投稿SS7・連志別川(中編)

※この文章はフィクションであり、実在する、或いは歴史上の人物、団体、および地名とは一切関係ありません。



連志別川(四) 生と死の輪舞


「・・・イメル・・・イメル!」
懐かしい顔と声が、目の前にあった。大男が、村人が、一斉におれの名を叫んでいる。あの頭巾の美少女の姿は、ない。
躰じゅう、特に顔が熔ける程に熱く、息が苦しい・・・どうやらおれは、まだ生きているようだ。
暦のないこの村では、どれほどの時を要したのかはわからない。が、皆の様子を見るに・・・一日、二日では、ないようだ。
もしもの時の為にと、荷に入れておいた松前の薬や包帯と医学書が、役に立った。そして・・・
おれは村の皆に心から、感謝した。おれが記憶を取り戻すまでその医術を施してくれたのは、村の「誰か」なのだ。
顔を覆う包帯から漂う、清冽な薬草の芳香・・・おれでさえ知らない香りだが、不思議と、心が安らいだ。この薬草を
摘んできてくれたのも、村の人間なのだろう。おれは、北国の文化と人間をどこか侮っていた己を、心から恥じた。


包帯が取れた日の晩、おれは村の長を務めるあの大男に跪いて頭を下げ、心からの感謝の印として、村へ松前の酒十貫と
更に十貫の愛鉈を贈った。こいつはおれと長年連れ添った、言わば恋女房のようなものだ。ふん・・・女房か。
皮肉なものだ。十一年前、北へと消えた親父。極寒の大自然に身一つで放り出されたおれは、生きる為に強さを求めた。
そして、松前一の山男と呼ばれた親父すらも凌駕する、人間の枠を超えた躰と技を得た時・・・
おれは世間の誰からも恐れ厭われている事に気づき、山へ身を隠した。家族の温もりや色恋とは、無縁の人生だった。


大男は涙を流しておれの名を叫び、大鉈を両腕で掲げた。そして、慌ただしく宴の用意を始めさせた。
手伝おうとすると、大男が小さな椅子を持って来た。これに座って待てという事か。おれは素直に厚意を受け取った。
――これで、帰りの荷は三分の一ちょいになっちまう事になる。だが、命が助かった事がなによりだ。それに・・・


月明かりと薪火に煌めく美少女の舞いが、おれの思考に割り込んでくる。おれは、余った袖の意味を、いま理解した。
これは本来、祭礼用の装束だったのだろう。新雪を思わせる静謐な白に輝く生地・・・その衿、裾、そして袖口から
涼やかな藍染の色彩が複雑に枝分れして伸びている。おれは直感した・・・この形は、「火」だ。少女は氷の焔を纏っていた。


全ての村人が、村を束ねているあの大男ですらも、雪に埋まるように跪いて少女を見上げている。
恐らく、少女はこの村で大男すら凌ぐ存在感を持つ、霊的な支柱・・・おれ達の言葉で言う「巫女」に近い存在なのだろう。
ならば、かつて川への道を切り開くべく鋤を借りた時の、少女が大男を睨み付けた恐ろしく冷酷な眼差しにも納得が行く。
空中に無数の凍った火炎の輪を描く滑らかな両袖の残像は、地上に降りた炎神の輪舞を想起させた。
ついに、少女の魂が神の域へと突入したのだろうか・・・極寒の中、全く少女からは白い息が吐き出されていない。


打楽器の音も村人の歌声も、消えていく。研ぎ澄まされた視覚だけが、異郷の舞踏装束とそれを纏う少女の躍動美に
吸い込まれていく。爆裂する脚捌きでおれに肉薄する少女。降りしきる雪を身に纏い、その輪舞は激しさを増した。
袖が風を切る音だけが、聴覚に蘇り鼓膜を叩く。間違いない。それは、おれだけに捧げる祝福の、命と焔の舞なのだ。
やがて少女の腕の振りは視認さえも出来なくなり、暴風に地の雪すらも舞い上げられ、少女を中心に迸り吹き荒れた。
いつしかおれは跪き、その雄大で峻厳なる迫力に凍えたまま、猛烈に顔面を叩き付ける雪の心地良い冷たさに、陶酔した。
それでも荒ぶる螺旋の中心、少女の蒼い眼から撃ち降ろされる視線は、常におれを真っ直ぐに捉えて離さない。
そして、その眼が閉じられ、覆い被さるように、少女の顔が、桃色の唇が・・・近づいて来る。お・・・おい!


少女は、おれの肩の上に倒れ、気を失っていた。おれは暴れる鼓動を諌め、その柔らかい背中を、そっと抱き締めた。



連志別川(四) 生と死の輪舞


宴は中止され、少女はチセの中へ横たえられた。髭の大男がおれの荷を担いで来て降ろすと、おれに跪いて頭を下げた。
おれは分厚い医学書をめくり、荷から解熱薬を探すと、慎重に調合した。その鬼気迫る表情を、村の全員が固唾を飲んで
見守った。大自然で生き抜く為には、医にも精通していなければならないのだ。おれは少女を少しでも楽にしてやろうと
白い額を目深に覆う、火の文様渦巻く頭巾に、手を伸ばした。大男がおれの左手首を掴み、首をゆっくりと横に振った。
この装束にはおれの知らぬ、特別な霊力や神性の類が宿っているのだろう。おれは大男に頷き返し、左腕を鉢に戻した。
少女の僅かな剥き出しの肌、生白い首筋と喘ぐ唇に、眼力を集中する。すぐ治る熱の病だ。そして、その原因も判った。


――あの輪舞による、一時の激しい運動は引鉄に過ぎない・・・恐らくこれは何らかの、長く続いた過労が原因・・・!
医学書をめくる手が、止まった。くそっ、何故に気が付かなかった・・・!考えてもみれば、この松前医学書を・・・
和人が書いた文字を読めるのは、村でこの子しかいない筈・・・!おれを毎日介抱してくれたのは・・・この少女なのだ!
摺り鉢の中の薬に、おれの熱い涙が混ざった。そして心に決めた。今度は、おれの命でこの子を守ってやろうと・・・!


その晩、ただの思いつきは、確かな希望へと変わった。松前に持ち帰る筈だった荷と地図を、ここに置いていく・・・
つまり、この村で「イメル」として村の皆、そして・・・あの少女と暮らす。そういう人生もあるのではないかと。
おれは天涯孤独の身。どこで消えようが、誰も探しには来まい。藩もおれを山で死んだ事にして、それで終わりだろう。
しかし、その「希望」を鋼の「決意」とさせなかった唯一の障害は・・・あの、謎めく川の美少女への、恐怖だった。
痺れるような、未知の衝撃だった。激痛だった。屈辱だった。そして、忌まわしい程に・・・眩しい経験だった。


今となっては、断片の連続としてしか覚えてはいないし、その記憶を脳裡に蘇らせる事すら、おぞましかったが・・・
おれは、あの美少女の姿をした死神・・・いや、死神よりも恐ろしい、まさに凍り付くような邪悪の化身に
その真っ赤な拳で・・・もて遊ばれた。あの子が、おれを殺そうと思えば、いつ殴り殺せてもおかしくなかった筈だ。
おれは、殺さない闘いは決してしない。ガキの頃から親父に厳しく叩き込まれた、それが山に挑む男の掟だ。
残さず食って血肉にするのが、おれにとって殺した獲物への礼儀であり、最大の供養だった。ふん、「闘い」か・・・


幕府の造った泰平の世の中で、人は闘いを忘れていった。だが、おれ達は未だ自然と闘いながら、自然に生かされている。
近い内に、箱館の港が世界に開かれる。松前にも諸国の文明が齎されるだろう。恐らく、おれが死んだずっと後の世・・・
人は、更なる「力」を手にするだろう。自然を侮り造り替える事に喜びを覚えた人間の辿る道は、力による自滅だけだ。


川の少女の力は、人為的と言うよりはむしろ自然の脅威に近かった。おれは少女という「自然」の化身に、敗れたのだ。
山の男にとって、自然への敗北は、即ち死を意味する。だからおれは、ただ一度の敗北さえも、知らなかった。
しかし・・・あの川の少女の目的は、おれを「殺す」事ではなかった。血の泡を吹き、激痛にビクンビクンと痙攣し
迫り来る真っ赤な拳の恐怖に涙を流して命乞いするおれの返り血にまみれ、あの美少女は無邪気にも「遊んで」いた・・・
おれは「敗者」であり、いま屈辱の生を「生きている」。その矛盾が、常におれの心の臓を、締め付けて離さなかった。


おれは半死半生で下流の渡り口、橋の残骸に偶然引っ掛かっていたらしいが・・・包帯が取れ、歩けるようになった日の昼
頭巾の少女を連れて村人に聞き回ったところで、その時の有様は、誰一人として教えてはくれなかった。
ただ、彼らの表情から・・・聞かない方がおれの為だという事だけは、よくわかった。


だが村の人間ならば、あの川には決して近づかない筈だ。いったい「誰が」おれを川から引き上げたのだろう・・・
様々な疑問と、目頭に浮かぶ真っ赤な拳の幻影を打ち消すかのように、おれは寝酒をあおって一日を終わらせた。



連志別川(四) 生と死の輪舞


以前の「イメル」の力ではないが、並の男衆が二人がかりでする仕事ぐらいは、難なくこなせるようになった。
粥とて貴重な穀物なのだろうが、やはり山男の食は肉が最高だ。おれは合掌してから、自ら仕留めた鹿の肉に貪り付いた。
何という旨さだろう・・・!食った瞬間から、おれの筋肉に変わっていくかのようだ。おれは大自然の恵みに感謝した。
炙り焼き、鹿汁は勿論、何と言っても鹿は刺身で食ってこそ最も旨さがわかる。これは捕らえた日だけのご馳走であり
酒の友にも最高だ。村の酒の中でもおれは、この七竈の実を漬けた薄紅い酒が気に入っていた。上品な香りもそうだが
少女によれば、七竈は魔を祓う樹なのだという。呑む度に清冽なほろ苦さが、あの迫る拳の恐怖を忘れさせてくれるのだ。


だがこの後、食をも超える無上の楽しみが、おれを待っている。それは少女のチセでの、ひとときの語らいだ。
この村では、男と女は分かれて食事をする事になっているらしい。そういう掟なのだと、かつて少女から聞いた。
そういえば少女はいつも同じ装束だ。あのぶらぶらと余った袖で、一体どうやって食事をするのだろうか・・・


「あなたを襲ったのは・・・カムイね」
「カミ?・・・女の神なのか?」
「ちがう。カムイ。恐ろしい・・・悪いカムイよ」
蒼い目の少女が言う。薪火の明かりで煌々と照らされる、金色の睫毛と蒼い瞳、新雪のように真っ白な頬が愛らしい。
少女は、やはり過労が祟っていたのだろう。おれの薬が効いてくれたのか、もう既に以前の様子を取り戻している。
少女だけが、おれを「イメル」ではなく「あなた」と呼んでくれる。それが、どこか恥ずかしくも・・・嬉しかった。


土と茅萱と雪に保温され、寒さに強いおれにはやや暑い程の室内でも、腰掛ける少女は厚手の頭巾を目深に被っている。
おれは、その脚から腰にかけての、丸やかな曲線に心を奪われた。装束の中が透けて見えるような錯覚さえ、感じた。
そして、その、胸に・・・雪の大平原に、神秘の起伏が生じる角度を探す。ここか?いや、もっと下、奥か・・・!?
「・・・ねえ・・・どこを、見てるの?」
はっ・・・!おれは、その撃ち下ろされる視線の冷たさに、己が冒険の過熱を恥じた。だが、すぐにその緊張は溶けた。
おれは腕を組み、左足と右足、そして脳天で躰を支える、言わば三つ足の構えで、少女の神秘の魅力に挑んでいたのだ。
ふたりは必死に堪えていたが、ついに、暖かい爆笑が同時に巻き起こった。
涙を拭う程に笑う少女もまた、美しかった。雪のように白い額、そして咲き誇る福寿草の花のように鮮やかな睫毛・・・
こんなにも儚く美しい少女が、おれを毎日介抱してくれた。そして極寒に耐え、おれの為に舞ってくれたのだ・・・!


カムイは赤い手をした女の姿で下流から現れる・・・川を汚す者を氷に閉じ込め、怒り狂ってその手で殺してしまう。
だからこの村では、あんなにも近くにある豊かな川の恵みを活かせなくなり、他の村との交流も途絶えたのだという。
少女はそれきり語らなかった。話しながら恐怖を思い出したのだろう。柔らかそうな白い頬が、俯いたまま震えている。
恐らく、この子もおれの惨たらしく潰されたその顔を見ている・・・カムイの残忍さを知っている。この子は、強い子だ。
もう何も語らずともいい、ただ、同じ空気を吸っては吐き、交換している・・・それだけで、おれは心が安らぐのだ。
おれは「死んでもいい」・・・そう思った。今まで誰にも抱いた事のない、熱く確かな感情がおれの胸に芽生えていた。


――間違いない。そいつだ・・・あの悪魔は、カムイというのか・・・!
今夜まさにおれは、ついに邪悪の正体を掴んだ。少女と別れ自らの床についても、その興奮は少しも収まらなかった。
「う、う、うっ・・・ぐわあっがっ・・・!」
鼻が、疼いた。おれの鼻の骨は、所々で折れていた。へし折られていたのだ。「カムイ」の拳に、叩きのめされて・・・
触っても痛みが無い程度に修復されてはいたが、整っていた鼻梁の線はへし曲がったまま、固まっていた。


満月の晩、おれはチセの外へ飛び出すと、凍った水瓶に映った醜いおれ自身を、声無き雄叫びと共に頭で叩き割った。
あの川の少女への復讐は、おれ自身の人間としての、男としての矜持に関わるだけの問題ではなくなっていた。
おれは、やっと見つけた自らの居場所と、あの少女との未来を守る為にも・・・「カムイ」、貴様を・・・殺す!


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連志別川(五) カムイの幻影


おれは村で快復を待った。昔から殺しても死なぬと藩の役人に皮肉ばかり言われてきたが、実にその通りだと思った。
快復を更に早めたのは、少女の言う宿敵「カムイ」への、憎悪と復讐心だ。おれは、神や仏の類には関心が無かったが
床に就くたびに、必死に祈った。あの少女に求めていたのだ。あいつを殺すに足る肉体の再生と、恐怖に折れぬ勇気を。
あれから毎日、美少女は一日も欠かさずにおれの夢枕に舞い降りては、考え得るあらゆる方法でおれを撲殺し続けた。
あの真っ赤な拳は、おれの脳を確かに変質させていた。それも、凡そ全ての人間が体験し得ぬ、未知の暴力によって。
そして悪夢から醒めるたび、あいつと決着を付けねばならぬこの世界が夢ではない事に、おれはなぜか安堵していた。


村の外れ、男衆が春楡の大木を囲んで叩いている。おれが教えた相撲の修行法だ。ぱらぱらと舞い落ちる樹氷が美しい。
大男は辺りが曇る程に白い息をつくと、男達を太い腕で制し、道を開けさせた。緊張が張り詰める。恐らく、おれの形相は
餓えた羆の如く見えているのだろう。そうだ。おれは今日、超越者に挑む覚悟・・・言わば、狂気を試しに来たのだ。
「ぬうううふうううおおおお・・・ぬうりゃあああああっ!!!」
野の獣そのものの唸り声と共に、おれの両腕で二抱えもありそうな春楡を目掛け突進し、鼻面から激突する。
衝撃に大樹が激しく震え、樹氷が氷の雨となり降り注いだ。鮮血と氷にまみれたおれを心配して、村人が集まってくる。
――痛え・・・!
だが、あの少女の拳が齎した激痛には遠く及ばない。それが何なのかはわからないが、確実に「何か」が、足りなかった。


鼻をさすり砕かれた躰の全快を実感したおれは、機が熟すのを待ち、十年来の愛銃の種子島を手に、村の出口へ赴いた。
もはや、未開地探索の事など、既にどうでもよくなっていた。男として、あんな幼い、柔らかそうな小娘ごときに・・・
あんな、光り輝く、伸びやかな肢体の・・・脚と拳による、華麗なる未知の拳闘技で、おれを魅了した氷結の妖精・・・
そんな美少女に躰一つのみで肉を、骨を、命を、魂を弄ばれた事が・・・一人の男として、許せなかったのだ。
しかし、最も許せなかったのは、美少女との苛烈な思い出にひとときでも酔ってしまった・・・己の心に巣食う闇だ。


冬から春へと移ろい始めた蝦夷地の山は、気まぐれだ。昨日は猛吹雪だったが、今日は雪に反射する日差しが眩しい。
上流の渡り口へ向かう。一旦種子島を背に戻し、鋤に持ち替える。怒りに任せ、背丈ほどもある雪壁に鋤を突き入れると
白い壁は奥へと「倒れ」、全く起伏のない「道」が現れた。まるで、おれをその魔性で招き入れるかのように。
――「誰か」が、川の向こうからやって来たとでも言うのか・・・?そうだとすれば、そいつは・・・!
おれはついに、挑発されている事に気が付いた。咆哮と共に怒号の切先を叩き付ける。蝦夷松は一撃で切り株と化した。


おれの視覚は鷹並みだ。遠目にもわかる。川の流れはあの屈辱の日に増して穏やかで、水深も向こう脛程度に浅かった。
それは偶然ではない。おれは何日も前から悪夢に耐えながら、この時を・・・カムイを殺す好機を待っていたのだ。
あの恐ろしい、脚の自由を奪う猛吹雪。あれがもしもカムイとやらの霊力のなせる業であって
もし万が一また氷漬けにされたとしても、これだけ水が浅ければ、筋力で足が抜けるに違いない・・・!
昔からおれは大自然の脅威と闘ってきた。狩人は、用心深くなければ生き残れないのだ。


川辺まで来た。狂気が今にも絶叫として暴発しそうになるのを堪え、銃身と火薬、そして弾を素手で念入りに点検する。
狙撃手としての冷徹な殺意が戻ってくる。使うのは、この特殊弾一発だ。通常の鉛弾とは違い、中に水銀が仕込んである。
獲物の体内で無数の鉛の破片と水銀の猛毒が破裂する、狩人の中でも忌み嫌われる・・・最も残忍卑劣な弾丸だ。
あの少女の、抱き締めたら折れてしまいそうな、儚い躰・・・。撃てば間違いなく、当たった先が、千切れ飛ぶ・・・
こんな、大自然への冒涜そのものの弾は、大羆にすら使うつもりはなかった。こいつで脚を撃って、動けなくした後
最高の屈辱と痛みを舐めさせ、心までも引き裂いてやる・・・かつて、あの「カムイ」が、おれにそうしたように。



連志別川(五) カムイの幻影


おれは道端に除けられた雪を背中にかぶると、種子島を構えつつ、飯綱の如く雪中に隠れながら川面の様子を窺った。
そのまま四半刻ほども待っただろうか。カムイの姿は、下流にも上流にも見えない。


――カムイは赤い手をした女の姿で下流から現れ、「川を汚す者」を殺してしまう・・・
おれはふと、村の少女の言葉を思い出した。成る程、そういう事か・・・ならば、貴様の望み通り汚してやろう・・・!
小便の為に褌を脱ぎ捨てた時、おれは異変に気付いた。おれ自身が・・・臍に食い込む程に反り返っている。
おれの腕力でも水平にさえ出来ないどころか、少しでも川へ向ければ、折れてしまいそうだ。なぜ・・・何故だ!?
間違いない。おれは「何か」に、興奮している・・・!「何か」が、おれ自身を鋼と化しているのだ・・・!


困惑するおれの脳裡に川の少女の悪戯な笑顔が蘇り・・・そして、あの紅く艶かしい拳が、幻影となって迫ってくる。
おれは渾身の膂力をもって、おれ自身の心の闇と闘った。閃光の如く軽快に顔面に弾ける左が、何度も視界に拡がった。
溢れ出す恐怖に思わず顔を覆えば怒張したおれ自身が臍を衝き、また手を戻せば、今度は顎を垂直に掬い上げられる。
おれはもはや、両手をおれ自身から離せなくなっていた。少女の、鋭い右の正面打ちが、鮮やかにおれの鼻を叩き潰す。
――痛えッ・・・!!
少女の幻影は、ついにおれに「痛み」すら齎し始めた。鼻の奥につぅんと拡がるその余韻に、おれは・・・魅了されていた。


少女は唇を歪めると、三体に分身した。華麗な脚捌きで空中を滑るように舞い、おれの顔面をその六つの兇器で弄ぶ。
左右の重ね打ちで仰け反ったかと思えば右の巻き打ちが頬をしたたかに叩き首を戻す暇も無く左拳がこめかみを叩き付け
鋭い左の連打で溢れた鼻血に口で呼吸を求めれば渾身の右の掬い打ちが顎を強制的に噛み合わせ歯の付け根に鈍痛が走る。
まるで拳大の血の雹が、無数に降り注ぐかのようだ。ギラギラと張り詰め皺を寄せた、真っ赤な弾力ある屈辱の弾丸が
おれの顔面の皮膚を小気味良く叩き、脳へ直接血と革の匂いを注ぎ込む。竜巻の如く渦巻く拳風がおれの理性を巻き込み
鼻は拉げ、両の瞼は破れ、唇は引き裂かれ、爆裂する破壊音がおれの自尊心を焼く。そして、妖精は輪舞を踊り始める。


拳が風を切る音が、聴覚に蘇り鼓膜を叩く。それは、おれだけに捧げる呪詛の、死と氷の舞なのだ。
やがて妖精の肢体の躍動は視認さえも出来なくなり、おれは猛烈に顔面を叩き付ける拳の心地良い激痛に、陶酔した。
それでも荒ぶる螺旋の中心、少女の蒼い眼から撃ち降ろされる視線は、常におれを真っ直ぐに捉えて離さない。
右の拳が鼻だけに集中し始める。鼻が打たれ、鼻が潰され、鼻が折られ、折れた鼻を弄ばれ撃ちのめされ擦り潰される。
止めは、銃弾らしく捻りを加えた艶めく右拳がおれの顔面に真正面からめり込み、全てを圧し潰し、砕き尽くした。
・・・ついにおれ自身から迸り出た熱い液体は、垂直に近い放物線を描いて、澄み切った川面へと吸い込まれていった。


たった今、おれは川を・・・汚した。まもなく下流から、「カムイ」が来る筈だ。急いで、脱いだものを履き直す。
おれは、おれ自身の狂態に深く、心から恥じ入った。しかし、その行為が、おれの脳に一時の冷静さを取り戻させた。


――死ぬよ。
静寂の中、少女の言葉を、思い出す。恐らく今日これから、どちらかが死ぬのだろう・・・それは、決しておれではない。



連志別川(五) カムイの幻影


――来た・・・!!!
下流から水面を沈まず歩いてくる影。一糸纏わぬ姿、太陽を浴びて銀白に輝く肌・・・間違いない。「カムイ」だ。
おれは雪に隠れながらその瞬間を待った。誤射は、ただ一度も許されない。おれは愛銃の精度を知り尽くしている。
銃身を固定し、少女の行く先、太腿の高さに「射線」を作る。死の直線に少女が足を踏み入れるその瞬間、引鉄を引く。


あの少女・・・いや、「カムイ」を、射殺する。「射殺」という言葉に、おれの鼻骨が、またも疼いた。
走馬灯のように、かつての「カムイ」との悪夢の思い出が、あの美しく血に濡れそぼった金髪が、無邪気で冷酷な笑顔が
そして、何度も何度もおれの顔面を打ち据える真っ赤な弾丸の齎す激痛がおれの鼻を抜けて脳を痺れさせ魂を焼いた。
くそったれが・・・!何故「おれに」走馬灯が見えているのだ・・・!今度はおれが貴様を撃ち砕いてやるというのに・・・!


おれはもう既に、おれ自身が再び熱を持ち始めている事に気付いていた。死を孕んだ激情に、銃身を支える手が震える。
負ける訳には、断じていかぬのだ・・・!死の恐怖に冷静さを保てない、それを認識するだけの冷静さは、まだ残っていた。
射線を僅かに上流側に引き付ける。次の弾は、込められない。撃てばあいつが死ぬ。外せばおれが死ぬ・・・それだけだ。
さあ、来るのだ「カムイ」・・・もっとだ、そう、あと七歩、あと五歩だけ、近くへ・・・


その刹那、全視界は暗黒に包まれ、天が泣き叫ぶような雷鳴と共に雹が混じった猛吹雪が「道側から」おれを襲った。
おれは雪ごと川に転げ出され、溺れた。銃を探す余裕もなかった。吹雪が、今度は向こう岸側から川面を叩いている。
いや、違う!これは・・・「垂直」だ!吹雪の圧力は「真上」から、おれを川に沈めようとしているのだ・・・!
水深は浅くとも、凍った川に沈められればたちまち死んでしまう。おれは瞬く間に川底へ顔面から埋め込まれた。
全身の関節を捻り、額で、腰で、爪先で泥を蹴り、おれは必死に仰向けになる。今度は後頭部が川底に激突する。
呼吸だけは奪われまいと、泥にめり込む足腰を支点として腹筋を鋼の如く怒張させ、喉を裂ける程に仰け反らせると
鼻と口だけは辛うじて水面から出す事が出来たが、容赦無く吹雪が顔面に積もっていく。


――た、助けてくれえっ・・・!死にたくないっ・・・!
おれは心から願った。消えた親父にでも、顔すら知らぬ母にでも、神仏にでも、村人にでもない。
それはもっとおれの魂の奥底に深く、柔らかく、そしてしっとりと冷たく入り込んでいる、「誰か」・・・
川の水に奪われゆく意識の中、おれは「誰か」へ祈り続けた。祈りと共に、歪んだ鼻が、焼ける程熱く疼いた。


気が付くと、仰向けで川に浮いていた。
正確には、「浮いていた」のではないのだが。
おれは、助かった。
本当は、「助かった」わけではないのだが・・・


誰か、おれを遥かな高みから見下ろす人物が、いる。逆光が眩しく、その細身の影が誰なのかは、わからない。
そして、その銀白に輝く影に名を聞こうとしたまさにその瞬間・・・
その正体を認め、おれは凍り付いた。いや、「凍り付いていた」事に、ついに気が付いたのだ。


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連志別川(六) 神秘の暴虐美


おれは、確かに川に浮いていた。浮いてはいたのだが・・・両腕を含めた全身は、身動きが取れぬまま厚い氷中に没し
顔面だけが、川面から水平に剥き出しとなっていた。つまり首から下の部分は、完全に氷面下に閉じ込められていたのだ。
悪意を、感じた。それは、おれが先刻までこの少女に向けていた、小賢しき人間ごときの殺意などとは比べ物にもならぬ
人智を超えた計算に基づいた、神なる邪悪だ。恐らくおれの計画も、躰の力の程度も、必死に呼吸を求める醜い足掻きも
全てが、少女の掌の内だったのだろう。陽光が残酷な程に眩しい。おれは封印された己の躰を、茫然と見下ろしていた。


・・・ぼふ、ぼふん、ぼふんっ・・・ばんっ、ばぐんっ・・・
どこか緊張感の欠落した、しかし確かに鼓膜を震わせる衝撃音。おれは、弾かれるように視線を真っ直ぐへと戻した。
拍手の破裂が止むと同時に、二人の視線が氷面と垂直に交錯する。少女はその掌を、見せ付けるように拳へと変えた。
・・・ぎゅうぅ・・・ぎ、ぎ、ぎ・・・ぐ、ぐぎゅうぅ・・・
その真っ赤に張り詰めた、「未知の物体」が少女の両膝の上で握り締められ、悶え苦しむかのような唸り声を上げている。


――全ての人間は、真なる恐怖を知らぬまま死んでいく。なぜなら、未だ知らぬ事こそが、恐怖の正体だからだ。
若い頃から西洋かぶれだった親父は、大坂商人の船が松前へ来る度、毛皮を売った銭で洋学書を買い集めていたらしい。
親父の書棚から出て来たある思想書の一節が、今になって脳裡に蘇る。恐怖の正体は、逆光を浴びて紅々と輝いていた。


「ぜんぶ、見てたわ・・・・・・ふふっ・・・すごいのね」
少女の冷たく上気した笑顔が、真上から覆いかぶさってくる。その蒼く、狂気に爛々と血走った瞳が、近づいてくる。


――「すごい」だと・・・?まさか・・・まさか、「あれ」も、見られていた・・・!?
おれは恐怖と羞恥に、思わず涙を溢れさせた。堪らず、眼の筋肉だけで視線を逸らす。だが、少女はそれすら許さない。
眼球を左に逃せば氷に寝そべり、右に切り返せば跨いで飛び越し、無邪気な蒼い宝玉がおれの視覚と魂を残酷に陵辱する。
伝承とは違い、その眼に「怒り」の色は感じられない。だが、その好奇心に満ちた悪戯さが、おれの精神を更に狂わせた。
「ひ」
おれは、逃げ「ようとした」。這いずり回って。だが、氷に閉ざされたおれの肉体が、言う事を聞く筈もなかった。
照りつける強烈な日射しが少女の肢体を透かし、華奢で繊細な均整美を、一刹那の暇も無くおれの脳へ叩き込み続ける。
おれの眼球筋と少女の躍動との攻防は、再開された。但し、今度は逃げる者と追う者との立場が、逆になっていた。


この期に及んで、おれは改めて下から見上げる少女の、日輪を浴び光り輝く肉体の瑞々しい躍動に、夢中になっていた。
無邪気な稚児そのものの笑い声と共に、金色の髪を波打たせながら舞い踊る少女。いかなる肉質も、隠そうとすらしない。
しかしその清冽なる美は、常に凛とした品性を保っている。少女は恐らく、人間よりも自然に近い存在なのだろう。
そしておれはついに、何故か懐かしい、角度によってわずかに浮かんでは消える繊細な起伏を少女の胸に見出した。
神秘の曲線が、再び涙に滲み歪んで行く。おれの命は、恐らく、もう終わろうとしている。何の身寄りもないおれだが
美少女との別れだけが、無性に、悲しかった。おれの人生に、これ程の「悲しみ」という感情は、あっただろうか・・・?


「あなたは、泣き虫さんなのね・・・でも、だいじょうぶ」
なにが大丈夫なのか、全くおれにはわからない。だが、おれは少女の慈愛に満ちた頬笑みと、その拳の生ぬるい感触に
倒錯した安らぎすら感じていた。そして膝立ちからやや前傾し、おれの頬を真上からその右拳で撫でる少女に、訊いた。


「えっ・・・・・・なっ、なっ・・・・・・殴らない・・・、のか・・・?」
「ううん」
少女の波打つ金髪が、「横に」柔らかく戦ぐ。それから何の前触れもなく、少女の左拳がおれの眼界一杯を犯し尽くした。
おれの顔面に真上から降り注ぐものは、毎晩心を引き裂かれてきたどの悪夢よりも冷酷で残忍無情な、「現実」だった。



連志別川(六) 神秘の暴虐美


――生まれたままの姿の美少女に、凍らされ、硬く厚い氷板の上で、縫い付けられるように・・・
少女の冷たい拳の下で、おれは自らの人間としての生涯が、既に閉じてしまったという事実を、悟らざるを得なかった。
だが、それは死の到来ではない。現に、おれの鼓動は異常な程に高鳴っている。終焉は今、始まったに過ぎないのだ。
少女は、おれが少女を撃とうとしていた事も、恐らく知っている。殺さなければやがては殺される。それが戦闘の掟だ。
もしおれが少女なら復讐を恐れ、おれを今すぐ殺すだろう。しかし、少女の拳は、あの弾力ある真紅で覆われたままだ。
おれは、真に戦慄した。この川は「戦場」でも「狩場」でもなく、少女だけが知る禁断の「遊び場」だったのだ・・・!


――鼻に左、鼻に右、鼻に左左右、鼻に左右、鼻に左右、鼻に、左、左、左左右、左右・・・
もはや顔面以外に、殴る所など、ひとつもなかった。狂気に満ちた少女の視線と拳は、おれの顔面を決して外す事はない。
おれは、もうおかしくなっているのだろうか、その拳の人智を超えた正確さに、一種の絶大なる信頼感とでも言うような
そんな感情さえも、抱くようになってしまっていた。糸引く鮮血が、少女の両拳を更なる淫靡な真紅へと磨き上げる。
勢い良く溢れ出す鼻血が喉に逆流し、おれは溺れた。更に左右左左の連続打ち、一拍おいて痛烈な右が鼻を殴り潰す。
むせ返り爆裂したおれの血が少女の上半身に飛沫き、その神秘の曲線を艶かしく彩った。そして、遊戯は再開される。


――赤い、おれの鼻血にまみれた、弾力のある、革の、赤い、おれの、血を、吸った、赤い、血を、赤い、血の・・・
矢継ぎ早におれを苛む魔の双拳。脳を犯す破裂音と紅い閃光の点滅は、おれの魂を再び紅の狂空間に誘うに充分だった。
全身が凍っている痛みなど忘れさせる程に、おれの顔面に弾ける少女の拳の連打は疾く鋭く、そして正確で綺麗だった。
しかし、絶え間ない苦痛をおれの顔面に真正面から与え続ける少女は、そんな思考の暇すらおれに与えない事を
むしろ楽しんでいるかのようだった。憧憬、畏怖、恍惚・・・おれの脳裡にどす黒い劣情が浮かんでは真紅の兇弾に
激痛として上塗りされる。絶望に身をよじろうにも、それすらも許されない。それが、真なる絶望の正体だった。


――痛え・・・!痛えっ・・・!!い、痛ええッ・・・!!!いッ、いッ・・・痛え痛えッ痛ええよおぉッッ・・・!!!!
川面に「立つ」少女の拳は、痛かった。未知の脚捌きによる加速と急停止が、その破壊力を芸術にまで高めたのだ。
しかし、川面に「寝た」おれに降り注ぐ拳もまた、異質の痛みがあった。嗤う少女の歯にまで、おれの血が飛んでいる。
おれの頭蓋は、真上から降り注ぐ少女の拳と硬い氷板との間で垂直に圧縮され続け、その威力は決して後方へ逃げない。
人体の中でも、脳は豆腐のように脆く、唯一鍛錬する事が出来ぬ部位だ。おれは脳を直接叩き潰される恐怖に喘いだ。
実際、おれは「効いて」いた。もはや氷の呪縛が無くとも、おれは百まで数える内に、上体を起こす事も敵わないだろう。
これは、人間を「殺す」為の体勢だ・・・!しかし、少女の弾力ある双拳は、おれに決して「死」を与えようとはしない。
人界の理の外、「未知」の世界へ、少女の狂気はおれを誘って行く。そう、「生」でも「死」でもない、どこかへ・・・


――あっ、あっ・・・!
異変が、始まった。それは、頭蓋の内にだけ静かに深く響いた、異音。骨に、おれの鼻梁の骨に、亀裂が走る音だった。
おれは今、少女だけの玩具として「壊される」恐怖に、打ち震えた。そして・・・目の前の「少女へ」願った。
どうか少女がおれの異変に気づき、その拳を・・・、その、真っ赤な拳を・・・、止め・・・、と・・・め・・・?


突然に、少女は立ち上がった。首を跨ぐ両の脚、しなやかな二の腕、腰から胸へと続く魅惑の流線美、広く白い額までも
破裂したおれの返り血で斑な水玉模様に染められ、太陽を浴び透き通るようなその威容は、精緻な硝子細工を思わせた。
静寂が、訪れた。突き刺さる少女の悪戯な視線が、おれの鼓動を滾らせ、おれの鼓動が、おれの魂に語りかけた。



連志別川(六) 神秘の暴虐美


――まだ・・・まだだ・・・!まだ、何も、終わってはいない・・・!
金の睫毛を閉じ、おれの血に塗れた右拳を、高々と掲げる少女。そして、再びその眼を見開き、氷の「射線」を作る。
標的は、おれの頭蓋の中心、鼻の骨だ。少女は、片目を瞑ると、迷い無く、その真紅の兇器の引鉄を引いた。
おれは、恐るべき捻りと共に射線上を加速し視界を犯し尽くす破砕の兇弾を、決意に歯を食い縛りながら、迎えた。
砕けた。その音で、わかった。革がおれの皮膚を撃つ破裂音とは違う、革の内部の拳までも命へ直接食い込む一撃だ。
そしておれは、勢い良く水溜りを踏んだかの如く爆裂四散し赤色の硝子粒の如く氷結し舞い落ちる鮮血の粉雪の中で
自らの魂が、未だに少女の世界の入り口にしか到達していない、その冷厳なる事実を思い知らされる事になった。


――・・・!!!
肉体がひとつの限界を迎え、少女が立ち上がった瞬間、おれの心を冷たく吹き抜けた・・・何とも言えぬ、寂寥感。
何故だろう、鼻の骨をへし折られる寸前、おれは確かにその真っ赤な拳を・・・止めて「貰えない」事を、願っていた。
だがまさに今、加速する激痛が魂に追い付いたその時、眠っていた生存本能が覚醒し、おれの肉体と醜く抗い始めた。


――・・・・・・・・・!!!!!!!!!
おれの躰は全力で転げ回れも、鼻を押さえてのたうち回れもしなかった。魔氷の呪縛が、それを決して許さない。
全身の筋肉が痙攣し、厚い氷の下で虚しく藻掻き足掻く。肉体と神経の乖離に、満たされぬ本能は苛立ち、暴走した。
人の限界を超えた狂騒に皮膚は破れ、関節は砕け、排泄物は瞬く間に氷結し、少女の狂気はおれの本能すらも嘲笑った。
生の醜さを堪能したのか、再び少女の顔が、近づいて来る。まず哄笑が降り注ぎ、血塗られた拳が、後を追って来た。
微塵の情け容赦もない、殺す拳だった。その衝撃に、砕けた鼻骨の刃が肉を滅茶苦茶に引き裂き、視界が七色に明滅した。


――んぶっ、ぐゥゥッ・・・!!
少女は右拳に全体重を掛け、おれの折れた鼻ごと魂を潰しにかかっていた。全身の血流が頭に集まってくるのがわかる。
肺臓一杯に鮮血混じりの空気を吸い込み、血にまみれ破れた唇を固く閉じ、涙を流しながら必死に息を殺して、耐えた。
一旦この口が開き、叫びが漏れ出したら、もう決して「戻って来れない」事は、判っていたから。
少女の目は、好奇心に爛々と輝いていた。鼻腔と張り詰めた拳の間から、圧縮された血の矢が、徐々に漏れ出し始めた。


――軽い・・・!なんと、余りに、軽く・・・儚いのだろう・・・!
紅く爆裂する激痛と窒息と圧迫の地獄の中、おれは少女の躰の軽さ、細さ、そして弱さを、想った。
少女はただ真っ直ぐに、視線を突き刺してくる。少女とおれの狂気と正気が、一刹那の暇もなく激突し続けている。
おれは決壊寸前だった。少女は更に右腕に左拳を添えて、血の螺旋を描き始める。その爪先が氷を蹴る度、真紅の右拳へ
おぞましき渦模様が刻み込まれ、骨と肉が摺り潰れ神経が引き千切れる破滅音が脳へ直接響き渡る。頭上の少女が廻り
やがて逆さまになる。悪戯な視線はそれでも常におれを犯し続けている。そして、ふたりの顔が再び正対した時・・・


「くおっ・・・!あっああっ・・・!・・・・・・おうおおぉおぁああぁああぁああぁああーーーッ!!!!!!」
その瞬間は訪れた。少女が拳を開放し立ち上がる寸前、垣間見せた狂喜の瞳は、おれの正気を氷の焔で焼き尽くした。
今までずっと垂直に、おれの顔面にのみ注がれていた少女の視線が浮き上がり、おれの眼先と同一点上で、交差した。


「うぎゃああおおおああああああぁああぁーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!!!!!」
それは、まるで血の間欠泉だった。完全に骨が砕け異形と化したおれの鼻腔から螺旋を描き垂直に迸った真っ赤な鮮血が
新たに噴き上げられた鮮血と空中で闘い、烈しく飛沫を散らし激突点から真紅の氷霧と化してあらゆる方位に舞い散る。
その酸鼻たる地獄の有様は、おれと少女を現世の呪縛から開放し、新たな宇宙へと誘って行くかのようであった。
その血塗られた好奇心の極め逝く先、それは、おれも少女も・・・未だ、知らなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


連志別川(七) 紅の更紗眼鏡


「ーーーーーーーーッ!!おっブッ!ブッ!ひっおぶぐッ!!ブッ!ぶふッ!ああおおッぎゃあぶッ・・・!」
その一部始終を見届ける事も無く、少女はおれに飛び掛かった。狂気の少女は二体の魔獣を従えているに等しかった。
耳を劈く破裂音と共に、魔獣達はおれの血を、命を、魂を喰らい尽くし、無邪気な残虐性と化して少女へ捧ぐのだ。
真紅の拳が迸る血潮を体内に押し戻し、おれは倍の勢いで噴き返す。そして、更に血を吸って狂気を増したその拳が
おれの躰と心を粉微塵にすり潰す。まるで、おれの正気と少女の狂気が、紅い火花を散らしているかのようだった。
少女の左拳が口を塞いだ。そして、鮮血滴る右拳を掲げたまま・・・左拳を鼻へとずらし、おれの言葉を待った。


「ひっ・・・あっあっあ・・・!殺さ・・・ひぃっ・・・!ふゥッッ!!許っ・・・ひぶッ!あひッわあああ!!!」
第一の願いは、叶えられた。おれは、美少女の玩具だったからだ。玩ばれる道具として、おれは愛され続けた。
少女の右拳が太陽に掲げられ、咆哮と共におれの顔面の中心目掛けて墜落する。紅の弾丸は垂直に迸るおれの鮮血を
その表面で吸い尽くすと、鼻先で止まった。拳から染み出す少女の残虐性を、おれは血の雨としてただただ浴び続けた。
第二の願いは、叶えられなかった。氷は、溶けない。しかし、今おれの魂を弄ぶ煩悶の正体は、凍傷ではなかった。
肘の回転のみによって繰り出された少女の左拳が、おれの潰れ切った、鮮血に濡れそぼった鼻を、軽快に弾き続ける。
脚捌きのない、そっと触れるだけのような、儚く弾ける妖精の拳。しかし、その「弱さ」こそが、真なる恐怖だった。
おれは少女の打楽器だった。皮膚の破裂音だけではない。折れた鼻を打たれれば苦痛が稲妻と化して脳を貫き、その度に
喉からは魂の絶叫が、鼻からは真紅の鮮血が、眼からは七色に眩く激情が迸り、少女をいつまでも楽しませ続けるのだ。
ここは、逃れ得ぬ無間地獄の底だった。魔性の少女の終わらぬ「遊戯」が、おれの正気を、ついに、焼き滅ぼした。


――ああ、ひんやりして・・・いい、気持ち、だ・・・
鼻に感じる心地良い冷たさは、少女の吐息だった。血に染まった美少女は悪戯に、そして「逆さまに」笑っていた。
少女は腕を組み、左足と右足、そして脳天で躰を支えている。
なぜ・・・なぜだろう・・・おれは、必死になって笑いを堪えていた。そして、暖かい爆笑が同時に巻き起こった。
両の目蓋から熱い涙が溢れ出し、頬に凍て付いた自らの鮮血を溶かしていく。少女は両脚を揃えて川面を蹴ると
滑らかな額を支点に、日輪を浴びて倒立した。美少女の顔が、紅い唇が、急接近し・・・おれの鼻先で、止まった。
少女は、おれを見下ろしている。おれはこれから、また、殴られるのだろう。だが、不思議と、心は安らいでいた。
その腋に隠されていた煌めく兇器が、神秘の光と共に現れる。


