回」を見事達成した勇者は、運動の結果造られた2つ目の血の池に
死んだように仰向けになった。廃倉庫の一角は地獄まみれになった。

「えへへ・・・頑張ったキミには、ボクからのとっておきのプレゼントをあげるよぉ・・・」
 衛は男の腹を跨ぎ腰を落とした。そして、両拳を床に突き立て身体を支えながらブルマに包まれたお尻を
少しずつずらして男の首筋に乗せると、両脚で男の頭を挟むように固定しながら膝立ちの姿勢をとった。
 顎の高さに未だ鮮血がしたたるグローブを持ち上げると、ふっくらした柔らかい唇を血が出るほど
噛み締め、グッと唾液を飲み込んだ。衛の2つの赤い兇弾の真下に、哀れな被害者の、すでに原型を留めて
いない顔面がさらされていた。衛の表情は正にアスリートのそれだった。衛の望みはただ一つだった。
   

――――100%、力の解放を。
 

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力の解放(10)
 

 廃倉庫の一角は、真紅の濃霧で覆われていた。トタン屋根の隙間から差し込む光条によって、その紅い粒子の
一粒一粒が少女の激しい上半身の運動に合わせて前後左右上下に乱舞しているのがわかる。


――遅い!遅い!まだ遅い!!
 拳が止まらない。息継ぎもせず、男の顔面の中心、無惨に潰れきって黒紫色のブヨブヨになったもの
目掛けてワンツーを叩き込み続ける。スピードと引き戻しに留意したコンパクトなブロウだ。呼気音は無い。
無呼吸による連打の限界に衛は挑戦していた。
 男の方は、失神していたが殴打が始まると地獄の苦しみによって覚醒し、脳を突き抜ける衝撃によって
また失神した。男の生存本能は、全身の血流を頭部に集中させて脳機能を維持させようとした。
男の全身の鮮血が鼻と口から噴水のように断続的にほとばしり、11月下旬の寒々しい空気を地獄色に
染め上げていた。


――まだ、まだ100%じゃない!もっと速く!!
 衛のワンツーの連打は流麗なフォームを保ったままさらに加速していた。鮮血は殆ど飛び散らなくなっていた。
左ジャブが男の顔を潰した後、鮮血が噴き出す前に右のフォローが入り血液を男の体内に暴力的に押し戻した。
神速の連打の炸裂音は、マシンガンのそれを想起させた。それは永久に弾切れしない悪魔のマシンガンだった。
 男は1秒間に6回の死と6回の生を繰り返していた。衛のパンチはついに男の生存本能をも殴り潰し始めた。
全身の血液が、男の生命が行き場を失い狂騒している。中枢神経が反乱を起こし、発熱と嘔吐が始まったが
吐瀉物は衛の2つの10オンスと胃袋の間を往復し、体内で彷徨える鮮血と混じり男を溺れさせた。暴虐のリズムに
合わせて丘に上がった魚の様に体を痙攣させ、下半身は勃起と収縮を繰り返し血と小便と精液を代わる代わる
吹き上げ、括約筋はだらしなく弛緩した。失神、覚醒、出血、嘔吐、痙攣、発熱、失禁、放屁、脱糞、そして射精。
 ありとあらゆる生理現象が、少女のふたつの赤い10オンスのグローブによってもたらされ続けた。



力の解放(10)つづき


 やがて死と生が混じり始め、男は空中に向けて自由落下するような不思議な感覚に包まれた。
 男は広大な青いリングの片隅にいた。その対角線上に何万、何十万もの人間が背の順に整然と並んでいる。
男のあらゆる過去から切り取られた記憶が、そのまま並んでいるのだ。一糸まとわぬ姿に紅いグローブと
シューズのみを身に着けた衛がシャドウで身体を温めていた。そしてリングとシューズが擦れる音が聞こえた。


 生まれたばかりの赤ん坊の顔面に衛の鋭いワンツーが炸裂し、頭蓋骨が砕け散った。歩行器に懸命に
かまり立ちしている幼児の両頬を、衛のフックが左右に滅多打ちにして撲殺した。マラソン大会で歓喜の表情を
浮かべゴールせんとする少年の鼻に衛の右ストレートが炸裂し吹っ飛ばした。愛する人への告白を終えてうな垂れる
青年の顎を衛のアッパーが襲い顔面を半分に叩き潰した。ひとり自慰にふける男の顔面に10発の衛のブローが瞬時に
叩き込まれ腐ったトマトの様に叩き潰された。
 衛の華麗なテクニックは微塵の疲れも感じさせず、男の過去を背の低い順に次々撃ち潰していった。その痛みは
ニュートラルコーナーの男にそのまま伝わる。無限に続く暴力と死。だが男は身動きひとつできないのだった。


 永い永い苦悶と絶望の時は終わった。男の過去は衛のボクシングによって全滅し、広大なリングには
血と死骸の大河が造られ静寂が訪れた。背中を向けていた衛の裸身がゆっくりとこちらに振り返り、シューズと
リングが擦れる音が聞こえると、衛の姿がフッと消え目の前に現れた。それで終わりだった。



力の解放(10)さらにつづき


 どこまでも、どこまでも加速できる気がしていた。肺を直接殴られるような酸欠の痛みも忘れて衛は
ボクサーズ・ハイの領域に達していた。頭の中が快感で真っ赤になり全身の細胞一つ一つが赤熱し爆発している。
衛は人生最高の高揚感の絶頂で一匹の狼のように咆哮していた。幼い蜜壷から湧き出す液体は、ブルマの
股の隙間から男の首筋を伝う何本もの小川となって血の池に注いでいた。衛は風になった。
 神速を超えた衛の100%のラッシュ、ボクシングの技術体系の粋を集めた理想をも超えた言葉では言い表せない
そのものが男の、冷たくなり始めた一個の肉塊の顔面肉に殺到し撲滅し続けた。
 衛は女としての、アスリートとしての悦びの最高点に達すると同時にコークスクリュー気味の右ストレートを
すでに冷えきっていた肉塊に埋め込み、そのまま気を失った。肉塊の頭部の中心から灰桃色の液体がゴボゴボと
沸き出し10オンスに染み込んだ。


 すでに黄昏の時分になっていた。衛はすでに腐敗を始めていた肉塊をそのままにして、廃倉庫を全裸で
飛び出し柔らかいながらも見事に鍛え抜かれたその肉体を跳躍させ近くの小川に投げ出した。
 すっかり全身を清めた少女はリュックサックの中に入っていたスパー用のTシャツ、スパッツと
ファイトの前に脱ぎ捨てていたスニーカーという出で立ちになると、ジムへは向かわず自宅に引き返した。
 あの人に、最高の自分、100%の自分を感じてもらいたい・・・衛は自宅のドアを体当たりで開けると
そこに待っていた最愛の人に飛びつき、ひとしきり甘えて幼児のように抱っこしてもらいながらいった。
「あにぃ、ボクシングしようよ!」