少女は抉り込んだ右拳を支点に、おれの顔面の周囲の氷を膝で旋回し始めると、左右の拳を交互に目蓋へと降り注いだ。
全ての拳が、おれの顔面へまさに捻り込まれて行く。正面から、逆手で、或いは傾き、絶望の紅に閃く激痛が瞼に弾ける。
鮮血の結晶を纏い眩しい日輪を背に旋回する金髪の少女は、おれの脳裡に、親父の洋学書で見た異国の玩具を蘇らせた。
それは更紗巻きの筒眼鏡で、覗いて廻せば転がる内部の色粒が光に煌めき、眼界一杯に回転美の世界を織り成すという。
様々な紅があった。噴き上がった鮮血、返り血に塗れた少女、そして螺旋を描きおれの視界を犯す二つの拳・・・


「くふっ・・・くふふっ・・・!・・・あはははははははッ!!・・・あーーーっはははははははッッッ!!!!」
おれの上で、美少女が、血と命にまみれ、無邪気に遊んでいる。撃ち下ろす拳それ自体にも強烈な捻りを加える事により
反動で躰の旋回が加速する事に、少女は気が付いたらしい。ますますおれの顔面は烈しく摺り潰され、あらゆる傷口から
鮮血が止めどなく垂直に迸り、激痛に弄び尽くされたおれの脳は、少女とその拳を、三つにも六つにも分身させた。
躰の旋回と拳の捻り、二重の螺旋が、おれの生命を根源からもて遊ぶ。おれは、血に明滅する美しき錯乱を、楽しんだ。
更に竜巻の如く狂威を増す美少女の円舞に、波打つ髪が水平に浮き上がる。三人の少女は六人へ、六の拳は十二の拳へ
十二の拳はおれの眼、顎、鼻あらゆる肉を無慈悲に抉り抜き骨を砕き潰し、紅の更紗眼鏡は更に絢爛なる精緻を極めた。
全ての色彩が強烈な陽光を浴び、輝いていた。魂爆ぜる激痛は、その美が生命の煌きである事の証左に他ならなかった。
おれと少女、顔面と拳、そして魂と魂が垂直軸上に並び、血の螺旋に遊ぶ。まさに今おれ達は、一対の更紗眼鏡だった。



連志別川(七) 紅の更紗眼鏡


ついにおれは、完全なる茜色の硝子細工、生命美の完成を見た。もはや、その波打つ髪、綺麗に並んだ歯、きめ細かい頬
細い首筋、神なる起伏を秘めた胸、柔らかな丸みの腰、そして何度も氷を蹴りおれを苦しめたそのしなやかな脚までもが
一片の白も残さず、おれの鮮血、おれの魂、おれの迸る命により、朱に染め上げられている。


少女は眼を閉じると、脚を前後に開き・・・伸ばした両腕を水平からやや高く掲げ、胸を反らせて雲一つない天を仰いだ。
感動があった。迸ったおれの血が日輪を照り返し、少女は柔らかく清冽な狂気に満ちた、命に溢れる生きた芸術だった。
「未だ知らぬ事」・・・残り少ないおれの人生は、それを求める為だけに費やされてきた。「恐怖」こそが、おれの求める
究極だったのかも知れなかった。もう何も思い残す事は、ない筈だった。だが、少女の躰は、再び涙の奥に霞んだ。
少女は、おれの顔面へ視線を戻すと、一歩、二歩と後ずさり・・・止まった。その金色の眉尻が上がり、緊張が走る。
おれは、途切れかけていた意識の糸を必死に繋ぎ、腫れた瞼へ残る全ての命を注ぎ込み見開くと、その瞬間を、待った。


助走から川面を蹴り、太陽へと飛び立つ少女。爪先で削り取られた氷の破片が、その回転の凄まじさを物語った。
遠心力で振り飛ばされた鮮血が、紅の粉雪と散る。その有様は、数十年に一度の日食を思わせる程に、神秘的だった。
更に急激な捻りを加え、その躍動美の全てを魅せつける。切り取られた全ての輝く瞬間が、おれの脳裡に深く刻まれた。
そして、最期に刻まれたものは、猛り狂う紅い雷の如き右拳が、おれの鼻梁に垂直に抉り込まれる、その瞬間だった。
迸った鮮血は、大輪の氷の牡丹と化して咲き乱れた。その爆裂する激痛に、おれは意識を失う事すら許されなかった。
少女は右拳だけでおれの鼻を摺り潰したまま、なおも熾烈なる摩滅を齎し続け・・・そして倒立したまま、静止した。
ふたりの視線は、再び垂直に交錯した。少女の蒼い瞳が震え、凍て付く涙が、おれの見開かれた眼球を叩いた。
おれは、強い人間だった。しかし、人間という生命存在の極限・・・避けられぬ「終わり」を、おれ達は共感していた。


背を向けて歩き出す少女。おれは、意識と無の狭間で、藻掻いていた。迸り凍る鮮血が、目も耳も鼻も口も塞いだ。
鮮血の色が、血潮の音が、鼻血の臭いが、血液の味が、血氷の冷たさが・・・五感が、命の熱が、緩慢に失われて行く。
とうとう少女は、晩冬の寒空へと消えていった。爆裂していた己の鼓動が、脳へ、響きにくくなっていくのが、わかる。
心臓が、命が・・・止まる。闇がおれの全てを包もうとしたその時・・・おれの中で、決定的な「何か」が、爆発した。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!」
魂そのものを絞り出す大絶叫が、蝦夷の山々に木霊した。己でも何を叫んだのかさえ、判らない。
だがおれは、確かに「少女に」叫んだのだ。おれの、少女への、灼熱に燃え盛る想いを。


爆熱した「何か」はおれの中の新たな鮮血を滾らせ、顔面に開いたあらゆる傷口から噴出し氷を融かし尽くした。
失われていた五感が、極限の高揚感と共に蘇ってくる。そして、見えなくなった少女が、戻って来るのがわかる・・・!
氷を蹴るその脚の爆震が、幾十重にも重ねられたその波紋が氷を伝わり、熱く蘇った聴覚を、心地良く犯したのだ。
少女は再び「意志」を持った「弾丸」だった。しかし、その「意志」は更に強く、更に疾く少女を「加速」させた。
そして、ついにおれの視覚が少女の姿を捉えたその次の刹那、名状出来ぬ激情に満ちた破壊が、おれを迎えた。


最期の一撃はおれの鼻を「水平に」爆撃した。掬い打ちの要領で逆手に固く握り締められた右の艶めく魔性の拳は
おれの鼻梁を、少女を探す視線の先から正確に捉えた。全身を一弾と化して起爆した少女の激情はおれの激情と共鳴し
無限無量に爆裂する狂気が鼻を起点としておれの全身を駆け巡り、その反動は一条の稲妻と化して少女の全身を貫いた。
溶岩の如く噴出した灼熱の鮮血が血の雨となっておれの瞼へ降り注ぎ、視界と意識を懐かしき茜色へと閉ざしていく。
そして・・・またしても、おれは・・・なにも、わからなくなった。



連志別川(七) 紅の更紗眼鏡


――ここは・・・三途の川、か・・・
背が、冷たい・・・おれは、またしても「生きている」ようだった。だが、おれが美少女との苛烈なる遊びを通じて
人間として失ったものは、余りにも、大きかった。「死ねなかった」と言ったほうが、正しかったのかもしれない。


中洲に乗り上げ、おれは息を吹き返したようだった。川の両岸は、切り立った崖となって月光を照り返している。
おれは、泣いた。眩む意識の中で涙に溺れながらも、少女の躰を、悪戯な笑顔を、そして甘苦い拳の味を、思い出す。
そして少女との間に「血」による奇妙な繋がりを得た事に、戸惑いながらもどこか満たされている己を、感じていた。
懐中の、二重の鞘で封印された刃へ、手を伸ばそうとした。山鳥兜の汁を幾十層にも染ませた、この小指程の黒い毒針は
狩りの道具ではない。冒険者として、誇りある死を選ぶ・・・その時が来たら使えと、十一年前に親父から渡された物だ。


腕が、指一本すら、動かない。その代わりに、躰のある一部分が痛い程に疼き、熱を帯び脈動している事に気が付いた。
おれは力なく嗤い、そして、また泣いた。慟哭に咽びながらも、両手も両足も動かせず、鼻は呼吸器としての役を成さず
そして、少女との想い出が熱く蘇った。少女の華麗な拳闘美を、しなやかな手脚を、美しく儚い重さを、顔面で想った。


背に、摩擦を感じる。水嵩が増して来たのだ。これから恐らく、おれは再び、流されるのだろう。
再び薄れゆく意識の中、何故だろうか・・・おれは、見も知らぬ筈の母の面影を、腫れた瞼の中へ想い浮かべていた。
その涼やかで優しい眼差しは、何故か「逆さまに」おれを慈しみ、そして、廻りながら、遠くなって・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


懐かしいチセの中で、おれは目を覚ましていた。恐らく、また、あの少女と村人達が介抱してくれたのだろう。
村人と話す時はいつも、あの少女が一緒だった。短い語ならば、おれは自然と彼らの言葉が判るようになっていた。
おれは礼を言い、村の言葉で「あの子は」と訊いた。髭の大男の表情が、複雑に曇る。「昨日から」だけは、聞き取れた。
そして村人の沈痛な表情が、何よりもおれの心に訴えかけていた。・・・「次こそは死ぬ事になる」「命を惜しめ」と。


随分長く眠っていたらしい。躰が快復しても、魂が目覚めを拒んだのだろう。包帯が取れるまでは二日と掛からなかった。
一人一人、村人の手を取り、礼を言って別れる。全ての村人が、おれが見えなくなるまで、手を振って見送ってくれた。
いつまでも響く惜別の声は、わずか十貫にも満たぬだろう帰りの荷を、その目方以上に、重く感じさせた。


右方向へ柔らかな曲線を描き続ける、浅い雪道をざくざくと歩く。この蝦夷地にも、雪解けの季節が、近づいていた。
道の端々から残雪を割って福寿草が蕾を出し、愛らしい花を咲かせ始めている。日輪を浴びて眩しく煌めく雪の銀白
そして、霜の露に濡れた黄金の花・・・その色彩に、おれは言い知れぬ不足を感じながら、分かれ道へと差し掛かった。
左は遠い松前へと続く、おれがかつて切り開いた山への登り口。右へは、あの川へと伸びる起伏のない道が続いている。


おれは、左へと進んだ。そして、全ての帰りの荷を蝦夷松の森へ投げ捨てると、山とは逆の方向へ、足早に歩き出した。
いつしか、おれは雪道を駆け出していた。今や異形と化した鼻腔を打つ春風の香りが、却って心地良かった。
これからおれは、少女の拳によって解き放たれた自内の「何か」と命を賭けて対峙し、そして、決着を付ける・・・!
畏怖、憤怒、混乱、憎悪、緊張、興奮、焦燥、怒張、絶望、希望、熱狂、狂乱、狂喜、狂騒、共鳴、陶酔、そして・・・
全てが綯い交ぜになった凍て付く熱風が、おれの全身全霊を柔らかに激しく包み込み、「あの川」へと疾走させていた。

投稿SS7・連志別川(前編)

※この文章はフィクションであり、実在する、或いは歴史上の人物、団体、および地名とは一切関係ありません。



連志別川(一) 蒼い眼の少女


未だ蝦夷地の辺境には、地図に名が残らぬ地が多い。
おれは、一匹狼の冒険者・・・と言えば、多少は聞こえがマシだが
あてもなく未開の地に挑戦してみたくなる、まあ冒険狂いといった方があってる・・・そういうヤツさ。


ボロボロになった地図を広げる。親父の遺品の一つだ。掠れた汚い字と、おれが朱で書き足した字が入り交じっている。
遺品とは言っても、親父から手で渡された品ではない。去年、鹿撃ちの弾を探していたら納屋の隅から出て来たものだ。
確か、あれはちょうど十一年前だったか・・・おれが、やっと種子島の使い方に慣れてきた頃の話だ。
親父もおれと同じ、冒険者だった。今より更に謎に満ちていた蝦夷地内陸の山々を、躰ひとつで突き進んでいたのだ。
そしてある日、「北へ行く」と言い残し家を出て・・・それっきりだ。母は・・・その顔すら一度も見た事がない。
親父は、蝦夷地の更に北の最果てを目指し、冒険の中で死んだのだろう。だが「今の」おれは、親父を恨んではいない。


それからおれは今まで、この身一つで北の自然と戦ってきた。生への渇望が、そしておれを置いて消えた親父への憎悪が
親父から貰ったこの鉄の躰を、更に鋼の如く鍛え抜き技を磨いた。そして、山を駆け巡っている内に腕っ節が認められ
いつの間にか測量の任に就き、今のおれがあるって訳だ。浦賀に現れた黒い船が、既に箱館にも来た事は知っている。
江戸の都が、時代が蝦夷図に飢えているのだ。おれは武士の出でも何でもない。まさに「猫の手でも借りたい」って奴だ。


だが、おれは猫にも幕府の飼い犬にもなるつもりはない。おれの求めるものは今までと何ら変わらぬ、命を燃やす冒険だ。
実際、測量なんてのは建前・・・この松前の山を拠点に、お上のお墨付きで勝手に冒険させてもらえる、いい仕事なのさ。
藩の役人すらおれを恐れて近づかない。おれが死んでも、誰も泣いてくれる奴などいない。つくづく「いい」仕事さ・・・


さて・・・吹雪の中、誰が建てた物かは知らぬが、小屋から小屋へ地図を頼りに橇を引いて来たが、ここまでのようだ。
道が終わっている。崖と崖に挟まれ、急激な階段状の上り坂になっているのだ。少なくとも橇が通れる幅と傾斜ではない。
だが、まだ奥へ行って引き返すに充分な食糧も弾もある。鹿は天の神が人に与えていると言うが、本当にいくらでもいる。
せっかく長い冬も終わりに近づいた、羆の眠る時期を選んで来たのだから、むざむざ尻尾を巻いて帰る理由はない。
最後の小屋へ引き返し朝を待った後、おれは橇で引いていた己の荷を一気に背負うと、聳える雪山へ挑む事にした。


ふん!・・・荷を背負い直す。余りの膂力に、自分でも笑ってしまう。武器、食糧と合わせて軽く三十貫は、あるだろう。
おれの躰はでかい。しかも筋肉の塊だ。並の馬では乗り潰してしまう。松前でも、異人と間違えられた事は数知れない。
売られた喧嘩を買った事すら、ただの一度もない。人間が相手では、おれは殺さずに懲らしめる自信がなかったのだ。
街中での下らん揉め事は、大概、銅銭一文で平和的に解決出来た。指でちょいと摘んで二つ折りにしてやればよいのだ。
親父が生きていれば、恐らくおれはここまで強くはなれなかっただろう。十一年も見ておらぬから、顔も忘れたがな・・・


それに、おれはどういうわけか、寒さには滅法強かった。今も、正面から水平に叩き付ける吹雪が気持ちいいくらいだ。
おれと親父の決定的な違いは、この「冷気への耐性」だ。これは生来の能力で、日々の修練で身に付けたものではない。
親父と行った最後の鹿撃ちを思い出す。おれも親父も吐く息は白く濁っていたが、白の「濃さ」がまるで違っていた。
松前の酒場でしこたま飲んで雪に埋まったまま翌朝を迎えた時には、おれは本当に人間なのか自分でも疑ったくらいだ。


さて、親父の名が記された地図は、丁度ここらで白紙になっている。つまり親父は、この周辺で引き返したという事だ。
おれは、冒険者として親父を超えたかった。だから、ここまで来たのだ。頬を痛い程張って、気合を入れる。
狭い獣道を進む。次第に道すらも無くなり、人の分け入る事を拒むかのような朽木の網を大鉈で薙ぎ倒し踏み越える。
「引き返せ」「これ以上行けば、死ぬぞ」・・・まるで大自然の脅威が、おれにそう警告しているかのようだ。
――やはり、親父の地図が言う通り、何もないのか・・・
松前から二十日の道のり・・・当然、帰りも同じだ。この峠を越えて何もなければ、悔しいが・・・退かざるを得ない。
山を登りきったおれの眼下に、人はまばらながらも、かなりの広さの集落が飛び込んできた。そうこなくっちゃな・・・!



連志別川(一) 蒼い眼の少女


村の人間は、大柄なおれを警戒し刃を向けた。しかし、おれもここで死ぬわけにはいかない。大鉈に手を掛けたその時
「あなた・・・だれ?・・・どこから?」
意外・・・!それは、懐かしい和人の言葉。しかも、透明感のあるその声の主は・・・年端も行かぬ、美少女だった。
入り込んだ和人の子孫であろうか、体格のいい男衆の中で、一際その幼さと小ささ、儚げな容姿が目立ったが
凛としたその美声が醸し出す緊張感が、全ての村人を一挙に凍り付かせた。死の静寂の中、その視線が村人を薙ぎ払うと
次々と彼らの刃が降りて行く。最後に氷の視線は垂直に近い角度でおれの眼球を貫き、おれも愛鉈を雪に突き刺した。


少女は精緻な蝦夷文様の装束でその身を覆い、衿に縫い合わされた厚手の頭巾は、その額と眉までをも隠していた。
おれの胸にも満たぬ、小動物を思わせるようなその体躯・・・そして生白くふっくらとした唇が、おれの目を癒し
鈴の鳴るように涼やかな声で語られる、懐かしい故郷の言葉が、おれの心を溶かしてくれた。
眩しい程の白地に濃藍が染められた装束は大人の為の物なのか、余った裾は雪面に柔らかく波打ち拡がっている。
特に、膨らんだ袖の生地が裾以上に過剰に余り、その先端が今にも地に付きそうな所が、却って愛らしさを感じさせた。
そして、雪の積もった頭巾の奥からおれを鋭角に見上げる、大粒の宝石のような蒼い眼・・・これが最も印象的だった。
――綺麗だ・・・
魂を滾らせる、静謐なる美。熱い息で視界がこれ程に曇る事など、初めてだった。・・・おい、おれは何を考えている?
やがては孤独の中で死ぬおれには、どうせどうでもよい事だ。それより、この膠着した状況を何とかせねばなるまい。


大男が、雪に片膝を突いて少女に耳打ちする。少女は男を黙殺したまま、凍て付くような視線をおれの眼球へ注ぎ続けた。
この男が村を束ねているのだろう。体格ではおれに及ばないが、なかなかいい勝負だ。おれに似た太い首と精悍な眉が
村の長としての貫禄を醸し出す。獣と格闘したのだろうか、無数に傷痕の刻まれた顔が歴戦の猛者である事を示していた。
少女は無表情でおれを見据えたまま、立木を指さした。正確には、少女の袖が示したのだ。袖の内部は、決して見えない。
袖の先には、おれの長い腕でも片抱えにやや余る程の、犬槐の枯木が聳えていた。蝦夷に挑む山男ならば、知っている。
硬く朽ちにくい木質。彼らにとっての、この樹の用途・・・それは、墓標だ。おれは、命を試されている事を直感した。
ふん、面白え・・・!愛鉈を右手に取る。常人では両手で持ち上げる事も難しいだろう、刃渡り三尺三寸の業物だ。


「ぬうう・・・ぬぅんっ!!・・・ぬおおりゃあああっ!!!」
おれは大鉈を横薙ぎに振り抜く。これ程の死力を振り絞ったのは、冬眠を逃した若い羆、穴持たずに追われた時以来だ。
犬槐はおれの胸の高さで切り株になっていた。今度は両手で上段に構えると、十貫の鉄塊を轟く大絶叫と共に振り下ろす。
「イ、イメル・・・!」
男衆から、驚愕の声が上がる。おれの膂力は犬槐を根本まで真っ二つに引き裂き、凍った大地までも叩き割っていた。
暫しの乾いた静寂の後、顎髭の大男とおれは抱擁を交わし、歓声が巻き起こった。おれは客人として認められたのだ。


食宴の後で、古い言い伝えらしき話を聞いた。村のそばを流れる川だけは、渡ってはいけないのだと。
大男の話によれば、神域であるその川を侵せばたちまち死神が現れ、魂を奪ってしまうのだという。
だからこそ、その川と険しい山に囲まれたこの村に訪れる者は、誰一人としていなかったのだと・・・
少女を介して聞いた事だが、語りながらも、決して眼を合わせようとしない大男の様子が、死神の存在を確信させた。
川の「死神」・・・おれは、羆の事だと直感した。だが、冬眠から覚めるには明らかにまだ早い筈だ。
死神とやらが獣ではないとすると・・・その川は容易く人の命を奪う程の急流と水深を持つ、恐るべき難所なのだろう。



連志別川(一) 蒼い眼の少女


あれから十日余り、他の言葉は全くわからないが、おれに「イメル」という名が与えられた事だけはわかった。
少女に聞いた事では、それは「稲妻」を意味する言葉だという。裂かれたままの犬槐の木を見て、おれは頷いた。
付き合ってみればいい奴ばかりだ。気のいい大男と村の男衆に、おれ流の喧嘩相撲の稽古を付けたり
持って来た酒と村の酒を皆で飲み比べたり、腕っ節を活かして薪運びや鹿狩り、雪除けなどの力仕事に励んだりと
村の皆とも家族同然に打ち解け、思わぬ活動拠点が出来た。おれには立派な「チセ」というらしい家も与えられた。
なぜかこの村では、人よりチセの数の方が多かったのだ。重厚な造りのチセは、新たな我が家の安らぎをおれに与えた。
そして最もおれに北の地で生きる活力を齎したのは、少女の存在だ。思えばあの子がいたお陰で、今のおれがあるのだ。


だが・・・おれがここへ来た目的はあくまでも、未開の地の探索である。他の和人の足跡を辿る物見遊山では決してない。
誰も踏み込もうとさえせぬ山や川を誰よりも早く見出し名を付け、それを後の世に残す事こそが、おれの生きがいなのだ。
おれは親父の地図を広げて薪火にかざした。やはりそうだ・・・この川の向こうからが、白紙になっている・・・!


おれは次の日、食事を済ませた後、散歩に出ると少女に偽って、その恐ろしい川とやらの様子を見てくる事にした。
馬橇どうしが余裕を持ってすれ違える広さの「緑と緑の隙間」が、村から伸びている。しかし、人の往来は皆無の為
おれの肩まで積もった雪を掻き分け、踏み固め、それを「道」にする必要があった。借りた鉄鋤で柔らかな雪を掬っては
左右に聳える蝦夷松の森へ投げ捨てる。粉雪が煙る中、目標へ近づく度に熱く滾る高揚感が、おれに疲れを忘れさせた。
どうにか川までの一本道を切り開いた頃には、夕暮れになっていた。渡れそうな所は、たったの二箇所しかなかった。
村の高台から見えるほど近くに下流の渡り口、そして村から半里に余るほど離れた場所に、上流の渡り口がある。
下流には、橋を叩き壊した跡があった。村人に見つからぬよう川に挑むには、遠い上流から入る他にないだろう。
水嵩はせいぜい太腿程度、幅は大股で三十歩といったところか。おれも一応は測量士だ。見るだけで大方はわかる。
拍子抜けする程、余りにも穏やかな川だ。これならあの子ですら、歩いて渡れるだろう・・・「死神」とは、何なんだ?


「川・・・行ったのね」
少女が、言った。その蒼の瞳は、既におれの好奇心を見透かし、試していたのだ。おれに鋤を貸したのは、少女だった。
正確には少女の視線を受けて、大男が持って来たのだ。あの少女が見せた、大男を睨み付ける氷の眼光が忘れられない。


広い村だが、最低限の除雪はされている。散策に道具は不要だった。おれは思わず、少女の前に跪いて言葉を待った。
・・・まるでこれでは、母親に叱られる子供だ・・・「母」を知らぬおれは、その緊張に不思議な安らぎを感じていた。
少女は呆れたようなため息をつき、おれを見下ろすだけで、怒らなかった。おれは饒舌になって川の様子を正直に話した。
秘境の地の美少女と、同じ言葉で、同じ秘密を共有する。それだけで、おれの心は大いに癒されたのだ。
おれは知らないが・・・恐らくおれに「家族」がいれば、こういう暖かな気持ちが心に満たされるものなのだろう。
「死ぬよ」


ふ・・・「死ぬよ」、か。おれは、少女のこういう、素っ気無いような、涼やかで簡潔明瞭な喋り方も、好きだった。
あの子も、川の死神を信じているのだろう。今日はもう、やめにしておこう・・・おれは、与えられたチセへと戻った。


次の日、降り続いた雪が止み、日が照りつけてきた。おれは少女の言葉こそ気になったが、その川に挑む事を決意した。
水深はおれの膝の皿を覆いわずかに越す程度で、流れも止まったように遅い。まさに今日が最高の好機・・・!
危険を冒すからこそ、おれは冒険者なのだ。しかし・・・おれは、震えていた。決して、寒さからではない。
それは、未踏の地を侵す快感か、未知なる邪悪への恐怖か・・・おれは武者震いをおさめるため、川に用を足した。


さて、川だ。万一にも流されて溺れる事の無いよう、装備は整えてある。仕事の後の暇潰しも兼ねて、皮を剥いだ後の
白樺から二本の杖を削り出しておいた。先が鋭い三叉になっていて、川底の砂を噛む。槍としても充分に使える代物だ。
――やはり、大した事はないな・・・
おれは「死神」の脅威など忘れ、この流れの先でおれを待ち受けているだろう、未踏の神秘へと足を進めた。
親父を超える時が、ついにやってきたのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


連志別川(二) 未知なる邪悪


十三、十四・・・測量の癖で歩数を数えながら川の真ん中に差し掛かった時、突如として、異変がおれを襲った。
上流から猛吹雪が、一瞬の内に巻き起こったのだ。おれは反射的に背を向け、恐るべき冷気と暴風を背中でしのいだ。
体温が急激に奪われていくのが、わかる。両手の感覚が麻痺し、川底に突いていた杖が、下流に吸い込まれていく。
常人ならばこの冷温地獄に、既に心の臓を止められているだろう。生まれつき冷気に強いおれだからこそ耐え抜けたのだ。
その有様は、川というよりも・・・「滝」を水平にしたかのような、恐ろしい激流だった。冷気には何とか耐えても
流されれば、確実に・・・死ぬ!おれは、必死に両足を川底に踏ん張り、耐える他なかった。


吹雪が収まるまで、おれは、決して取り返しのつかぬ異変に気が付かなかった。足下の水が、凍り付いていた事に。
あの激流が幻であったかのように、川面は全くの水平を取り戻していた。「水面」が、「氷面」に替わった事を除けば。
もはや、左脚も右脚も、一寸も動かせない。硬い氷は両膝の関節を丸々飲み込み、おれの両脚を二本の棒と化していた。
氷面を両手で押して脚を抜こうにも、びくともしない。まるで、死神の操る地獄の亡者に魂を掴まれているかのようだ。
そして、凍った川の下流から、何者かが近づいてくる。まさか・・・羆か?おれの心までもが、凍り付いた。


おれは、その姿に魂を奪われた。それは野の獣ではなく、幼い少女だった。
未知の地で、未知の境遇で出会う、未知の少女の存在感に・・・足を凍らせながらもおれの脳は焼かれ、只々圧倒された。


驚いた事に、川も凍るこの寒さで、何も身に着けてはいない。その細い首筋も、臍も、脚も、剥き出しになっていた。
幼子だが、松前でも見た事のない、美人だ。ドキドキと不安を感じさせる程に白く、透明感のあるきめの細かい肌。
黄金色に輝く髪は濡れたような光沢を湛え、柔らかに波打ちながら肩に付くか付かないかの長さまで伸びていた。
脚は和人では考えられぬ程にすらりと伸び、その眩しい肢体の神秘は人間と言うよりも、精霊や天女の類を想起させた。
雪の彫刻の如く日の光を反射し、神々しいばかりの美を魅せつける少女の姿から、おれは一刻も目を離せなかった。


そして、氷の刃を思わせる蒼い眼とは裏腹に、その両拳のみを覆い隠す、鮮烈な真紅に煌めく色彩がおれの眼を撃った。
はち切れんばかりの内圧が、その磨き抜かれた革の表面を膨れ上がらせている。少女の細い手首に紐で厳重に固定された
「それら」は、寒手袋と言うには、余りにも肉厚すぎた。親指部分だけが独立した「それら」は少女に固く握り締められ
苦悶するかの如く皺を寄せ、二個の球に近かった。おれには禍々しく照り光るそれが、真に何なのかわからなかった。
わからないだけに、更に得体の知れぬ不安がおれの魂に突き刺さる。なぜ拳だけに・・・?何の目的で・・・?


斬り付けるような冷気の中、裸足で凍った川の真ん中を、一歩、また一歩と近づいて来る、日輪に光り輝く美少女。
脚が凍っていなくとも、おれは一人の男として、その場から少したりとも動けなかっただろう。
不思議と、吹雪を受けた背中どころか、今まさに氷に閉ざされている下肢にすら、おれは痛みを感じていなかった。
そして少女は、立ち止まった。おれの、目の前で・・・寒風に髪が艶かしく靡き、滑らかな純白の額が更に露わになる。


少女は小柄だが、氷の上に立っている。したがって結果的に、おれは僅かながら見下ろされた。
親父が消えてから、おれを見下ろす人間には一人も出会った事がない。おれの本能が、年端も行かぬ少女を恐れさせた。
――何を・・・何を、おれは、されてしまうんだ・・・?
身も凍る恐怖とは裏腹に、熱く煮え滾らんばかりの好奇心と興奮に、おれは包まれていた。



連志別川(二) 未知なる邪悪


「おしっこ、したわ」
少女は和人の言葉で、確かにそう言った。おれは、心の臓が口から飛び出そうになった。
更に、その氷の眼が、近づいてくる。後ずさる事も出来ず、仰け反ったおれは、更に鋭角に見下ろされる格好となった。
おれと少女の視線が斜めに交錯し、その直線の中点で、三度、爆発が起こった。乾いた破裂音に、おれの鼓膜が
そして魂までもが、戦慄した。張り詰めた真紅の拳は、おれの目の前でお互いを叩きのめし、淫靡に歪ませていた。
轟く破裂音とは裏腹に、柔らかそうに見えたその表面は、殆ど圧し潰れていない。脳裡に興奮が恐怖と共に増殖する。


「あなたがしてるの・・・ちゃんと見てたもの」
おれが否定の言葉を口にする暇も与えず、少女は一陣の疾風の如く飛び退き、見た事もない構えを取る。
半身から斜めに躰を傾け、赤く艶やかで禍々しい二つの拳を、顎の高さで構え、氷の上を風の如く舞い踊る。
こいつ、やる気か・・・!初めての人間相手の喧嘩が、こんな光り輝く美少女と・・・思考が、とても追い付かない。
格闘技・・・それも、一足でおれの間合いに飛び込んでその拳を叩き込んでくるだろう事は、わかる。だが・・・
それが「何なのか」が、わからない。無意識におれは両腕を広げ、己の唯一知る相撲の構えで対峙せざるを得なかった。
膝関節は完全に封印されて動かせない・・・殴りに来た腕を、取るしか、な、いっ・・・!?


「ぶうッ・・・!」
紅い小爆発と共に、鼻から勢い良く迸ったおれの鮮血が空中で凍結し、紅い水晶のようにキラキラと舞った。
疾すぎて、拳の出掛かりを眼で追う事すら出来なかった。いつの間にか、おれの視界が紅に閉ざされている。
おれは今まさに、美少女に、顔面を殴られたのだ。そして二の矢、右の拳は・・・おれの鼻先で、寸止めにされている。
強烈に降り注ぐ日輪が、その握り締められた右拳の光沢を、皺を、威容を、嫌という程におれの脳へと刻み付ける。
心の臓が、倍の激しさで暴れ狂う。おれには、その真紅の拳が視界を覆う二十拍余の間が、永久にも感じられた。


「ひゃあっ、あひっ・・・!」
潰れた鼻に押し付けられた拳。じんわりと鼻の奥に拡がる鈍痛と恐怖感に思わず、女のような悲鳴を上げてしまう。
少女が力を込めるごとに、軟骨が歪む異音と共に、弾力ある拳が自ら潰れながらおれの肉に食い込んでいくのがわかる。
溢れた涙が凍りゆく痛みと、躰を仰け反らせる燃えるような屈辱感、そして少女の美貌が、おれの脳に一挙に殺到する。
謎の吹雪、謎の凍結、謎の少女、謎の拳打、謎の激痛、謎の圧迫、謎の屈辱・・・
様々な謎の中、おれは己の骨肉を蹂躙しているこの赤く丸々とした拳当ての正体を探った。


自らの拳を痛めず人を打ちのめす為、何か詰め物をした、柔らかな革の籠手といったところか・・・
少なくとも、この弾力では「武器」とは言えまい。自らの拳を砕く躊躇を無くす為には、極めて有効なのだろうが・・・
おれは鼻を潰されながら、頚椎を軋ませつつも、必死に少女の姿を眼球筋で追った。
透明な氷の上に立つ細身の少女は、まるで空中を舞う妖精のようだった。妖精の眼は、おれを蔑み嗤っていた。
真っ赤なその拳が捻られ、鼻の軟骨をメチメチと音を立てて移動させる。鈍痛が脳を貫き、思考は恐怖に塗り潰された。


まさか、この子が・・・こんな可憐な美少女が、「死神」だとでも言うのか?
そんな、そんな筈は・・・



連志別川(二) 未知なる邪悪


少女は、突然に右拳を引き戻した。反動でおれは勢い良く前にのめり、ビチビチと飛び出した鼻血が氷面に
真っ赤な池を造り、瞬く間にそれは凍り付いた。少女は、真っ白な息を吐き苦しみに喘ぐおれの顎に左の兇器を当てがい
持ち上げると、おれですら痛みを感じる程に冷たく「透明な」吐息を鼻腔に吹き掛けながら、死神の笑みを笑った。
それは、稚児が虫けらをいたぶり苛め殺す時に見せる、人間的な良心の呵責の一切入らぬ、純粋な好奇心の笑み。
凍り付いた。顎を伝い氷柱と化すおれの鼻血だけではなく、おれの心までもが。
おれは顔を殴られる痛みと恐ろしさを、全く知らなかった。おれに殴り返されれば死ぬ事を、誰もが判っていたからだ。
間違いない。この少女は、これからおれの顔面を打ち据え、息の根が止まるまで殴る気だ。おれは・・・殺される!


おれの中で、自制し続けていた「何か」が弾けた。握り拳を作り、恐怖の絶叫と共に少女の整った顔めがけ突き出す。
少女の姿が瞬く間に遠くなり、急激に踏み込む勢いを利した左が迫り、おれの視界を赤に閉ざし日輪を見上げさせる。
その、鮮やかな打撃の後の先に見とれる暇もなく、左右の連打がおれの顔面を何度も芯から捉え縦横無尽に弾き飛ばす。
牛の革か・・・光を浴びてテラテラと艶めく拳、それが発する独特の香気に、おれはむせ返るようだった。
そして、その匂いにおれの鮮血の臭いが交じり合い、おぞましい破裂音と鈍痛と共に、次々に鼻腔に叩き込まれて行く。


屈辱に右腕を突き出せば、左の拳で叩き逸らされ、細い腰の捻りと後ろ足の蹴りを活かした右の真っ直ぐな拳が
がら空きの顔面に正面から激突し、鼻の骨と背骨が激しく軋み海老反りに噴き出した鮮血が寒空に弧を描き水晶と舞う。
今の返し撃ちは・・・効いた。そして・・・美しくすらあった。点々と返り血を浴びた美少女の像が二体に分裂する。
眼を擦ると、腕に付いた血糊に悲鳴を上げてしまう。少女の腕力は、その儚くも美しい容貌に見合ったか弱さしかない。
しかし、未知の技巧の鋭さと、一切躊躇いの無い幼さ故の残虐性が、おれを確実に死の淵へと追い詰めて行く。
これはもはや「喧嘩」ではない・・・言葉で表すとしたら・・・「処刑」、或いは「惨殺」・・・!


鼻の奥につぅんと拡がり脳を犯す激痛。おれは溢れ出す涙を隠すように蹲り、そして、見てしまった。
そうか、足、足の指だ・・・。こいつは、氷を足の指で「噛んで」やがる!
その伸びやかな後足で氷面を削り取る程に激しく蹴り、その爆裂の勢いを前足で急激に「噛み止める」事で
全身の速力に変換し、足腰の捻りと共に、その脅威をおれの顔面目掛けて叩き込んで来るのだ・・・!
間合いを開け、拳を垂れ下げ、薄ら笑みのまま垂直に跳ねる少女。ふさふさと揺れる髪からは清冽な香りが漂い
吐気を催す血潮の臭いと混じり合い、紅く膨らんだ両拳からはおれの鮮血が滴り真下の氷面を朱に染めていく。
少女の拳闘技は、拳のみの業ではない・・・真に恐るべきは、そのしなやかに伸びた「脚」なのだ・・・!


トン、トン・・・トン、トン・・・
華麗に空中を舞う少女の拳が、持ち上がった。その時を待つ。少女は着地と同時に、氷を蹴り踏み込んで来る筈だ。
今度はおれの鉄拳で、後の先を取ってやるのだ。一撃だ。おれの金剛力で一撃さえ入れられれば、それで、終わりだ。
そして少女の姿は、おれの視界から消え失せた。立ち竦み怯えるおれの顎が「真下」から勢い良く押し潰された。
左の、掬い打ち・・・少女の技巧に魅了される暇も無く、右の拳が視界の下半分を一瞬に覆い、激痛が追ってくる。
鼻が正面から、またも殴り潰された。無防備の顔面への一撃に、おれは引き付けを起こし、自らの鼻血を吸い、溺れた。
むせ返り、鼻と口からボタボタと溢れ垂れる鮮血を震える両手で受け止めると、たちまちおれの手の中で凍っていく。
それは、おれの魂が美少女の拳の舞いの前に、凍て付いて行く有様を表しているかのようだった。
こいつには・・・「死神」という言葉すら、生ぬるい・・・!もっと・・・もっと、邪悪な「何か」だ・・・!


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


連志別川(三) 加速する弾丸


未知の技巧は、熾烈な攻撃だけではなかった。少女は常に、おれの顔面を、その真紅の兇器の射程圏内に収めている。
逃げられない。おれは恐怖に駆られて、丸太のような腕を振り回す。だが、更なる挑発が、おれの魂を熱く弄んだ。
先刻から少女の足はその場より一歩たりとも、動いていないのだ。その上躰捌きの流麗さのみで、おれの努力を嘲笑い
無にする。いや、「無」ではない。紅い閃光が、六度瞬いた。左右左右左右の連打だ。ギラギラと輝く革の感触が
おれに眼球が弾け飛ぶ程の苦痛と混乱と屈辱と、名状しがたい渦巻く感情を、血の破裂音と共に爆裂させていく。


おれは空間を六度打ち、少女はおれを六度打った・・・おれは、狂乱の雄叫びと共に拳を少女の顔目掛けて突き出した。
その数、実に十二。十二発の紅い弾丸がおれの顔面を「滅多打ち」にした。だが今度の返し打ちは、今までとは違った。
おれの拳を「躱しながら」、少女の拳がおれの骨肉へと同時に叩き込まれて行く。まるで、おれ自身の金剛力がそのまま
少女の拳に乗り移り、おれの顔面へ叩き返されるかのようだ。流麗な動きの中であっても、全ての打撃は力強い脚捌きを
伴っておれの顔面を正確に捉え、確実に脳へ衝撃を蓄積させて行く。おれは打たれながらも、その格闘の芸術に酔った。
十三発目の、右の正面打ちが放心したおれを現世の地獄へ叩き戻すと、おれは両腕で顔面を守らざるを得なくなった。


少女は、くすくすと心底楽しそうに笑って再び距離を取る。その無邪気な様子は川に遊ぶ年頃の稚児、そのものだ。
おれの返り血を吸った波打つ金髪、広い額が日光を乱反射し、何とも形容し難い凄絶なる人外境の美を眼に焼き付ける。
艶かしく唇を歪め、右の拳を鞭のように振るうと、人を斬った刀の如く、川面に鮮やかな真紅の氷線が引かれる。
何という・・・何という、邪悪な笑顔なのか・・・!美しさが針を振り切り醜悪とさえ言える狂気の暴虐美がそこにはあった。
引き締まった臍、しなやかに伸びた脚・・・少女はおれの血を全身で吸い上げ、血化粧により更に美しさを増して行く。


己の鍛え抜かれた腕の中で、おれは顔を隠しながら、怯え切って泣いていた。こんな・・・年端も行かぬ・・・稚児に!
目が霞み、腕の僅かな隙間から覗く少女が、三人に分身している。まずい、さっきの返し打ちが「効いて」いる・・・!
医の心得もあるおれは、戦慄した。今度は眼ではない・・・おれの「脳」がいま、少女の拳撃により、犯されつつあるのだ。
だが、人間の脳がどの程度の打撃に耐えられるか、それを、おれは知らなかった。不安と恐怖が、絶望を呼び起こす。
一糸纏わぬ美少女による拳打ちは、再開されていた。まるで巨大なる血の雹が、無数に降り注ぐかのようだ。
おれの腕が、十貫の大鉈を片手で振り回す豪腕が腫れ上がり、無数に弾ける拳に骨が軋んでいく。


反撃を試みれば、その威力が正確に脳へと跳ね返される。脊髄を引き抜かれんばかりの恐怖が、涙すら凍り付かせた。
助けを呼ぼうにも、半里離れた村におれの悲鳴は届かず、村の人間ならこの川を恐れて近づかないに決まっている。
吐く息も凍る冷気の中、少女の凍て付く拳の雹にさらされ発熱したおれの上半身からは湯気が立ち上り始め
流麗な金髪を靡かせながら拳を叩き付ける少女は、薄赤い氷の絨毯の上で異国の舞いを踊っているようにさえ見えた。
狂気の少女は氷上で苦もなく宙を舞う。虚空に浮かぶような全身の躍動は、さながら神の輪舞だ。美しい・・・


おれの視界に、一気に血の赤が拡がった。しなやかな少女の格闘美がおれの脳を焼き、精神の緊張を一刹那だけ弛緩させ
鍛えられた腕と腕の間に発生した僅かな間隙に、少女のしなやかで細い腕、そして右の拳を割って入らせたのだ。
まるで、おれ自身が少女の拳を迎え入れているかの如きその無様さ、滑稽さは、幼く残酷な少女を大いに楽しませた。
メチメチと、おれは自らの鼻の軟骨を、玩ばれるに任せざるを得なかった。少女がその右拳を躰ごと捻り
抉り込むたび、激痛に両腕の機能が失われ、丸晒しになったおれの涙と絶望の表情が少女の嗜虐心に更に油を注ぐ。


圧迫の地獄から開放されたおれは、うなだれながらも、少女の、おれを再び見下ろすその好奇心に満ちた蒼い眼から
己の眼を逸らせずにいた。視線の中点で、またも三度の爆発が起こった。破裂音は、おれの命を吸い、湿っていた。



連志別川(三) 加速する弾丸


少女の艶やかな舞踏に、ついにおれは巻き込まれてしまった。誰にも止める事は出来ぬ、それは死出の舞踏だ。
一刹那のうちに、川の両岸、雲一つない青空、凍った川面、全ての元凶の少女が視界を上下左右に駆け巡る。
そして、溜めを作った右拳が微塵の良心の呵責も無くおれの眼球を抉り潰し、またも視界が縦横無尽に弾け飛び始める。
瞼も、頬も、顎も、鼻も・・・何発、どこを、打たれたのかさえも、わかりはしない。おれは少女の為の巻藁だった。
少女の責めはあらゆる角度から、あらゆる回転をもっておれの頭蓋と、歴戦の冒険者としての自尊心を吹き飛ばした。
脚捌きのたびに黄金の髪が波打ち、血塗れの額が見え隠れし、氷を蹴る音も異国の舞踏曲のようにおれの心を高鳴らせ
そしてその拳は容赦無くおれの顔面を抉り砕き、冷たく苛烈な現実世界へとおれの精神を引き戻した。


絶望に打ちひしがれれば、川面が朱に染まった鏡となり、おれの無様に蹂躙され尽くした顔を映し出す。
何という、何という醜さなのだ・・・!鼻は拉げ、両の瞼は腫れ上がり、唇は引き裂かれ、顎は歪み頬は・・・
突然に、美少女の紅い顔がおれの視界に現れた。おれは混乱した。少女に変身してしまったというのか?
いや、違う・・・!あの美少女が、何という事か・・・おれの顔を「真下」から覗いているのだ!
氷に背中で寝そべったまま、鮮血の滝をその整った顔で受けながら、少女は、逆さまに笑った。掌を振りながら・・・
間違いない・・・間違い、ないぞ・・・!こいつは・・・おれで、「遊んで」いるのだ・・・!!


おれは迸った殺意に最後の筋力を暴発させ、生き鹿の肉を削ぐ握力を誇る両手を、眼前の美少女の細い首へと伸ばした。
真下から「逆さまに」迫る拳が、見開いた眼球を軽快に弾いた。おれは天を仰ぎながらも、その挑発に更に狂気を滾らせ
全膂力で反動を付けた鋼の指先を振りかぶった。美少女が既に眼下に居らぬ事に気が付いた時には、もはや、遅かった。
膝関節の烈しい反発を活かした右の掬い打ちがおれの顎を狂おしく跳ね返し、反動で戻るおれの「顎先」を、捻りを加え
更なる狂威と美しさを得た左が、僅かに、しかし正確に、掠めた。日輪を浴び、拳を掲げ飛翔する美少女を見上げながら
おれは、おれの躰がおれ自身の脳の支配を離れ、完全なる少女の所有物、即ち「玩具」へと堕ちた瞬間を、感じていた。


ふわりと舞い降りた少女は、軽く左拳を突き、おれを直立させる。そして構えに戻ると右拳を舐め、氷の笑みを笑った。
身動き一つ出来ず玩具にされる未知の恐怖に、おれは喘いだ。何の前触れも無く、閃光の如く撃ち出された少女の左が
おれの鼻骨に幾十度と破裂し続ける。おれは、自らの頑強さを呪わざるを得なかった。鍛え抜かれた筋肉はおれの顔面を
再び少女の前へと投げ出し、更なる鋭さをもって弾き飛ばす遊戯を少女に見出させるに充分だった。遊戯は、加速した。


血の遊戯を更なる高みへ導いたのは、少女得意の、右の正面突きだった。それは、最高の速力でおれの鼻骨に炸裂した。
背後のまだ辛うじて透明さを保っている氷に映し出された、おれのあられもない絶望の表情が急速に近づき、そして
ついには、激突した。新たな冷たい激痛がおれの顔面を襲う。同時に、邪悪に満ちた純粋な好奇心が、少女に芽生えた。


もはや、後は同じ事の繰り返しだった。
一度反動が付けば、もう、止まりはしない。おれは、最期の賭けに無様にも敗れ去った事を、理解せざるを得なかった。
おれの背筋と腹筋と頭蓋と脳と命は、全て少女の所有物、玩具として、その硬い右の拳と、背後の硬く凍った川面の間を
往復していた。この期に及んでも少女の拳打は、その流麗にして堅固なる脚捌きを忘れてはいない。
打撃の破裂音と氷への激突音がおれの魂に直接交互に響き、しかも、その間隔が徐々に、しかし確実に狭まっていく。
朱に染まる太刀の如く空間を斬り裂き噴霧された鮮血が空中で凍て付き、ハラハラと雪の如く舞い、川面に降り注いだ。
おれは川面に顔面から激突し意識を失っては跳ね返り、鼻梁に容赦無く右拳を撃ち込まれては意識を取り戻させられた。
確実に狭まる正気と狂気の狭間で、少女の右拳の軌道が徐々に変わりゆく事に気づく。
爆発的な後脚の蹴りと共に、肩と肘を捻り入れる少女。真紅の拳が破壊の螺旋と化し、美しくも激しくおれの魂を砕く。
洗練されゆく少女の拳打に興奮するかのように、凍った川面はおれを更に激しく撃ち返し、少女の拳が顔面へ炸裂する。
それはおおよそ人間の所業とは思えぬ、閻魔ですら正視出来ぬ程の、阿鼻叫喚を極める光景だった。



連志別川(三) 加速する弾丸


徐々に眼界が暗くなり、血の味と匂いが消え、耳鳴りが止み、意識が戻りにくくなっていくのが、わかる。
人間、死ぬときというのは、こういう気分がするものなのだろうか。無論、悔しかった。身震いする程の、屈辱だった。
だが何故か、そんなに悪い気は、しなかった。おれはいつか、冒険の中で、孤独に死ぬ定めにあったのだろう。
その日が、偶然、今日だった・・・ただ、それだけだ。羆に食われるくらいならば、いっそこの美少女の拳で・・・


少女の顔が、すぐ間近にある。冷たく透明な吐息が潰れた鼻に当たるのが、心地良い。
おれの腫れ上がった両頬に、ふっくらとしたあの真紅の拳が、あてがわれている。皮膚の感覚が、薄く戻ってくる。
そして少女の顔が近づき、鼻に、ふっと稲妻が走った。少女の桃色の唇は、おれの鼻血でどす黒く染まっていた。
その瞬間、全身からあらゆる熱が奪われ、心音が、そして「時」が、止まった。背を向け、下流へと歩き始める少女。
凍て付く桃色の雷撃は全身を駆け巡り、止まった時と鼓動が倍の激しさで動き出す。おれは硬直したまま立ち尽くした。


おれは、許されたのだ。小さくなってゆく少女は、まるで寒空へ消えて行く悪戯な冬の精霊のようだった。
しかし、おれは・・・もう、わからなくなっていた。少女が振り返ってくれる事を、今となっては心のどこかで
期待していたのかもしれなかった。もはや限界をとうに超えていたおれは、意識を閉じ、旅立とうとした。


それは、許されなかった。見えなくなった少女が、近づいて来る。それも、人間の限界を超えた異常な速度で。
何という事か・・・少女は氷の上を裸足で滑走しているのだ。まさに今、少女は一弾の弾丸だった。
おれは今、射殺される重罪人と何ら変わらなかった。いや、それよりも、現実は冷酷で非情だった。


その弾丸は、「意志」を持って、「加速」していたのだ。
少女が散々おれに魅せつけた、右脚の爆発的な蹴りが幾十重にも重ねられ、少女は光を纏った流星だった。
おれは、深く深く、後悔した。一瞬でも少女に「許された」と思ってしまった事を。
そして、倒錯と狂気に溢れた「期待」を抱いてしまった事にも。何故・・・何故だ・・・?


少女はおれの魂の歪みから生じた、激痛と屈辱と興奮に満ちた「期待」に、最高にして最期の破壊をもって応えた。
銃弾の如き速度で迫り来る少女、そして、目の前に紅い氷霧が立ち上る。踏み込んだ少女の左足がその速力を
一瞬にして噛み止め、足下の血氷が削り取られ舞い上がったのだ。その速力は、微塵の損失も無く右の兇器へと伝わる。
狂烈なる加速に銃弾の捻りを加えた艶めく右拳がおれの頭蓋に真正面からめり込み、全ての骨肉を圧し潰し砕き尽くす。
それは、決して人間へ、生きとし生ける全てのものへ向けてはならぬ、禁断の一撃だった。


幾十度も蹂躙され続けた川面の氷は、ついに開放された少女の狂気に耐え切れなかった。
川面は大亀裂と共におれの顔面を杭の如くめり込ませ、凍て付いた川に、おれの肉体による橋が「水平に」渡された。
そして・・・そして、おれは・・・なにも、わからなくなった。

投稿SS6・睡蓮

睡蓮(1) 現在


「あっ、ちわーっス・・・うわッ!!・・・しゅ、主将っ!?・・・そ、その顔はどうしたんスか一体・・・?」
 この週末を経ての男の相好、その豹変ぶりは、部室内に充満する拳士達の闘志を一挙に凍り付かせるに十分であった。
男の発散する弛緩し切った妖気に、誰もが道を空ける。不規則に進むその足取りは、まるで夢遊病者のそれであった。
男はスツールに崩れ落ちる様に腰掛けると、何処へとも無く血走った視線を彷徨わせつつ、つぶやくようにいった。


「ハハッ、ちょっとな。大した事ない・・・いいから続けてくれ。・・・お前らの練習っぷりを見に来てやったんだからな」
 部員思いの男である。懸命に造られた言葉面こそ明るかったが、内容は全てが嘘であった。その証拠に言葉の最中も
未だに痛々しくも絆創膏が無数に貼られている男の両の眼は、ある人物を探して部室内をせわしなく嘗め回していた。
男の試行は徒労に終わった。やがて、眼球を動かす事も億劫になったのか、男はそのままうずくまり、泥の様に眠った。


 週末、総合病院の救急外来に搬送され戻った男を待ち受けていたものは、おぞましくも甘美なる悪夢の連続であった。
――あはは・・・くすくす・・・
 少女の透き通る様な明るい笑い声。侮蔑と優越感に満ち満ちた、脳髄に直接絡み付く様な嘲笑。
――バンッ!!!
 目の前で打ち鳴らされる、10ozのアマチュア競技用ボクシンググローブ。爆裂音。鼻が拉げ軟骨が潰される異音。
――先輩のお鼻の童貞、わたしが奪ってあげますね
 ディフェンスでは誰にも負けない自信があった。鼻血なんか出したことも、なかった。
――ほらほらほら、これが先輩の鼻血ですよ。可愛い後輩のパンチで顔面を犯される気分はどうですか?ふふ・・・
 ナックルの潔白を汚す、無数の血痕。止め処なく零れ落ちる男の涙、鮮血、自尊心、存在意義、自己同一性・・・
――弱いんですね・・・がっかりしました
 弱い・・・弱い。俺は弱い。弱い弱い弱い弱い弱いッ!!!!俺は弱い俺は弱い俺は・・・俺は・・・!!!!



睡蓮(1) 現在


 夢の少女は、昼夜を問わず舞い降りては男の睡眠時間を悉く奪い去り、男の五感をじわじわと犯し尽くしていった。
すべてが、男の狂った妄想であった。男は、自身の破滅的妄想世界の中での藍川ちはるを創造し、自らを壊したのだ。


 もう何回目の入眠になるだろうか。男は跨る少女の柔らかな身体の重み、体温までを幻触として感じるまでになっていた。
少女は男の鼻梁にその拳を躊躇いなく振り下ろした。グチュウ、という嫌な幻聴が男の鼓膜を突き抜け脳を直接犯す。
鼻腔内を瞬時に満たす鉄錆じみた幻嗅。少女はそのまま、振り下ろした拳にじっくりと体重を掛け男を責め苛む。
醜く潰れゆく男の鼻梁。行き場を失った男の鮮血は口腔内に次々と流れ込み屈辱感そのものの幻味が嘔吐感をもたらす。
鼻のみならず脊髄までも貫く激痛に耐えかね、生きたまま串刺しにされた昆虫標本の如く全身でもがき足掻く男。
少女は男の無様な狂乱を拳で、その全身で堪能すると拳を引き抜くのだ。
ニチャァ・・・
 10ozの張り詰めたナックルパートと男の鼻が一瞬だけ粘ついた紅の糸で繋がれ、浮揚していく少女の拳。
少女は拳を止め、男にその惨たらしい破裂模様をまざまざと見せ付ける。たっぷりと男の血を吸った
マチュア用グローブは時と共にその鮮血の模様を変え、グローブを掲げる美少女の顔は残酷な薄ら笑みに歪んでいた。
その幻視は、辛うじて繋ぎ止められていた男の最後の精神の糸をまさに断ち切らんとし――


「うおおあああぁッ!!!!!」
 目が覚める。これが男の週末の全てであった。しかし、男は悪夢から覚めるたび自らのトランクスが汚れている
その原因は無意識にも探ろうとはしなかった。それを探求する事だけは、何としても避けねばならなかったのだ。
男は、悪夢から覚めるたびにいつもそうしている様に、去る金曜のあの大衝撃へと虚ろな思考を彷徨わせていった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


睡蓮(2) 過去


「おぉ・・・」
 ふたり以外誰も居ない部室に、男の嘆息が響く。拳闘具を身にまとった藍川ちはるは、ひたすらに、美しかった。
少女の持つあどけないボーイッシュな愛らしさをそのままに保ちつつ、ボクサーとしての凛々しい優雅さを
演出している艶のある黒のヘッドギア。剥き出しにされているきめの細かい肌質、しなやかな二の腕がまぶしい
エメラルドグリーンとホワイトのツートンに染められたジャージ。そして、その小さな、花の蕾の如き両の拳を包む
冷たく硬い10oz、アマチュア競技用の赤いボクシンググローブ・・・


「えへへ・・・どうです?似合ってます?先輩」
「えっ?あっ、ああ・・・もう、もう完璧だよ。俺にはもう、ちはるちゃんがボクサーにしか見えないぜ」
 少女の肢体から放たれた瑞々しき健康美は、男の脳裏から「ここは闘いのリングである」という至極当然の前提までも
失わせるに十分すぎた。男も、少女に合わせて慌てて10ozのアマチュア用グローブを装着した。


「あの・・・先輩、ヘッドギアは付けなくていいんですか」
 口にしてから、少女は「あっ」と両のグローブで己の口を塞いだ。可憐な仕草に両の10ozが圧縮され淫靡にも歪んだ。
何気ない一言だった。しかし、この言葉ひとつから、男の精神の平衡感覚は失われていったのかも知れない。
男は、ディフェンスには特段の自信があり、公式戦でダウンはおろか一滴の鼻血も流したことはなかったのである。


「・・・俺はいらない。さあ、やろう。ちはるちゃん」
 厳しい口調だった。無論それは、己の卓越した防御技術を少女に見せ付けてやろうという自己顕示欲もあったのではある。
しかしそれ以上に、眼前の美少女拳闘士・藍川ちはるが、男との正々堂々たる「試合」を望んでいる・・・
ふたりを栄光の勝者と無様な敗者に分かつ事を望んでいる、言い換えれば己をその10ozで完膚なきまでに叩きのめし
リングに這わせる為に目の前に立っている、その乾いた事実をその言葉から、その真摯な眼差しから感じたからであった。



睡蓮(2) 過去


「はい、それじゃ、行きます!」
「よし!どっからでもかかって・・・」
 セカンドロープを掴んで反動を付けてスツールから立ち上がった男。しかし、その男が最初に目にした物は
可愛い後輩のファイティングポーズではなく、既に己の顔面に肉薄していた張り詰めた左の10ozのナックルであった。


「うぉっ!!」
 咄嗟に少女の左ジャブを右手でインサイドにパリーする。左頬に10ozが掠ったのか、灼けるような痛みが脳を焦がす。
左ジャブとはいえ、その一撃のスピード、威力は想像を遥かに超えるものだった。男の体内温度が一気に上がっていく。
男の右拳が自身の眼前を一瞬塞ぎ視界が開けると、硬く握り締められた藍川ちはるの右が男の鼻梁目掛けて迫っていた。
「うわっあっ!?」
 男はわけもわからず、顎に添えていた己の左掌を鼻の前に構えブロックした。パリーにより体勢は崩れていたが
その威力に全身が一瞬浮き、左掌の感覚が一瞬に消え失せ背中が激しくコーナーへと叩きつけられる。むせ返る男。
そして、少女の左ジャブが男の左掌をしたたかに叩き付け10ozの甲を顔面に激突させる。


 男が少女に教えたパンチ、それは顔面への左ジャブと右ストレート、ただそれだけである。
しかし、少女の持つ天性のスピード、スタミナと拳闘への情熱は、そのラッシュを恐るべき凶器へと変えてしまっていた。
 男は右腕を顔面の左に投げ出し、その上に左腕を被せ左手一つで顔面をガードする、無様で異常な姿勢のまま
少女の連打に晒されていた。60兆の細胞が未曾有の恐怖に震え、硬直し、氷の様に冷たい汗が全身の汗腺から迸った。


「えいっ!えいっ!えいっ!!」
「ひっ、あわっ、わひぃっ」
 爆裂音と共に男の鼓膜を震わせる少女の懸命な、しかし甘い声。少女は、物言わぬサンドバッグを殴り潰すかの如く
男の構えた左腕のガードへ、己のボクシング技術の全て――ワンツウをただひたすらに叩き込んでいった。



睡蓮(2) 過去


「うッ、うッ、うううッおおおッ・・・!!」
 男の精神状態はもはや、未経験の域に入っていた。止まらぬ少女の連打に合わせ、背中は激しくコーナーマットを
何度も何度も強打し、グローブ一枚を隔てて顔面に吸収される衝撃は脳を小刻みに震わせ嘔吐感が男を襲った。
――俺は、俺はなにをやっているんだ。なんでちはるちゃんに、殴られてんだ・・・


 男の意識が飛びかけたその瞬間、悲しむべき破綻が始まった。男の取り続けた異様なるガード姿勢と少女のパンチは
男の両下腕を苛み続け、ついには骨と骨、靭帯と靭帯とがヤスリで削られる様に擦れ合い、限界を迎えてしまったのだ。
「ギャッ」
 脊髄反射の防御反応により、男の両腕は無情にも垂れ下がり、ボクサーには到底見えぬ形の良い鼻梁は剥き出しとなった。
しかし、少女の拳は、止まりはしなかった。


「あひっ・・・ブッ!!」
 試合開始から1分50秒、最初のクリーンヒットは藍川ちはるの左ジャブだった。
インパクトの瞬間幅広のナックルは男の鼻梁を完全に包み込み、爽快な破裂音と共にその頭蓋をリング外に弾き飛ばした。
そして、男の頭部が戻ってくるタイミングを見計らったかの如く、少女の張り詰めた右のボクシンググローブが
男の鼻面に激突した。男は、機能を失った両腕の痛みも忘れ、美少女のパンチが己の鼻を叩き潰す激痛と屈辱に喘いだ。
 男は、高校ボクシングの選手生活において、今までこれ程までに綺麗に顔面にクリーンヒットを貰った経験は、無かった。
それも、こんな美少女の後輩に。こんなか細く、やわらかな腕から繰り出されるパンチに。
 本来、守ってあげなくてはならない、か弱い存在に・・・


 異常事態に過剰に分泌された脳内麻薬は、電気のブレーカーを落としたかの如く男の痛覚を一時的にではあるが遮断した。
男は、まっすぐで懸命な表情で己の鼻面をパンチで滅多打ちにする少女の姿を、どこか他人事のように見やりながら
顔面の内部に込み上げてきた生臭いどろりとしたものの正体を、探っていた。



睡蓮(2) 過去


 ふと、少女の連打が止んだ。
ピピピピピピピピ・・・・・・
 ゴング代わりに鳴り響くアラームの音。今まさに、1ラウンドが終了したのだ。


 少女は、脱力し前のめりに崩れ落ちる男を慌てて抱き止めた。
「ハァッハァ・・・あっ・・・!鼻血、出てる・・・!!だっ、大丈夫ですかっ・・・!?」
 少女に膝枕される男、その視界の先には、先程まで己の顔面を陵辱し続けた10ozのアマチュア用グローブがあった。
連打の最中、溢れる鼻血を吸ったのであろう。右のグローブには4箇所、左のグローブには3箇所に
真新しい鮮血の痕が、まるで白いキャンバスに真紅の絵の具をボタボタと垂らしたかの如く炸裂していた。


――お、俺の・・・ち・・・血・・・鼻血・・・!?
「わおおおおおおおおっ!!!うううっ、ぎゃああおおおおおーーーーっ!!!!」
 男の思考と視覚が一つの糸で繋がったその瞬間、脳内麻薬によって辛うじて抑制されていた全ての激痛と激情とが
一気に開放され神経に流れ込み、芋虫の如くのた打ち回り狼の様に咆哮した男はそのままリングの外に転げ落ちた。


「わあああっ!!せ、先輩ッ!!・・・先輩・・・!?」
「うおあああっ・・・!!ゲホッ、ゲホッ・・・ハァ、ハァッ・・・ちはるちゃん、もう一ラウンドだっ・・・!」
 上腕の力だけでリングを這い登ってきた男。鍛えられた上半身には珠の汗が浮かび、両腕は真紫に変色していた。
膝が、両膝が震えている。少女の滅多打ちは、公式戦ならば確実にレフェリーが止めている程の壮絶さであった。
ポタ、ポタと顎から鼻血をキャンバスに垂らしながらの、臓腑を搾り出す様な男の言葉に少女は無言で頷いた。


バシィ!!
 少女はグローブの血痕をジャージで拭き取ると、目の前で高らかに打ち鳴らした。
「わかりました。先輩。・・・お互い、全力を尽くしましょう」
 藍川ちはる、その口許は10ozの肉質に隠され・・・男からはついに見える事は、なかった。



睡蓮(2) 過去


 そこからの有様はボクシングとはとても呼べるものではなく、もはや純然たる暴力の行使に他ならなかった。
自慢のフットワークも、腕裁きによるパリイングも奪われた男には、もはや少女のパンチに対抗する術はなかった。


 ゾンビの如く少女へとにじり寄る男。少女は微塵の躊躇も無く、恐怖に引き攣る男の顔面目掛け右を撃ち抜いた。
「うっ、うあっ・・・うひぃぃぃっぐぶぅぅっ!!!」
 太い血管が千切れたのだろうか。右の10ozが男の鼻柱に着弾した直後、衝撃の爆心地からは無数の鮮血がまさに
爆裂飛散し、降りかかる返り血は少女の端整な顔立ちに血化粧を施した。男は鼻血の帯を空中に残しつつ後頭部から
リングに墜落し、死骸の如くバウンドした後、うつ伏せに沈黙した。ひたすらに重く鋭い、凄絶なる一撃であった。


「ワーン、ツー、スリー・・・」
 カウントが進む。当然、レフェリー不在のため少女が自ら進めるのである。男の脳機能は少女のパンチにより異常を来し
両脚は無慙にも痙攣を起こしていた。しかし、そのカウントを取る少女の右拳に付着した、己のどす黒い血液が眼前に
突きつけられると、男の肉体は自らの意思に反し、敗北を避けるべく少女へと対峙してしまうのであった。
カウントは、5で止まった。試合は、再開されざるを得なかった。


 立ち上がるや否や、少女の速射砲の様な左ジャブが男を襲う。2発、3発、・・・全てがスナッピーに男の鼻梁を撃ち上げ
破裂音と共に鮮血が雨と飛び散り、男はダウンもままならず後退していく。8発の鋭い左ジャブを経て、男の意識レベルは
再び危険域に入り、背中は再び青コーナーに達していた。残酷にも更に5発の左ジャブが男のダウンを阻むべく加えられる。
眩む意識の中、男が最後に見たものは、視界を完全に覆い尽くす、己の血で紅く汚れた右のナックルパートであった。


「・・・先輩、これでKOです・・・!!わたしの全力のパンチ・・・受け取って下さい!!」
 男は、自らの鼻の骨が砕ける響きを聞く事は、ついになかった。迫り来るパンチの恐怖に、繋ぎ止めていた理性の糸が
ついに切れてしまったのだ。リングの上に残されたものは、全身を律動させリング外に向けてスプリンクラーの如き
暴威で鮮血を噴霧し続ける、かつて天才アウトボクサーと称えられた男の残骸、ただそれだけであった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


睡蓮(3) 再び現在


「よしっ、今日も掃除終わった終わったと・・・おい、主将は・・・」
「全く、いつまで寝てる気だよ・・・。起こしてもマズイだろうしカギは主将が持ってるから、このまま帰ろうぜ」
「そうだな・・・そのうち起きるだろ。あーあ、ホントにどうしたんだろうな主将・・・」


 夜の運動部棟。部室から漏れる明かりも時と共に一つまた一つと消え、ボクシング部ひとつを残すのみとなっていた。
今朝までの甘苦い悪夢の連続が嘘のように、男は深く入眠していた。青春の全てを捧げて来た部室。その独特の匂いや
使い慣れたスツールの感触が、男にかつての栄光ある日々を思い出させていたのだろうか。
 

 しかし、目を覚ました男の眼前に立っていた人物、それは、かつて男の自尊心をその両の拳で完膚なきまでに叩き潰し
男を悪夢と狂気の世界に住まわせしめた少女ボクサー、藍川ちはるその人であった。
 男は、反射的に両腕を上げて顔面を庇おうとした。が、力が入らない。男の両腕の損傷は皮膚、筋肉、靭帯のみならず
骨と神経にまで達しており、後日精密検査を受けねばならぬ程、それは深刻なものだったのだ。男は全てを諦め固く
歯を食い縛り、眼をつむった。ボクサーの命である眼を閉じる事、それは己の敗北を完全に認める事に他ならなかった。


 だが、少女の拳は動かなかった。ふたりの狭間に、水を打ったような静寂、緊張感に満ち満ちた無音の空間が生まれる。
沈黙を破ったのは、少女の悲痛な声だった。その独白は、腸を自ら引きずり出す様な苦悩と悲壮感に満ちていた。


「わたし、わたし・・・!!先輩とあの試合をしてから・・・うぅっ・・・なんだかっ、おかしくなっちゃってっ・・・!」
 少女の煌く浅いブルーの瞳から宝石の粒の如く涙が溢れ、フローリング張りの床に一粒また一粒と、飛沫となって弾けた。


 堰を切った様に溢れ出す熱い涙。男は、泣き崩れる美少女に、その鍛えられた胸を差し出す事で応えた。
少女の柔らかな胸と、男の岩盤の如く堅牢な胸。両者が密着し、お互いの激情が体温と共に狂おしくも優しく交錯した。



睡蓮(3) 再び現在


「わかった・・・ちはるちゃん。・・・やろう。・・・俺達はもう、戻れないんだから」
 男は、少女の苛烈なる独白を全て受け容れた。そして現在、ふたりは再びリングの上で相対していた。


「はい。・・・わたしの全ての気持ちを、先輩に・・・ぶつけます・・・!!」
 男は両腕こそ使えなかったが、そのフットワークと上半身の柔軟さによるディフェンスは全盛期そのものだった。
まるでリングの上を縦横無尽に滑走する様な華麗な動き。無人の運動部棟全体に、二対のリングシューズの擦過音が
響き渡り続けた。少女の華奢な両腕から繰り出されるストレートパンチの重さ、針の孔を通す様な打撃点の正確さは
男も思い知っている。――捕まれば、KOや骨折だけでは、済まない――冷厳たる事実が、男の全身を更に躍動させる。


「シッ!シュッ!」
 鋭く連続する呼気音と共に、美少女の左ジャブのスピードも、男の顔面を捉えるべく異様なまでに亢進していく。
紙一重でかわす男の両頬が拳圧で裂け、血が滲み始めた。恐らく、勝負は一撃でつくだろう。少女に一撃でも許せば
鼻を冷たく硬い10ozが数十発と撃ち上げ叩き潰し、そして――男の脳裏に、おぞましき漢字一文字が浮かんでは消えた。


「ふ・・・ふふ・・・!!」
「あは・・・あははっ・・・!!」
 やがて、その攻防はもはや視認する事さえ難しい程に高速化していた。ふたりの口から同時に、激情に引き攣った
爆笑が漏れ出す。もはや、全ての打撃が、全てのジャブが全てのストレートが、全力、いや少女自身の限界値をも
超えた一撃必殺の威力にまで研ぎ澄まされていた。ふたりの全身から、真っ白な湯気が闘気の如く立ち上ってゆく。


――すごい、ちはるちゃん・・・!!これが当たったら、もしこれが、俺の鼻に決まったら・・・!?
――すごい、わたしのパンチ・・・!!先輩の骨折してる鼻にこれが、これが決まったら・・・!?


 先の試合を経て、二人の内奥に時を同じくして芽生えた破滅的な好奇心。その矛先は、悲しいまでに一致していた。
やがて、フットワークによる擦過音が鳴り止むと、代わりに恐るべき殺人的威力を秘めた狂気の弾丸が風を斬る音が
空間を支配し始め、男の喉から漏れ出す、言葉にならぬ恐怖と絶望の喘ぎと共に地上の地獄を満たしていった。



睡蓮(3) 再び現在


「あふぁっ!おひゅうっ!ひっうぁっ!」
「シッ!!シッ!!シシュッ!!ふっ!!」
 両者の情念の闘いは、ついに最終局面を迎えようとしていた。追う少女と追われる男。当初は拮抗していた両者の
実力だったが、ついにそのバランスが、崩れようとしているのだ。その先には、凄惨なる終末が待つばかりである。
ギ、シ・・・
 男の背中に、氷の様に冷たいロープの感触が伝わる。もはや、退路は断たれたのだ。唸りを上げて迫る死の弾丸。
男の防衛本能は、真後ろに上体を反らしてその直撃を避けようとした。しかし、硬いロープに背骨が深く食い込み
回避の動きが、僅かに、ほんの僅かだけ小さくなった。ついに、男の砕けた鼻を、少女の左の10ozが浅くヒットする。
「ギャあぶぅッ」
 激痛に男の動きが石化したその瞬間、男と少女の脳幹に同ボルテージの電撃が駆け抜ける。既に極限にまで
引き絞られていた少女の右の10ozは、完全に無防備となった男の鼻梁目掛け、哀しいまでに加速していった。


・・・グッシャァッ!!
 脚、膝、腰、肩、肘、手首・・・全ての関節、筋肉、腱の力を100%発揮し、強く、硬く握り締められた
少女の右のボクシンググローブは、インパクトの瞬間、完全にそのナックルを男の顔面組織内に埋め込んだ。
そして、崩壊が始まった。10ozの白いナックル表皮には、恐るべき暴威で男の鼻腔内より噴出する鮮血が叩き付け
臨界点を超えて高められた暴圧は男の口のみならず眼、耳からも鮮血を噴出させ、顔面全体を犯し尽くしせしめた。


 やや斜め下から鼻面を叩き潰された男、その両の踵は宙に浮き、万歳をする形でリング外へ向けて全身が発射される。
ぶぅっしゅぅぅーーーっ・・・しゃぁーーーっ・・・ビチビチビチィッ・・・バヂャッバチャ・・・!!
男の全体重を支え激しくたわむロープ上、鼻腔から垂直に迸った男の鮮血は廃空間の一切を死臭に閉ざし
燃え上がる激痛と屈辱の狂焔は中枢神経の安全装置を焼き切った。白目を剥き股間からは小便を垂れ流す男の狂態。
 しかし、それを目の当たりにしてもなお少女は、未だにおぞましき痺れを残す右拳に付着した男の鮮血を舐め取ると
薄桃色の唇を真一文字に結ぶのだ。小さくか細い喉が、ごくり、と鳴った。



睡蓮(3) 再び現在


 10秒余りに及ぶ鮮血の大噴霧を終え、男の上半身は髪も胸も、ボクサーとは到底思えないほど整っていた顔面も
自ら噴出した鼻血により地獄色に染め上げていた。うつ伏せに倒れんとする男、しかし、破壊はまだ終わらない。


「す、ごい・・・」
 少女は上気した唇でうわ言の様につぶやくと、緩慢に前傾する男の、既に人間としての原型すら留めていない
鼻梁を右ジャブで軽く受け止める様に突き上げた。ビクン、と男の全身が痙攣し、意識が戻ってしまう。
ゴボゴボと血の泡を吹き、陰惨な水音も憚らずグローブと顔面の僅かの隙間の酸素を求めて足掻く男。
しかし、その眼だけは、死んではいなかった。交錯する男と少女の視線と視線。沈黙と沈黙。心と心。そして――


バァンッ!!
 視線を合わせたまま少女は右の拳を静かに離すと、両の拳を叩き合わせた。両拳の狭間で鮮血模様は
ロールシャッハ・テストの如く複雑怪奇に乱舞した。ふたりの口許が、淫らにも歪んだ。笑って、いるのだ。


 少女の、そして男にとっての、最期のラッシュが始まった。
少女は左ジャブにより男を突き放すと、ロープの弾性により勢い良く跳ね返る男の鼻面、既に内部の骨は無残にも
砕けているその鼻を、またも躊躇いなく右ストレートで撃ち上げた。そして、更に勢いを増して再発射される
男の、滅茶苦茶に砕き尽くされた鼻面にその左拳を撃ち込み押し潰すのだ。もう後は、その繰り返しだった。
「「・・・!!・・・!!・・・!!・・・!!・・・!!・・・!!・・・・・・!!!!」」
 ふたりの唯一の接点である冷たく硬い10ozと顔面肉の狭間から漏れ出ずるもの、それは、どす黒い男の血と肉の
混合物だけではなかった。ふたりの声無き声、渦巻く激情そのものが爆裂音と共に廃空間を激震せしめ続ける。


 ダウンも許されず、再び少女拳闘士に蹂躙される男。しかし、間欠泉の如く血を吹き上げながら死のダンスを踊る
男の表情には、もう迷いは無かった。男は、脳を直接焼かれる様な破滅的激痛の中で、真に己が求めていたものの
正体を掴む事が出来たのだ。そして、それはかの少女も同じだった。かつて湧き上がり心の中に封じ込めておいた
どす黒くも純粋な欲求、憧れの人の顔面肉をもってそれを開放した事で、少女は己が本当に必要としていたものと
本当の自分の気持ちを、ついに掴む事が出来たのだ。



睡蓮(3) 再び現在


 吹き上がる鮮血、飛び散る汗、立ち上る死臭・・・少女は、男の全身から一切の反応が消え失せた事を確認すると
血塗られたふたりの邂逅に自ら終止符を打つべく、一陣の風の如くバックステップした。


――おっ、ヒネリが効いてるなあ。素人なのになかなかやるじゃない。こりゃ、二軍じゃ返り討ちに遭うかもな!
――えっ、そ、そんな先輩・・・買いかぶりすぎです・・・でも、ありがとうございます・・・
 最期の一撃は、少女の全ての激情を集約した右のストレートであった。愛する先輩が初めて褒めてくれた己の右。
少女の純粋な想いは強烈な腕、肘、手首の捻りと化して銃弾の如くナックルパートを回転させ、ベキバキという
異音と共に鼻、歯、顎、頬、眼窩底、あらゆる男の顔面骨と筋肉組織を巻き込み臓器もろとも血肉の塊へと化した。
少女の全てを受け容れた男はその場で仁王立ちとなると、全身をビクンビクンと二度律動させた後、顔面から墜落した。


 幾層にも男の鮮血が螺旋状に染み込んだ少女のアマチュア用10oz。そのナックルパートは、もはや完全に真紅に
閉ざされていた。少女は動かなくなった男を抱き起こすと自らの膝にその身を横たえ、自らの恐るべきパンチにより
原型を留めぬまでに叩き潰したその鼻に、ほんのりと返り血に染まったその柔らかな唇を重ね、深い、深いキスをした。
男は、最期の力を振り絞り更にもう一度ビクンと全身を痙攣させ少女の想いに応えると、永久の眠りへと還っていった。


 少女の献身的な看病と祈りも空しく、男が青春を捧げたボクシング部室へ再び戻る事は、叶わぬ夢となった。
だが、男にも少女にも後悔はなかった。拳を通じて求め合ったふたり同士、これからは、ずっと一緒なのだから。


「え〜っ、先輩、もうダウンですかぁ?よっわいなぁ〜。わたしまだジャブしか出してませんよぉ」
「つぅ〜、イテテ・・・いつになったら俺の事名前で呼んでくれるんだよ・・・もう二人きりなんだし、そろそろ、な?」
「うふふ・・・先輩がわたしに勝てたら、考えておきますねっ!ほらほらほら、このままじゃジャブだけでKOですよ?」
「そりゃ無理だっての・・・ぶっ!ぶふっ!・・・てめえ、人が喋ってる時になぐ、うっぷはぁっ!」
「あははは・・・先輩ったらもう、弱すぎ・・・!あ〜あ、また鼻血出してるし・・・あはは・・・」


 そう。これからは、ずっと。


投稿SS5・禁じられた遊び(後編)

禁じられた遊び(7) 衝動 Drang


 遥かな昔より、月の光は人間を狂気に引き込む、そう、考えられて来た。
三連休の最後を飾る、月曜日。日が沈み、満月の光が地上を暗く照らし始めたその頃、少女と男は向かい合っていた。
ふたりとも、正気を失っている事は、明らかであった。しかし、それは決して、月明かりのせいだけでは無かった。


「今日は・・・コンビネーションを、お前に教えてやる。今までお前には、ジャブ、ストレート、フック、それから
アッパーカット・・・という、四種のパンチを教えてきた。だが、実戦では、単発のパンチはまず使われる事は無い」
 男は説明しながらも、連日、己の顔面を叩き潰して来た少女のパンチの余韻に浸っていた。説明が後半に差し掛かるに
つれ、男の表情は更に異形にも歪んでいく。少女は全身と両拳のコンディションを確かめつつ、男の言葉を聞いていた。


「・・・素早く相手をKOする為には、有効な打撃を、連続で叩き込む必要がある。そう・・・連続で、だ」
「・・・はい、マスター・・・」
 少女もまた「連続」という単語に、昂奮していた。かつて、ボクサーである事が到底信じられぬ程に整っていた男の
顔の造形を、僅か4日の間に妖魔の如き醜怪さへと変貌させてしまった己のパンチ。それらがコンビネーションとして
男の顔面へ殺到した時、一体、何が起こるのだろうか。ふたりの残虐なる好奇心の対象は、哀しい程に、一致していた。
 全天を覆っていた叢雲が次第に微動を始めると、満月は、その美しくも妖しい輝きの片鱗を現し始めた。


 男はまず左ジャブから右ストレートのワンツーで虚空を打ち抜いた。そして、跪く。直後、軽快な2発の破裂音と共に
男の左の鼻から、鮮血が溢れ出した。フィニッシュの右ストレートが、鼻に入ってしまったのだ。跳ね上がるように
男の容態を心配し、口を開こうとする蒼星石。しかし、男の魂の絶叫が、蒼星石の全身を金縛りの様に静止させた。
「ぶふっ!・・・・・・約束っ!!」
「これは、俺の闘いでもあるんだ。最後まで・・・蒼星石、いいな?」
「はっ、はい。マスター。・・・そうですよね。ええ、わかりました・・・最後、まで・・・!」
 

――最後まで、か・・・
 男は、自ら吐き出した言葉の真意を、探っていた。鼻血の味は、塩辛かった。



禁じられた遊び(7) 衝動 Drang


 男は反動を付けて立ち上がると、ワンツーから左フックで空間を打ち抜き、膝を突いた。先の2連打により脳を
揺らされた影響か、そのスピードは若干衰え、体捌きは鋭さを失い、拳の軌道は微妙なぶれを生じていた。
 瞬く間に勃発した3発の、甘く鮮烈な衝撃。蒼星石のワンツーは男の鼻の下半分を正確に捉え、両鼻腔から迸った
鮮血は、その直後に頬を痛打した渾身の左フックにより、左前方の床へと飛散した。男は咄嗟に左肘を突き、硬い床
への激突を免れる事が出来た。流れる様な体重移動に支えられた、それは芸術的なコンビネーション・ブロウであった。
 男は、ふらつきながらも、かぶりを振って立ち上がった。その右の口許は、己の血で汚れていた。
「ふぅっ・・・!い、いいぞ・・・!さあ、次だ・・・!」
「はい、マスター・・・!」


 コンビネーションは、その連打数を1ずつ増やし、続行された。ジャブが、ストレートが、フックが、アッパーが
己の青春を捧げて来た男のボクシング技術の精髄、その全てが、今まさに蒼星石の小さな全身に吸収されていく。
 4連打、5連打、6連打、7連打・・・。蒼星石のブロウは、そのグローブの小ささ、硬さも手伝ってか、鋭利な短剣で
突き刺すかの如く、一撃、また一撃と男の顔面を抉って行く。身を焦がす激痛と運動による疲労の中、男の心中には
またしても危険な感情が芽生え始めた。嫉妬に加え、更なる無力感、劣等感が男をパンチと共に打ちのめして行く。


 もはや、体格の差など問題では無かった。今まさに、男の運命、そして生命までもが、気高きローゼンメイデン
第4ドール・蒼星石の小さな手の中に委ねられていることを、ふたりは思い知らざるを得なかった。己の人生に
己が打ちのめされる。男にとってこれ程の絶望感は、未だかつて体験した事の無いものだった。挑発的な破壊の
リズムに乗せて、顔面肉のあらゆる表面を核として爆裂する衝撃波。その狂瀾怒涛の最中で、男の宇宙は捻じ曲がり
燃え上がり、凍て付き、石化し砕け散って行く。もう、絶望も、快感も、区別が付かなくなってきていた。
 男はもはや、後戻り出来なかった。それは、少女も、同じだった。



禁じられた遊び(7) 衝動 Drang


 ついにその血塗られた全貌を現した満月は、狂気の光線をもって地表を焼き払った。


「・・・ぶぅはぁっ・・・!!ふうううっ・・・!・・・はぁっ、ぶはぁっ・・・!!!・・・うげぇごふっ・・・!!」
 馬の様に熱く乱れる男の吐息。もはや、その見るに忍びない惨状は、凡そ考え得る「レッスン」の枠を逸脱していた。
今まさに、男と少女の挑戦は9巡目に突入しようとしている。床を両腕だけで無様にも這いずり、惨めに壁を伝う男。
漸く両足で立った男の顎先からは、汗と鮮血の混合液が滝の様に滴り落ち、立ち上る瘴気と共に異臭を放っていた。


 一方、蒼星石は少しも息を乱す事すら無く、男の悲愴なる一挙一投足へと、その冷たく輝く狂気の眼光を向けていた。
かつて瀟洒な清潔感を主張していた衣装は、一片の蒼も残さず鮮血に染め上げられ、浸透し切れず飽和した血液は
その足下にどす黒い陰影を落としていた。


 もはや、男のコンビネーションは、ボクシングの形を為していなかった。両拳が重く、ファイティング・ポーズを
とる事すらも、出来ない。ガクガクと震える男の全身に、蒼星石の眼差しが突き刺さる。回転し明滅する視界の中で
男が見たものは、確かにそのオッドアイに浮かべられた、己に対する嘲弄、侮蔑の色だった。蒼星石は、自らの放った
視線の暴力に、我知らず陶酔していたのだ。その時、少女の胸の奥が、微かに熱くなった。同時に、男は動き出した。
 男は、丸1分程も掛かって、合計10発のコンビネーションをやり果せると、脱力した様に涙の雫を空間に残し、膝から
崩れ落ちた。その衝撃で白目を剥き気を失い、少女の残酷な嘲笑の前へと、その無防備なる顔面を曝け出す男。
 少女の口許が、これ以上無い程妖しく、危うく歪んだ。その柔らかな薄桃色の唇の隙間から、透明な粘液が糸を引き
細い顎に純白のラインを刻み付けて行く。少女は、身を焦がすインモラルな衝動へと、己の全てを委ねた。


 流れるような、それは目にも止まらぬ、連続業であった。男の意識を取り戻させたのは、鼻への鋭いワンツーだった。
端整な顔に、更に返り血が塗り重ねられていく。少女の胸の奥は、更にその熱量を増した。



禁じられた遊び(7) 衝動 Drang


 続いて左ジャブが顎を撃ち抜き、崩れ落ちる男の鳩尾目掛けて、右のボディアッパーを突き刺す。前傾する所に
左、右、左とフックがテンプルを猛打する。フィニッシュは右ストレートのトリプルが顎を撃ち、鼻を潰し、そして
左頬内側を撃ち抜き、男の後頭部を轟音と共にベッドへと激突させた。
 最後の右の手応えに満足したのか、拳を引き戻す蒼星石。その冷たく硬い3ozには幾層にも男の鮮血が塗り重ねられ
暗く輝いていた。男は、なおも最後の力を振り絞って立ち上がろうとするが、力が入らず、蒼星石にしなだれ掛かる
ようにして、そのまま気を失った。


 更に、失神した男の顎を掴み上げ、右拳を引き絞る蒼星石。そして、3ozが男の顔面目掛け加速を始めたその時――
「つうッ」
 蒼星石は、左腕で自らの小さな胸を抱き締め、うずくまっていた。
「あ、熱・・・い・・・!?・・・マスター、まさか・・・?」
 まるで、胸の奥に、煮え滾る溶岩を流し込まれたかの様だった。行き場を失い、静止していた右のグローブを外すと
蒼星石は、うつ伏せに脱力する男の左手へ、その右手を近づけた。男の指輪は、触れない程に熱くなっていた。


「うッ・・・!えうえッ・・・!!」
 込み上げる嘔吐感。その時初めて蒼星石は、知らず知らずの内に男の生命力を吸い取り、己のパンチを加速させて
しまっていた事に気が付いたのだ。両の眼孔から涙が止め処無く溢れ、返り血に染まった顔を洗い流していく。


 蒼星石は、マスターの望みを叶える為だけに――男が己にボクシングの全てを教えようとしている、その期待に
応える為だけに――男へと拳を向け、その顔面を撃ち滅ぼした。そう、自分では思っていた。
 しかし、実際は違った。


――殴りたい
――もっと
 最終コンビネーションを男へと叩き込む最中、少女の意識を支配していたものは、2日目に抱いた「あの衝動」
ただ、それだけだったのだ。


 蒼星石は、ただひたすら、その熱い涙を男の後頭部へと注ぐ事しか、出来なかった。
 その裏で、月光に照らし出された少女の影は、ゾッとする程の凄まじき笑みを、浮かべていた様にも見えた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


 狂気の一夜が明けて数時間、蒼星石は鞄で眠る事すら忘れ、自らの両拳で叩き伏せた男の看護に、没頭していた。
 青黒い痣と惨たらしい裂傷に覆われ、熱にうかされている男の形相は、フランケンシュタインの怪物を想起させた。
蒼星石は、その額の上の氷嚢が融けてきた事を見やると、台所の椅子の上に登り、懸命にその小さな手を伸ばした。
危うい姿勢のまま、震える手で冷凍庫の奥にある氷を取り出し、製氷皿に水を注いでから男の元へと駆け寄る。
 

 アラームクロックの起動時刻まで、残り10分。男の表情を見つめる蒼星石の拳に、肉を叩き潰すおぞましい快感が
深い自責の念と共に、まざまざと蘇る。蒼星石は、アラームのスイッチを切った。そして、懸命に背伸びをして
デスクの上に置かれていた男の手帳を取る。
「日:復習(フットワーク、パンチ)」「月(祝):コンビネーション」「火:実戦(終)」
 男のスケジュール帳には、このような記述がしたためられていた。「実戦」という単語の冷酷な響きに、再び蒼星石
両拳が熱く疼く。蒼星石は、妄念を振り払う様に職場とジムへと連絡を入れると、再び氷嚢を取り替える作業に戻った。


 男は、軽く柔らかな圧迫感と共に、目を覚ました。時刻は、午後2時を回っていた。男の腹の上で、人間の子供と
何ら変わらぬ、可愛らしい寝息をたてて眠る蒼星石。男は、未だに心地良い冷たさを残している氷嚢の存在に気付くと
どう表現してよいか解らぬ己の感情を、困った様な笑顔で誤魔化しつつ、それをベッドの隅へとずらした。そして
眠れる姫を起こさぬ様に細心の注意を払い鞄に移してやると、蓋を静かに閉じ、床に転がったまま泥の様に入眠した。


 男のダメージは深く、その日の「レッスン」は中止される事となった。それは、蒼星石が男の体調を労って
そう提案したということもあったが、男もまた、体調を万全に戻してから、最後の闘いに望むつもりだったのだ。
それ程までに、この実戦練習に男は拘り、執着していた。


「行ってくる・・・」
「気をつけてね、マスター」
 翌日、水曜日は、土砂降りの雨だった。男は傘も差さず、またしても駅とは真逆の方向へと、歩き出した。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


 今日は男のボクシング・レッスンの最終日、実戦練習の日だった。男が不審者役となり、蒼星石を攫おうとする。
その魔の手に、蒼星石のボクシングが立ち向かうというのが、その練習の内容だ。


 未だ、男の顔面には至る所に裂傷と腫れが認められたが、その実、体調は万全に回復していた。しかし、関節、靭帯
そして筋肉のコンディションとは裏腹に、男の精神状態は極めて危うい状況にあった。
 今までの「レッスン」で己の半分程の背丈しかない少女人形に、自らが幾年月もの時間と青春の全ての情熱を注ぎ
極めたボクシング技術を即座に盗まれ、鮮血にのたうちながら屈辱、嫉妬、あるいはその他の激情を嘗め続けた男。
しかしそれは、言ってしまえば、半ば男が望んで無防備の顔面を曝け出した結果、そうなったというだけの事であった。


 それだけに、これから行われる「レッスン」は、男にとって最も残酷な破滅を招くかもしれぬ危険を孕んでいた。
今日の実戦練習で、男が蒼星石のボクシングの前に翻弄され、KOされ、鮮血の海に沈む事があれば、完全に男は
己の「強さ」というパーソナリティ、即ち、自我の拠り所を失う事になるのだ。
 だが、男は蒼星石のボクシングに打ち勝つ事を、心の底から望んでいたのだろうか。本当は、蒼星石の両拳から
繰り出されるコンビネーションの前に無様にも打ちのめされ、全てを失う事を望んでいたのではないか。
 連日、数十発のパンチを頭部に浴び続けた事により、この頃から男は精神に異常をきたしていたのかもしれなかった。


 けたたましく響く雨音と雷鳴の中、男自らの手により、少女の拳に蒼く艶めくボクシンググローブが装着されていく。
かつては純白だったその拘束紐は、男が繰り返し噴き付けた鼻血により、毒々しい朱の斑に染め上げられていた。
 男は蒼星石の両の3ozを強く掴んだ。少女はその瞬間、全身を跳ね上がる様に緊張させると、その煌めくオッドアイ
怯えの色を浮かべつつ、上目遣いで男の言葉を待った。3ozは、小刻みに震えていた。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


「いいか、これから俺の言う事を、よく聞け・・・!」
「はっ、はいっ・・・!マスター・・・」
 恫喝する様な男の語気に圧され、蒼星石の両拳は男の大きな両手の中で、更に硬く、シャープに、凝縮された。
「俺は今から、蒼星石、お前の敵だ。俺はあらゆる手段を使って、蒼星石、お前を攫う。お前の武器は、この拳だ。
今まで教えてきた全てのパンチを使って、俺を倒せ。俺がお前の身体を掴み、持ち上げれば俺の勝ち。お前が俺を
殴り倒し、ノックアウトすれば、お前の勝ちだ。・・・俺は一切手加減しない。お前も、俺を殺すつもりで来い・・・!」
 男は、華奢な体躯からは到底信じられぬ握力をもって引き締められていく少女の拳の感触と、真っ直ぐに己を
見つめる可憐な顔立ちとが織り成すギャップに、精神の平衡を失っていた。そして余りの昂奮と緊張に、途中から
自分が少女に向かって何を口走っているのかすら、解らなくなっていた。


 男の説明が終わった頃、蒼星石の拳の震えは止まっていた。そして、その唇が迷い無く上下し、言霊が紡ぎ出された。
「わかりました。望み通り、殺してあげます。マスター」
 自らの口から迸った言葉の意味を、蒼星石もまた、理解してはいなかった。創造主により「優しさ」の象徴として
造られたドールである蒼星石は、生を享けてから数百年もの間、只の一度も、その単語を口にした事すら無かったのだ。
従って、その言霊の裏に隠されたおぞましい真意も、意識してはいなかった。男の情熱に応えたい。蒼星石はひたすら
その一心で、男が望む己の姿、「敵」として相応しいであろう言葉を、昔観たある映画の敵役の台詞の中から選び出し
男へと投げ掛けた、ただ、それだけに過ぎなかった。それだけに過ぎなかった、筈なのだ。


 少女は、妖精の如く華麗な体捌きでステップバックすると両拳を持ち上げ、顎の前に小さく構えた。両のグローブは
男の掌から流れ出した大量の汗により、ヌラヌラと暗い輝きを放っていた。
「さて、始めましょうか。マスター」
 突如として迸った稲光が、少女の流麗なファイティング・ポーズを男の網膜へと焼き付ける。漸く我に返った男の
鼓膜を劈いた雷鳴は、男と少女の最終決戦の火蓋を切るゴングとして相応しい、残酷な響きを孕んでいた。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


 果たして、その時は来た。しかし男は、飛び込めなかった。雷光に浮かび上がった小さな蒼星石のファイティング
ポーズは、練習を通じて更に一部の隙も無い、芸術作品の様な峻厳さをもって男の眼前へと聳え立っていたのだ。


 踏み込みたい。踏み込まなければ、勝ちは無いのだ。しかし、男が少女の身体に触れるには、少女の反射速度を
凌駕する上体のスピード、鋭さが必要だった。蒼星石の狙いは、恐らくカウンターだ。勢い良く飛び込めば、それだけ
カウンター・パンチの威力も爆発的に上がる。男の脳裡に、2階から投げ捨てられた植木鉢の如く粉々に砕け散る
己の頭蓋骨の映像が、まざまざと再生されて行く。噴き出す鮮血、飛び散る脳漿、混ざり合う血肉と骨、臓物・・・
 その忌まわしき地獄絵図に、何故か男の鼓動は、早くなった。男の勝機は、もはや潰えた。では、その先に
待ち受けるものは何か。この少女に敗北し全てを失った時、一体、何が見えるのだろうか。


 男は、少女のパンチが顔面に届かぬぎりぎりの高さにまで腰を屈めると、全身に力が満ちるのを待った。豪雨が
降りしきる無人の公園。そこで、何百回、何千回と狂った様に繰り返した、男のタックル。この突進で、全てが決まる。
 真っ直ぐ男の顔面に注がれ続ける蒼星石の眼差しに、更なる緊張が走った。準備が、整ったのだ。男の全身の筋肉は
禍々しい程に張り詰め怒張し、今か今かと、解放の時を待っていた。男はそのタイミングを悟られぬ様、呼吸を止める。
少女のスタンスに一刹那の隙が生まれた瞬間、それが、男の勝利の瞬間である事は、間違い無かった。


 しかし、少女は微動だにしない。もしや、生命を失い、ただの人形へと戻ってしまったのか。そう錯覚させる程に
その華奢で瑞々しい肢体は、動きを止めていた。限り無き静止の拷問の最中、無情にも時間は過ぎていく。人間の
肺活量には、限度がある。男の体内に爆裂する心臓の脈動音は、自らの敗北へのカウントダウンだった。
 絶望。余りにも深い、絶望。窒息の苦しみにガクガクと揺れる男の視界の中、少女は、死の笑いを、笑っていた。
 決して極めてはならぬ終局、無限の蒼い暗黒へと、男は吸い込まれていった。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


「・・・!!!」
 声無き断末魔の咆哮と共に、少女の肢体へと猛進する男。その全身が目標点に達すると同時に、鍛え抜かれた豪腕が
龍の顎の如く少女を噛み潰さんと襲い掛かる。しかし男の双腕は、空しく虚空を掻き回すのみであった。
 蒼星石は先の静止の時間の中で、男に悟られぬよう、ごくごく微量ずつ、そのスタンスを前傾させていた。
それにより男の意識を前に引き付けておいてから、その攻撃を吸い込む様に最小限のスウェイバックでかわしたのだ。
 少女は、自らの顔面が醜悪に歪み、生臭く陰惨なる凄笑を形成していくのを、抑えようともしていなかった。
 今まさに死刑台の13階段を上りきった男は、少女のその己を蔑む様な笑みに、現世の美の極致を感じていた。


 床を蹴る擦過音に続いて、くぐもった爆裂音が、男の全ての臓器を戦慄させた。少女は後ろ足で床を蹴り飛ばし
男の両腕のアーチを嘲け笑う様に掻い潜ると、地を這う疾風の如く深く、鋭くステップインし、伸び上がる力を
活かして男の腹部へと右拳を繰り出した。鳩尾に深々と突き刺さる、蒼い3oz。気道内に僅かに残っていた酸素をも
全て吐き出し、男は膝を突き失神した。
 勝負はついた。男は少女の右拳の前に、KOされたのだ。しかし、少女の肉体の躍動は止まらぬどころか更にその速力を
増し、男を打ち据えていく。その後の酸鼻たる有様は、もはや、闘いの枠を超えた、一方的虐殺に等しかった。


 ワンツーの4連打。その人智を超えた余りの速度は、男に顔を仰け反らせる事も許さない。男はその鼻を鋭い
左ジャブで打ち抜かれ、真正面から右ストレートで圧し潰され、再び左ジャブで弄ばれた後、全身の力を載せた
右ストレートにより無慙にもへし折られた。少女は、堰を切ったかの様に噴き出す鮮血のシャワーを浴びつつ
鳩尾に右アッパーを突き上げ、レバー目掛けて左フックを叩き込む。直後、男の頬が異様にも膨らみ、黄土色の
吐瀉物の塊が毀れ出した。


 止めは、フック気味のアッパー、スマッシュが男の顎を打ち抜いた。轟音とともに男の顔面は天を仰ぎ、噴き出す
血潮は天井を犯す。そして、左に崩れ落ちて行く男の左頬に右ストレートが打ち下ろされると、男は右側頭部から
床に叩き付けられ、バウンドした後、眠るように静かになった。



禁じられた遊び(8) 破滅 Verderben


 何と言う皮肉か、それは、男がプロテストにおいて少女に披露したコンビネーション、そのままだった。


 自らの言葉通り、死んだ様に横たわる男。蒼星石は、壮絶なる連打の最中、己の胸の火照りを実感していた。
 最初の突進をかわされた時点で、男は、己の敗北を認めていた。体調を整え、あらゆる勝利の可能性を模索し
最善を尽くした上で、触れる事すら叶わなかったのだ。この瞬間、男のプライドと自己の同一性は粉々に破壊された。
そして、最後のタガが外された事で、男の中に燻っていた名状できぬ真の欲望が、その姿を現そうとしていた。


 男は5分近くも血の池に横たわると、左手を掲げ、緩慢に立ち上がろうとした。その指輪は、蒼白く熱を帯びていた。
「た・・・のむ」
 それは己の更なる破滅の為に、己の生命力を少女の拳へと注ぐ自殺行為そのものだった。しかし、それこそが己の
本当の望みであるという事に今となって、男は漸く気が付いたのであった。蒼星石は、唇を噛み締め、再び拳を掲げた。
 男の望みこそ、蒼星石の望みなのだ。蒼星石は男の狂気に、更に真摯なる狂気をもって応えた。
 

 男は、更にそこから2分程もかけ、漸く立ち上がると同時に失神した。直立したまま、棒切れの様に倒れてくる男。
蒼星石は、右拳を振り抜いた。冷たく硬い3ozは、既にへし折れていた男の鼻へと加速し、同心円状に鮮血が爆裂した。
 一撃毎に、失神と覚醒を繰り返す男。蒼星石は、灼ける様な胸の奥底の激痛と闘いながら、右拳を男の顔面の中心
目掛けて突き出し続けていた。迸る鮮血は天井にまで達し、禍々しくも不規則な、紅黒い爪痕を残していった。


 いつしか、ふたりは涙を流していた。男の生命力の限界、その奥に厳然と横たわる終局が、見え始めていたのだ。
蒼星石は右拳を止めると、左アッパーを男の鳩尾に突き刺し、そのまま屈み込んで全身を捻った。
 グギュウウウッ・・・・・・!!
 それは、少女の全身の球体関節が軋む異音だったのか。あるいは、余りにも固く、強く握り締められた3ozが発した
断末魔の呻きだったのか。


 渾身のスマッシュ、死の弾丸は男の顎先5cmで、その暴威を失っていた。
 男は、満身創痍の全身をビクビクと蠢動させると、永遠の眠りへと誘われていった。
 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(9) 終局 Das Ende


 翌日の木曜日は、前日とは打って変わって、寂しい程の秋晴れだった。既に時刻は、午後3時を回っていた。
「ねえ、マスター。そろそろ起きましょう。ご飯、冷めちゃいますよ?・・・ねえ、マスター・・・」
 朝食は、冷え切っていた。蒼星石は、既に8時間程も前から、同じような言葉を繰り返している。その痛々しくも
狂おしいまでに真摯な様子は、寝たきりの息子を介護している内に、精神を病んでしまった母親の姿を想起させた。
 

「おいしいお茶を淹れましたよ。マスターのぶんもはい、ちゃんとあります。もうすぐスコーンも焼けますから
一緒に・・・!ねえ、マスターも、いっしょ、にっ・・・!!・・・うッ・・・ううッ・・・!!」
 蒼星石は、涙に声を詰まらせ、瀟洒ティーセットを取り落とした。床一面にこびり付いていた男の血潮と吐瀉物が
紅茶の熱で溶かされ、馨しいアールグレイの芳香と共に吐き気を催すような死臭が、部屋中に充満した。


 ガシャーーーン!!
 けたたましい衝撃音と共に、窓ガラスを派手に突き破って姿を現したのは、蒼星石にとって唯一、姉と呼べる存在
である、ローゼンメイデン第3ドール・翠星石であった。翠星石は少し頭を打った様だったが、蒼星石と同じ意匠の
鞄に仁王立ちになると、可愛らしく腕組みをしたまま、一気にまくしたてた。
「い、痛いですぅ・・・!ふー、折角久々に遊びに来てやったのですから、さっさと茶ーでもしばきやがれですぅ!」


 蒼星石と対になっている翠星石オッドアイが見開かれると、そこには、殺人現場あるいは屠畜場の様な地獄風景の
中で、ひとり己を抱き締め嗚咽を漏らす蒼星石の姿があった。翠星石は、鞄から弾かれるように飛び降りた。紅茶に
よって溶け出した血潮のぬかるみに足を取られ、尻餅をつく翠星石
「きゃあっ!!こっ、これは一体・・・!!どうしたと言うのです・・・?・・・蒼星石!!」


 蒼星石は、自嘲に満ち満ちた泣き笑いを浮かべると、一片の蒼も残さず朱に染め上げられた衣装のまま、翠星石
にじり寄り、実の姉の柔らかな胸元へとその身を委ねた。翠星石は妹の凄まじい姿態に一瞬、全身を強張らせたが
蒼星石の心の嘆きが伝わると、その華奢な身体をしっかりと抱き寄せた。



禁じられた遊び(9) 終局 Das Ende


 蒼星石は、この一週間の内に、男との間に起こった出来事全てを、翠星石に打ち明けた。そのおぞましい内容は
姉である翠星石をもってしても容易く信じられる物では無かったが、目の前の蒼星石の姿が、真実を証明していた。
「・・・話はだいたい解ったですぅ。蒼星石・・・この人間は一般人とは違う、M男というタイプの人間なのですよ。
翠星石も、前の前の前の前の、その前のマスターがM男だったので、解るのですぅ。・・・でも、蒼星石のマスターが
ここまで酷い変態M野郎だったとは、知らなかったですぅ・・・」
 

蒼星石
 蒼星石の涙を優しく拭いてあげる翠星石。しかし、語りかける翠星石の視線は、真剣そのものだった。
「このままでは、この男は、二度と眼を覚ます事はないです・・・。多分、心の樹の成長を何かが、妨げているのです」
 姉妹は、顔を見合わせた。庭師の姉妹として今やるべき事は、ただ一つだ。
翠星石・・・本当にありがとう。マスター、今行きます・・・!」
「レンピカ!」「スィドリーム!」
 ふたりは、男の夢の中へと、吸い込まれていった。


「ふうん・・・こいつは本当にボクシングの事しか頭にないようですぅ。いわゆる、ボクシング馬鹿ってやつですね」
 ふたりが降り立った場所は、青く、微かな弾力を備えているが硬い平面、即ちリングだった。青い大地は地平線の
彼方まで続いている。その地表の所々からは、赤や青、あるいは白のコーナーが木々の様に生い茂っており、それらの
一つ一つには無数のグローブが実っていた。ふたりの頭上には、無数の照明が眩しい程に光っている。


「わっ・・・こいつもアイツみたいにちび人間かと思っていましたが・・・生意気にも、なかなか立派な樹ですぅ・・・」
 彷徨い歩くうちに、ふたりは男の心の樹を見つけ出した。ふたりの予想通り、無数の太い蔦が、幾重にも絡まり
照明の光を完全に遮断していた。ふたりはそのツタに耳を当てると、静かに目を閉じた。



禁じられた遊び(9) 終局 Das Ende


――俺は、おかしい事だが、蒼星石のパンチを受ける事自体に、無上の快楽を見出してしまった。確かに痛い。
痛いんだが、それ以上に、胸を締め付けられる様な、何とも言えないときめきを感じてしまうのだ。蒼星石
俺を殴る事に昂奮している。ならば、お互いに求めればいい。しかし、極め行くその先に待っているのは・・・
避けられない、俺の死だ。俺は蒼星石に殴り殺されるのなら、本望だと思ったことがある。でも、万が一
俺が死んだら、残された蒼星石はどうなるんだ。俺は、蒼星石が好きだ。蒼星石の為なら、何だって出来る。
もし蒼星石が望むのなら、この命を捧げる覚悟さえ、出来ている。一体、俺は、どうすればいいんだ・・・?


 男は、自己矛盾により苦しんでいたのだ。蔦は即ち、男の躊躇いの心、理性と言う名の箍であった。
「はあ・・・まったくこいつは救いようのねー変態腐れドMなのですぅ。蒼星石もこんな奴とはさっさとおさらばして
翠星石のマスターと契約するべきなのですぅ」
 蒼星石もまた、揺れていた。蔦から聞こえてきた声は、即ち、蒼星石自身の心の声でもあったのだ。
「とはいえ、このまま放ったらかしにしとけば、こいつは永遠に目を覚ます事はないのです。蒼星石、お前のその鋏で
蔦の上のほうだけちょこっと切ってやれば、こいつが変態M願望を起こす事はもうなくなるのですぅ」
 男の魂の呻きを聞き、初めて、蒼星石は己の胸の奥深くに眠っていた、恐るべき欲望の正体を認識する事になった。


――そうだ。確かに僕は、マスターを殴る事が好きだ。マスターは、僕のパンチを何も言わずに受け止めてくれる。
それが、最初の内は楽しかった。マスターに褒められるのが嬉しくて、夢中でマスターの顔を何度も何度も殴った。
でも、それは、僕の本当の悦びじゃなかった。僕が好きなのは、マスターにパンチを叩き込む事、そのものだったんだ。
マスターの柔らかい頬の感触。鼻を叩き潰した時の、身震いするような何とも言えない快感。噴き出す血の匂い・・・
僕は、もっと、マスターを殴りたい。もっと、強く。もっと、たくさん・・・。その為には、僕は今ここで
何をすればいい・・・?マスターの望みは、僕の望み。それを叶える為には、一体どうすればいい・・・?



禁じられた遊び(9) 終局 Das Ende


「つまりは、欲望の制御が大切なのですぅ。それをしなければ、ただのサルにも劣るのですぅ」
 蒼星石の右手には、庭師の鋏が携えられていた。それを見て、翠星石の両手の中にも庭師の如雨露が現れる。しかし
次に蒼星石が取った行動は、翠星石の思惑とはまるで異なるものだった。
「そ、蒼星石!?なっ、何をするのです・・・!?」
 庭師の鋏は、無数に枝分かれした蔦の頂点ではなく、その根元へと向けられていたのだ。
「マスター、僕はマスターの為なら、何でも出来ます。例えそれが、永遠の別れを伴う事になっても・・・!」


「やっ、やめるのです!正気なのですか蒼星石!!そんなことをしたらこいつは・・・ヒッ!!」
 如雨露を放り出し、必死に妹の凶行を抑えようとする翠星石。その鼻先に、蒼星石の左拳が突き付けられた。
「ごめん。翠星石。僕は・・・僕は、マスターの望みを、叶えてあげたいんだ。・・・それが、マスターの命を
今度こそ断つ事になるとしても・・・。わかって・・・翠星石
 立ち尽くしたまま、徐々に薄れゆく翠星石の姿。その表情は、哀切を極めていた。蒼星石は、今まさに男の心の箍を
完全に取り除こうとしている。その先に待っている未来は、男の死と、己の妹の停止という、最悪の終局だ。
翠星石は次第に白みゆく意識の中、絶叫した。


蒼星石のおばかぁッ!!また、あの暗闇に帰るつもりなのですか・・・!蒼星石・・・!蒼星石・・・!!」
 翠星石の脚が消え、胴体が消え、そして、存在が消えていく。
蒼星石ッ!!!」
 悲痛な絶叫を残し、翠星石の思念体は男の夢から消え去った。


「本当に、ごめん・・・。翠星石・・・。だけど、僕はマスターを愛しているんだ・・・」
 庭師の鋏は、蔦を根元から断ち切った。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 どす黒い夜の帳の中で、昏々と眠り続ける男。見る影も無く破壊され尽くしたその顔面の惨状とは裏腹に、その
相好は、実に安らかな寝顔へと一変していた。どうする事も出来ぬ自己矛盾から解放された男は、今まさに大空
――無限に広がる欲望と言う名の蒼穹――を自由奔放、縦横無尽に飛翔する為の、翼を得ていたのだ。
 金色に輝く庭師の鋏をもって男の躊躇いの心を斬り裂き、その精神を理性と言う名の鳥籠から解き放った蒼星石
しかしその心中は、かの男とは対照的に、揺らいでいた。今度は少女の心に、躊躇いが見え始めていたのだ。


――マスターは僕に殴られたい。だから僕は、マスターを殴る。僕は、そう思っている。でも、今もマスターは本当に
心の底から、そう思っているのだろうか。マスターの夢の中・・・あの時は、もしかしたら僕がマスターの心の声を
聞いているのをマスターは知っていて、僕の欲望・・・マスターを殴りたいという僕の望みを叶えさせる為に
死にたくない、殺されたくないと思う自分の心に、必死に嘘をついていたのかもしれない。僕の為に・・・


 男の心の樹の成長を妨げる障害は、もはや全て除去されていた。よって、男はいつ目覚めても、おかしくはない。
蒼星石に残された時間は少なかった。決断の時は、すぐそこまで迫っていたのだ。


 少女は意を決して、男への態度を冷酷に一変させることにした。そして、男から教わった全てのボクシング技術を
注ぎ込み、更に自らの理性のリミッターを外し、欲望の赴くまま男を滅多打ちに打ち砕く。そうする事で、男の精神に
おぞましき死の恐怖を一生消えぬ楔として深々と刻み込み、このような愚行を止めさせるのだ。そして、男の許を去る。
それが、蒼星石の導き出した、結論だった。
 少女の美しく透き通ったオッドアイに、今まで男と過ごした2年間の映像が、次から次へと克明に投影されて行く。
蒼星石は何だかとても哀しく、寂しくなって、ヒクヒクと啜り上げ始めた。しかし、男を待ち受ける死の運命から
救い出すには、こうするしか、ないのだ。やがて、少女の哀しみは慟哭となって、闇夜を引き裂いた。


 求めれば求める程に、離れて行くふたり。何故、天はふたりを導き、出逢わせてしまったのだろうか。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


「う・・・うう・・・ん・・・」
 目覚めの時が近いのか、唸り声と共に寝返りを打ち始める男。蒼星石は、その涙を隠す為にバンデージを痛い程に
両瞼へと擦り付けると、そのまま両の拳にまき始めた。迸る男の鮮血がグローブの手首部分から染み込んでいたのか
バンデージの終端近くは朱に染め上げられ、噎せ返る様な凄臭を放っていた。


 続いて、左拳に3ozを装着する。男が精魂込めて少女の為だけに創った、世界でたった一セットしか無い、種族を
越えた愛と思いやりの結晶。これから蒼星石は、この二つの蒼いグローブにより、男の顔面のみならず、その
思い出までをも打ち砕かなければならないのだ。
 涙で再び視界が霞み、グローブが見えない。しかし、少女にとって男にこの泣き顔を見られる事だけは、何としてでも
避けねばならなかった。幸い、男は未だ眠り続けている様だった。蒼星石は、左の3ozの握りを確かめた。


 男の様子に異変が起こったのは、蒼星石がその右拳にグローブを通し終えた直後の事だった。ベッドの上で再び
緩慢に転がり仰向けになると、右手で腫れ上がった瞼を弄り始める男。ついに、目覚めの時が来たのだ。
 およそ24時間、丸一日にも及ぶ、永い眠りから覚めた男。しかし、そのぼやける視界に最初に飛び込んで来たものは
己を見つめる蒼星石の優しい笑みでは無かった。それは、己の顔面に迫り来る張り詰めたグローブの蒼色だった。


 今にも目覚めようとする男の傍らに居た蒼星石は、男の胸に飛び込んで、泣きじゃくりたくなるような衝動と
必死に闘っていた。しかし、その抵抗も空しく、美しきオッドアイからは大粒の真珠の如く涙が溢れ出し、熱い激情は
頬を伝ってベッドを濡らした。もはや、蒼星石にとって、男の未来の為にしてやれる事は、これしかなかったのだ。
 蒼星石は、男の瞼が開かれるまさにその瞬間、逞しい首筋に飛び掛り、その顔面へと固めた右拳を振り下ろした。
少女は抑える事の出来ぬ、はち切れんばかりの歓喜に満ち満ちた涙まみれの笑顔を隠す為、その拳を振るって男の視界を
奪ったのだ。そして、馬乗りの姿勢はそのままに、少女の両拳は次々と男の顔面へと吸い込まれていく。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 その拳は、フックとも、ストレートともつかぬ、まさに暴力そのものだった。振り下ろされる蒼い弾丸が男の瞼を
抉り、頬を歪ませ、鼻を叩き潰して行く度に、男の顔面に開いたあらゆる傷口、口腔、そして鼻腔からは鮮血が
無数の微粒子となって飛び散って行く。それはまるで、零れ落ちる涙と爆裂する鮮血が、争っているかの様だった。
 今、蒼星石が男の為に出来る、唯一にして最大の思いやり。それは、男の顔面を殴り潰す事により、男への一切の
思いやりの情を捨て去る事であった。哀しき双拳は、更に加速を続けた。


「あぶぅっ!!うぶっ!!ぷふぅっ!!ぶふっ!!・・・ぶうっ!!んうっ!!ぶぷっ!!ふぶぅっ!!」
「シシィッ!!シシッ!!シシッ!!シシィッ!!・・・シシィッ!!シシィッ!!シシィッ!!シシィッ!!」
 やがて蒼星石の両拳は、流麗なワンツーと化して男の顔面の中心部へと収束し始めていた。柔らかいベッドの上での
マウントポジションという不安定な姿勢ではあったが、既に蒼星石のパンチを30発近くも浴び続けた男の意識レベルは
明らかに低下していた。しかし、へし折れ、剥き出しとなっていた男の鼻の痛覚神経を、蒼く冷たい3ozが容赦無く
抉り潰す度、男の意識は意思に反して覚醒してしまうのだった。


 一方、涙と鮮血の闘いは、その終焉を迎えようとしていた。蒼星石の両眼から溢れ出す涙は次第にその勢いを失い
一撃ごとに噴水の様に噴き上がる鮮血の暴威は、いつしか少女の端整な顔を直接叩き付けるまでに亢進していた。
涙にまみれた少女の悲痛な表情を、男の鼻から迸った紅く温かい液体が、優しく、撫で回すように洗い流していく。
 やがて、突然に拳は止まり、男は再び深い眠りについた。廃空間に、暫しの沈黙が訪れた。


「・・・うあがァッ・・・!あッ・・・あがァァァァッ・・・!!!」
 男は、激痛と共に再び眼を覚ました。その異常なまでに見開かれた男の両目が捉えたものは、今まで見たことも無い
蒼星石の、美しくも妖しい、凍り付く様な微笑だった。その円らな瞳は氷の刃を思わせる冷徹さをもって男を見下し
柔らかな唇はその残虐性を隠そうともせず、醜く釣り上がり、淫らに歪んでいた。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 男は、少女の血まみれの威容が醸し出す、吐き気を催す程の冷たい美しさに、思わず目を背けようとした。しかし
瞼が、動かない。少女の右拳が男の額の肉を人智を超えた膂力で引き上げ、男の視線の逃げ場を塞いでいたからだ。
蒼星石は、心の底から男に感謝していた。少女の哀しみを洗い流したのは、紛れも無く、男の噴き上げた鮮血なのだ。
 少女は、己の魂の深奥に眠る残虐性を更に解放するべく、行動を開始した。全ては、男の未来の為に。


「おはようございます・・・僕の、大切なマスター」
 蒼星石は、己の口から迸ったその言霊の余りの冷徹さに、自ら戦慄した。そして、男の頭を枕に押し付けると
男に見せ付けるかの様に、グローブの紐を口で固く締め上げた。限界まで圧縮された3ozが、呻き声の様な異音を発した。
「何故、人形が喋るのか。そう・・・考えた事はありませんか」
 それは、質問ではなかった。蒼星石の小さな左拳は、男の寝間着の襟を掴んでいた。首が圧迫され、男の喉下から
鼾の様な奇声が捻り出される。少女はそのまま男の重い身体を90度左に引き摺ると、上半身を抜き上げ座らせた。


 硬いフローリングの床が牙を剥く奈落を背に、男が見たものは、腰溜めに引き絞られて行く少女の右拳だった。
その構えは、かつて男が最後の切り札として使っていた必殺ブロウ、スマッシュの型だ。
「うああああっ・・・ぐぅひぃぃっ・・・!!」
 男の全身から既に運動能力は失われていたが、防衛本能が脊髄に命じ、その両腕を顎の前で交差させ打撃から
逃れようとした。その情けない悲鳴と無様な姿は、少女の奥底に眠る陰惨極まる嗜虐性を呼び覚ますに十分だった。
少女の口許から狂気を孕んだ粘液が垂れ落ちると、男の半ば潰れた視界は、ガクガクと激震した。余りに、余りにも
強く、固く握り締められた少女の右拳が痙攣し、その暴虐のリズムがベッドを通じて男の全身を犯したのだ。
 魂を震わせる未体験の昂奮に、蒼星石は、男の為に用意していた次の台詞を忘れてしまった。赤黒く染まった
ズボンに包まれた蒼星石の脚と脚との間には、男の鮮血よりも熱く、粘ついた液体が漏れ出していた。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 ギ・・・ギ・・・グギギギギッ・・・ギッギッギィッ・・・!!
 肘、肩、腰、膝、足首、そして拳・・・蒼星石の全身を繋ぎ止めるあらゆる球体関節から迸る、未曾有の異音。
既に、少女の恐るべきボクシングテクニックは、男の顔面のみならず少女自身の体組成をも、脅かし始めていたのだ。
 異音の正体を認識した少女の眼界に、自らの右拳が齎すであろうおぞましき「結果」が、余りにも鮮明過ぎる
像として投影されていく。少女は、これから行われようとしている自らの所業に思わず恐怖し、拳を引き戻そうとした。
しかし、右拳が動かない。「何者か」が、恐るべき力で少女の右拳を押し出そうとしているのだ。


――だ、誰っ・・・!?
 部屋の中には、男と蒼星石のふたりしか居ない、筈だった。蒼星石が背後に視線を向けようとするその最中にも
「何者か」による少女の右半身への圧力は急激に増していく。蒼星石は、全身全霊をその小さく繊細な右拳に注ぎ込み
その暴圧に抗うしかなかった。一瞬でも集中力を切らせば、その瞬間、全てが終わってしまうような、そんな気がした。
 蒼星石の清潔に整えられた白い歯が擦り切れる程に噛み締められ、全身から発散されていた球体関節の軋む異音に
更なる狂気の調べが加えられた。


 円らな両眼を毀れ出さんばかりに見開き、血にまみれた華奢な全身を恐るべき狂音波と共に戦慄かせる少女の様子は
男にとって、万物を喰らい尽くす悪魔の様に恐ろしく、同時に、万物を照らし出す女神の様に美しかった。
 男の両瞼から、熱い雫が零れ落ちた。男は、殉教者の様な精神をもって、己の運命を受け容れようとしていた。
一方、人間としての肉体は、もはや、ただ、どうする事も出来ず、小便を漏らし無様に運命に抗っていた。


――誰!?・・・誰なの・・・!?・・・ぐッ・・・!・・・ぐううううううッ・・・!!
 蒼星石の3ozに秘められた禍々しいばかりの破壊力は、既に人間である男の致死量を遥かに超えてしまっていた。
 少女の自内で行われる恐るべき葛藤が長引くにつれ、皮肉にも、その右拳には狂おしいまでの殺戮のエネルギーが
欝積して行くのだ。蒼星石は、自らの右拳が今度こそ男の生命を絶つ凶弾と化した事を、認めざるを得なかった。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 その時、声が聞こえた。声の主は、蒼星石の背後ではなく、蒼星石自身の「内部」に潜んでいた。
――くすくす・・・可哀相な蒼星石・・・!・・・いつまで、自分に嘘をついているつもりなの・・・?
  ・・・本当はやりたくて、やりたくて堪らないんでしょ?・・・ほら、撃ち抜いちゃいなよ。君の、望み通り・・・


 蒼星石の表情に狼狽の色が走ると同時に、辛うじて保たれていた右半身の力の均衡が崩れ始めた。
――ち、違う・・・!!僕は、僕は・・・マスターを殺したくなんてない・・・僕はただ、マスターの・・・!!
――へぇ・・・そうなんだ。蒼星石はマスターを殺したい・・・!くすくす・・・正直な所もあるじゃない・・・!
  ふふっ・・・。僕は、素直な君が・・・好きだよ。・・・ねえ、「蒼星石」・・・!?
――あっ・・・!あ、あ・・・!!


「ああああああああっっ!!!!!!!!」
 魂の絶叫が、男の鼓膜を劈いた。薄く、固く、そして冷たい蒼黒の3ozの内部で、少女の容量を超えて蓄積された
紛う事無き「殺意」は、ついに解放の時を迎えたのだ。その右拳の挙動を追う事は、もはや現世のいかなる衆生にも
不可能だった。それは、全ての生ある者がかつて経験した事の無い「死」そのものだったからだ。
 圧縮と解放による爆発的速度をもって撃ち出された蒼星石の右のボクシンググローブは、弱弱しく顔面の前に
構えられていた男の左肘を嘲笑うかの様に弾き飛ばすと、男の顎の左下へと着弾し、その狂気の全てを注ぎ込んだ。


 その破壊は、神秘的ですらあった。薄ら寒い大気を切り裂いた少女のグローブは廃空間に煌めく蒼い残光を描き
暴打のフォロースルーにより華麗に舞い上がった少女は、空中で1回転しベッドの下の床へと妖精の如く舞い降りた。
 一方、男もまた虚空を舞っていた。しかし、その様子からは、少女の様な優雅さは微塵も感じられなかった。
 


禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 インパクトの瞬間、迸る激情により鋼鉄と化した蒼星石の右拳は男の顎へ深々とめり込むと、無慙にも左顎の骨格を
叩き割り、その恐るべき暴威を解放した。衝撃波は男の顔面のみならず全身のあらゆる細胞を沸騰させ脳機能を直ちに
停止させる。しかし、それは破壊の幕開けに過ぎなかった。
弾き飛ばされた男の左肘が背中に激突する異音と共に少女の耳を楽しませたものは、男の奥歯が砕け散る
クリスピーな音色だった。断末魔の爆滅的激痛により一刹那毎に失神と覚醒を繰り返す男。最後の生の瞬間、男の
網膜に焼き付けられたものは、少女の死の微笑だった。
 

 そして、蒼星石の視界は紅に犯される。人体の極限を超えて圧縮された男の顔面のあらゆる裂け目から、鮮血が
爆裂したのだ。狂気の濃霧は少女の眼前だけではなく、廃空間にその宇宙を拡げて行く。
 さながら、その様子は水泳の飛び込みか体操の跳馬の様だった。男は左肘、左肩をへし折られた狂勢のまま
空中を激しく横に回転しつつ、緩慢に縦に旋回しながら鮮血噴霧器としての機能を果たした。そして、錐揉みと共に
額から硬く冷たい床に叩き付けられ、暫し倒立した後に仰向けになると、そのまま動かなくなった。


 男と蒼星石が2年間の間、種族を越えた愛を育んできた住処は、今まさに地上に現出した冥府と化していた。
冥府を覆う霧が薄らいでいくと、その中心では、更なる悪夢の光景が繰り広げられようとしていた。
 屍の如く脱力した男を無理矢理掴み起こし、その醜く潰れた鼻柱に右ストレートを叩き込む蒼星石。1発、2発、3発。
やはり、男からは何の反応も無い。蒼星石は、嬉々として物言わぬ男の顔面を叩き潰し続けた。


 もはや、蒼星石は死んでいた。ここに居るのは、もう一人の蒼星石・・・暴力と破壊の化身の姿だった。
13発目のパンチが男の鼻を叩き潰すと、突然、堰を切ったかの如く噴き出す鼻血が少女の狂態を塗り潰した。
 男は、まだ死んではいなかった。鍛え抜かれた左腕と顎の骨格が一回限りの盾となり、殺意に満ち満ちた
スマッシュの脅威から男の脳を守ったのだ。しかし、男の意識は戻らない。男は、動物的反射により鮮血を
撒き散らす事しか出来はしなかった。少女は、全身に鮮血のシャワーを浴びその味を堪能すると、更なる遊戯を求めた。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 蒼星石は、男の襟首を掴んだまま身体の向きを微調整すると、右のアッパーカットで男の顎を撃ち抜いた。
直後、男の体躯は廃空間の壁の角に凭れ掛かっていた。アッパーカットにより男の腰が浮き上がった瞬間、電光の様な
スピードのワンツーが男の鼻柱を捉え、その躯を吹き飛ばしたのだ。それは、蒼星石会心のコンビネーションだった。
 男は今までに、「レッスン」において数え切れぬ程の蒼星石のワンツーをその鼻に浴び続けていた。しかし、その
全てにおいて、蒼星石の男を労る思いやりが、無意識下に拳にブレーキを掛けてしまっていた。男は未だかつて
「本当の」蒼星石のワンツーの味をその顔面で味わった事は、無かったのだ。


 男に迫る蒼星石の脚が、止まった。力無く壁に凭れていた男の全身が、蠢めき始めたのだ。頭を強打したショックで
意識を取り戻してしまったのか。それとも、至高のワンツーが、男の内なる悪魔を呼び起こしてしまったのか。男は
止め処無く迸り溢れる鼻血に溺れつつも、干からび死に行く蚯蚓の如く、異様極まる亡者のダンスを踊り始めた。
 理性と欲望の決戦。既に蒼星石の闘いは、欲望の勝利に終わっていた。今まさに、男の中でもまた、最後の決戦が
始まっていたのだ。己を見据える蒼星石の眼は、大いなる光――殺意――に満ちていた。蒼星石のマスターとして
死を断固として拒む理性と、最愛のパートナーによる死を受け容れたいという欲望。二者が、激しく火花を散らした。
 

 男の人間能力は既に限界を超越していた。いつ意識を失い、また絶命しても、決しておかしくはなかった。およそ
5分もの時間を掛け、男が取った姿勢・・・それは、両膝を突き顔面をかの少女の前に曝け出す、かつての
「レッスン」と同じものであった。男の指輪からどす黒い煙が立ち昇り、肉の焦げる異臭が蒼星石の鼻を衝いた。
 男は、ついに、死を受け容れたのだろうか。


 冥府に陰惨なる破裂音が3度轟き、輻輳した。蒼星石が両のボクシンググローブのナックルパートを男の眼前で
叩き合わせた爆発音だ。そして、一分の隙も無い峻厳なるファイティング・ポーズが、男の眼界に聳え立った。
 今まさにふたりは、破滅への最後の階段に一歩を踏み出し、それを登り始めたのだ。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 そこから先の酸鼻たる有様は、もはや言語を絶した。それは紛れも無い、禍々しき猟奇殺人の過程そのものだった。


 左!右!左!右!・・・少女の左右のフックの連打は、留まる所を知らない。ここに来てもなお、少女のパンチの
フォームは、男から教えられた技法を忠実に守り、流麗な様式美を保っていた。けたたましい爆裂音と共に、一撃毎に
魔物の如く拉げ、物言わぬ運動機械の如く発射される男の顔面。しかし、その度に壁面に激突し跳ね返される男には
吹き飛びパンチから逃れる事さえも、許されはしなかった。少女は時折連打を止め、男を前に脱力させると、無情にも
渾身の力を込めたアッパーカットで顎を撃ち砕き、後頭部を壁角に激突せしめた。そして、暴力は再開される。


 男の最後の闘い――理性と欲望の決戦――が欲望の勝利に終わってから、既に50発以上のパンチがその顔面を
撃ち滅ぼしていた。しかし、ドールである蒼星石の肉体には、疲労と言う概念すら存在しなかった。顎、頬を的確に
撃ち据え、テンプルまで及ぶ少女の両拳によるラッシュ。少女の全身は男の返り血を養分とするかの如く
その躍動感を増し、薄い3ozが肉を撃つ爆砕音と側頭部が壁に激突する撃滅音は冥府の交狂曲を奏で上げた。
 

 人間を、殺す。それも、自らの拳で、殴って殺す。それは、優しく聡明な蒼星石にとって、初めての体験である事は
間違いなかった。
――マスターは、僕のパンチ・・・何発で、殺せるのかな・・・?
 狂気が、蒼星石を犯していた。蒼星石は、限り無き純粋さをもって、その問いに答えを出すべく、運動を続けた。


 「その時」は、着実に迫りつつあった。再び立ち込めた生臭い死の濃霧の中、178発目の右フックが男の頬を
抉り抜くと、跪く男の背後から、爆裂音と共に異臭が漏れ出した。それは、男の中枢神経系までもが少女の
ボクシングに屈し始めた、厳然たる証拠であった。常人であれば吐き気を催し、目を背けざるを得ない死の無限舞踏。
しかし、少女は嬉々としてそれを楽しんだ。連打は、更なる狂威を孕み続行されていく。
――もうすぐ・・・!もうすぐ・・・!マスター・・・!!
 狂気。狂気としか、それは言いようも、無かった。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 何の変哲も無いアパート部屋の一角に忽然とその姿を現した、赤黒い濃霧に覆われた異次元空間。もはや、その中で
行われている惨劇を外部から確認する事は、全く不可能であった。それは死の国へと繋がる、冥府の門だったのか。


――・・・んあぁっ!!・・・んふぅぁぁぁっ・・・!!!・・・マスター・・・!!
 蒼星石は、全身を貫く未曾有の法悦に震えていた。その白く繊細な左拳が男の顎を砕き、儚く華奢な右拳が鼻を
叩き潰す毎に、少女の理性は崩壊し、欲望は満たされると共に無限に増殖して行くのだ。
 一方、男の肉体における闘いは、その終焉を迎えようとしていた。迸る体液は、鮮血だけでは無くなっていたのだ。
少女の暴虐のリズムに合わせ、鮮血を噴き上げ、吐瀉物を撒き散らし、大小便を垂れ流す男。それでも、それでも
少女のパンチは、止まらない。湿り切った破裂音は、無慈悲にも、加速を続けるばかりであった。


 324発目の右ストレートが男の潰れに潰れ切った鼻を更に叩き潰し尽くすと、男は聞くに堪えぬ獣そのものの咆哮と
共に、スイッチが入ったかの如く一物を屹立させ、精を放った。それは、人間である以前に一個の動物である男の肉体が
最期に子孫を残そうとする、哀しき生存本能の顕れだった。硬い壁と、更に硬い紺碧の3ozの狭間でビクンビクンと
その顔面肉を痙攣させ、動かなくなる男。少女もまた、全身の躍動を静止させた。ついに、その時は来たのだ。


 冥府の門を潜り、廃空間の中央へと還って来たふたり。その肢体からは、もはや紅以外の一切の色彩は失われていた。
蒼星石は、自分の右脇に男を跪かせ髪を左拳で掴むと、スマッシュの要領で、右拳に力を溜め始めた。もはや
葛藤は無い。そこにあるのは、狂おしいまでに透明な欲望、ただ、それだけだった。
――これから、僕は、マスターを・・・殺す!!!・・・このパンチで、マスターを・・・殴り殺す・・・!!!!!
 蒼星石は全ての視覚を、潰れ切って赤黒い餅の様になった男の鼻一点に集中させ、己と男の全ての欲望を、その硬く
張り詰めた右の3ozに注ぎ込んだ。欲望の果てに、彼らは、一体、何を見るのだろうか。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


 かつて、少女の渾身のスマッシュによりその靭帯と骨格とを完膚無きまでに撃ち砕かれ、重力に引かれ垂れ下がる
ばかりの死肉の塊と化していた男の左腕。その先端付近から眩いばかりの蒼光が、一条の稲妻の如く迸った。既に
男は生ける屍と化していた。このまま放置されたとしても、恐らく永久に意識は戻るまい。それでも男の欲望は
最愛のパートナーである蒼星石のパンチの味を、求めていたのだ。
 光は、少女の胸の中心からも溢れ出し、光と光が、冥府を覆い尽した。光の奔流の中で溶け合い、シンクロする
ふたりの透明なる願い。この世ならぬ人外境の愛とは、かくなるものだったのかも知れない。


 煌めく光輝のヴェールの中枢から発生した、激甚なる衝撃波。その波動は生臭い瘴気を構成する分子全てを
発狂せしめると、窓ガラスと蛍光灯とを爆砕し、一瞬にして冥府は漆黒に覆われた。竜巻の如く凄まじき捻りを伴った
蒼星石の右の3ozが、男の顔面の中心へと叩き込まれたのだ。
 虐狂の魔拳は、既に無数の破片に砕け散っていた鼻骨を更に残虐にも撃ち砕き、無慈悲にも掻き回し、凄惨にも
抉り潰し抜き蒼黒い宇宙を形成すると、その衝撃の片鱗は頬骨、顎骨、眼窩、あらゆる顔面組織の組成を脅かした。


 少女の右拳が振り抜かれると、男の魂は轟烈なる破滅音と共に異界へと瞬転する。その頸は頚椎の可動範囲の
限界を超えて仰け反り、喉の皮膚は短剣で抉り取ったかの如く張り裂けた。男は、両爪先と顔面の三点で己の体重を
支えたまま、かつては鼻が聳えていた箇所をフローリングに擦り付けると、夥しい量の血と肉と骨の混合物を硬い床に
塗り付けつつ、一直線に地獄の滑走を続けた。そして、台所とリビングとを隔てる扉に腹から激突すると、体内に
遺されていた全ての子種を天井へ向け垂直にレーザーの如く叩き付け、そのまま仰向けに脱力した。


「・・・・・・あははははははははははははははははははははっ!!!!!!!!!!!!!」
 微動だにせぬ男。その顔面に飛び掛る少女の狂態は、さながら、自らの獲物の肉を貪る飢えた狼の様だった。
そして、更なる拳が振り下ろされんとしたまさにその時、蒼星石の全身に、異変が起こった。



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


――!?
 蒼星石は、右拳を引き絞ったその姿勢のまま、石化した様に硬直していた。既に、その華奢な肢体の運動を司る
権能は何もかもが失われ、腕一本、指一本を動かす事さえも、叶わなかった。
 ・・・ガチャッ!!
 意思を持たぬ、うち捨てられた只の人形の如く墜落する蒼星石。見開かれた両の眼球は動かす事も閉じる事も出来ず
ひたすら虚空を見つめていたが、脈々と右頬に伝わる男の魂の響きが、少女に己の置かれた状況を理解させていく。


――あっ・・・あああああっ・・・!!
 その鼓動が徐々に弱まり行くにつれ、余りにも強大な睡魔が、少女へと襲い掛かる。蒼星石は、全てを今、理解した。
 ついに男の生命力が、尽き果てたのだ。蒼星石翠星石を始めとするローゼンメイデンと呼ばれる生きる人形達は
基本的には媒体となる人間の力を必要とせず、現世での活動を続ける事が出来る。しかし、蒼星石は、流血の宴の最中
己の持てるエネルギーの全てを、自らと男の宿願の成就の為に、我知らず絞り尽くしてしまっていたのだった。
 男の眼から最期の涙の一雫が毀れ落ちる。その心音が収束していくと共に、少女の意識もまた、幽冥へと堕ちていった。


――う、ううっ・・・。ここは・・・どこだ・・・?
 男が目を覚ました場所。そこは、じっとりと湿った木製の床だった。床の隙間から垣間見ると、眼下には真紫の大河が
滔々と流れているのが解る。濃密な靄が辺りを包み込んでおり、その向こう岸の様子を確認する事は、出来ない。
一糸纏わぬ姿のまま、ただ呆然と立ち尽くす男。その眼界に、意外の人物が現れた。


――る、瑠璃・・・!?
 瑠璃、と呼ばれた人物は、この上も無く慈愛に満ちた微笑みをもって、男の許へと歩を進めて行った。
――もう、頑張らなくても、良いのですよ・・・
 生まれたままの姿の二人。少女のしなやかな右腕が、男へと差し伸べられる。
――さあ・・・お味噌汁が、冷めてしまいます・・・これからは、ずっと一緒に・・・!?
 少女の透き通った掌が男に触れようとした、まさにその瞬間、少女の姿は光の粒となって靄の奥に消えていた。
男は、渾身のスマッシュを雄雄しく突き上げたまま、絶叫した。


――俺は・・・蒼星石・・・お前を守る!!!!



禁じられた遊び(10) 愛 Liebe


「う・・・ううっ・・・ん・・・」
 蒼星石は、男の胸の上で目を覚ました。冥府を覆っていたどす黒い瘴気はすっかり晴れ上がり、穏やかな月の光が
ふたりを照らし出していた。少女は、頭上に温かな違和感を感じていた。
 その違和感の正体を蒼星石の明晰なる頭脳が認識した瞬間、全てが、一本の糸に繋がった。
 蒼星石の頭を優しく撫で上げていたものは、他でもない、男の右手だったのだ。


 男はかつて少女の心の内奥に生じた躊躇いを、察知していたのだ。気づかれぬ様、薄く開かれた瞼の隙間から覗く
少女の悲愴な表情。男が少女の意思を汲み取るのに、もはや言葉は、必要無かった。そして男は、その全ての拳撃を
顔面に受け止める事で蒼星石と己の欲望を叶え、見事に生還する事により少女を守り抜いたのだ。
 蒼星石は、男の逞しく、温かい胸板の上で、いつまでも、いつまでも、熱い涙を流し続けた。


 暴打の衝撃波により崩落し、錆び付いたサッシを残すのみとなっていた窓。その外から、ふたりを見下ろす影があった。
「まーったく・・・こいつは本当に救いようのねー変態ドM野郎もいいとこですね。でも、蒼星石・・・あの人間には
お前しかいないのですよ。・・・精精、大切にしやがれですぅ。うー、思い出したら何か腹たってきたですぅ!
何であのちび人間はいっつもいっつもあいつとばっかり・・・!キーッ!むかつくですぅ!!」
 鞄に乗った人形の影は、夜闇へと消えて行った。その表情は、己の妹と同じく、実に穏やかな安堵に包まれていった。


 誰の手配か、男はすぐさま病院へと搬送された。左腕、鼻骨、両頬骨、上下顎の骨格は原形を留めぬ程に複雑怪奇に
砕け、骨と内部器官とが見える程の顔面裂傷に加え、常人の致死量を超える出血多量により脳神経にも若干の障害が
出ていたが、医師団の懸命な治療と本人の生への執着により、男は奇跡的にも一命を取りとめた。


 それから3年、とあるスポーツ紙の終面を飾ったその記事は、全ての人々に驚きと感動、そして勇気を与えた。
「謎の暴行集団から少女を守り、顔面骨折から奇蹟の復活を果たした不死鳥ボクサー、必殺スマッシュで新人王獲得!」
 その毎日のリハビリに、一体の精巧なアンティーク・ドールが関わっていた事を知る者は、いない。


投稿SS5・禁じられた遊び(前編)

禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


 そこは何の変哲もない、都内某所にあるごく普通のアパート最上階の一室であった。つい、先刻までは。


 床を蹴るシャープな擦過音。肉を叩く様なリズミカルな炸裂音。それに合わせて搾り出されて行く、獣の咆哮の
様な一種異様の呻き。そして、何か機械が作動しているような異音。薄く開けられた窓の隙間から外界に漏れ出ずる
その調べは、まさにその内部が現世にあって現世ならぬ、倒錯の館と化していた事を示していた。


 館の内部では、対照的な二人の人物が相対していた。
 一人は、細身ではあるが鍛え抜かれた肉体を備えた青年。齢は、20代半ば程であろうか。銀色の生地に
金糸で「不死鳥」の刺繍が入った派手なトランクスとマウスピースの他には、何も身に付けていない。男はもう一人の
人物の前に跪き、腕を後ろに組みつつ顔を突き出し、何かを待っている様子だった。既にその顔面はほの赤く
上気しており、呼吸は荒く、亢奮に心臓が早鐘を打っているのがわかる。


「マスターは本当に変態さんだね・・・。人形にこんなことをされて、そんな顔をしちゃうなんて・・・」
 男の汗の匂いに閉ざされた空間に、甘く謡う様な美声が響き渡った。
 声の主は、幼稚園児にも満たない程の背丈の、童話から飛び出した妖精、いや、妖精を思わせる美少女だった。
鮮やかなブルーの半ズボンから伸びるしなやかで白い脚、清潔さを感じさせる袖口の広がった純白のブラウス
ズボンとお揃いの可愛らしい蒼のケープ、瀟洒なシルクハットから覗く明るいブラウンのショートヘア・・・
 少女の小さな全身から発散されるボーイッシュで瑞々しい愛らしさは、あらゆる人間の心を容易く狂わせる凶器と
言っても過言では無い程の魔力を湛えていた。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


 大粒のルビーとサファイアを思わせるオッドアイから放たれる、己を蔑むような冷酷極まる視線に、男は圧倒され
吸い込まれそうになっていた。何も、言葉が、出てこない。これから己に降りかかる恐ろしい運命を思うだけで
もはや、男の亢奮は最高潮へ向け亢進して行くのだ。


「うっ」
 男の左頬へ、冷たく硬い何かが、押し付けられた。それは、少女の右拳に装着された、光沢のある暗い蒼の
ボクシンググローブだった。少女は、引き続きサディスティックな視線を男へ向けつつ、右拳に力を入れ、更に抉った。
男の顔面が蛸の如く醜く歪むと、天使を思わせる美少女の口許は悪魔的に歪んだ。
「これで、どうして欲しいの・・・?くすくす・・・」
蒼星石っ・・・!ううっ・・・」


「どうして欲しいのかな・・・!?」
 蒼星石、と呼ばれた少女は、尚も圧迫を止めない。この瞬間、この男の自内の葛藤こそが、ふたりの「遊び」にとって
重要なものだったからだ。男の息遣い、心臓の鼓動、流れ落ちる汗・・・蒼星石は、男の半分程しかない身体を
逞しいその胸板に密着させると、男のあらゆる精神の動きを楽しみつつ、男の次の言葉を待った。
「それでっ・・・お前のパンチでっ・・・俺の顔を、思いっきりっ・・・!・・・殴って、くれっ・・・!!」
 まるで、臓腑を吐き出すかの様な男の言葉。蒼星石が右拳を解放すると、男の左頬にくっきりとグローブの痕跡が
刻まれた。ゆっくりとシルクハットを取り去り、跪く男の後方のベッドの上に投げる蒼星石
 

 トン、トン、トン・・・
 蒼く冷たい輝きを放つ両の3ozが顎の高さまで持ち上がると、やがて軽快なフットワークが開始された。
男は、己の言葉に深く、深く後悔した。しかし、それは心地良い後悔と言っても良かったのかも知れない。
「可愛いマスター・・・チャンピオンの癖に、こんな人形に殴られるのがそんなに恐いの・・・?」
 男からはもはや、何の反応もない。ただ、目を潤ませてそこに存在するだけの、彫像と化していたのだ。
 蒼星石は乾いた唇をその可憐な容姿に似つかわしくない妖艶さをもって嘗め回すと、男の顔面へとステップインした。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


「シッ」
 鋭い呼気音と共に、男の顔面が弾け飛んだ。ボクシングの教則に則った基本的なフォームであるが、それゆえに
洗練された美しき左ジャブである。小さな左拳は男の右上瞼を正確にヒットすると、初速と同等の速度で引き戻された。
そして、次の衝撃が全く同じ箇所に弾けたと思えば、右の硬く薄い3ozが男の鼻を正面から打ち抜き戻った。
男の鼻の左の穴から、どす黒い鮮血が垂れ落ちた。蒼星石は右拳に付着した鮮血を舐め取ると、男の様子を観察した。


「うっ、うぶぅっ!?・・・おぉっおぉ・・・」
 男は膝をついたその姿勢のまま、硬直していた。垂れ落ちる鼻血の味が、男の亢奮を更に高めていく。
「もっと?」
 蒼星石の簡潔な問いに、男はガクガクと頷いた。美しい蒼星石の口許が、更に醜く歪む。男は、そんな蒼星石の表情が
とても美しいと思い、更に顔を強張らせる。それにより、更に、更に、蒼星石の表情は醜さを増していくのだ。


「うぶっ!ぶっ・・・!ぶふっ・・・!んっ・・・!うっ・・・!・・・・・・!!」
 「遊び」は、続行された。男は膝をついたまま、蒼星石の双拳の前に晒され揺れるパンチングボールと化していた。
早くも、20発以上のパンチが、男の顔面のありとあらゆる部位へと吸収されていた。赤々と腫れた顔面の至る所には
玉の汗が浮かび、濡れそぼる皮膚と張り詰めた紺碧のグローブが接触するたび、淫靡なる水音が巻き起こった。


「シシィッ!シシィッ!・・・」 
 蒼星石は、攻撃の対象を2点に絞り始めた。即ち、左ジャブで右瞼、右ストレートで鼻を正確に撃ち抜くのだ。
それは、卓越したボクシングテクニックと人形ならではの拳の小ささ、その双方が備わって初めて実現できる
人の力の及ばぬ、まさに悪夢のコンビネーションと言えた。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


 やがて、蒼星石の思惑通り、飛び散る飛沫に紅が混じり始めた。男の右目の上は鋭利な刃物で抉ったかの様に
ざっくりと裂け、何度も何度も正面から強打された両の鼻腔からは夥しい量の鮮血が滝つ瀬と溢れ出した。
 男の全身の力が抜け落ちると、蒼星石は華麗にステップ・バックした。純白のブラウス、可愛らしいシューズ
のみならず、端整な顔にまで点々と返り血を浴びたその威容を、男は床に這い蹲りながら見上げる事になった。


「もっと・・・?」
 拳をだらりと下げ、蒼星石が訊く。男は完全に塞がれた右目の代わりに、左目でウインクを返した。続行の合図だ。
蒼星石の表情に、ごく微妙な変化が起こった。少女は、かぶりを振ってその恐ろしい表情を打ち消した。
――いけない、蒼星石・・・。僕は、マスターを・・・


「マスターは本当にいけない子だね・・・。そんな子にはお仕置きしなくちゃね・・・!くすくす・・・」
 蒼星石は、床面へ倒れ臥す男の髪を左拳で掴むと、無理矢理持ち上げた。フローリングの床面には、男の流した
鼻血により、小さな池が造られていた。そして、右拳を振りかぶり、弓を引くかの如く引き絞る。
「シッ」
 正面から鼻柱に激突した右ストレートの衝撃に、男の全身が「ビクリ」と痙攣し、止まりかけていた鮮血が再び
噴出し始めた。男からは既に腕一本を動かす能力も失われており、己の意思で上体を反らし、また顔を背けて
パンチから逃れる事も出来はしなかった。
 聡明な蒼星石は、己のパンチの質を再び変化させていた。無数のジャブ・ストレート。そのどれもが男の上体を
垂直以上に傾けない程度の威力に加減されていく。しかしそれは、「遊び」を更に残虐に演出する為の邪知といえた。


 もはや、蒼星石はパンチによって男の顔面を打ち滅ぼし、意識を奪う事はしなかった。むしろ、目的は真逆であった。
男の意識を明瞭に保ったまま、鮮血が飛び散って行く様を見せ付ける。それが、蒼星石の目的だったのだ。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


「くっ、ぶっ、・・・うぁっ、ふぅっ、・・・うっ、ぶうっ・・・」
 男の悲鳴は、いよいよか細くなってきた。非情の蒼拳は男の顔面を叩き続け、その度に男は目じりから、鼻から
夥しい量の鮮血を眼前の美少女へと降り注ぎ、そのブロウの技巧を称えた。男には、後方に仰け反りパンチから
逃れる事も、前方に沈みダウンする事も、左右に倒れこの絶望の檻から脱出する事も、どれも叶わなかった。
 気絶してしまえれば、どんなに楽だったか知れない。しかし、男の意識が遠のくと、即座に蒼星石は右ストレートで
無情にも男の鼻柱を打ち抜いた。一体、この清らかな人形の何処に、この様な悪魔的趣向が眠っているのだろうか。
しかし、それは男にもそのまま同じ事が言えたのだ。目を覆わんばかりの連打の凄惨さとは裏腹に、ふたりは
お互いの絆がより固く、より深く強まっていく事を感じていた。


「ぁ・・・うっ・・・!・・・・・・!・・・・・・」
――そろそろ・・・かな・・・
 空間を覆い尽くしていた陰惨なる破裂音の間隔は長くなっていき、最も長くなった次の瞬間、左のボディアッパーが
男の鳩尾に深々と突き刺さった。男の口から、すえたような悪臭を放つ液体が溢れ出すと共に、赤く染め上げられた
マウスピースがその姿を覗かせた。蒼星石はそれを確認すると、十分な溜めから、更に急激な捻りを加えたフック気味の
右アッパーカットをもって男の左顎を斜めに撃ち抜いた。
 インパクトの瞬間、まず男のマウスピースはシャンパンの栓を抜いた様な暴威をもって、夥しい量の唾液と胃液との
混合液と共に噴射され、その暴威はそのままに天井に激突し禍々しい血痕を残した。そして、蒼星石の10倍近い
ウェイトを持つ男の上半身は蒼星石の拳の軌道と平行に一直線に硬直すると、その一瞬後、左後方へ天変地異の如き
暴威で吹き飛ばされ、右側頭部から着地するとそのまま動かなくなった。



禁じられた遊び(1) 微笑 Die Lächeln


「ふう・・・」
 眠るように横たわる男。蒼星石は、幾層にも男の鮮血が塗り重ねられ、暗い輝きを放つ3ozに舌を這わせた。
熱い唾液が鮮血を融かし、混合液が流れ込んでくる。蒼星石は男の鮮血が染み込んだグローブをひとしきり味わうと
丁寧に外し、部屋の片隅に設置された機材へと足を運んだ。清潔だった衣装は、元の色彩が解らなくなるほど返り血に
より塗り潰されてしまった。部屋の内部にはおぞましい血と汗の匂いだけが充満していた。


 三脚を登り、懸命に背伸びをしながら真新しいビデオカメラの角度を調整する蒼星石ファインダーの向こうには
うつ伏せに痙攣している男の姿が見える。蒼星石は恐る恐る三脚から飛び降りると、男の方へ足を進めた。
「クスッ。こんな人形にボクシングでKOされちゃうなんて、悔しくないの?『チャンピオンさん』」
 蒼星石は男の胴体を蹴り上げ乱暴に仰向けにすると、その顔を路傍の石の如く無造作に踏み躙った。


 レンズに飛び散っていた返り血を、背伸びしつつ布で丁寧にふき取ると、蒼星石は再び三脚に飛び乗った。そして
ファインダー越しに見える男の表情を楽しみつつ、と書かれたボタンに手をかける。
「ふふっ・・・!無様な顔・・・こういうことをされて、気持ちいいだなんて・・・クスッ。
本当にどうしようもない変態さんなんだね、マスターは・・・」


 ほんの数秒間だけ、意識を取り戻した男の顔には、恐怖、屈辱、安堵、羞恥、悦楽、その他ありとあらゆる表情が
浮かんでは消えた。しかし、最後の表情は、最愛のパートナーである蒼星石への、信頼感に満ち満ちた微笑みだった。
 再び眠りに就く男をファインダー越しに見やりながら、蒼星石も温かい微笑を大きなカメラの奥へと隠した。
 蒼星石は、小さな胸の中心にその小さな両手を重ね、瞳を閉じると、ふたりの過去へと想いを馳せていった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(2) 感謝 Dankbarkeit


 男と蒼星石が出逢ってから、今月で丸2年になる。
 男はプロテストを間近に控えたボクサーである。しかし、当然ながらアマチュアでは食ってはいけないので
日中は手先の器用さを活かしてアパレル会社の縫製作業員として働き、夕刻からジムへ通うという生活を送っていた。


 男には今から3年前、蒼星石と出逢う丁度1年前まで、将来を約束し合った許婚が居た。しかし、結婚を目前にして
不幸がふたりを襲った。最愛の恋人が、交通事故で亡くなってしまったのだ。余りにも、早すぎる死だった。
 全ての希望を失い、失意の内にボクシングの夢も忘れてしまった男は、酒に溺れ、路上での喧嘩に明け暮れた。
その様な狂乱退廃の日々の中、自宅に一本の電話が入った。受話器の向こうの相手は、こう言った。


「まきますか?まきませんか?」
 男は、ただの悪戯電話と思い、受話器を叩き付けようとした。しかし、その声色に、男は確かに、聞き覚えがあった。
「まさか・・・!る、瑠璃!?何で、お前がっ・・・!!」
「まきますか?まきませんか?」
 男は混乱した。相手の意図は読めなかったが、その声の懐かしい響きに、男は無意識の内に絶叫してしまっていた。
「ああ!まく!!まくよ!!!」


 翌日、一つの大きな鞄が自宅に届いていた。差出人は不明だった。
 逸る気持ちを抑え、鞄を開ける男。中に入っていた物は、恋人の幼少時代の姿に生き写しの、一体の人形だった。
男は、震える手で付属品の螺子を慎重に人形の背中の穴へと差し込むと、ゆっくりと、ゆっくりと、まいていった。
人形が喋る、動く事にもはや、男は何の違和感も恐怖も感じなかった。男は人形を持ち上げると、強く抱き締めた。


――この子と一生暮らしていこう!この子の為なら、俺は・・・何でも出来る!!
――俺は・・・蒼星石・・・お前を守る!!!
 男の人生の歯車が、再び噛み合い始めた瞬間だった。しかし、それは破滅への歯車だったのかもしれない。
 


禁じられた遊び(2) 感謝 Dankbarkeit


 それから、男は一度は忘れてしまった夢を再び追う為に、ボクシングジムへ通うことになった。


「うわぁ、痛そう・・・。マスターは好きなんだろうけど・・・ちょっと僕、これは見ていられないかな・・・」
「そうか?面白いと思うんだけどなあ。でもいやなら仕方ないな。今チャンネル変えてやるよ。ほら」
 蒼星石は己のマスターである男がボクシングをやっている事は勿論知っていたが、テレビのボクシング中継は
痛々しくて見ていられなかった。乱暴で、血生臭い、己とは縁遠い世界だと、思っていたのだ。


 しかし、男にはどうしても、どうしても蒼星石に見て貰いたい試合があった。それは、男自身のプロテストだ。
プロテスト実技試験の前日、男は、意を決して蒼星石に己の想いを吐露した。
「お前が来てくれれば、俺は絶対に負けない。俺とお前の未来の為に、蒼星石、お前の力を貸してくれ!頼む!!」
「マスター・・・!・・・絶対、絶対・・・!絶対に、負けないで下さいね・・・!」
 

 プロテスト当日、運命のゴングが鳴った。セコンド席では、親戚の娘と偽って入場していた蒼星石が会長の膝の上から
見守っていた。いつもは緊張の余り動きが硬くなってしまう男であったが、この日は違った。新たな人生の伴侶からの
熱い視線が、男の動きを妨げる緊張感という枷を焼き切り、男のボクシングは縦横無尽にリングをかき回したのだ。
 

 相手の左をスウェイバックでかわし、次の右をヘッドスリップですり抜けそのまま思い切りステップインする。
伸び上がる力を生かしての鳩尾への右ストレートが、最初のクリーンヒットだった。そして、顔面へのワンツー4連打。
漸く上がったガードを掻い潜る様に、ボディに右アッパーから左フックを決めた。それぞれ鳩尾とレバーを、的確に捉え
相手の運動機能を麻痺させる。苦し紛れの相手の右フックをダッキングして避けると、止めは、この日の為に
開発し、血の滲む様な練習の末完成させた、低い姿勢からの捻りを加えたフック気味の右アッパー、スマッシュが
相手のアゴを打ち抜いた。フォローの右ストレートは、レフェリーに制され空を切り、男の拳が掲げられた。



禁じられた遊び(2) 感謝 Dankbarkeit


「ついにやったな!!ははは・・・俺はお前が道端でゴロまいてた頃から、こいつはただ者じゃねぇと思ってたんだ!
お前のパンチがあれば、すぐにでも新人王になれるよ!世界だって夢じゃねぇ!俺の眼に狂いは無かったんだ!!」
 全くの無傷でテストを終えた男は、早速興奮したセコンド席の会長から、肩をバシバシと叩かれ手荒い祝福を受けた。
 蒼星石は、両目に涙を溜めて待っていた。男は、グローブも外さずその鍛え抜かれた胸板に、少女の頭をかき抱いた。
「あと・・・お嬢ちゃん!!お嬢ちゃんはまさに勝利の女神だな!!こいつの次の試合も、見てやってくれよ!!」


 過酷な減量を耐え抜き、目標を達成した男は会長やジムの先輩に飲み会に誘われたが、やんわりとこれを断った。
蒼星石との約束で、テストの後はすぐに家に帰る事にしていたのだ。
 男が家に帰ると、そこには「プロテスト合格おめでとう! 僕のマスターへ」という文字の書かれたチョコプレートが
中央に置かれた、形は少々傾いているが、苺とクリームたっぷりのケーキが用意されていた。
「うまくスポンジが膨らまなかったんだけどね・・・マスター、甘いものが大好きだからさ・・・」
 男は、蒼星石の華奢な身体を、壊れる程に抱き締めた。
「ありがとう・・・!!蒼星石・・・愛してるよ・・・!」
 蒼星石も、男の雄大な肉体を、持てる力の限り、抱き返した。
「マスター・・・!!僕も・・・愛しています・・・!」


 その後は、ケーキと蒼星石得意の手料理を楽しみつつ、ふたりは文字通り勝利の美酒に酔った。その中で
蒼星石が何気なく言ったひと言が、男の今後の命運を大きく左右する事になろうとは、誰が予想しえただろうか。
「マスターのボクシング、カッコ良かったなあ・・・僕も、ちょっとやってみたいけど・・・でも、無理だろうな。
だって、僕はドールだしね・・・あはは・・・」


 その後、男の帰りは一段と遅くなった。遅い時は、夜の11時過ぎに帰って来る事さえもあった。蒼星石は心配になり
何度か理由を尋ねた。しかし男は、新人王戦の練習が長引いていた、そう答えるばかりであった。
男の左手の指に絆創膏が増えてきたのが気になったが、蒼星石が男の言葉を疑う事は無かった。



禁じられた遊び(2) 感謝 Dankbarkeit


 それから1ヶ月余りの時間が過ぎた頃、男は、珍しく早く帰ってきた。
「あっ、おかえりなさいマスター。今日もおつかれさまです」
「ああ、ただいま。今日はな、お前に・・・俺からの・・・プレゼントがあるんだ」


 男が右手で差し出した小綺麗な瑠璃色の小箱に入っていた物。それは、一対のボクシンググローブであった。
「うわぁ・・・!まさか、これを僕のために・・・?」
「ああ・・・まあ、ちょっとな。せっかくだから、つけてみるか?本当はバンデージをまいてからなんだけどな」
 左右のグローブの手首部分の内側には、瑠璃色の糸で"Lapislazuli 3oz"という刺繍が見て取れた。3ozは、メーカーの
規格に存在しない。その表記は、これが蒼星石の拳のサイズに合わせて創られた世界で唯一の物である事を証明していた。


「おおっ、思ったより似合ってるぞ。なかなか勇ましくて・・・かっ、可愛いな・・・!」
 それは、スポーツ用品会社に特注したのではないかと思わせるほどに、蒼星石の拳にフィットした。
「ああ・・・まるで、お父様に創って貰った僕の体の一部みたいです。マスター・・・ありがとう・・・!!」
「あはは、大袈裟だな蒼星石は・・・。まあ、今は色々と物騒な時代だからな。俺が居る時なら勿論守ってやれるんだが
もし一人の時に、悪い奴がお前を攫おうとしたら、なんか身を守る手段が必要だろ?だから、これから俺がお前に
ボクシングを教えてやろうと思って、会社のパートのおばさんに作ってもらったんだよ」


 そう言って、左手の絆創膏を後ろに隠す男。男は、嘘をつくのが、下手だった。
 男は、希望を失っていた己に生きる目的を与えてくれた蒼星石に、何か恩返しがしたいと、いつも考えていた。
日々の生活で蒼星石の手に触れるうち、男の脳内にはどのような図面よりも正確に、蒼星石の両手の寸法が刻み込まれて
いたのだ。少女がグローブの握りを確かめる度に、グローブには無数のシワが顕れては消えた。
「くすっ、嘘つきなマスター・・・でも・・・大好きです」
 蒼星石もまた、己を永遠とも思われる静寂の暗黒から救い出してくれた男に、恩返しをしたいと思っていたのだ。
マスターの望みこそ、蒼星石の望みなのだ。ふたりは、無意識の内に、唇を重ね合っていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(3) 畏怖 Ehrfurcht


 次の日から、男は今までとは打って変わって、早く帰ってくる様になった。新人王戦にはまだ間があったし、それに
男は蒼星石との新たな楽しみを見出したからだ。そう、美少女との甘いボクシング・レッスンである。
 男は、自室の電気炬燵をカーペットごと部屋の隅へ追いやり壁に立て掛けると、入念に、硬いフローリングの床に
何か異物が落ちていないかをチェックした。人間には大した事の無い凹凸やゴミなどでも、蒼星石の小さな身体には
重大な障害になりうるかもしれないのだ。こうして、ふたりのトレーニングの足場は万端に整えられた。


「よし、こんなもんでいいだろう。蒼星石、今日はお前に拳の握り方、基本的なスタンス、それから簡単な
フットワークを教えてやる。わかるまで何っっっ回、でも、教えてやるからな。・・・覚悟しとけよ?」
 男は最初は真剣に、最後の方は冗談めいた調子で蒼星石に語りかけた。その思いやりが、蒼星石の緊張を解きほぐす。
「は、はいっ。マスター、よろしくお願いします!」
 男は、蒼星石の拳にバンデージをまいてあげた。今日は、グローブを使う練習の日ではないのだ。


「まずは、拳の握り方だ。正しい握り方をマスターしないと、自分のパンチで拳を痛めちまうからな。まず俺が
お手本を見せてやるから、良く見とけよ。こうやって人差し指から順番に、しっかり握って・・・」
 蒼星石オッドアイは、これ以上無い真剣さをもって、男の右拳の動きを観察した。
蒼星石は熱心だな・・・。じゃあ、同じようにやってみな。基本中の基本なんだが、これって結構難しいんだぜ」


 握られていく、蒼星石の小さな両拳。男は白いバンデージ越しに握りを確かめると、思わず驚愕した。
――うっ・・・。かっ、硬い・・・!!俺の拳より、数段、硬い・・・!・・・まるで、石・・・いや、鉄だ・・・
 レッスンも忘れ、夢中で蒼星石の両拳を撫で、さすり、己の拳と合わせる男。
「マスター・・・マスター?どうですか、僕のナックル・・・ちゃんと、出来てます?」
「あ、ああ・・・結構いいんじゃないか?初めてにしちゃ、じょ、上出来だよ」
 ふと、男の脳裡をある妄想が駆け抜けた。男は、そのおぞましい雑念を振り払うように、レッスンを続けた。



禁じられた遊び(3) 畏怖 Ehrfurcht 


「次は、基本的なスタンス、構えを教えてやろう。さっきと同じように、俺の後に続いてやってごらん」
 澄み切った赤と緑のオッドアイに、拳を固め見えない対戦相手と対峙する男の全身が投影されていく。蒼星石
そんな男の雄姿を、純粋な憧れをもって見守った。その熱い視線は、男の自尊心を満足させるに十分過ぎるものだった。
 しかし、後に続いた蒼星石のスタンスは、男が未だかつて少女に対して抱いたことの無いある感情、それを
呼び起こすに十分だった。言葉で教えてもいないのに脇がしっかり締まっており、かといって硬くなっておらず
全く隙が無い。それはまるで、男自身を鏡に映し出したようだったが、美しさでは既に蒼星石が勝っていた。


 男は、我知らず、膝をついて蒼星石のファイティング・ポーズの前に己の顔を曝け出し、その峻厳なる威容を確認
していた。直後、腸が震えるような悪寒が襲うと、喉に込み上げる酸っぱい液体に男は激しく噎せ返っていた。
「だ、大丈夫ですか?マスター・・・」
「ゴホッ・・・う、ううっ・・・ああ、大した事ないよ。よし合格。じゃ、次のレッスンといくか・・・」


「・・・今日最後のレッスンは、脚捌き、フットワークだ。相手のパンチを華麗にかわし、鋭いステップから自分の
パンチを当てていく、ボクシングの華って奴だな。重要なところだから、出来るまで何回でもいくからな」
 蒼星石はシルクハットを外すと、ベッドの上に投げ上げた。揺れるブラウンの髪から、微かにいい匂いがした。
「ええ、マスター。わかっています。お手本、お願いします!」
 男は、己が持てる体術の限りを尽くした。ステップイン・ステップアウト・サイドステップ。更に斜め方向への
移動、フェイントも交えて男の全身の躍動は加速する。やがて男の顔面には珠の汗が浮かび、息遣いも獣の様に荒く
激しさを増した。何故、ここまでしなければならないのだろうか。男は、胸の奥の鈍痛を堪えつつ自問した。その
答えを導き出す事は即ち、男の自尊心がかの美少女の前に屈服する事に他ならなかった。男は、考える事をやめた。



禁じられた遊び(3) 畏怖 Ehrfurcht 


 しかし、それも永遠には続かなかった。増殖する男の血中乳酸は、ついに肉体の許容量を、超えてしまったのだ。
「ハァ、ハァ・・・!ちょっと、ハァ、ハァ・・・これはっ、難しいかもなっ・・・!じゃ、同じようにやってみな・・・」
 男は、膝から崩れ、蒼星石の前に丁度土下座する様な格好となった。蒼星石は、男の期待に応えたい、その一心で
フットワークを始めた。しかし皮肉にも、その想いは男の自尊心を今度こそ脅かす凶器と化してしまったのだ。
 

 男は、見とれた。蒼星石と同じ目線で体感する、流れるような体裁きの巧みさ、全身のバランスの優美さは
既に舞踏の如しだった。オッドアイが己の眼を真剣に見据え、流麗なファイティング・ポーズは保たれたまま美少女の
小さな拳が近くなる度、男の顔面は無数の眼に見えぬパンチの幻影により左へ右へと打ちのめされた。喩え、両手両足が
使えたとしても、その疾風の如きステップから繰り出されるパンチを全てかわせる自身は、男にはなかった。
 男は、己が少女に畏怖している事を、認めざるを得なかった。そして、蒼星石のボクシングセンスを素直に称え
賞賛した。しかし、自内に燻り始めたもうひとつのどす黒い感情には、男自身も気が付いていなかった。


「・・・よし、合格だ・・・!おいで、蒼星石・・・」
 男は、膝立ちの姿勢のまま蒼星石を招くと、ショートヘアを厚い胸板にかき抱き、撫でてあげた。
「ふあっ・・・!マ、マスター・・・」
 何と、柔らかいのだろう。何と、軽いのだろう。そして、何と、繊細で、か弱いのだろう・・・
 美少女の心地良い感触が男の指先に伝わるごとに、更に、男の心の内奥は無慙にも切り刻まれていくのだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「ただいま」
「おかえりなさいマスター。今日も一日、おつかれさま。ご飯・・・もう出来てますよ」
 ごくごく普通の恋人同士のような、ありふれた毎日の会話。しかし、ふたりにとって、この日は特別だった。
今日は男のボクシング・レッスンの2日目。男が実際に蒼星石に、パンチの打ち方を教える日なのだ。


 食事を終えると、男は昨日と同じようにレッスンの舞台となる足場を丁寧に整えつつ、少女に訊いた。
蒼星石、今日のレッスンが何だったか・・・覚えてるよな?」
「ええ。たしか、左ジャブと・・・右ストレートでしたよね」
 その何気無い言霊が男の耳に吸い込まれた瞬間、男は全身の血流が一瞬逆転した様な、そんな錯覚に襲われた。


――蒼星石のパンチ・・・あの蒼星石の、パンチを、俺は・・・今から・・・受ける・・・
「・・・マスター、どうかしたんですか?何か、顔色も悪いみたいだし・・・」
 炬燵を持ち上げたまま硬直する男。それを心配そうに見つめる蒼星石。男は、妄念を打ち払うようにかぶりを振った。
――いかん、俺がしっかりしなくてどうする!今日は、蒼星石の為の日なんだからな・・・
「ああ、大丈夫、何とも無いさ・・・じゃ、早速準備を始めるとするか!!」
「はい、マスター、お願いします!!」


 蒼星石は、愛用の光沢ある黒のシルクハットを外すと、昨日と同じくベッドの上に投げ上げた。
 男は、蒼星石の白く繊細な手にバンデージをまいてあげると、その上に自ら特製の紺碧の3ozをはめてあげた。
「これでよし・・・と。じゃ、昨日の復習から始めるぞ。いいな?」
 蒼く輝くボクシンググローブに、その小さく硬い両拳を隠した少女は、まさに拳闘の妖精そのものであった。
 男の意識は、その宙を舞う様な華麗なるフットワーク、一分の隙も無く固められた優美なるスタンスが醸し出す魔力に
完膚無きまでに打ちのめされ、ついには膝を突き美少女の前にひれ伏さざるを得なかった。
 耳を澄ませば、甲高いゴングの音が聞こえる。嘲笑と共に一瞬にして間合いを詰め、男の顔面に肉薄する蒼星石
そして蒼星石の硬く、冷たい左拳が、一閃する。男は恥も外聞も無く、両腕で亀の様に己の顔面を守るしかなかった。



禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「マスター・・・どうでしたか?僕のフットワーク。上手く出来てました?・・・ねえ、マスターったら・・・」
 全ては、男の見た恐ろしき幻想であった。実際には、フットワークの型を一通り完了した蒼星石が、左手を伸ばし
男の肩を軽く叩いた。ただ、それだけの事に過ぎなかったのだ。男は、恐る恐る両腕のガードを広げる。そこには
やはり心配そうな美少女の顔が己を覗き込んでいた。男は、動揺を隠すように右手にミットをはめ、レッスンを続けた。


「・・・ああ、完璧だ・・・!じゃ、じゃあ、今日の内容に入ろうか。よし、蒼星石。まずは、何も考えず
好きなように俺の構えるミット目掛けて打ってみろ。まずは、グローブの重さと相手の体の感触に慣れるんだ」
 男は再び膝立ちになり、蒼星石が打ちやすいよう、少女の顔の高さに右のパンチングミットを構えた。
「よし・・・行きますよ・・・マスター、覚悟!・・・・・・キャッ!!」
 男が蒼星石のパンチに備え、ミットに全身の力を込めた直後、その向こうから不意に悲鳴が聞こえた。蒼星石の身に
何かが起こったのだ。男はミットを放り投げると、弾かれるように蒼星石の元へ駆け寄った。


「どうした!大丈夫かっ!!」
「あいたた・・・。ますたあ・・・お尻、打っちゃった・・・」
 蒼星石は、思い切り振り回した自分のパンチがミットに当たった反動で、転んでしまったのだ。顔を見合わせるふたり。
そして次の瞬間、ふたりの口から一斉に温かい笑いが爆発した。
「ぷっ!・・・あははっ・・・!!」
「ははは・・・!って、おい、自分のパンチでKOされてちゃ世話ねえぜ?ま、ミットを強く構えすぎた俺も悪かったけど。
今度は、良く狙ってゆっくり、一発一発確かめるように打ってみな。足下には十〜分に、気をつけて、な?」
「もうっ、意地悪なマスター・・・。でも、頑張ります!・・・えいっ!・・・やあっ!」
 男のミットから、気の抜けた音が不規則に連打されていく。懸命に蒼の3ozを振り回す蒼星石。スイングする毎に
足下はもつれ、グローブの重さに振り回されているのは明らかだった。しかし、その拙いながらも懸命な様子は
男の心から少女への畏怖の念を完全に取り除き、逆に安らぎを齎し自尊心を回復させていった。
 


禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「よし。そこまでだ。やっぱり蒼星石もお手本が無いと、やりづらいよな。どれ、俺が見せてやるとしようか」
「はいっ、マスター・・・お願いします!」
 ミットを外して立ち上がった男の眼は、既にボクサーのそれになっていた。男は、視線を前方の空間の一点に集中
させると、鋭い呼気音と共に左拳で虚空を切り裂いた。会心の一打だ。蒼星石の両の瞳は、その一部始終をあたかも
精巧なビデオカメラの如く映し出していた。男は、少女の熱く真剣な視線に、無上の得意と優越感を感じていた。
「さて、今度はお前が打つ番だな。落ち着いて、確実に当てていけよ。出来るまで何度でも付き合ってやるからな」
 男は膝立ちになり、姿勢を低くして右のミットを軽く構えた。少女はそれに頷くと、静かにスタンスをとった。


「シィッ」
 シューズが床を蹴る擦過音、鋭い呼気音に一瞬遅れて、衝撃音が男の鼓膜を伝わり脳を犯した。男は、その瞬間に何が
起こったのかすら、解らなかった。気が付くと、右手にはめられていた筈のミットは、男の斜め後方へと転がっていた。
「だっ、大丈夫ですか!?」
 目の前の美少女の上ずった声と、痛い程に痺れる右手の感覚に、男は初めて、蒼星石の左ジャブの技巧を思い知った。
「・・・あ、ああ・・・。なっ・・・何とも、ない・・・」
 うわ言じみた精一杯の強がりの言葉とは裏腹に、男の精神は烈しく掻き乱されていた。
 男は左ジャブの切れには、特段の自信があった。会長から、関東の新人では真似できるものは居ないと言われた
男の左ジャブ。高校の頃から、現在に至るまで、毎日200本の練習を欠かさなかった男の左ジャブ。何と言う残酷か
蒼星石は、男の自尊心の根源の一端を担うこのブロウを、見ただけで完全に会得してしまっていたのだ。


「はい、ミット。・・・マスター、今日はどこか、具合でも悪いんですか?」
 蒼星石は、自らの拳で撃ち抜き、弾き飛ばしたパンチング・ミットを両手で抱えると、愛する男の元へと差し出した。
少女の優しさ、温かい思いやり、気遣い、男の期待に応えたいという真摯な気持ち・・・その全てが、今まさに
男の精神に残虐極まる血塗られた刃を剥く、無慈悲なるナイフと化していた。



禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「今日は、もうやめ・・・ひゃっ!?」
 男は、差し出されたミットを黙殺すると、突然、弾かれた様に立ち上がった。その急激さに、思わず悲鳴を上げ
ミットを取り落とす蒼星石蒼星石の言い掛けた「もうやめよう」・・・これこそ、男が真に言いたかった言葉である。
しかし、男は己の最大の武器である右ストレートに、己の全自尊心、全存在意義を賭ける事を選択したのだ。


「次は・・・右ストレートだ。よく見てろよ・・・!!」
「マ、マスター・・・」
 男の胸の奥に、再びあるどす黒い感情が燃え上がっていた。男はその感情の昂ぶりに肉体を呼応させ、硬く握り締めた
右拳を何度も、何度も、空間に叩き付けた。その度に男の全身からは珠の汗が迸り、見上げる少女へと降り注いだ。
その鬼気迫る様に蒼星石は圧倒されつつも、男の流麗なフォームから目を離そうとはしなかった。
 男の心中からは、かつて少女に左ジャブを披露した時の様な優越感はとうに消え去っていた。真っ直ぐ、余りにも
純粋に己を見つめるオッドアイの輝きに、男は止め処無く続く連打の最中、臓物が震える程の畏怖と、気も狂わん
ばかりの嫉妬とを覚えた。それらの妄念を振り払うように、無呼吸連打は更に加速していった。
――俺の、俺の、右ストレート・・・!俺の、ボクシング・・・!・・・・・・俺の、命・・・!!
 

「ふぅっ・・・!ふぅ・・・!・・・ふぅっ、ふぅっ・・・!」
 男は、40発余りも全力で空間を叩きのめすと、そのまま膝を突き、やはり蒼星石の前に土下座をするような格好と
なった。額から汗が滴り、蒼星石の足下に透明な池が造られていく。肺を直接殴られる様な酸欠の痛みに耐えつつ
男は少女の足下にあったミットを掴むと、無造作に左手を突っ込み、己の顔の前に固く、強く構えた。


「はぁっ・・・はぁっ・・・!・・・やって・・・みろ・・・!!」
「・・・わかりました、マスター。僕の全力を・・・尽くします!」
 蒼星石は、蒼黒に輝くその3ozをゆっくりと掲げていく。その心中に去来する想いは、ただ一つだった。
――僕は、マスターの期待に、応えたい。



禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


 現実は、残酷であった。
 

 ミットの奥に垣間見える蒼星石の姿が遠くなり、再び近くなった直後、男の全身を轟音と共に衝撃が貫いていた。
少女の蒼く小さな右拳によって齎されたその未曾有の爆撃は、深く構えられていたパンチング・ミットの中央部
へと炸裂すると、これを左手もろとも弾き飛ばしそのまま男自身の顔面へと叩き付けた。そして、かの男が見せた
ものと全く同じリズムで、畳み掛けるかの如く少女の全身は躍動し、連打は開始された。


 男は、耳を劈く爆裂音の洪水の中で、己の賭けが散った事を、深く、深く、理解せざるを得なかった。男の最大の
得意技であり、これまでに数多の対戦相手の顔面を血に染め上げ、マットに沈めて来た右ストレート。
 しかし、左ジャブに続き、男のボクシング、いや、これまでの人生の勝利の象徴である右のストレートまでもが
ものの数分で目前の人形に極められ、奪われてしまった。
 今まさに、男のボクシング、全自尊心は少女の右拳の前に砕け散ったのだ。畏怖、嫉妬、憎悪、亢奮、屈辱・・・
男の内奥に渦巻くあらゆる極彩色の感情を巻き込みつつ、少女の連打は更に、残酷苛烈なまでに加速していく。


 男は、蒼星石の渾身の右ストレートを、既に20発近くも薄いミット越しに顔面に浴び続けていた。少女の硬い3ozが
男の脳を蝕むダメージは、もはや厚手のヘッドギア越しにクリーンヒットを受け続けるにも等しいものがあった。
 冷酷なまでに正確なリズムを刻み続ける少女の連打の最中で、男は床中に下半身がめり込んでいくような、あるいは
泥中を漂うような、一種異様の心地良い違和感に襲われた。それが、打ちのめされリングを這い蹲りテンカウントを聞く
敗者だけが味わう事の出来る酩酊感であるという冷たい事実を、男は身を焦がす甘酸っぱい劣等感と共に認識していた。
 やがて、男の左手の感覚は完全に麻痺し失われ、その両足は意思に反して細かく痙攣した。衝撃に時折白目を剥き
半開きの口から涎を垂れ流す男の見るに耐えぬ形相は、ミットに隠され蒼星石からは見えなかった。
 そして、男の肉体と精神に蓄積されたダメージは、ついに、限界を超えてしまった。

 

禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


「・・・・・・も・・・う・・・・・・・・・やめ・・・よう・・・・・・」
 男は、生きたまま臓腑を抉り出される様な嫉妬と屈辱、そして惨めな敗北感に打ちひしがれると、消え入るような
声で目の前の人形、蒼星石に「レッスン」の終了を懇願し、ミットを床に置き、再び土下座の姿勢に戻った。
 しかし、けたたましく反響する打撃音は、男の言葉を完全に覆い隠してしまっていた。


「シッ!・・・シッ!・・・シッ!・・・シィッ!・・・シッ!・・・シッ!・・・シッ!・・・シィッ!・・・」
 一方、蒼星石は、哀しいまでに純粋だった。何も言わずに、ひたすら自分のパンチをその逞しい身体で受け止めて
くれる男。その男の期待に応える為、蒼星石はボクシングに己の感覚全てを没入させていた。
 今、男の構えるミットこそが蒼星石の全てであり、その他には何も見えなかったし、何も、聞こえはしなかったのだ。


 そして、その瞬間はついに、やって来た。


「ぶっ!!」
 ミットを叩く爆音とは明らかに異なる、肉を潰す生々しく湿った破裂音が響くと同時に、ふたりの時間は凍結した。
 蒼星石は、硬く握り締めた右の3ozを男の顔面にめり込ませたまま硬直し、男は、冷たく蒼いボクシンググローブの
ナックルパートを自らの鼻肉に埋め込んだまま、動きを止めていた。
 石の様な沈黙の最中、ふたりの間に、名状出来ぬおぞましき亢奮がスパークした。そして、時は動き出した。


「あっ・・・!!」
 弾かれるように蒼星石が右拳を戻すと、暗く輝く右の3ozの表面と男の鼻腔との間に、粘つく鮮血の糸が渡された。
「はあああぁっ・・・!・・・おうおぉおあぁああおおぉっ・・・」
 男の両の鼻の穴から溢れ出した鮮血は、ひと筋の奔流となって拉げた鼻の頭からフローリングの床へと
流れ落ちて行く。男は、ビチャビチャと垂れ落ちる己の鼻血の前に、うわ言めいた唸りを発するばかりだった。


「ああっ、マスター!・・・僕は・・・なんて事を・・・!!すっ、すぐに手当てをっ・・・!!」
 蒼星石は、己のパンチが齎した凄惨にして残酷なる「成果」に圧倒されていた。グローブを外すのも忘れ、薬の
置いてある台所へと走り出す蒼星石。男の目は、既にその後ろ姿を見ていなかった。



禁じられた遊び(4) 奈落 Der Boden


 隣室から聞こえる、何かを探すような物音を聞きつつ、男は、蒼星石の鋭い右ストレートの味を、反芻していた。
 素人のパンチなら、たとえミット打ちの最中に顔面にグローブを向けられたとしても、完全に避ける自信はあった。
しかしそれが、出来なかった。なぜなら、速過ぎて、パンチが、見えなかったから。男は力無く笑った。
己の弱さに、己の半分しかない人形に圧倒され顔面を血に染められる己の余りの弱さに、男は己を嘲り笑ったのだ。
 未だに噴出を続ける鼻血が注ぎ込み、男の眼下の血溜まりはその版図をじわじわと広げていった。やがてその中に
熱く、透明な液体が一滴、また一滴と注ぎ、波紋が広がった。それは、男の目から溢れ出した涙だった。
 男は、ミットを外す事も忘れ、そのまま左手で目を激しく擦った。ミットの縫い目が目じりと擦れ、血が滲んだ。


 血相を変えてドアを蹴り開け、全速力で駆け寄って来た少女の目にも、涙が光っていた。
「マスター・・・!・・・ごめんなさい・・・!・・・ごめんなさい・・・!!」
 血まみれの顔面へ吐息が触れる程にその端整な顔を近づけ、今にも泣き崩れそうな、沈痛な面持ちで、男を見上げる
少女。涙の蒼星石もまた、美しかった。男は、その美しさへどう反応すれば良いのか、自分でも、解らなくなっていた。
「レッスン」の中で男を苦しめた、嫉妬や憎悪も、勿論あるにはあるのだった。しかし、蒼星石の拳の前に己の人生を
全否定された男の心中には、少女への、男自信ですら未だ認識できぬ、ある危険な感情が芽生えていたのだ。


 片や蒼星石は、丁寧に丸めたティッシュの束を男の鼻腔に詰める作業の中、男の目じりの傷の原因を、悟っていた。
そして、無意識下に己の拳が男の肉体と、精神に刻み込んでしまったダメージの重大さを思い知り、深く、後悔した。
しかし同時に、蒼星石の全身を、ある恐ろしい衝動が駆け抜けていた。蒼星石は精神の動揺を隠すように、己の両拳に
装着されたままだった妖しい輝きを放つ3ozを外すと、真っ赤に染め上げられたティッシュを交換する作業に戻った。


「・・・はい。終わりました。マスター・・・」
「ああ、うん・・・」
 ふたりの視線が一瞬だけ交錯すると、ふたりは一瞬だけ見つめ合い、そして、同時に目を逸らした。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


 ベッドの上に横たわる男と、床に置かれた鞄の中の蒼星石。その夜、ふたりは、未体験の昂奮に苛まれていた。


 蒼星石の鞄が静かになった事を確かめると、男は、恐る恐る、両鼻に詰められたティッシュの束を取り、口に
含んでみた。血の味が、した。そして、暴れる心臓を諫めつつ、ダストボックスを漁ってゆく。銀色の細長い円筒の
中からは、血にまみれたティッシュの塊が、十数個も出てきた。全て、男の流した鼻血を蒼星石が拭き取った物だ。
男は、我知らず紅い紙屑の山に顔を埋めていた。生臭い鉄の匂いが、蒼星石のパンチの感触を呼び起こす。
 下ろしたミットの向こう側から己を見据えるオッドアイ。刹那の内に視界に拡がる、蒼いボクシンググローブ。
冷たく、硬い感触。鼻の軟骨が移動し、潰れるおぞましき水音。顔の中心に生まれた熱源。激痛。そして、快感・・・
 男は、後方の鞄を見やると、音を立て蒼星石を起こす事の無きよう、細心の注意を払ってベッドに潜り込んだ。


 蒼星石の鞄が薄く開けられていた事に、男は気が付かなかった。薄い月明かりの中で、男の奇行の一部始終を
そのオッドアイは映し出していたのだ。蒼星石は、両手をその脚の間に挟み込み、細かく震えていた。両の拳の疼きを
抑えるのに、必死だったのだ。頭上から男の不規則な寝息が聞こえ始めると、蒼星石は静かに鞄を開けた。
 足音を鎮め向かった先には、一対のボクシンググローブがあった。蒼星石はそれを丁寧にはめると握り締め、己の
右拳を覆う3ozを、まじまじと見つめた。中指の第一球体関節がある部分の少し下に、男の鼻血が固まっていた。
 突然下ろされたミットの向こう側に見えた、哀れな程に弱弱しい男の表情。男の鼻目掛けて加速する己の右拳。
全身を襲う凄まじい反動。柔らかくて、とても硬い、男の軟骨の触感。噴き出す鮮血。全身を貫く優越感・・・
 蒼星石は、己の脳裡に投影されたおぞましい映像を掻き消すように、グローブを丁寧に仕舞うと、静かに鞄を閉じた。



禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


「ぐううっ・・・あっあああっ・・・・・・・・・ふううううっ・・・」
「マスター・・・マスター・・・マスター・・・!どうしたんですか?うなされてましたよ・・・?」
 男が目を覚ますとその目前には、胸の前で両拳を握り締め、目を潤ませた蒼星石の美貌があった。男は、反射的に
顔を両手で覆ってしまった。その鼻の穴の周りには、乾いたグロテスクな血塊が幾つも付着していた。
「わひぃっ!!・・・あ、ああ。大丈夫、だ・・・。何か、悪い夢を見てたみたいだ。お、お前も、前髪が乱れてるぞ」
 男は、全身を貫いた緊張から開放されると、蒼星石の髪の柔らかさを辛うじて楽しむ事が出来た。
「あっ、すみません・・・。ええ、僕も何か、悪い夢を見ていたようです・・・」
 ふたりの間を、乾いた沈黙が流れた。秋の風が室内に吹き込み、生臭いダストボックスの匂いを空間に拡散させた。


「行ってらっしゃい、マスター」
「ああ。行ってくる・・・」
 蒼星石は男を見送ると、己の左拳と右拳とを、思い切り叩き合わせた。涙が出るほど、それは、痛かった。


 その日、男は家を出ると、駅とは真逆の方角へと歩き出した。そして、携帯電話を取り出し、職場へコールする。
「すみません、本日は体調不良で・・・。ええ。はい。わかりました。来週、火曜日には・・・」
 男は、名も知らぬ小さな公園まで来ると、ブランコに腰を掛け、うずくまった。もはや、男の頭の中には、かの
少女の姿・・・己の肉体を、精神を、そして人生を打ち砕いたボクシングの天使・蒼星石の姿しか、映し出されては
いなかった。男は眠っているようで、実は、そうでは無かった。男は、昨晩に続き、蒼星石のパンチにより3度目の
敗北を迎えようとしていたのだ。男の全身はさながら試合の後の様に上気し、中秋の寒空に湯気が立ち上っていた。



禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


「ねえ、お兄ちゃん。ブランコ貸して!」
 男は、ブランコから後方へ転げ落ちた。左ジャブに続いて、蒼星石の右ストレートが、男の顔面を叩き潰したのだ。
鼻骨に加え、眼窩、頬骨までがその圧力に拉げ、屈服する様な、凄まじき一撃だった。狂乱する男に迫り来る蒼星石
そして無慈悲にも、フィニッシュへ向け連打は加速する。男の肉と骨が腐ったトマトの様に潰し尽くされると、返り血に
真っ赤に染まった蒼星石の小悪魔的な嘲笑を、身を焦がす敗北感と共に見上げつつ、男はテンカウントを聞いていた。
 名も知らぬ少女は、男を不審そうに見下ろしていたが、それにも飽きたのか、無邪気にブランコを漕ぎはじめた。


 そのころ、日課の洗濯と掃除を終えた蒼星石は、エプロン姿のまま、鏡の前に佇んでいた。悪戯めいた笑みと共に
男に教わったスタンスから、軽いジャブ、ストレートを鏡の中の己の鼻先を狙って打ち込む。すると、その人物が
打ち返して来た。蒼星石はその人物が突き出した左拳に、自らの渾身の右ストレートを合わせる。鈍い音がして、相手の
左拳はガラスの様に砕け散った。泣き叫ぶ男の顔に、左ジャブを連打する。10発、20発。途中で鼻の骨が折れたのか
男は小便を漏らし痙攣していた。更に、顔面の中心へと、左ジャブを突き刺す。30発、40発。50発。60発。70発・・・
蒼星石は、いつしか鏡を蹴倒しその上に跨ると、狂った様に上半身を振っていた。昨晩から数えて、これで3度目だった。
 鏡の中の美少女の顔に、透明な雫が一滴、また一滴と垂れ落ちた。涙を流し、自らの華奢な体躯を抱き締め、えづき
震える鏡の妖精。やがて、その愛らしい姿は自らが吐き出した濁流に侵され、見えなくなっていった。


 男は、無言で帰宅した。
「おかえりなさい、マスター。今日は、早いね・・・どうか、したの?」
 いつも通りの笑顔で、平静を装う蒼星石。しかし男は、蒼星石がシルクハットを被っていない事に気が付いていた。
それが一体、何を意味するのか。蒼星石のしたい事、そして、己が真に、蒼星石にされたい事・・・
 男の背後で、ドアがガチャリと音を立てて閉まった。何気無いその生活音は、轟音と化して男の脳を犯した。


 
禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


 男は、蒼星石をベッドの上に座らせると、真っ白な新品のバンデージを少女の細く、繊細な手指に巻いていた。
男の両手は既にじっとりと湿っていた。男は、自問していた。
――俺が今、蒼星石にしている事は、一体、何なのだろう。俺は何を求めて、蒼星石が俺に何を齎してくれる事を
期待して、バンデージをまいているのだろう・・・
 片や蒼星石も、バンデージをまかれている最中、必死に拳の疼きを抑えていた。
――僕は、マスターにバンデージをまいて貰っている。では何故、マスターは僕の拳にバンデージをまくのだろう。
マスターは、僕に、この僕の拳に何を期待しているのだろう。僕は、マスターに一体、何を返せるのだろうか・・・
 それぞれの答え。ふたりは、本当にそれを知りたかったのだろうか。恐ろしき緊張感の中、バンデージ巻きは続いた。


 続いて、男は自らが創り出した少女専用のボクシンググローブを、手に取っていた。だが、様子が、おかしい。
「うっ・・・!」
 男の眼に飛び込んできた物は、蒼いグローブに炸裂しまざまざとその姿を主張する、どす黒い己の鼻血の痕跡だった。
男は思わず噎せ返り、グローブを取り落とした。
 蒼星石は床に飛び降りグローブを拾い、両拳にはめ、握りを確認すると、白い紐を口で引っ張り、固く結んだ。


蒼星石・・・」「マスター・・・」
 男は膝立ちになり前傾、ミットをはめずに蒼星石と対峙し、頷いた。その行為が意味するもの。己のマスターが
自問の末導き出した「答え」を、聡明な蒼星石はたちどころに理解した。ふたりの「答え」が、視線と共に交錯する。
「本当に・・・いいんですか」
 それは、男への確認であると同時に、己への問いでもあった。男の返答は、yesとも、noとも、つかなかった。


 蒼星石の両拳がゆっくりと浮上すると、美しきオープン・スタンスが、男の眼前に形成された。その両拳は、男を
射程圏内に捉えている。プロテストの時以上の、凄まじい緊張と重圧。汗が、運動もしていないのに流れ、顎から滴る。
 蒼星石の口が、真一文字に強張ると同時に、左のグローブが動く。張り詰めた、硬く冷たいナックルが緩慢に
男の顔面へと迫り「パチン」と、頬を叩いた。小さな拳は男の頬を軽く歪ませたまま、静止していた。



禁じられた遊び(5) 悪夢 Alptraum


「あっ・・・」
「うっ・・・・・・・・・・・・続けて、くれ・・・」
 

 蒼星石の左ジャブは、徐々にその鋭さ、破壊力を取り戻しつつ、男の顔面へと叩き込まれていった。一発ごとに
硬く冷たいグローブを顔面にめり込ませたまま、今にも泣き出しそうな表情で男の顔面を見上げ、容態を伺う少女。
 男は、そんな少女が殴り倒してしまいたい程に厭わしく、そして、抱き締めたい程に愛おしかった。しかし
少女のボクシングの前に翻弄され続ける男には、そのどちらも、叶わなかった。


 ついに左ジャブの速度は、前夜、ミットを弾き飛ばした時のそれと同等にまで加速していた。もはや、男の優れた
動体視力をもってしても、その弾丸の影を捉える事は出来なかった。更に左拳のスピードは、男自身の技量をも遥かに
凌駕して加速を続ける。男は、薄ら白む視界と混濁する意識の中、顕在化した己の感情を、少女へのどうする事も
出来ぬ嫉妬と己の中で理解すると、それに狂った。しかし、それがこのような美少女、己の愛する世界でたった一つの
生きた人形によって与えられていると言う危うい現実が、その激情をむしろ心地良いものとしてしまった。
 一方、肉体は、少女のパンチから逃れようと、無駄に藻掻いていた。しかし、男の全身の機能は蒼星石の華麗なる
ボクシングの前に、次々と屈服させられていく。脚は痺れ、腕は垂れ下がり、視界は歪み、顔面の皮膚の感覚は残らず
消え失せた。尚も断続的に顔面に爆裂する衝撃音の中、男は、現世からの跳躍を果たした。


「マスター!・・・」
 結局、男は、蒼星石の左ジャブの前に打ち倒され、気を失ってしまったようだった。
 右眼の上が、染みた。薬液を染み込ませた綿棒を片手に、男の真上から泣き笑いの表情で語りかける蒼星石
「もう・・・やめましょう、こんな事・・・!このままじゃ、マスターがっ・・・・・・!!」
 言霊が、完結することは無かった。蒼星石はその白く清潔な歯を閉じ、舌を、上の歯の根元に近づけたまま息を殺し
その姿勢のまま、硬直していた。このまま続けたとしたならば、男は果たしてどうなってしまうというのか。
 男の望みは、即ち蒼星石の望みである。即ち、蒼星石の望みもまた、男の望みなのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


禁じられた遊び(6) 異変 Etwas Außergewöhnliches


 翌日も、爽やかな秋晴れだった。土曜日。男を含め多くの働き手にとって、楽しい三連休の始まりとなる筈の日。
しかし、男の心中の空には、目の前の少女への恐るべき妄執が、蒼黒い暗雲と化して垂れ込めていた。


「ちょっと・・・体を動かしに行って来る」
 男は流し込むかの如く朝食を済ませると、何かに追われる様に、家を後にした。別段、何の用事もあった訳ではない。
ロードワークをする気も、ジムに行く積もりも、無かった。男は、気がおかしくなってしまいそうだったのだ。
蒼星石と一緒にいるだけで。蒼星石の煌めくオッドアイが己を見つめる。ただ、それだけで。


 電車で8駅。男が向かった場所は、勤務先の縫製工場だった。当然の事ながら、シャッターは下ろされていた。
茫然と引き返す男の背後から、軽く、小刻みな足音が追い掛けて来る。男は、走った。走りに走り、2つ隣の駅まで
ラソンランナーの如く駆け抜けると、山手線の列車に這い登る様に転がり込んだ。
 休日、正午前の山手線は寂しい程に、空いていた。男は座席に座る事もせず、鈍色の連結幌の上で揺れていた。
 視界が、揺れる。左へ右へ、交互に、揺れる。蒼星石の左フックが、男の顔面へ直撃する。飛び散る唾液。
右フックが、男の頭部をパンチングバッグの様に撃ち返す。唾液に、紅が混じり始めた。時折、視界は縦にも激震する。
左の、アッパーカット。顎を撃ち抜かれる瞬間、眼球に焼き付けられた少女の姿は、美しかった。蔑む様な冷たい視線が
堪らなかった。衝撃で男の全身は直立し、幌に凭れ掛かり再び膝を突く。そして、右のテンプルが強打された。
 列車は不規則に、左へ、右へ、そして上下へと、男を乗せていつまでも揺れ続けた。


 既に日も沈みかけていたが、男は、未だに車内で揺れていた。2枚の引き戸に閉ざされた、都会の喧騒の中心に
現出した鈍色の廃空間。狭く埃っぽいその中で、男は人知れず、揺れ続けていたのだ。
 環状鉄道線を6周余りも彷徨った後、男は幽鬼の様な形相で、己の街へと戻って来ていた。
 男は、2度、死んでいた。



禁じられた遊び(6) 異変 Etwas Außergewöhnliches


 家事を一通り済ませ、いつもの衣装に着替えようとする蒼星石。衣擦れの音と共に、男特製の豪奢なフリルの付いた
薄桃色のエプロンが取り除かれると、少女は控えめな花柄のスリップ、純白のドロワーズのみという格好となった。
剥き出しとなった球体関節が、その妖しくも危うい美しさに、更なる背徳感という魅力を加えていた。


「ねえ、蒼星石
 少女の声が響いた。部屋には、蒼星石ただ一人しか、居ない筈だった。蒼星石は、言いようの無い不安にかられ
その声の主を探した。やがて、目の前に置かれた鏡の中の自分と、目が合った。
蒼星石は、マスターが好き?」
「うん。僕は、マスターが好き・・・大好きだよ」
 蒼星石は、笑った。蒼星石もまた、同時に笑いを返した。


「どのくらい・・・好きなの・・・?」
 蒼星石は、何故かその両手に蒼いグローブをはめつつ、蒼星石に尋ねた。答えに逡巡する蒼星石の目前に、異変が
起こった。蒼星石が見つめる先には、生まれたままの姿で跪く男の姿があった。蒼星石の拳が、痛い程に疼いた。
「僕は、マスターが、好き。マスターの為なら、こんな事だって出来る・・・!!」
 蒼星石の下着は、瞬く間に朱に染め上げられた。男はザクロの様に爆ぜた顔面を蒼星石に向けたまま、絶命していた。
「あっ・・・あああっ・・・!!マスター・・・!!・・・・・・わああああああああっ!!!!」
 蒼星石は、蒼星石に向かって、殴り掛かった。しかし、同時に己の顔面へ迫る蒼い右拳に、蒼星石の拳は静止した。


「ううっ・・・何で・・・!何でこんな酷い事を・・・するの・・・!?」
「簡単な事だよ・・・。マスターの望みを君が叶え、君の望みをマスターが叶えた。ただ、それだけ」
 前髪から、ドロワーズから、そして両拳から鮮血を滴らせつつ、蒼星石は答えた。
「そんなの、嘘だ・・・!!」
「嘘・・・?嘘つきの君に、僕の嘘が嘘であると何故言えるの・・・?嘘つきなのは蒼星石、君の方だよ」
「・・・うるさい!!うるさいっ!!・・・黙れぇっ!!嘘つき!!・・・消えろっ!!消えろっ!!消えろぉっ!!!」


 無数の亀裂が入った鏡の前で、蒼星石は自らの身体を抱き締め震えると、泣き崩れた。



禁じられた遊び(6) 異変 Etwas Außergewöhnliches


 男は、夢遊病患者のようにアパートの階段を登り、降り、10往復近くも徘徊した後、悲愴な笑顔でドアを開けた。
「・・・・・・ただいま」
「お帰りなさい、マスター。ご飯、出来てますよ・・・」
 無言の夕食。しかし、ふたりはお互いの存在を無視している訳では無い。むしろ、それは逆だった。ふたりの間には
異常なる緊張感が張り詰めていたのだ。ふたりは、目の前の献立へと逃げ込む様に、食事に没頭した。
「マスター・・・。今日は・・・」
 蒼星石は、食事を終えてふと気を緩めた瞬間、口をついて出た己の言葉を、禍々しい程の笑顔で呪っていた。
「ああ・・・わかってる・・・」
 男は、その時、自分がどの様な表情でその言葉を返したのかすら、解らなくなっていた。


 その夜、男は少女にフックとアッパーカットを教え、次の夜には、今まで教えた全てのパンチの復習を行った。
 蒼星石は男のボクシング技術を、細かい指導を受けることすら無く、一度見ただけでまるでスポンジの如く吸収し
男を遥かに凌ぐレベルで己のものとしていった。蒼星石には、男と出会う以前から、ボクシングの経験があった訳では
無い。その人智を超えた学習能力の裏には、少女の出生に隠された恐るべき秘密が、その影を落としていたのだ。


 男がこの世界に生を享ける遥か昔、蒼星石は、生きる人形「ローゼンメイデン」シリーズの第4ドールとして創造され
生命を与えられた。その創造主である人形師は、自らが創り出した7体のドールに「究極の少女・アリス」を構成する
特徴を分け与えていた。その中でも特に蒼星石に与えられたものは、優しさ・誠実さ・聡明さ・勤勉さであった。
 蒼星石は、己が見たあらゆる物事、男のボクシング技術を映像として自内に完璧に記憶する事が出来るのだ。
そして、その技術を最も己の体格に最も合った方法として、最適化して身に付ける事が出来る。小さく柔軟なドール
としての肉体は、当然の如く疲れを知らず、筋肉の束縛も受けない。いかに訓練された人間でも、決して追い付く事の
出来ぬ、異常、不条理、残酷なまでの性能差。生まれ持った天分の差が、男の顔面を叩き潰し続けていたのだ。



禁じられた遊び(6) 異変 Etwas Außergewöhnliches


 もはや、「レッスン」の最中、二人の間に言葉が交わされる事は、殆ど無かった。まず、男が立ち上がり、空間を
その両拳で掻き回した後、跪く。蒼星石は流麗なスタンスで男と対峙する。男は頷く。それが、開始の合図だった。
 蒼星石は、男の期待に応える為その顔面を殴り潰し、男は、蒼星石の技術を確かめる為その薄く硬いグローブを
己の顔面に受け止めた。顔面から鮮血の粒子が飛沫となって上がる度、男は、蒼星石の心の揺れが、手に取るように
解るような、そんな気がした。その可憐な顔に血化粧を施した蒼星石も、男と、同じ事を感じていた。
  

 連日、3ozの薄いボクシンググローブ越しに少女のパンチを浴び続けた事により、男の様相は様変わりしていた。
 両瞼は赤々と腫れ上がり所々裂けており、鼻はジャブ・ストレートの衝撃によりへし曲がり、左右のフックの連打に
晒された両頬には至る所に青黒く痣が出来、口の中も数箇所切れていた。顎を直撃したアッパーカットにより幾度も
脳を揺らされ続けていた為か、男は歩きながら白目を剥き、狭窄した視界を宙に彷徨わせる事すらあった。


「マスター・・・。やっぱり、こんなの・・・いけない事だよ・・・!!」
 心優しい蒼星石は、そんな男の異変を誰よりも熟知しており、何度も何度も「レッスン」の中止を男へと願った。
男の持てる限りのパンチ技術を修めた今でも、その切ない想いは、少しも変わってはいなかった。
「ありがとう、蒼星石・・・。けど、俺はまだ全てを教え切ってない。お願いだから最後まで、やり切らせてくれ・・・」
 己の鼻血に噎せ返りながらも、強い意思で語りかける男。蒼星石は、そんな男の願いを、断り切れないのであった。


「マスター・・・!!」
 蒼星石は、大の字に脱力する男の上へと飛び掛かると、血まみれの唇に、己の清潔で柔らかい唇を重ねた。それは
約束のキスであった。男は、一瞬の緊張の後、上半身を圧迫する心地良い肉感に酔っていた。
――軽い・・・。こんなにも小さく、軽い人形に、俺は、俺はっ・・・!!!
 男は唯一動かせる筋肉、舌を少女の口蓋内へ突き刺すと、その柔らかな肉質と乱暴に絡ませ、せめてもの抵抗とした。

投稿SS4・光の食卓(後編)

光の食卓(15) 訪れる終焉


 少女は、男の眼がその光を失った事を確かめると拳を止めた。そして、生臭い濃霧の中から甘やかな声が響いた。
「お兄様の魂、確かに頂きましたよ・・・!流石は私が見込んだお兄様・・・!発狂する直前まで『私』の名前を
呼んでいましたね。くっくっく・・・あーっはっはっはっはっはははっ!!!・・・おじいさまとそっくり・・・!
本当に人間というのは愚かで、無様で、弱くて・・・!くっくっく・・・!でも、これで終わりではないのです。
私の『食』は始まったばかりです。さあ、私の選択に適った幸運を、その身でたっぷりと噛み締めるのです・・・!」


 ズジュッ!!湿った擦過音に続いて爆裂音が地獄を震わせた。着弾点から巻き起こった衝撃波が真紅の濃霧を一息に
吹き飛ばすと新たな鮮血が爆発飛散しコンクリート壁を叩き付けた。少女の右ストレートが、男の鼻を撃ち抜いたのだ。
 霧が晴れ、露になった少女の肢体は、まさに吐き気を催す程の危うい美を放っていた。白く清潔だったウェアは
その分子一つも残さず朱に染め上げられ柔らかな肢体に密着し、絹の様に滑らかで白かった地肌も本来の猟奇的色彩を
取り戻したかの様に地獄色に塗り潰され、流麗なる長髪は狂気のシャワーを浴び艶かしくも鮮血を滴らせ輝いていた。


 インパクトの瞬間、少女の右拳は男のゼリー状の異物と化していた鼻部を更に叩き潰し、鮮血の鞭を天井へと
叩き付けるとその莫大な衝撃は直ちに脳機能を停止させた。ついに死が、今生との永遠の訣別が男に訪れ、漸く無限の
苦しみから解放される時が来たのか。しかしそれは、大いなる錯誤だった。
 男がロープから勢い良く跳ね返されると、新たなる鮮血の爆発が起こった。左ストレートが、迫り来る男の顔面へ
カウンターとなって撃ち込まれたのだ。男の大脳は悲しむべき事に、衝撃により再び機能を回復した。そして
反動で更なる恐るべき速力をもって跳ね返る男の顔面に、少女の右のグローブがより深く、より鋭くめり込んでいく。
 そこから先の光景は、阿鼻叫喚の地獄絵図という表現ではおよそ形容し切れない程の、人外境そのものであった。 



光の食卓(15) 訪れる終焉


 徐々に細くなりゆく男の心臓の鼓動とは裏腹に、硬い12ozが男の顔肉を撃滅する衝撃音は鼓膜を破らんばかりに
その音量を亢進させていき、飛び散る鮮血は全空間を狂気に巻き込まんとしていた。
 一撃毎にその凄惨さを増していく少女の凄絶なるストレートパンチに、男は鮮血を爆裂させ、或いは天井と壁に
吹き付ける事でしか応える事が出来ない。しかしやがて、少女の眼を楽しませる異変が起こり始めた。


 高らかな放屁音と共にトランクスの隙間から漏れ出したのは、男の糞であった。物言わぬ運動機械の如く沈黙を
守る男の体内では、既に恐るべき生死の葛藤が行われ始めていたのだ。そして、加速する暴虐に耐え切れず焼き切れた
男の中枢神経系は、その生理現象の管理を放棄してしまった。続いて左ストレートをその顔面に受けては小便を噴出し
更に右ストレートが肉を叩き潰すと男は大量の涎を垂らし射精した。
 見るに堪えぬ呪われし惨景に、どの様な凶悪殺人犯であっても人間ならば、僅かなりとも躊躇が生じ暴力の手を
休める筈である。だが、少女は人間では無い。従って、男がどの様な狂態を晒そうと、暴虐は当然の如く続行される。


 鮮血の鞭はその狂勢を更に増して蛍光灯を前後に塗り潰し続ける。やがて、二人の顔を激しい赤光の明滅が照らした。
無限に続く破壊の最中、男の出血量はそのピークを迎えていた。「その瞬間」が近づいたのだ。男の脊髄は心臓に
命じて全身の血流を頭部へ殺到させ停止した脳機能を復活させんとした。だが、最期の努力もまた、徒労に終わった。


 耳を劈く轟音と共に、最後の破壊が男を現世の苦しみから解放した。恐るべき狂的速度をもってロープから発射された
男の顔面を、少女の右拳が正面から撃ち滅ぼしたのだ。ステップインと共に撃ち出された冷たく硬い12oz、そして
残虐なる欲望を最大級のカウンターとしてその顔面に享受した男は、鮮血の鞭を撒き散らす事も無く仰け反りロープに
跳ね返り、無慚に潰滅したその顔肉を血の池と化したリングへと叩き付けると、壮絶なるバウンドの後、沈黙した。
 少女は、男の脇腹を朱に染められたリングシューズで蹴り上げ仰向けにすると、呼吸が納まり心臓の鼓動が停止した
事を確認した。冷たい地下空間に、少女の両の12ozから滴る鮮血の水音だけが響き続けた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(16) 不老不死の霊薬


 男は、無限の暗黒の中にいた。落下しているのか、浮揚しているのか。あらゆる灯りが遮断されたその世界の中では
それは確かめようもなかったし、確かめたところで、どうするというあても無かった。ここにいつ来たのか。ここから
抜け出したいという考えは、かつてはあったのだろうか。何もかもが、思い出せない。男はただひたすらそこに
存在し続け、そしていつしか全てを忘れ、思い出すことをやめてしまっていた。
 それから、どれだけの時が経ったのか。限りなき漆黒無音の宇宙に、一筋の光条が投げ掛けられた。光は徐々に
暗黒を切り裂き、その宇宙の全空間を満たすと、覆い尽した。


 あたり一面に競う様に咲き誇る蒼い花。清涼感に満ちた甘く芳しい香りが、男の鼻腔をくすぐる。男が佇んでいた
その場所はラベンダーの花園であった。そして、頭上から声が降り注いだ。しっとりとした、少女の声だ。
ごきげんよう。お兄様。ここは全ての人間が死後、その魂の行方を決める分岐点です」
 男は、その声の主が誰なのか思い出せなかったが、とても大切で、心が安らぐ存在だという事だけは感じられた。
相手の言葉を疑うという発想も無く、男は己の境遇を淡々と受け容れた。不思議と悲しみは無かった。


 更に、声は続いた。天を見上げる男。その眼界には雲一つ無い青空が広がっている。
「お兄様には、二つの道が用意されています。一つは、このまま永遠に独りで暗黒を彷徨い続ける道・・・」
 男の手の中には、いつの間にか透明なグラスが納まっていた。中には、黄金色の液体が満たされている。
「もう一つは、その霊薬を飲み、現世に還り人生をやり直す道・・・。さあ、ご決断を」
 男がグラスの中の熱い液体を見つめ、恐る恐る口へ運んだその時、もう一人の少女の悲痛な叫びが世界に木霊した。


――お兄ちゃん、行かないで・・・!光を一人にしないで・・・!
 その声が男の耳に届いた時には、もう遅かった。急速に歪曲し圧壊していく世界の中心で男が最後に見たものは
ラベンダーの代わりに咲き乱れた幾千幾万の廃人の屍だった。そして、降り注ぐ紅い雨が視界を真紅に塗り潰すと
交互に聞こえていた少女の嘲笑ともう一人の少女の嗚咽も、やがてフェードアウトしていった。


 
光の食卓(16) 不老不死の霊薬


 財産、権力、名声、美食、色欲・・・古来より、人間界に存在し得る全ての楽しみを極めた支配者が最後に求めた
ものが「不老不死の霊薬」であった。秦の始皇帝を始めとして、世界各国の王侯貴族、為政者がこれを求めに多くの
人間を遣わせたが、持ち帰って来た者は誰一人として居なかった。やはり、見つからず帰国する者や道程で命を落とす
者が大半であったのか。だが確かに、不老不死の霊薬は存在し、それを口にした者もまた存在したのだ。
 しかし、彼ら――不老不死者たち――の末路を知る者は、誰一人として居ない。


 再び男は、息苦しさに眼を覚ましつつあった。地上では既に日が傾き始めていた。男の口をぴたりと塞ぐその物体は
数時間前に男に舞い降りた唇の様に柔らかく、ほの暖かい肉の塊であったが、視界が利かぬ男にはそれが何であるかは
わからなかった。口の中が熱い。何か、得体の知れぬ液状のものが男の口内を満たしていた。既に、いくらかそれを
飲んでしまったのだろう。その液体が胸の中から吸収され、臓腑を駆け巡り全身に浸潤していく様子が感じられた。
 急激に高まっていく口内の液圧に、男の頬が蛙の様に膨らんだ。人智を超えたその味覚を男の舌は理解できなかったが
本能はそれを求めた。男は注ぎ込まれた液体を飲み干すと口内の液体の源である肉塊に吸い付き、ミルクをねだる赤子の
様にそれをビチュビチュと吸い続けた。粘りつく肉塊の下で、男は己の心臓の鼓動が早鐘を打つ爆音を聞いていた。


 最後の一滴をその口内へ搾り出すと、男の顔面に吸い付いていた液源は、淫猥な水音を響かせつつ上空へ持ち上がり
その血まみれの威容を男の眼前に現した。男はその神々しい存在感に思考力を奪われてしまっていた。


「おはようございます。お兄様。ご気分はいかがですか?」
 蠢く肉塊の主が男に語りかけると、男の聴覚はその甘やかで安らかな美声を確かに受け容れた。ただただ、ぼんやりと
蠢く肉襞を見つめ続ける男。少女は男の表情をこの上無く残忍な薄ら笑みを湛えた一瞥をもって見下すと、トランクスを
穿き直し左の12ozで男の首根っこを背後から掴み上げた。血管に食い込む拳に、男の意識が鮮明になる。人間ならば
甘い吐息がかかるほど右耳に唇を近づけ、少女は囁きかけた。



光の食卓(16) 不老不死の霊薬


「ふふふ・・・お兄様は勇敢でしたよ。忘れましたか?お兄様が私のボクシングに破れ、その命を落とした事を」
 男の返答は無い。
「くすくす・・ご自分の死も解らない・・・!なんてお労しいお兄様・・・!」
 少女は労るような言葉面とは裏腹に、妖艶に涎が煌めく唇を心底愉しげに歪めると、恐るべき膂力をもって男の首筋を
吊り上げリングサイドの大鏡の前へと突き出した。そして右掌を男の額に当て、皮膚もろとも両の瞼を引っ張り上げると
鏡の中で窒息と言い知れぬ不安、恐怖に喘ぐ男へと語りかけた。


「さあ、見るのです」
 二人の見つめる先に拡がっていた凄まじき光景は、男に己の呪われた運命を理解させるに十分だった。
 鏡に投影された男の相好は、もはや人間のそれとは似ても似付かぬ、どの様な無慚な不具者よりも遥かにおぞましい
瘴気を放っていた。まず唇は醜悪な兎の様に上下とも真ん中付近から二つの肉塊に引き裂かれ、計四つの肉塊が
思い思いに悶え苦しみ捻じ曲がり、全ての表皮が剥げ落ち中身の赤黒い肉質が見えていた。その内部には本来ある筈の
男の歯は一本も生え残っておらず、幾つに砕けたのかも解らぬ破片が口内壁や歯茎に突き刺さっているのみだった。


「お解りになられましたか?お兄様は私にボクシングで、くふふっ・・・!完膚無きまでに叩きのめされ、そして・・・」
 腐臭を放つ己の顔面の余りの醜さ、痛ましさに眼を背けようとする男。しかし、少女の両拳はそれを許さなかった。
男には首を振るどころか、瞬きをする自由すら与えられなかった。鏡の中でヒクヒクと蠢く男の頬は、何か猛毒を有する
未開地の果実の如くある箇所は赤、またある箇所は青黒という様にサイケデリックな色彩を宿しつつ膨れ上がっていた。
無数の圧傷の中に、少女の左右のストレートによって刻み込まれた巨大な刀傷の様な裂傷が左右に一本ずつ男の頬を
縦断し、外側に惨たらしくめくれ上がったその内部からは血や脂、その他体液の混合物がドロドロと滴っていた。
 

 少女は右拳を男の瞼から解放した。しかし、男は鏡に映った己の顔面の惨状から眼を離そうとはしなかった。やがて
男の眼に混乱、悲愴、戦慄、あらゆる感情の色が交互に浮かんでは消えた。少女はその様子を満足げに見つめ続けた。



光の食卓(16) 不老不死の霊薬
 

「くっくっ・・・くふふふふふっ・・・!もうお兄様にもお解りになりましたね・・・?それがお兄様のお顔・・・!
お兄様の血・・・!そうです。お兄様は、私に、私のこの拳によって、殴り殺されたのです・・・!」
 少女は、幾度と無く男の顔面を撃ち抜き、変形させ、陵辱し、その魂ごと苛め殺した兇器たる右の12ozを男に
見せ付けつつ、宣言を下した。男は、泣き喚く事も出来ず顔面下部に開いた肉穴をあうあうと上下させ血の泡を吐いた。
 もはや、男の顔面の中心に聳えていた鼻は、見る影も無かった。そこに有ったのは、潰れた肉の塊とすら言い難い
黒く蠢く海底の得体の知れぬ軟体生物の死体の様な、細胞の死骸の集まりだった。既に何処が鼻の穴かも解らない。
孔が二つある事さえも解らない。血と肉と骨の渾沌がそこにあるのみだった。


 しかし、瞼だけは他に比べると損傷は軽微に収まっていた。少女の恐るべき拳闘技術をもってすれば、かの鼻の様に
男の眼球を叩き潰してしまう事は容易い事だった。なぜ、少女は男の視覚を残したのだろうか。
 言い知れぬ人外の狂気、鬼畜の悪意がそこにはあった。少女は垂れ落ちる涎を拭う事もせず、続けた。


「人間の出血の致死量を知っていますか?くすくす・・・何故、生きているのか、お兄様が現世に留まって居られるのか
不思議でしょう・・・?それは・・・くふふっ・・・!飲みましたよね・・・?あんなに美味しそうに・・・!
あんなにいやらしい音を立てて・・・!32223日もの間、溜めていたのですから・・・!お兄様には、私の選択に適った
幸福を『永久に』噛み締めて頂きましょうね・・・!」


 男の視線は己の顔面の惨状をすっかり眺め尽くすと背景のリングへと彷徨い始めた。赤黒い。青い筈のリングが漆で
塗り固められた様に赤黒いのだ。思わず視線を天井へ逸らす男。天井も赤黒い。ロープの一本一本に至るまで、空間は
鮮血に閉ざされていた。言うまでも無い。それは、己の血なのだ。深い、余りにも深遠なる絶望。男は、少女の言葉を
受け入れざるを得なかった。だが、己を待ち受ける未来については、もう何も、考えられなかった。考える事を恐れた
のでは無い。そこから先は、人類未踏の領域だった。永遠の空白、絶対不可侵の神域へ、二人は足を踏み入れたのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(17) 亡者の舞


 少女の神聖なる蜜壷から溢れ出し、男の体内へ注ぎ込まれた液体。それこそが古代より人間が長く探し求めて来た
不老不死の霊薬そのものであった。少女達「護り手」は星の使命に従い、あるいは己の欲望を満足させる為毎日無数の
人間を死骸に変え、その魂、生命を吸収し蓄積している。彼女達が素体の肉体を通じて放散する無垢なる生命の粋・・・
不老不死の霊薬の正体はそれであったのだ。幾千幾万の人間の無念、悔恨、怨嗟、呪詛を一挙に凝縮した、それは
まさに神秘の妙薬であった。
 ではなぜ、彼女はそれを男へ与え給うたのか。


――たすけて・・・!たすけて・・・!たすけてたすけてたすけてたすけてぇぇぇぇぇぇ・・・!!
 声を上げる事も出来ずただひたすら祈り、懇願する鏡の中の男。突如、挽き肉を叩き付けるが如く嫌らしく湿りきった
打撃音が響くと、その醜く、哀しき鏡像を紅い液体がビチャビチャと音を立てて汚した。少女の声がその後を追った。
「くすくす・・・『助けて』?いいですよ。もっとお兄様のお顔が可愛くなる様、私が助けて差し上げますね・・・!」


 少女は右拳を固く握り締めると、そのまま力任せに男の顔面へと叩き付けたのだ。峻厳なまでに高められた少女の
ボクシング技術の美しさは欠片も感じさせない、それは荒々しくも恐るべき一撃だった。左拳で首筋を固定したまま
更に打撃は続く。1発、2発、3発・・・鏡の中で小刻みに仰け反り、全身をビクビクと痙攣させ屍のダンスを踊る男。
陰惨なる潰滅音が10回も響くと、いつしか鏡の中の男の姿は血の海に沈み、見えなくなっていた。それは、これからの
男を待ち受ける呪われた運命を象徴しているかのようでもあった。それでも、嬉々として少女は右拳を振るい続けた。


 生きた死人である男には、もはや失神して激痛から一時の安息を得る事も許されなかった。顔面の中心へ叩き込まれる
少女の右のナックルパートがその肉を潰し、魂を苛む度、哀れにも蘇った男の大脳には人智を超えた激痛が注ぎ込まれ
その結果全身の血流が再び頭部、脳へと集中し、かつて鼻が聳えていたその部分からスプレー状に飛散してしまうのだ。



光の食卓(17) 亡者の舞


 打撃音は20数発も響き続け、そして終わった。右の12ozには迸った男の鮮血が既に限界を超えて染み込み、また幾十層
にも表皮に塗り重ねられ形容の術無き輝きを放っていた。少女の清冽なる舌が12ozに静かに触れ、熱い唾液が表層を
融かすと、どす黒い腐臭を放つ混合液がか細く華奢な喉を通っていく。少女のトランクスの内部が、ジワリと湿った。
 再び鮮血の微粒子に覆われたリングの一角。少女は血に溺れもがき喘ぐ男の正面に立つと、こう告げた。
「お兄様は本当に幸せ者です。死を越えて私の想いの全てを、そのお顔に受ける事が出来るのですからね・・・!
ああ、この感覚・・・!実に32223日ぶり・・・!私のパンチ・・・しっかり受け取って下さいね・・・!!!
そして、悶え、苦しみ・・・!くふふふふふふっ・・・!!最高のショータイムの始まりです・・・!!!」


 少女の左拳が、万力の如き膂力をもって男の喉を抉った。全く息が出来ない。更に圧力が増し両足が宙に浮いていく。
男は未知の恐怖に喉の奥底から鼾の様な呻きを上げ、足を無様に、力無くばたつかせ唸った。骨が軋み異音を発する程
握り締められ、振り被られていく右の12oz。少女の拳が小刻みに揺れる振動が男の脳に直接伝わる。少女の全身の筋肉が
限界を超え引き絞られ、素体が悲鳴を上げているのだ。そして少女の肢体の激震が最高潮に達すると同時に、その小さな
口が開かれ、異界の咆哮が男の耳を劈いた。その瞬間、魂が石化し、己の血にまみれた男の頭髪は残らず抜け落ちた。


 爆裂音が轟いた。今までとは明らかに異質の、決して人間対人間の殺し合いでは聞くことが出来ない、定めしそれは
死という概念そのものを音波に変換し数十倍に増幅したかの様な、凄まじき冥界の虐殺音であった。
 少女は左拳を解放すると、落下する男の顔面に「それ」を叩き付けたのだ。「それ」は、彼女が85年余りの間叩き殺し
続けた数万の人間には決して向けられなかった、人肉の許容量を超過して数倍に凝縮された「死」そのものであった。
 「それ」はまず男の顔面の中心へ着弾すると、顔面の全ての肉を内奥へとミンチ状にすり潰しつつ押し込み、未曾有の
衝撃は頬骨、上下顎骨、眼窩など全ての顔面骨に無数の亀裂を走らせると、爆発的に男の全身を回転させ、発射した。



光の食卓(17) 亡者の舞


 拉げた顔面に開いたあらゆる傷口から、高圧の血液を扇状に噴射する男。鮮血の帯はまず少女の顔面を塗り潰し
リング上の天井を奔り、十数m後方の壁を叩き付けた。そして、いかなる天変地異でも考えられぬ超常的なスピードで
空中を半回転した男は、そのまま後頭部から硬いリングに激突すると、悪趣味な前衛芸術作品の如く垂直に倒立した。
 それから暫くした後、男は緩慢に傾斜し、うつ伏せに自らしたためた鮮血の池の中に沈んだ。


 少女は恐るべきパンチのフォロースルーにより自らの顔に巻きついた黒髪を払いのける事もなく、右拳に残る
確かな痺れ、惨殺の手応えに陶酔していた。そして、禍々しき殺人道具に付着した男の血肉の混合物を舐め取ると
グチャグチャと美味そうに咀嚼しつつ、少女は待ち望んだ男の狂態、死を越えた亡者の舞を堪能した。
 狂乱は直ちに始められた。うつ伏せに倒れた男は、恐るべき暴威で噴き出す己の鮮血の圧力を制御出来る筈も無く
その暴圧に弾き飛ばされ仰向けになった。少女の眼前に晒された男の顔面は、それを見た全ての人間を嘔吐させ
精神に一生消えぬ楔を撃ち込むに十分な程、見る影も無く損傷していた。
 顔面の中心よりやや下、昨日まで鼻や口が有った部分はもはや月面のクレーターの様に不規則な半球状に落ち窪み
爆心点であるその中心はもはやどの器官なのかも解らぬ、肉と血と骨と脂が混ざった暗黒になっていた。そして人間の
限界を超えた顔面肉の圧縮は、男の頬骨を軋ませ、その顔輪郭を蟹の如く横に押し潰した。
 

 半分に千切れた百足の如く左右に身を捩じらせ、海老反りになり、断末魔のダンスを踊る男。少女の振るった右拳。
フックか、ストレートか、それすらも解らぬ魔の一撃は、あらゆる人間を死に誘うに十分過ぎる威力を秘めていた。
しかし、呪いの妙薬を口にした男には、死を受け入れ苦しみから逃れる事も叶わない。
 男はもはや、無様にリングを這いずり回って少女の欲望に応える事しか出来ないのだった。
 地獄の騒乱に合わせ、リングに、天井に、そして少女に噴き付けられる男の鮮血。やがて、血の池には紅だけでなく
黄土色や茶色の濁流も注ぎ込まれた。鮮血、吐瀉物、大小便、そして涙・・・己のあらゆる体液の汚濁にまみれる男。
生と死の境界すら、少女の拳の前には意味を成さなかったのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(18) 蜘蛛の糸


 不老不死――誰もが憧れ、力ある者は追い求めた人類の夢――それは今まさに、男へと授けられていた。しかし
永遠の命を得た男を待ち受けていたものは、限りある生を生きる者には夢想する事も許されない、限り無き悪夢だった。
 生ある者は、いつかは死ぬ。それがこの星の摂理である。男は、それを冒したがばかりに、このような報いを
受けているのだろうか。否、摂理を冒したのは、むしろ少女の方であった。


 陸に上がった魚の様に、ビチビチと汚濁の中で暴れ狂い続ける男。少女はゆったりとロープに靠れくつろぐと、その
酸鼻たる地獄風景を両のグローブ越しの手拍子を送りつつ楽しんでいた。しかし、これだけの破壊をもってしても
なお少女の残虐なる欲望が満足される事は無かったのだ。少女は手拍子を止め、リング中央の血の池へ足を踏み入れると
声無き呪詛と鮮血を撒き散らすその醜く潰れた顔面を、血染めのリングシューズで踏みつけた。


――しんじゃうぅぅぅしんじゃうぅぅぅ・・・しんじゃうしんじゃうしんじゃうぅぅぅぅぅぅっ・・・!
 男は細かい亀裂の入った頭蓋後頭部を支点に、一個の肉ゴマの様に暴れ回った。少女は、屈辱的な行為とは裏腹の
女神を思わせる甘く優しい口調をもって、己の足下へ声を投げかけた。
「ご安心を。お兄様はもう死ぬ事はありません。何と言っても、私の大切なお兄様ですものね・・・!」


 少女が脚を離すと、男は己の顔面を踏み躙ったそのしなやかな脚に緩慢に、しかし懸命に縋り付いた。もはや
打撃に晒され続けた男の大脳は正常な思考を保つ事が出来なくなっていたのか。その浅間しき様子は、ある小説の中で
地獄に堕ちた罪人が、極楽から垂らされたひと筋の光り輝く蜘蛛の糸に縋り付く様子を想起させた。
 全身の力を振り絞って少女の肉体を這い登る男。数十秒かけて、無慚にも砕け切った両手が、やっとの事で
少女の膝に掛かったその時、男は右頬に圧力を受け、爆裂音と共に現世の地獄、血の池へと叩き落とされた。
 少女の左拳が、男の頬へと叩き込まれたのだ。先の暴打により張り出した頬骨を直接打ちのめした12ozは、更にその
亀裂を拡げ、男の首を頚椎の可動範囲の限界まで捻ると、その顔面を再び汚濁の中へと叩き込んだ。



光の食卓(18) 蜘蛛の糸


 蜘蛛の糸は、切れた。これは男の心にやましい部分があったから切れたのでは無い。差し伸べた少女が、自ら
切り落としたのだ。人間界の理を超越した、冥界の理不尽がそこにあった。
 男は、暫く血の池に死んだように沈んでいたが、更なる緩慢さと懸命さとをもって、再び少女の肉体へと挑んだ。
結果は、同じだった。少女の太腿に手をかけた男は、少女の右フックにより己の左頬骨にヒビが入り、頚椎が
人体の限界を超えて歪む異音を聞きつつ再び血の池へ沈み、激痛と絶望に悶え狂った。後は、同じ事の繰り返しだった。


 それから20分余りが経ち、6発の打撃を経て男の両頬はかつての2倍半程にも膨れ上がり、頚椎の損傷は首を僅かに
動かすだけで壊滅的鈍痛が脳を焦がすまでに亢進していた。それでも、それでも男には、少女の肉体へ縋る他に道は
無かった。時間にして10分程であったが、男にはそれが永遠にも感じられた。いつあの紅い弾丸が己を地獄へと
叩き落すやも知れぬ恐怖に戦慄し、砕けた両手と顔面、首の激痛に血の泡を噴きつつ男は無慈悲なる山脈たる少女へと
挑み、そしてついにその頂上を極めた。男の砕けた右手が、漸く少女の肩に掛かったのだ。
 少女はその膨らみに男を抱きすくめると、額に柔らかく潤んだ唇を重ねた。汚物にまみれた男の額に、生白い
キスマークが刻み込まれた。男は、これまでの辛苦、屈辱も忘れ、湧き上がる達成感に涙を流し喜びに打ち震えた。
「うふふふ・・・お兄様、よく頑張りましたね。これは私からのプレゼントです。お受け取り下さいねっ・・・!!」


 その言葉が言い終わるや否や、男は骨が砕ける爆砕音と共に飛翔していた。少女の左アッパーカットが男の顎を
穿ったのだ。血の池の飛沫が天井に達し、リングが陥没せんばかりの暴威をもって踏み締められた脚のキックを受け
恐るべき猛威を得た左の12ozは、身も心も凍る殺意を乗せ男の比較的無事であった下顎骨に直撃すると、中央部から
それを無茶苦茶にも叩き割ったのだ。しかし、少女から与えられた「プレゼント」は、これだけでは無かった。


 即死する事も、意識を失う事も出来ず空中で死の苦しみに喘ぐ男。男が落下を始め、顔面が水平になったその瞬間
更なる破壊が襲い掛かった。



光の食卓(18) 蜘蛛の糸


 左アッパーカットの直後ステップインしていた少女は、その無防備なる顔面に全身全霊全膂力を込めた右拳を
撃ち下ろしたのだ。耳を劈く爆裂音と共に、鮮血の微粒子が水平同心円状に幾十層、幾百層にも飛び散る様子は
超新星爆発の様な神々しささえ感じさせるものであった。男はおぞましき速度で汚濁へと叩き付けられていった。


 永い永い苦悶と不安に打ち勝ち蜘蛛の糸を登り切り極楽に到達した途端、またも地獄に投げ落とされた男。しかし
無慈悲なる幼き女神の嗜虐心は、男を地獄に落とすだけでは決して、満足される事は無かった。
 空中で男の顔面に抉り込まれた少女の右拳は、男の後頭部がリングに叩き付けられるその瞬間まで、なおも男の顔面を
捉えていたのだ。


 そこからの有様は、まさに言語を絶した。激突の瞬間、男の両足は反動で高々と持ち上がり、暫し静止し、大蛇の様に
うねくった。そして、少女は右拳に全体重を預け、右へ、左へ、抉って抉って、抉りまくった。グローブと顔面の隙間
から、夥しき量の鮮血がスプリンクラーの如き圧力をもって半球状に放射され、血の霧となって再び二人の姿を
リング上から消失させていく。少女は哀れなる男の顔面を存分に捏ね回し、鮮血の圧力、絶望の味をその拳で堪能すると
12ozを離し、垂直に迸った鮮血を己の顔に浴び、獣の様に咆哮した。そして鮮血がその勢力を減ずると、再び真紅に
輝く兇器が男の顔面にめり込んだ。今まさに男の全ての希望は潰え、絶望だけがそこに残されていた。


 これが、全ての不老不死者の末路であった。なぜ、彼女達は死すべき人間どもへ永遠の命を与えたのか。
その目的は、己の欲望の充足、ただそれだけであった。
 少女は言わばこの星の管理者であり、摂理の外に位置する存在である。地球開闢以来、不老不死を得た人間はその
全てが、彼女達「護り手」に男と同様に秘薬を飲まされ、人智を超えた暴虐に魂を弄ばれ、無間地獄を彷徨ったのだ。
 彼女達の与える不老不死とは、「死なない」という事ではない。不老不死者は薬が効いている限り「死ねない」のだ。
もはや、男は少女にとっての楽しき玩具でしか無くなっていた。遥かな昔から何十万、何百万の人間を死骸に
変えてもなお尽きせぬ欲望。その欲望を、男の血肉はどこまで叶えることが出来るのか。陵辱は、まだ終わらない。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(19) 涙


 あれから、どれだけの時間が経ったのだろうか。既に、地上は月明かりに照らし出されていた。
 一方、地下の神域は再び氷の様に冷たい静寂を取り戻していた。もがき苦しむ気力も体力も尽きたのか、男はただ
汚物の池に仰向けに沈み、消え入りそうな呼吸をその無慚にも潰滅した肉孔から不規則に出入りさせているのみだった。
クーラーの送風音、男の呼吸音、断続的に天井から滴る血の雨音。その三種の旋律だけが地下空間を支配していた。
 

 ぴちゃっ・・・ぴちゃっ・・・・・・・・・ぴちゃっ・・・ぴちゃっ・・・
 男の耳に届いた第四の旋律。男の脊髄は、ゆっくりと己に接近するその水音に凍りついた。暫くして水音は止まった。己の


右耳に生臭い汚濁の飛沫が掛かる不気味な感触に、男は微動だに出来ずただ呻いた。そして言い知れぬ被虐の
恐怖にその全身を彫像の如く強張らせ、固く眼を瞑った男に、意外の言葉が投げ掛けられた。


「うふふふ・・・良くここまで頑張りましたね、お兄様・・・。さぞや、恐かったでしょうね・・・。もう、休んでも
いいのですよ・・・?あと1分もしない内に『お薬』の効果は切れ、お兄様には永遠の消滅が訪れます」
 少女は、繊維の一本一本にまで男の鮮血が染み込んだトランクスをするすると下ろし、男の醜怪なる腐肉に跨る様に
屈み込むと、その内部に蠢く神秘の肉襞を男の顔面の上空20cmに浮遊させ、そのまま言葉を続けた。
「お兄様に、選択権を差し上げます。このまま消滅を選び、永遠の安らぎを得るか・・・もしくは・・・」


 少女の言葉が終わらぬ内に、男の体内に異変が起こり始めた。男は、突如として水中に沈められた様な窒息感に
喘いだ。少女の言う通り、霊薬の効力が切れたのか。もはや、死人である男には地球上の大気を構成する全ての元素が
猛毒となって襲い掛かっていた。朽ちた両手を懸命に伸ばし、脚を複雑怪奇に曲げ、胃液を噴き上げ運命に抗う男。
 少女は言霊を止め、男の生死の葛藤を存分に楽しむと、涎に艶かしく光る唇の隙間から、再び言霊を紡ぎ出した。



光の食卓(19) 涙


「もしくは・・・!私の『ここ』に『誓いのキス』をし、永遠に私を楽しませ続ける栄誉を手に入れるか・・・!!」
 急速に歪み、ブラックアウトする男の視界。男の大脳は、おぞましい煩悶の中、少女から与えられた「選択権」の
意味をしっかりと理解していた。視覚が失われ、聴覚が失われ、己の存在が消えていく。完全なる漆黒無音の宇宙の中
男は肺を直接抉られる様な窒息の苦しみと損傷した頚椎の激痛に苛まれながらも、その首を、懸命に持ち上げていった。
暫くして、男の脳に直接、甘やかな天啓が響き渡った。


「・・・お兄様の願い、確かに受け取りましたよ・・・!さあ、たっぷりと味わうのです・・・!!!」
 ・・・ぐぢゅうぅっ!!・・・・・・ぷっ・・・ぷしゃあっ・・・じゅわぁぁぁぁ・・・
 男の望みは、叶った。体内に直接注ぎ込まれる霊薬を飲み干すと、あれだけ苦しかった呼吸が、嘘の様に楽になった。
やがて男の目じりから、紅い液体が脈々と伝った。それはひと時の生を得た歓喜と、死を受け容れる事が出来なかった
悔恨が入り混じった血の涙だった。少女は男の呼吸が戻った事を確かめると、静かにトランクスを穿き直した。
「くっくっ・・・お兄様もそれを選ばれましたか・・・!人間と言うのは本当に誰も彼も、殴られる事が好きで好きで
仕方が無いのですね・・・!いいでしょう。これから、お兄様の心行くまで、その望み・・・私のこの拳で叶えて
差し上げましょう・・・!!そう、『永遠』に・・・!!!」


 少女は、左拳で男の喉を鷲掴みにすると、ゴミを持ち上げるかの如く軽々とその肉体、顔面を己の頭上へと差し上げ
止め処なく溢れる血の涙を味わった。もはや、悲哀と絶望の権化たる男は、少女のされるがままに任せる他無いのだ。
「うふふっ・・・!!どうしました・・・?私のパンチをそのお顔に受ける事が出来るのがそんなに、血の涙を流すほど
嬉しくて嬉しくて堪らないのですか?・・・もう、仕方ないお兄様ですね・・・!では、これから、そのお顔の
あらゆる骨を粉々に砕き尽くし、血を一滴残らず絞り取って差し上げましょうね・・・!!!」



光の食卓(19) 涙


 少女がその左拳を離すと、凄まじい爆裂音と共に衝撃波がリングの中央から巻き起こり、男の身体は赤く染め上げ
られたニュートラルコーナーに激突していた。少女の右ストレートが、男の顔面をまたも撃ち潰したのだ。
 もしも少女が人間ならば、数時間にも及ぶ暴虐の疲労の為その威力は若干なりとも衰えているはずだった。しかし
人ならぬ少女の内奥より溢れ出した欲望の権化たる右の12ozは、全くその暴威を衰えさせる事無く、逆に男の無念と
絶望、血の涙を糧にして更にその速力を激増すると、おぞましき破滅の口火を切るに至ったのだった。


 噴き上げられた男の鮮血は天井に到達する前にその勢いを失い、放物線を描くと血の池に直接ビチャビチャと注いだ。
既に、男の全身からは致死量の倍以上の血液が失われていたのだ。少女は狂気のアーチを掻い潜る様に、一条の閃光を
思わせるフットワークをもって男に肉薄した。暫し男の視線は、垂直に迸り己の顔面を叩き付ける鮮血に注がれて
いたが、その眼界が正面を向いた時には、少女の姿は無かった。そして、次なる破壊が齎された。


 何か、硬い物同士が激しく衝突し、摩滅し、擂り潰される様な異音。それは、男の顔面内部から発せられ、あらゆる
顔面骨を駆け巡り共鳴すると幾十倍にも増幅され、大脳に冷たく非情なる現実を認識させた。
 それは、少女の左アッパーカットだった。ダッキングの要領で男に密着しつつ屈み込んだ少女は、そのまま、これから
己が貪るのであろう破壊の有様に想いを馳せた。それだけで、少女の欲望、どす黒い破壊衝動は幾十倍にも膨れ上がり
全身の筋肉が細胞の一つも残さず嗜虐の歓びに赤熱し、爆発していくのだ。後は、それを叩き付けるだけで良かった。
 その瞬間、既に腐敗を始めていた男の顔面は踏み付けられた空き缶の如く上下に押し潰され、蛇腹状に圧縮された
その肉質のあらゆる隙間からは、鮮血と死臭を放つ体液とがグチャグチャに混じり合った呪液が噴射された。



光の食卓(19) 涙


 そして、少女の左拳が鮮血滴る天井へ流麗なる軌跡を描き気高く聳え立つと、男は哀れなる一本の赤い棒切れと化し
垂直に発射された。だが、破壊はこれに留まらなかった。顔面の全細胞から毒液を噴霧しつつ舞い上がった男の脳裡を
再び、あの恐ろしき異音が埋め尽くしたのだ。それは、人界のどの様な強靭なるボクサーにも真似する事すら許されぬ
有史以前から永劫の研鑽を経て神の領域に達した左右のアッパーカットによるコンビネーションであった。
 そのおぞましき破壊音は、もはやどう表現すれば良いのだろうか。内部に無数の死肉を詰め込んだ巨大な壷に鉄槌を
打ち下ろし、砕き、掻き回すかの様な、それでも足りない悪魔の交響曲と言うしか無かった。最初の一撃から既に17発
男の両足は、一度もリングに帰還してはいなかった。少女から迸った美しきアッパーカットは、男を、一個の人間を
血肉の通った玩具、お手玉に変えてしまっていたのだ。男の顔面は、少女ですら久しく見ぬ惨状を呈していった。
 打撃音は、その圧倒的なる音量を更に亢進させていたが、それが爆裂する間隔は徐々に開いていった。嗚呼、ここに
来てもなお、少女の両拳はその勢いを止めぬどころか、虐殺、撲殺、惨殺の悦びにうち震えその狂威を増していたのだ。
男の顔面は一撃ごとにより高く舞い上がり、より凄惨に体液を噴射し、そして、潰され、潰しに潰され、潰し尽くされて
ついにはもうそれ以上潰れなくなった。それを見届けた少女は連打を止めると、右拳を顎に宛てがったまま語りかけた。


「お兄様、随分男前が上がりましたね・・・?くふふ・・・!あのお爺様にも、お兄様の晴れ姿、見せてあげたかった
ですね・・・!!それでは、私の大切な、最高の玩具のお兄様には特別に、私自信の事を語って差し上げましょう・・・」
 少女の右拳に力が込められると、そのナックルパートは黒く死滅した男の顔面肉を半分に拉げさせるまでにめり込み
死臭を放つドロドロとした赤黒い絞り汁を男の瞼からブクブクと毀れ出させた。血を吸い尽くした紅い12ozの前に男は
一刹那ごとに死に、次の刹那、薬により蘇生する事を繰り返していた。男から迸った粉々の微粒子となった下顎骨と
肉、血と脂、死と生の混じった噎せ返る様な汚濁をその身に浴びながら、少女は一人語りを続けた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(20) 存在の闇


「まず何故、私達が誕まれたのか。それからお話し致しましょう。・・・遥かなる悠久の昔、無からこの星を創り上げた
『お母様』は、地上に数多の生命を齎し、その繁栄を見守り、楽しき微睡みの時を過ごしていらっしゃいました。
どこまでも拡がる蒼く澄み切った海、地上一面を覆い尽くす色とりどりの草木・・・全ての生ある者は創り手である
『お母様』への感謝を一度たりとも忘れる事無く、この星を慈しみ、共存共栄してきたのです。しかし・・・」
 語気に合わせて更に張り詰める少女の右拳。赤黒い汚濁は、男の耳孔からもゴボゴボと溢れ出した。


「・・・生を受けた大恩をも忘れ、この星を愛するどころか、我が物にしようとする邪悪な生命が現れたのです。それが
お兄様方、人間です。人間どもは、お母様が46億年もの永い間見守り、幾多の奇蹟の上にバランスを保ってきたこの
星をたかが3万年程の間に滅茶苦茶に破壊し、己が都合の良い様に醜く造り変えてしまいました。お母様は嘆き、悲しみ
大粒の涙を流しました。その涙が結晶し誕まれたのが、私達『護り手』です。私達にとってはお母様の意思を
実行する事が最大の悦びであり、その悦び、欲望を貪る為だけに、私は存在しているのです・・・!」


 少女の右拳が離されると男の顔面は自由落下を始め、破裂音と共にその落下は止まった。少女の左ジャブが男の左頬を
捉え、硬く、厚いコーナーポスト上段へ固定したのだ。男は少女の言葉に、錆び付いた蝶番が軋むが如き異音をもって
応えた。それは、余りの拳圧に男の頬骨が変形し、無数の亀裂が擦れ合う魂の呻きであった。
 そして、その姿勢のまま、少女の右のグローブが引き絞られていく。男の鮮血を浴び朱に染め上げられていた少女の
頬には幾つもの純白のラインが刻み込まれ、震える右の12ozの内側からは鮮やかな真紅のラインが幾条にも奔った。
少女の魂をここまで震わせるものは、母なる創造主より授けられた残虐にして純粋なる欲望、ただ、それだけであった。


「お母様は、今日も涙を流していらっしゃいます・・・。お兄様には、その罪を贖う責務があるのです。さあ、今こそ
贖罪の時です・・・!!その血を・・・!!その骨を・・・!!お兄様の全てを私とお母様に捧げるのです・・・!!!!」



光の食卓(20) 存在の闇


 男の魂の慟哭を遮るように、爆砕音とも潰滅音ともつかぬ、鼓膜を破らんばかりの轟音が冷たい地下空間を犯した。
 その一撃は、まさに少女の内奥に渦巻くあらゆる思念を具現化したかの様な、人智を超えた凄絶さと人ならぬ
純粋さとを兼ね備えた、右のフックであった。
 止め処無き悲しみは、その小さな拳を血が滴る程に強く、硬く握り締めさせた。悲しみは尽きせぬ怒りを呼び起こし
右拳へ注ぎ込まれた怒りは、その質量を無尽蔵に増加させた。そして、全ての思念はどす黒い殺戮の欲望へと昇華され
無限に増殖する破壊衝動は、死すら弄ぶ狂気の弾丸たる12ozの速度を亜音速へ向けて亢進させていった。


 全ては、一瞬の内の出来事だった。
 既に人類の視覚を超越し、現世の理すらあざ哂う神速をもって男の左頬へ着弾した右の12ozは、その瞬間左頬の
ありとあらゆる骨を叩き割り、血肉と混じり合わせしめた。しかし、少女から迸った莫大なる欲望は、その拳が男の頬を
無慚にも陥没させ衝撃が全身の筋肉を戦慄させるだけでは、当然、到底、満足される事は無かった。


 何という事か、男の顔面左側面を砕き尽くした少女の右拳は、人界の物理法則すら叩き潰し、更に猛進を続けたのだ。
少女の右のナックルパートはまず男の顔面肉と骨と血を瞬時に硬く厚いコーナーポストへと叩き付けた。そして、圧縮が
始まる。コーナーポストと12ozの狭間で限界まで押し潰され、痙攣し、汚濁の泡を噴き出す男の顔面。しかし、欲望は
少女に人体の圧縮限界を、忘れさせてしまった。そしてついに、神なる破壊は人間を超越した。
 少女の右フックは無慈悲なる弾丸、いや削肉機と化し男の顔肉を、骨を粉々に擂り潰し血と混じり合わせつつ
メヂメヂという怪音と共に邁進を続けた。もはや、頬も、鼻も、口も、なかった。男の全ての顔面肉、皮膚、骨の残骸が
右頬へと集められ、そこでどす黒い塊になっているのみだった。だが、それでも、少女の拳が止まる事は、無かった。



光の食卓(20) 存在の闇


 男の顔面を陵辱し、弄び、あろうことか抉り進み続けた少女の右フックは、ついに男の右頬骨を「直接」撃ち砕くに
至った。恐るべき事に少女の右拳の速度、圧力は、おぞましき顔面掘削の地獄絵図を経ても、少しもその暴威を失う事が
無いばかりか、飛び散る血肉を糧に更にその暴威を増していた。右の頬骨もまた微粒子へと還り、血肉と混じり合った。
 そして、未曾有の轟音が、超越者の一撃を締め括った。男の、弱き人間の顔面を潰滅するには、少女から迸った破壊の
エネルギーは明らかに過剰であった。その衝撃は男の顔面を貫通すると、打たれ、弄ばれ、潰され、抉られた死肉を通して
直接ニュートラルコーナーを暴打し、内部の支柱へ注ぎ込まれたやり場の無い激昂はそれすら破壊した。コーナーポストは
鋭角な「くの字」に悶絶し、リング全体が激震と共に傾斜し、ロープは力なく弛緩したり、ブッツリと千切れたりした。


 漸く少女の拳がその前進を止めると、すぐさま、男の狂乱が始まった。コーナーポストであった金属塊と12ozとの
狭間から、どす黒い半液体の何かが扇状に噴射されていく。それは、男の体細胞、存在そのものであった。砕き尽くされた
男の肉と骨の微粒子が、溢れる鮮血と共に圧縮され、既に顔面と呼ぶのも憚られるその塊の表面から舞い散っていくのだ。
少女は右拳を男の左側面に強く押し付けたまま、腐臭を放つ屍の散華を浴びるに任せた。


――・・・し・・・・て・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こ・・・・・ろ・・・・・・・・・・て・・・・
 男から既に一切の言語能力は失われていたが、その魂の呻きは、少女の右拳から伝わった。その慟哭を聞くや否や
少女はコーナーから男を引っ剥がし、その血まみれの瞼を引き破り無理矢理こじ開けた。己の顔を叩き付ける腐臭の
飛沫にも瞬き一つせず、少女の狂気に満ち満ちた視線は男の両眼球へと突き刺さり、この上無く無慚にも死滅し切った
顔面へ注がれた。生と死の狭間、正気と狂気の臨界で、男の脳は少女の呪詛を聞くしか無かった。



光の食卓(20) 存在の闇


「弱い・・・!!!弱いっ・・・!!!何故!!!!何故お兄様は、人間はそんなにも弱く、壊れるのです・・・!!!!!
何故っ・・・!!お母様はこの様な生物をこの星に誕まれさせたのです・・・!!!」


 少女は、男の上瞼と眼球の僅かの隙間に両親指を差し入れたままリング中央へと振り返ると、憤怒に震える両指へ
その狂気の全てを込め、引き上げた。薄肉片が飛び散ると共に、男から、また一つの自由が奪われた。これから
繰り広げられる、少女が男へと行う行為の結果の全てを、男はその眼球に永久に焼き付ける大命を負わされたのだ。
 男の剥き出しの眼球が最初に捉えたものは、己の鳩尾に深々と食い込む少女の右腕だった。拳は、己の腹に深々と埋まり
もはや見えなかった。その瞬間、男の宇宙は停止し、思考は凍結し、自内では恐るべき狂奔が始まった。胃袋内の空気
未消化物、その他のありとあらゆる物質は、少女の拳に込められた禍々しき狂気と共に頭部へ逆流し、顔面肉の幾千万の
亀裂から暗黒の泡沫となり、あるいは汚泥、屍毒の濃霧となり扇状に爆裂飛散し蒸発した。


「何故っ!!!何故っ!!!!何故っ!!!!!!」
 少女は、泣いていた。そして、狂乱していた。拳が止まらない。神なる暴虐の力は、もはや制御出来なくなっていた。


 少女専用の腐肉の詰まったサンドバッグとして選び抜かれた男。だが、人の子たる男にその宿命は、余りにも重すぎた。
 少女は85年前も、212年前も、301年前も――生を享けてから数万年もの間、ずっとそうしてきた様に、今まさに己の
欲望を満たす為の玩具を、己の狂気により破壊しようとしていた。少女は欝積した己の欲望を満たす為、男に永遠の命を
数十年もの間蓄え続けてきたその全てを与えた。しかし、人ならぬ無限の生命を享ける「器」たる男の肉体は、それに比べ
余りにも弱く、脆く、儚かった。男には、85年もの間欝積し続けた少女の欲望を叶える事など、出来はしなかったのだ。
 求めれば求める程に、離れていく。永遠とも思える年月を経て、なお満足されぬ少女の欲望。何故、母なる創り手は
彼女を創造してしまったのか。何故、彼女に永遠に満たされる事の無い欲望と、永遠の命を与えてしまったのか。
 咆哮と共に最後の箍が外れ、哀しき狂乱の拳は、神速をも超越した。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(21) 収束する輪廻


――――――憎い――――――


 憎悪。この世界への、全ての生きとし生ける者への、人間への、そして己の存在への果てし無き、憎しみ。それだけが
今の少女の全存在を支えている物だった。そして、数十年の刻を越え呼び覚まされ、自内より止め処無く湧き上がる狂気は
少女の60兆の細胞に神なる力を、素体の限界を遥かに超えた力を、与えてしまった。


 それが何の音なのか。それは男にも、そして拳を振るった少女にすらも、解らなかった。折り重なった二つの衝撃音が
互いに反響し、輻輳し、幾百倍にも増幅され爆裂した未曾有の狂音波が、二人を襲った。全てのリミッターが外された
少女の左拳は、ついに、越えてはならぬ一線を、越えてしまった。それは、拳が音速を越える爆発音だったのだ。


 男には、己の聴覚が抹殺される爆裂音すら「聞こえなかった」。少女から繰り出された超音速の左フックは
ボディアッパーにより突き出された男の右頬の腐肉の裂け目に着弾すると、第二の衝撃波を解放したのだ。
 それは、かつてこの星に生を享け、死んでいった全ての人間が体験し得なかった、未知にして神秘なる破壊だった。
体内に送り込まれた衝撃波は、男のあらゆる体液と共鳴しそれらを急激に振動させ、瞬く間に気化させた。その瞬間
男の顔面は紅い濃霧に包まれ、全身の毛細血管が破裂し、鼓膜は破壊され聴覚は永久に失われたのだ。
 紅の微粒子の内部では、更に無慈悲なる破壊が進行していた。全ての筋肉が寸断され、自重で醜く垂れ下がるのみと
なっていた黒くただれた男の顔面肉には、もはや少女の狂拳の暴威を吸収する権能すらも残ってはいなかった。少女の
左の12ozは親指の部分が完全に隠れる程に男の顔面へ、生命の内奥へと埋め込まれた。少女から迸った幾百ものパンチが
男の顔面を弾き飛ばし、あるいは鼻血を飛沫かせ、屈辱と激痛とある種の昂奮を齎し、原形を止めない程に陵辱する度に
男の頚椎はその衝撃を甘受し吸収し続け、人間サンドバッグとしての責務を果たしてきた。
 ついに、その重責から男が解放される時が、やってきたのだ。少女の左拳は、男の頚椎を直接撃ちのめし、叩き割った。



光の食卓(21) 収束する輪廻


 頚椎の呪縛から解放され、異音を発しつつ亜音速で発射されゆく男の顔面。死を越え、少女の玩具としての境涯をも越え
永遠の安息が、ついに男に訪れようとしていた。しかし、暴虐は、終わらなかった。
 左拳を振り抜いたその瞬間、少女の全身を「何か」が奔ったのだ。そして、それから先は、もう何も、解らなくなった。


 男の左顔面肉に、少女の右の12ozが着弾した。同時に、冷たい地上の地獄を映し出していた大鏡が爆破されたかの如く
粉々の破片と化し、エプロンサイドに降り注いだ。少女の右フックの狂速は、先の暴打の比では無かったのだ。左フックに
より頚椎を粉砕された男は、その瞬間に少女の欲望を叶える能力を完全に失った。では一体何が、少女の右拳を男の
顔面へと音速をゆうに超える狂速をもって、誘わせたのか。それこそが、狂気なのであった。少女ですら制御出来ぬ
認識する事すら出来ぬ「何か」――もはや、ここから先は、神すらそれを忌避せざるを得ない領域であった。


 男の全身の血肉は衝撃波により再び沸騰した。異様なる体温の上昇に伴う全身の内圧の高まりはあらゆる臓物を破裂させ
全身の毛を一本残らず吹き矢の如く飛び散らせると、力無く開いた毛穴という毛穴から男の肉体を構成する内容物を
黒煙へと化し蒸散させた。立ち上った濃密なる不死の煙は血塗れの蛍光灯の弱弱しき朱光を遮り、地下空間に黄昏が訪れた。
 少女の右のナックルパートは、インパクトの瞬間男の顔面へと、これまでのどの様なパンチよりも深く、鋭く、哀しき
までに抉り込まれ、その全てのエネルギーを解放した。狂気により無限の質量を得た冷たく硬い12ozが、音速すら超えて
無限に亢進した狂速をもって空間を斬り進み、亜音速で迫り来る男の顔面にカウンターで着弾する衝撃――男の全身が
リングから飛翔し、空間を乱舞するその様子は、宙を舞う鼠花火の様な滑稽ささえ、感じさせた。ただし、飛び散る物は
美しい火花ではなく、腐臭を放つ血肉と体液の混合物、即ち男の肉体そのものであった。



光の食卓(21) 収束する輪廻


 超音速の右拳、少女の凄絶なる狂気を直接、その顔面に浴びた男は、無慚にも歪んだリングへと叩き付けられた。
しかし、男の様子がおかしい。血肉の濃霧から垣間見えるその内部には、既に現世ならざる惨景が拡がっていたのだ。
 男は、うつ伏せに倒れていた。しかしその顔面は、一体、どの方向を視ているのかさえ判別し難かったが、確かに
真上へ、リングへ向けてでは無く、中空へ向けて、汚濁の微粒子を噴霧していた。つまり、男の頸は、頚椎が砕け散った
事により、捩くれてしまっていたのだ。それも、180度ではない。狂気、殺意をも超えた少女の暴虐の全てを吸収するには
頚椎を失った男の頸の筋肉は余りにも、弱すぎた。男の頸は900度捩れ、己の頭蓋を支える大命から解放されたのだ。


 男は、生きても、死んでも、いなかった。もはや、生と死という概念を男に当て嵌める事すら、少女から迸った狂気は
許そうとしない様だった。常人ならば数千、いや、数万人分もの死の苦しみを嘗める男。しかし、死は決して
かの男の頭上に落ちては来ない。全ての体毛が抜け落ち、全ての皮膚が張り裂け鮮血が噴き出し、全ての臓腑が沸騰し
破裂してもなお、少女から与えられた無限の生命はその大脳を研ぎ澄まし、己の苦しみを永遠に認識させ続けるのだ。
 だが、男の肉体にはもはや、その苦しみを、脳にマグマを流し込まれるかの様な絶滅的激痛を少女に伝える術も無い。


 一方、少女は、男の上に居た。何故、そこに居たのかさえ、わからなかった。少女の内奥から、もはや一切の感情は
消え失せていた。重力が逆転したかの如く天井へ向け豪雨と化し噴き上がり降り注ぐ男のどす黒い存在液が、少女を
塗り潰していく。きめ細やかなる白い肌が腐汁に汚される毎に、少女の中の「何か」はその透明さを研ぎ澄ましていった。


 いつしか、少女はマウント・ポジションの状態から膝立ちになり男の両腕を押え付けていた。右拳は、高々と掲げられ
異形と化したその顔面肉の中心へと照準を合わせていた。



光の食卓(21) 収束する輪廻


 振り上げられた右の12ozは、振り下ろされた。
 それは、男の顔面へと瞬間移動し、めり込んだ。逃げ場の無い衝撃に、男の全身は波打ち、あらゆる皮膚表面から迸った
血肉の煙がふたりを再び覆い隠した。しかし、それだけでは、なかった。男の顔面から、血飛沫や煙とは違う、より粒子の
粗い、黒く、確かに重い何かが、飛び散り始めた。それは、男の顔面の肉片だった。
 

 その瞬間、少女の右拳は一発の銃弾、決して還らぬ凶弾と化し、目標を撃ち抜いた。
 音速をも嘲笑うかの如き初速で撃ち出された12ozは、まず人間の可動限界を遥かに超過した肩の捻りを受け、恐るべき
狂威で回転を始めた。そして、その狂気は己の腕、肘、手首を伝わる毎に指数関数的に激増され、拳は空間を食らい尽くし
消し去った。少女にとって最初で最後、この素体で一度しか撃てぬ、禁断のコークスクリュー・ブローであった。
 己の右腕が破壊される音すら、少女には聞こえていなかった。まさにそれは、狂気そのものであった。


 壮絶なる撃滅音が鳴り響くと、冷たく暗い地下リングには大輪の薔薇が咲き乱れていた。それは、幻想的な光景であった。
噎せ返るような死臭を放つその幾多の花弁は、全て男の顔面肉が飛び散ったものである。男の視界には、己の顔面肉が
まるで漆黒の雪華の如くハラハラと舞い落ちる様が焼き付けられた。その一生の殆どを少女の欲望の為に打ち砕かれ
屈辱と激痛の無間地獄を彷徨った男。しかし、地獄の底で男は他のどの様な人間にも決して真似の出来ぬ芸術作品を
完成させたのである。それは、美しく、雄大で、繊細で、そして儚い、人間の尊厳の結晶であった。
 咲き誇る薔薇の下で、男は意識が遠のいていく感覚を味わっていた。どうやら、死はすぐそこまで来ていたようだ。
男の見開かれた目からは、大粒の涙が伝った。そして、意識の最後の糸が切れ、男は無限の暗黒へと還っていった。



光の食卓(21) 収束する輪廻


 大気中に漂う赤黒く濃密な瘴気、螺旋状に陥没したクレーターにしたためられた血の池、天から降り注ぐ紅い雨・・・
そして、目の前に転がっている首の無い死体。男は、ついに人間界に暇を告げ、冥界に降り立った。そう、思っていた。
 正確に言うと、その死体は頸が2回転半程捩くれ果て、全身の皮膚は剥げ血まみれになっており、顔面は惨たらしくも
下顎ほどの高さでブッツリと千切れてしまっていた。その壮絶な死に様からは、この男は何か得体の知れぬ恐ろしい怪物に
頸を捻り殺され、全身の皮膚を剥がされた挙句に頭を食い千切られてしまったとしか、男には思えなかった。
 しかし、この死体、男には確かに見た覚えがあった。何処で見たのか、いつ見たのか・・・こいつは、誰なのか・・・?
男の記憶が己の視覚とリンクしたその瞬間――男は、現世に戻された。


――うおおおおおおおおおおおおわあああああああああっ!!!!!!!!!!!!!!!
 男は、泣き叫ぶ事も、目の前の光景から目を逸らす事も出来なかった。男が視ていた物、それは、少女の最後のパンチに
より切断され、打ち捨てられた己の残骸に他ならなかったのだ。絶叫し、喚こうにも口が無く、目を閉じようにも瞼が無い。
――おっ、おおっ・・・!!!!俺っ・・・!!!!これが・・・俺・・・!!!?
 死体の切り口は、その牛肉の様なビロビロを男に見せ付けつつも、未だにブジュブジュと蠢いていた。男は暴打の衝撃で
鞠の様に「跳ね」、「転がり」、そして「設置」されていた。その有様が、出来るだけ、よく見えるように。
 男の無間地獄は、ここから始まるのだ。己の肉体が朽ち果てて行く様を永遠に見守り続ける・・・。これこそが
狂気の少女から与えられた最大の報い、永遠の命の代償であった。男は、身動きする事も、発狂する事も、自ら命を絶つ
事も出来ず、己の肉体が腐っていく様を見つめ続けた。もはや、涙すらも枯れ果て、男は心中から願った。


――助けてぇっ!!!助けてくれぇぇぇ・・・!!!光ぃぃぃ・・・!!!これは、夢・・・!!!!
  全部、夢なんだあああああぁっ・・・!!!なあ、光ぃっ、そうだと言ってくれよぉぉぉぉっ!!!!



光の食卓(21) 収束する輪廻


「・・・お兄様!・・・お兄様っ!・・・」
「う、うぅ・・・ん・・・?・・・うわあああああっ!!!!!!・・・ぐぁっ!」
 眼前の少女の姿態を認めるや男の全身は後退りし、後頭部をベッドの角に強打した。その鈍痛に、意識が鮮明になる。
「ひどい汗・・・!何か、恐ろしい夢でも見ていらしたのですね・・・?今、慰めて差し上げましょうね・・・」
 

 綺麗に切り揃えられた睫毛の奥から、男を心配そうに見つめる優しい眼差し。開け放たれた窓から吹き込む熱風に
煽られ、甘く芳しい香りを漂わせる流麗な黒髪。柔らかく、ほの暖かい唇から男の口蓋内に滑り込んでいく唾液の甘さ。
 紛れも無く、今、男に重ねられている肢体は、己が愛する妹、光のそれであった。全ては、男の見た悪夢だったのだ。
男の強張った表情に、安堵の色が浮かぶ。正午を丁度過ぎた位であったが、温度計の示度は45度に迫ろうとしていた。
男はエアコンを入れる事も忘れ、灼熱の中、己の妹を求めた。妹もまた、兄を求めた。


 ふたりの結合が解かれると、少女はゆっくりと立ち上がり、窓を閉めエアコンのスイッチを入れた。一瞬にして気温は
設定温度まで下がり、男は全身と魂が凍て付く様な錯覚に襲われた。だが、それは、錯覚などでは無かったのだ。
「お兄様、そろそろ『お食事』に致しましょう。用意を致しますので・・・少し、お待ち下さいね・・・!」
 甘やかな残響と共に、少女は下階へと消えた。しかし、戻って来た少女の両手に携えられていた物は、料理では無かった。
 それは、紅く、冷たく、硬い――


「お母様は、これが恐らく・・・最後だと仰いました。もうすぐ、私はこの星にとって、必要ではなくなるのでしょう・・・
さあ、お兄様、遊びましょう・・・!!今度こそ、私の望みの全て、叶えて下さいますよね・・・!!!」


 付けっ放しとなっていたコンピュータのディスプレイだけが、ふたりの狂態を映し続けた。その時計の日付は――
 [2207年7月24日]


投稿SS4・光の食卓(中編)

光の食卓(8) "70"の代償


「結構、ましになりましたね。お兄様のパンチ。ですが、そんなスローでは私に触れる事すら、ままなりません。
人間どもの言葉では確か・・・『冥土の土産』とでも言いましたか。これから冥府へ旅立つお兄様へ、防御の技術と
含めて、私のボクシング技術をお教えしましょう」
「あひぃっ!ひっ、血っ!!俺のっ・・・血がっ・・!」
 出血に混乱し、慌てふためく男の様子は意にも介さず、少女の両拳は再び壮麗なるデトロイト・スタイルを形成した。
しかし、フットワークは無い。少女の肢体は優美なる古代ローマ彫刻の如く、空間に静止しているのみであった。


「さあ、お好きに殴りかかって来てください。可哀相なお兄様にボクシングを教えて差し上げます」
「ぐっ!この野郎ーっ!」
 男は鼻を潰された屈辱に我を忘れ、右拳を少女の鼻柱目掛け振るった。直後、破裂音と共に潰れたのは己の鼻だった。
どちらの拳で撃たれたかも、わからない。しかし、天を仰ぐ男は、確かに自分の鼻血が飛散する様を確認したのだ。


「確かな攻撃は確かな防御から・・・今のはスウェイバックと言って、相手のパンチを上体を引いて吸い込むように
かわす技術です。そして、今お兄様に当てたのが・・・」
 男は激痛に涙を滲ませながらも少女に殴りかかったが、再び己の鼻を潰した。右鼻から流れ出し顔面に付着していた
血液と真紅の12ozがぶつかり合い、飛沫となって男の白い上下に紅の微小点を刻み込んだ。ふらふらと後退する男は
背中に何か、ロープとは異質の硬い感触を感じた。そこは、ニュートラル・コーナーだった。ボクシングを知らない
男にとっても、この場所がリング上で最も危険な場所であろう事は、容易に想像できた。


「・・・お兄様は昔からそうですね。人の話をまるで聞こうとしない。しかし、それでいいのです。うふふふふ・・・
話をお聞き下さらないのであれば、私の拳でそのお顔、お鼻に直接お教えすれば良い訳ですからね・・・!」



光の食卓(8) "70"の代償


 キュッ、キュッ・・・トン、トン、トン・・・
 サディスティックな嘲笑と共に、少女のフットワークは再開された。男は必死に退路を探した。しかし、既に
少女の両拳は男の顔面をいつでも叩き潰し、血に染める事ができる位置に浮遊しているのだ。男は、心臓を氷の手で
鷲掴みにされた様な感覚に陥った。もはや、男に残された道は一つだった。


「うあああああああああああああああっ!!」
 鼻血と涙を垂れ流しつつも男は、妹の顔面を狙い執拗なるラッシュをかけた。しかし、それでも尚、当たらない。
数十発の全身全霊を賭した打撃が、まさにそこに居るはず、手が届くはずの少女に掠りもしないのだ。少女はその拳を
使う事無く、フットワークを駆使する事も無く、ただ卓越した上体の躍動だけで男の決死の努力を無にし、嘲け笑った。
 当初、男の精神を満たしていたものは鼻を潰された事による屈辱、逃げ場の無い恐怖感と諦念であったが
最後の力を振り絞った連打をかわされていく最中、男は己が妹の防御技術の巧みさに心を奪われるまでに
なってしまった。それは、心地良い敗北感と言って良かったのだろうか。
 

「うおおおおおっ・・・!・・ふんっ!・・・ふんっ!・・・はぁっ・・・はぁ、はぁ・・・ぐはぁ・・・」
 男の大健闘はおよそ2分半も続き、そして終わった。もはや最後の数発は、己の腕の動きに全身が振り回されて
いるような、誰の眼から見ても無様としか言えないものであった。全ての力を使い果たし、全身から汗の湯気を
立ち上らせている男には、腕を持ち上げる事さえも苦行となっていた。
 一方、少女は全く息を乱してもいない。少女はグローブ越しの拍手を男へ贈った。そして、恐ろしき「食」の
笑みを男へ投げかけた。男は、自由の利かぬ全身を強張らせる事しか、もはや出来なかった。
 

「お疲れ様でした。お兄様のラッシュ。くすくすくす・・・なかなかのものでしたよ。あと3倍ほど速ければ、私も
ぷっ・・・!危ないところでしたね。それでは、今度は私の番ですね。お兄様と同じ数だけ、いきますよ・・・!」



光の食卓(8) "70"の代償


 蒼白なる男の顔面へ叩き込まれた一撃目は、まさに悪意の塊であった。男の顔面の中心に狙いを絞って発射された
冷たく硬い12ozは、鼻だけを正確に真正面から押し潰し、内部器官の損傷は止まっていた鼻血を再び噴出させた。


「ブッ!!」
 反射的に両手で鼻を押さえようとしたのか、垂れ下がっていた男の両腕が一瞬持ち上がるが、少女の次の一撃が
その目論見を無慚にも撃ち砕いた。次の一撃も、鼻へのジャブであった。それから8発のジャブが、同様に男の顔面
鼻一点を一撃一撃、正確に陵辱し続けた。
 爽快感さえ感じさせる破裂音のリズムに合わせ、男は首を仰け反らせ、鼻血を噴き上げ、両腕を懸命に
持ち上げようとしては挫折した。グローブと血まみれの顔面が接触する度、朱色の小爆発が起こったかの如く
鮮血の微粒子が飛散し、金糸で「光」という刺繍の入ったピンクとシルバーの可愛らしいトランクスに恐るべき
水玉模様が描き出され始めた。


 10発の加撃を経て、男の顔面は朱に染め上げられつつあった。止め処なく溢れる鮮血を止めようと震える
両手で鼻を覆うが、指の隙間から更に鮮血は溢れ出し、肘の先から紅い雫となって青いマットへ垂れ落ちていく。
少女は、男の脂と血とを吸ってしっとりとした艶を取り戻し始めた両のグローブをだらりと垂れ下げると、白く
きめ細やかなその頬にこびり付いた返り血を気にする事も無く、男へ語りかけた。


「ふふっ・・・どうですか?私のフリッカー・ジャブの味は。痛いですか?・・・ふふ、それは光栄・・・
まだあと、60発残っています。ええ・・・お兄様が私に向けたパンチと同じ数だけ、反撃すると言いましたから。
大丈夫ですよ。私の大切なお兄様ですもの。この位で殺してしまっては・・・くっくっ、くふふふふっ・・・!
引き続き、私の為にもっと苦しみ、もっと絶望し、もっとその可愛らしいお顔を鼻血に染め上げて下さいね・・・!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(9) 恐怖の閃光


 フリッカーとは、光が瞬くという意味である。光のデトロイト・スタイルから繰り出されるフリッカー・ジャブは
男にとってはまさに瞬く紅い閃光であった。見えているのに避けられないのではない。視覚がそれを認識する事すら
許さないのだ。男は顔面を撃ち抜かれ激痛が走って初めて、パンチの存在に気がつくという有様だった。


「ぐぶっ!ブッ!うっ!ふうぅっ!うふぅっ!あぐッ!ブッ!ブッ!・・・」
 光のフリッカー・ジャブの残虐性は、先の連打を経て更にその暴威を増していた。目標は実の兄の鼻、一点である。
即ち、グローブで鼻以外の男の顔面を極力ヒットする事無く、冷徹極まりない正確さをもって拳の最も硬い場所
である中指の第一間接部、拳頭のみを、男の既に真っ赤に腫れ上がった鼻柱へだけ、叩き込むのだ。
 その理由は極めて簡潔である。少女は男の意識を明瞭に保ったまま、苦しみにのたうつ様が見たいだけなのだ。
 

「くすくす・・・その可愛いお顔、表情、最高ですよ・・・!さあもっと、もっと苦しみ抜いて下さいね・・・!」」
 この連打は、最初の10発よりはグローブが顔面にめり込まない分だけ脳、意識へのダメージは少ないと言えた。
しかしそれは、少女が掛けた残忍極まる罠だったのだ。いっそ、意識を失ってしまえればどれだけ楽だったろうか。
男の痛覚は、屈辱の一撃が己の鼻を弄ぶごとに更にその鋭敏さを増し己の精神をずたずたに引き裂いていく。
そして、連打のスピードは首が吹き飛ばない分、無慈悲にもマシンガンの如く昂進するばかりであった。
 

 もはや男の鼻は、およそ原型を止めているとは言い難い状況にあった。少女から迸る紅い悪意、ナックルパートを
ダイレクトに受けた部分は暗紅色にただれ、皮膚表面も破れ血が滲んでいた。鼻血は派手に飛び散る事も無く
脈々と溢れ出し、半開きの口蓋内に飲み込まれては精神を蝕み、顎から垂れ落ちてはリングを地獄色に彩っていく。
 少女の残虐なる欲望を爆薬としてその点滅速度を増す恐怖の閃光。誰もが羨む人形の様に清楚で可愛らしい
最愛の妹から迸った狂気は、絶対不可視のフリッカー・ジャブという形を取って男の兄としての全尊厳、全自尊心を
その顔面共々鼻血色に塗り潰し、今まさに砕き尽くさんとしていた。



光の食卓(9) 恐怖の閃光 


 男はもはや完全なる少女専用のサンドバッグと化し、加速する連打の暴威の前に呻き声一つ上げる事さえ出来ない。
もはや男に出来る事は、少女のパンチをその醜く潰れた鼻で受け止め、鮮血の噴出をもってその技巧を称える事
だけだった。そして、男の精神力が、限界に達しようとしていたその時、突然として連打は終わった。
 男は最後のパンチを受けた姿勢のまましばし硬直すると、糸の切れた操り人形の様に前傾し、眼前の美少女の
レーニングシャツに包まれた弾力ある肉塊の狭間に、己の血まみれの顔面をうずめた。たちまち、少女の白い
シャツの胸元には男の鮮血が染み込み、返り血の水玉模様と相俟って忌まわしくも壮絶なる美を主張した。


「ふふふ、お兄様、お疲れ様でした。ここまでよく私のパンチに耐えて頑張りましたね。よしよし・・・」
 先程まで行われていた人間の所業とは思えぬ、身の毛も弥立つ程の恐るべき暴力からは想像もつかない、それは
慈愛と母性に満ちた柔らかい笑顔だった。少女は右拳で男の背中をかき抱き、いっそう強く己の胸にその顔面を
抱き寄せると、未だ血の滴る真紅の兇器をもって男の頭を優しく撫でさすった。


「うぐっ・・・ひっ、ひぇぐっ・・・、うぇぇぇぅぅぅぅ・・・」
 やがて、呻き声とも悲鳴とも異なる声が、男の口から漏れ出した。男は、泣いていたのだ。男を嗚咽せしめたものは
一体何だったのだろうか。姿の見えない激痛に苛まれた恐怖か、未だ幼き実の妹にボクシングというスポーツに於いて
圧倒され顔面を血に染め上げ、弄ばれた屈辱か。それとも、数十発の陵辱から解放され、生還した安堵か・・・
 男の嗚咽は続いた。少女は赤子に子守唄を聞かせるような姿勢で、その背中をぽん、ぽんと優しく叩き続けた。
まもなく、嗚咽が止んだ。男は、極度の肉体的、精神的疲労からそのまま眠ってしまったらしかった。


 夢の中で、かつての楽しかった二人の思い出に浸っているのだろうか。それは、実に安らかな寝顔であった。
己の胸の中で男を眠らせるに任せる少女。しかし、その醜く歪んだ口許からは、再び粘つく水滴が垂れ落ちていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 

光の食卓(10) 終わりの始まり


――わぁ・・・お兄様、一面真っ青で、綺麗・・・それに、いい匂い・・・
――ああ、来てよかったな。CMで出るたび、お前いつもここ来たいって言ってたもんなぁ・・・でも、何でだ?
――ええ。このラベンダー畑の真ん中で、くちづけをした二人は永遠に結ばれると言う伝説があるそうですから・・・
――えっ・・・!?でっ、でも、兄妹だし、そんなの、だっ、駄目だって・・・おい光、よせったら・・・んっ・・・


 目覚めた男の鼻腔をくすぐったものは、ラベンダーの芳しい香りでも、愛する妹の甘い香りでもなかった。それは
すえたような己の胃酸の臭いだった。鳩尾に、硬く重い何かが突き刺さっている。それは光の右拳に他ならなかった。
息を吸うことも、吐くことも出来ない。己の意思とは無関係に喉がえづき、胃の内容物が逆流し溢れ出す。
 少女は眠りに就いた男を抱き寄せたままコーナーへその体を押し付けると、ボディへアッパーを放ったのだ。少女は
全体重を右拳に預けると、吐瀉物にまみれ涙を流し己を見上げる男の、苦悶と驚愕に満ちた表情を存分に楽しんだ。
「お兄様、お早うございます。私のパンチ68発を耐え切ったその精神力、お見事でしたよ。うふふふふふふ・・・
お兄様にはご褒美として、私の取って置き、残りの2発をたっぷりと・・・味わっていただきましょうね」


「おっ・・・!うおぇぇぇぇっっ!!・・・げぶごぼぁッ!!!」
 両手で腹を押さえ、力なく開かれた口から吐瀉物をびちゃびちゃと滴らせる男。黄土色の吐瀉物が付着した
右の兇器が鳩尾から引き抜かれると、男の屈辱と汚物にまみれた顔面は空中に突き出されたまま静止した。
 男の大脳には、次なる破壊の瞬間までの全ての刹那が、コマ送りの如く鮮明に刻み込まれた。


 まず可愛らしいピンクのリングシューズに包まれた左脚が、軽快な摩擦音と共に鋭く踏み込まれた。その靴底は
男の剥き出しの右足甲を血が滲むほど強く踏み締め、リングへと固く縫い付けた。少女の顔が、急速に近づいた。
ほんのりと上気した薄紅色の唇が、艶かしき唾液の糸を引きつつ蠢き、言葉が紡ぎ出された。
 その言葉の意味を脳が認識した瞬間、男は石像と化し、破壊が現出した。



光の食卓(10) 終わりの始まり


 皮膚と12ozが激突する爆裂音に続いて、歯軋りの音を一刹那に凝縮し、数百倍に増幅した様な怪音が地下空間に
響き渡った。少女の満たされぬ「食欲」は、右のアッパーカットという形で現出し、男の顎へと解放されたのだ。
 膂力により恐るべき初速で発進された無慈悲なる弾丸は、鍛え抜かれた右脚のキックと全身の関節の躍動を受け
更に狂おしい程の速力を得ると、その猛威はそのままに空間を斬り進み男の顎を穿った。左脚のホールドにより
リングに縫い付けられた男には、天に舞い上がり爆撃の衝撃を逃がす自由すら与えられない。インパクトの瞬間に
忌まわしき兇器と化した男の下顎が己の上顎に激突するや否や、その内なる爆撃は男の歯の四分の一を奪ったのだ。


「いっ、い・・・イギャァァーーーーッッッ!!!・・・ォゲェウボォッ!ウギィィィィーーーッ・・・!」
 未曾有の激痛が男の神経を引き裂き、その口内から血と吐瀉物と砕けた歯との混合物が垂直に迸ると、間もなく
始まった絶叫と慟哭が少女の耳を楽しませた。天を仰いだ少女は、悪戯な微笑を湛えていたその小さな口を開くと
その清潔な口内へ男の歯の破片2つを収め、コリコリと口内で転がし、舐め回し噛み砕くと、破壊の悦楽に震えた。
 己のパンチにより歯をへし折られ、釣り上げられた鮪の如く全身全霊でもがき苦しむ兄を強く抱きしめる妹。
死に物狂いでその抱擁から脱出せんとする男。その身の戦慄さえも、少女の糧となっていくのだ。


「いてえよぉぉ・・・なんでこんなひでえことぉ・・・すんだよぉぉぉ・・・しっ、しんじまうょぉぉ・・・」
 恐るべきアッパーカットによる破壊から、男の言語能力が回復するまでには相当の時間を要した。少女のシャツの
胸元から垂れ下がっていた鮮血の帯はついにトランクスにまで繋がり、吐瀉物と涙と己の涎が混じったその色彩は
もはや醜悪を通り越しある種の美しささえ感じさせるまでになっていた。
 少女は男の言葉を黙殺すると、左拳で男の首を押さえ、コーナーへ釘付けにした。そして、語りかける。


「これで69発・・・。ここまでよく頑張って頂いたお兄様の健闘を讃えて、最後は私の得意技である右ストレートで
お兄様のお顔と、魂を叩き潰して差し上げましょう。お別れです。お兄様」



光の食卓(10) 終わりの始まり


 徐々に、徐々にではあるが引き絞られていく紅の12oz。男の脳裡に少女との美しく、恐ろしく、あるいは嫉妬と
憧憬と屈辱に満ちた記憶が、走馬灯の様に描き出されては儚く消えた。老サンドバッグを撃ち砕き内容物を噴出させた
光の凄絶なる右ストレート。それが、今まさに男の顔面へ向かって撃ち込まれようとしている。
 逃げる事は決して出来まい。首は痛いほどに固定されているし、顔面をガードしようと腕を持ち上げれば
それより早く光の右ストレートが男の顔面を撃ち滅ぼすだろう。男は、全てが今終わった事を悟った。


――俺は、これから死ぬんだな。
 パンチを待つ男の表情はむしろ安らかだった。少女との絶対的な能力差は、ついに男に諦念を抱かせるに至った。
死は、全ての人間に平等に訪れる。俺は、それが他の奴より少し早かっただけ。そう考えると、気が楽になった。


 そして、死の弾丸は限界まで引き絞られると、静かに発射された。


 摂氏18度の地下空間に響いたものは、少女の右足がリングを蹴る摩擦音と、グローブが薄ら寒い空気を切り裂く
衝撃音だけだった。固く眼を瞑り、死を覚悟していた男の左頬に、鋭利な刃物で切り裂いたかの様な傷口が開いた。
 少女から迸った死の弾丸は、男の顔面を掠めるだけに終わったのだ。少女は男の喉を締め上げる左拳を解放した。
緩慢に跪き、放心する男。少女は赤コーナーへ戻ると、呆然と左頬をさする男へ言葉を投げかけた。


「くすくす・・・惜しかったですね。死ねなくて。・・・お兄様はまだ何もわかっていません。私自身の事も
『死』という言葉の意味さえも・・・!本当に可哀相なお兄様・・・これから、じっくりとその魂に叩き込んで
差し上げますからね。さあ、お好きな時にお立ち下さい。お兄様に次のダウンは『無い』のですから・・・!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(11) 人ならざる者


 ただ呆然と座り込んだまま、己の血と吐瀉物とで汚れたリング・サーフェスに虚ろな視線を彷徨わせている男。
リング上には暫しエアコンの送風音だけが規則的に響いていたが、やがてカチカチと何か硬い物同士が小刻みに
衝突を繰り返す様な音が男の口内から漏れ始めた。そして、男のやや腫れ上がった瞼が固く閉じ合わされ
目じりから堪えきれぬ情念が溢れ出すと、押し殺したような悲号が男の口内から鮮血と共に漏れ出した。
「・・・うっ、うううううっ・・・!!光ぃぃっ!・・・お願いだから昔の、優しかったお前に戻ってくれ・・・!
・・・こんな痛い、酷い事もうやめて・・・一緒に帰って、なんかうまいものでも食べよう・・・!」


 少女は赤コーナーにもたれ掛かると、退屈そうに乱れた長髪を後ろに払いつつ、男の懇願を聞き流した。
艶めく漆黒はコーナーのターンバックルに柔らかく絡み付くと、蛍光灯の光を乱反射しヌメヌメとした輝きを放った。
 男の顔面の呈する惨状とは対照的に、少女の全身はトレーニング開始時と全く変わらぬコンディションを保っている
様だったが、その瑞々しい肢体を包むコスチュームの様子は、ボクシングと言う名の暴虐を経ておぞましいばかりの
変容を遂げていた。特に少女の素肌の様にきめ細かく白かったトレーニングシャツの胸元からは、朱色の絵の具の塊を
何度も何度も叩き付けたかの如く血痕が垂れ下がり、それが徐々に乾燥し形容の術無き残虐美を見せ付けつつあった。


 少女は男の眼前にしゃがみ込むと、下を向き小刻みに震えつつ己の膝を涙で濡らす男の様子を、心底楽しそうな
表情で観察した。少女の接近に気が付いた男は、全身を硬直させた。真っすぐに己の視神経を犯す少女の
蠱惑的にして冷酷な視線。目を逸らす事は、もはやできなかった。そして、少女の口が開かれる。


「お兄様・・・貴方の愛する妹、光は、もう居ないのですよ」



光の食卓(11) 人ならざる者


 男の嗚咽が止まり、全細胞が耳となり少女の次の言葉を待った。


「覚えていますか?14年前、お兄様の両親が亡くなり、私が誕まれた晩の事件を。」
 少女は男に口を挟む間隙を許さず、ただただ淡々と、その時起こった事だけを機械的に男へ説明し始めた。


 その事件は、迷宮入りのひとつだった。被害者は一人を除いて残りの全員が、硬く重い鈍器の様な物で個人の特定が
困難な程に頭部、特に顔面を執拗に叩き潰され惨殺されていた。しかし、密室であるはずの分娩室から凶器は
発見されず、死体に付いた指紋、頭髪、そして一人だけ無傷であるという現場の状況から犯人として浮かび上がった
新人看護婦も発見時には既に死亡していた。看護婦については自殺にしても全く外傷が無く、検死の結果
死亡推定時刻は2年前という不可解さに、警察はこれ以上の捜査を断念し、事件は闇へと葬られた。それにしても
奇跡的に、赤ちゃんだけは生き残ったのだ。


「え・・・交通事故じゃ・・・?」
 男は、思わず思ったことを口にしてしまっていた。少女は恐るべき笑いを押し殺すようにして、つづけた。
「いいえ。殺人事件ですよ。くすくす・・・下手人が知りたいですか?それは私です。あなたの妹、光です」
「お話しましたよね、私が実体をもたない概念的存在である事を。前の素体は美しく能力も高く私好みでしたが
『食』を繰り返す内にこれにも飽き飽きしていたのです。それで、素体がたまたま看護婦だった事も幸いして
美しい赤ちゃんを見つけたのです。私の次の器として相応しい・・・ね。私はまず分娩室の鍵を掛け母親に飛び掛り
跨って叩き殺し、その場で素体・・・貴方が14年間『光』と呼んで来た『私』自身。それを抉り出し殺しました。
それから、周りの全員を嬲り殺しにしてあげた後に手術ランプを消したのです。ふふふ・・・駆けつけたお兄様の様子と
言ったらそれはもう・・・!くっ、くふふふっ・・・!可愛かったですよ・・・?それから、お兄様を殺さない程度に
苛めて記憶を飛ばした後、看護婦の肉体を捨てて新しい素体へと、乗り換えたのです」



光の食卓(11) 人ならざる者


「私は『お兄様』の最愛の妹にして、最愛の妹の仇なのですよ。・・・『お兄様』」
――光が、光の仇・・・?素体・・・?俺の記憶・・・?


 男の大脳は少女から紡ぎ出された言葉の意味を理解出来なかった。いや、理解しなかったのかも知れなかった。
少女は膝立ちになると、コーナーに力なく靠れる男の上体に、自分の上体を浴びせかけた。血にまみれた布地を
通じて、少女の柔らかな乳房の感触が男の素肌に伝わった。少女は抱擁の姿勢を保ったまま、男へ告げた。
「ふふ。やはり信じられませんか。それも無理の無い事です・・・。私が、お兄様方人間とは全く違う存在と言う事
それを、今から身をもって知って頂きましょうね」


 少女はそのまま上半身を揺すると、魅惑の肉質を次々と男の肉体へ擦りつけていく。男の心臓の鼓動が、早くなった。
「お兄様、うふふ・・・お兄様の魂の高鳴り、伝わりますよ。・・・私の鼓動は、聞こえますか・・・?」
 痛い程の抱擁は少女の乳房を男の胸板にギュムギュムと押し付け、男のあらゆる体液が染み込んだシャツを
媒介として男の爆裂する鼓動を少女の皮膚へと伝えた。しかし、しかしである。


――あれ?光、つ・・・め・・・たい・・・?心臓・・・動いて・・・な・・・い・・・?


 ついに、男の神経は少女の異変を感知してしまった。少女が抱擁を解き男を見下ろすと、男のトランクスの
股間部分からもうもうと湯気が立ち上った。少女は、既に、確かに死んでいたのだ。それも14年前、誕まれた直後に。
余りに苛烈で、残酷な現実が男の神経を打ちのめしていく。少女は満足げにその様子を見下ろしつつ続けた。


「そうです。私が殺したのです。可愛い妹だけでなく貴方の肉親・・・全員をね」



光の食卓(11) 人ならざる者


「10年間、素体が私の食欲を満たす為の肉体を得るまで・・・それはそれは退屈な毎日でしたよ。それだけに4年前の
あの日の『食』は格別でしたね。くっくっ・・・貴方と私の事を可愛がっていた、あのおじいさんの事ですよ。
じっくりと半日ほどかけて苛め殺してあげたのですが、あの人間、発狂する寸前まで貴方の事を案じていましたよ。
『あの子だけは殺さないでくれ』って何度も・・・!それがもうっ・・・!可愛くて可愛くて仕方なく・・・
お兄様の為に何十年も前から取っておいた、あれを使おうとさえ思ってしまったくらいっ・・・!」
 男の脳裡に優しく、大らかで、時には厳しかった祖父の姿がありありと蘇る。そして、その視線は眼前の少女の
2つの拳の間を往復した。男の中に燻るある感情が、恐怖と絶望を押しのけ、その拳は握り締められ始めた。


「あれから4年間、私は何百人もの人間どもを殴り殺してきました。男、女、子供、お年寄りなど・・・中には
有名なプロボクサーも居ましたね。覚えているでしょう?半年前突然失踪した、イーグル金城。お兄様、確か
大ファンでしたよね。世界戦一緒に見に行きましたもんね。ちょっと力を入れたらすぐ動かなくなってしまいましたが」
「てめえ、ふざけんな!よくもそんなに罪の無い人々をこっ・・・殺せるな!お前には人を思いやる心がないのか!!」


 怒号が、少女の一人語りを中断させた。ついに男は眼前の少女を人ならぬ怪物と認めたのだ。そして、愛する
人々を殴り殺された悲しみが、義憤となって男の口から吐き出されたのだった。少女の返答は簡潔かつ明瞭だった。
「ええ。そんなものはありませんね。私は人間ではありませんから」
 少女はさもそれが当然の事であるかの様に、即答した。
「よくも考えてみてください。お兄様が今まで、いかに多くの生命を奪い醜く生き永らえてきたか。お兄様の為に
殺され、肉を切り刻まれ食い潰された豚それぞれに、家族がいたのですよ」
「バカ野郎!豚みたいな程度の低い動物がいくら死んだって構うこっちゃねえ!奴らは家畜だ!」
「ふふっ、そうですね。人間にとって豚は劣等種であり家畜。全くその通りです。そうなると、我々にとって
お兄様方人間は劣等種であり、食われるべき存在と言う事になりますね」
「なっ・・・?」



光の食卓(11) 人ならざる者


 男の膝が、再び震え始めた。人間界の常識は、もはや人ならぬ少女には通用しないのだ。
「『なんで、他の人間じゃなく俺達を狙うんだ』とでも言いたいのですか?」
「お兄様、あなたは豚肉の生産地にも拘っていましたよね。でも、どの豚がどのような家族構成でどのような個性を
持っている、と言う事には目もくれず、捕食してきたでしょう。それと同じ事です。お兄様方人間は、私の食糧でしか
無いのです。お兄様は知らず知らずの内に14年間、私の為だけに仕込まれ、熟成されてきたのですよ・・・!」


 この14年の間、男の記憶に刻み込まれ続けた少女との甘美なる思い出は、その全てが、少女がこの日男を存分に
味わうために仕込まれてきたスパイスだったのだ。男は、両眼に憎悪の炎を宿し少女を真っすぐに睨み付けた。


「くっふふふふっ・・・!お兄様、そのお顔は何です?ご自分の人生が滅茶苦茶にされてしまって悔しいのですか?
愛する人々を皆殺しにされ、天涯孤独の身にされてしまって哀しいのですか?私を殺したくて、復讐したくて
たまらないのですか?いいですよ・・・お兄様のお好きな様に。出来る物ならば、の話ですけどね・・・!」
 少女はゆっくりと赤コーナーへ戻ると、男の鼻血の染み込んだ両のグローブを打ち合わせ破裂のリズムを軽快に
響かせながら、ニュートラルコーナーに膝立ちになっている男へと、挑発的でかつ無慈悲なる宣言を下した。


「お兄様、この星で最後に物を言う力が何か知っていますか?それは言葉の力でもなく、祈りの力でもなく
お金の力でもない。暴力です。己の信念を貫こうと言うのなら、私をその拳でねじ伏せてみて下さい。」
 勝算が有るかどうか、相手のパンチ、正体への恐怖など、もはや男にはどうでも良かった。屈辱、怒り、悲しみ
そしてどす黒い殺意が魂を震わせ、憎悪は燃え上がる闘志となって傷ついたその身を立ち上がらせた。
「てめえっ・・・!ぶっ殺してやる!!」
 少女はファイティングポーズを取ると、1歩前進し男へ正対した。
「屠殺場で豚が人間を食い殺す・・・奇跡と呼ぶには余りにも荒唐無稽な幻想ですね。精精、足掻いてみて下さい。
さあ、いよいよメインディッシュです。14年間待ち望んだその『味』、とくと確かめさせて頂きましょう・・・!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(12) Waste days


「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
 男は、己の愛する者全ての命を弄び奪い去った、憎むべき悪魔の懐へと突進していた。もはや疲労はおろか打たれる
恐怖感すら男からは消え失せていた。無限に増殖する怒りと悲しみが、男の傷ついた体を爆発的に猛進させたのだ。
 

 男のラッシュが少女を徐々に、しかし確実に追い詰める。少女の表情からは余裕、嘲弄の色が消えて行くかに見えた。
気迫の連打に、少女は後退を余儀なくされているのか。やがて少女の背中に、赤コーナーの硬い感触があった。
 くぐもった打撃音。男の拳はついに少女の12ozを撃ったのだ。力感に満ちたパンチの衝撃が、少女の全身に伝わった。
華麗なる少女のフットワークを制し、防御にグローブを使わせたという事実は男の劣等感を払拭し、大いなる自信を
与えた。しかし、更なるラッシュへ移行しようとしていた男の両拳は、突然その勢いを失った。


「やめて、お兄様っ・・・!」
 男の拳勢を失わせしめたものは、少女の悲痛な懇願であった。その言葉の響き、甘く切ない声色はまさに、己が
愛する妹・光のそれであった。男は、己の置かれた悲惨なる状況、相手の正体、生き残る為になすべき事を頭で
認識はしていた。だが、14年間の少女との思い出が、男の魂に一瞬、ほんの一瞬の隙を与えてしまったのだ。
 少女には、その一瞬だけで十分だった。
 

 湿った破裂音と共に、硬い12ozが男の顔面の中心を押し潰した。鼻がひしゃげ鮮血が噴き出すと、その飛沫は瞬く間に
リングへ噴き付けられ、その一瞬後には真上に噴き上がり、やがて少女の全身に霧雨の如く降り掛かった。
 それは目にも止まらぬ左ジャブ、右ボディアッパー、左アッパーカットのコンビネーションであった。たたらを
踏み後退する男。少女は無数の微粒子により朱に染まった顔面に再び嘲りの色を浮かべると、男に言い放った。


「ぷっ・・・!くっ、くっくっくっくっふふふふっ・・・・!本当にお兄様、いや、人間と言うものはどこまで馬鹿
なのでしょうか・・・!それでこそ、14年間仕込んできた甲斐があるというものですがね・・・!」



光の食卓(12) Waste days


 少女は、キュ、キュッという擦過音と共に男の眼前まで足を進めると、その精緻な人形の如き美貌を曝け出した。
「本当に可哀相なお兄様・・・。私の顔はここにあります。今度は一切防御しませんから、お好きなだけ殴りつけて
その、くっふふふふふふ・・・馬鹿げた下らない家族の無念とやらを晴らしてみてはどうですか?」
 屈辱的な言葉とパンチに我を忘れた男は、右拳を振るった。少女の、恐らく一度も打たれた事が無いのであろう
気高く聳え立つ鼻梁と右拳の距離が急速に狭まり、鮮血の華が咲いた。それは男の鮮血だった。男の顔面に、少女の
フリッカー・ジャブが突き刺さっていたのだ。一方、男の右拳は少女の鼻先5cmでその速力を失っていた。男は激痛に
全身を悶えさせ怯んだが、湧き出す義憤が恐怖を克服し、再び右拳を少女の顔面目掛け進ませた。結果は同じだった。
男は勢い良くアーチを描いた己の鮮血の軌道を見上げつつ、己の無力さを心から呪った。男の頬を熱い涙が伝った。


 嘲笑に満ちたその顔面を突き出し相手に攻撃させ、己の顔面にその拳が届く寸前にフリッカー・ジャブで鼻を潰す。
これこそ、少女が開発し最も気に入っている「食」の方法の一つであった。残虐なる遊戯は止め処なく続いた。
 数分前に男の全身を包み込んでいた覇気は、7発の悪意を経て鼻血と共に体外に抜け去りつつあった。それでも
負ける訳にはいかなかった。男は鼻血をボタボタと垂らしつつ青コーナーまで下がって助走をつけると、己の全肉体と
全精神、一族の無念をその右拳に賭け、少女の顔面、鼻柱に渾身の力をもって叩き付けた。
「畜生!畜生ぉぉっ!!・・・うがあああーーーーーーっ!!!」 


 肉を撃つ生生しい破裂音が響いた。少女の左のグローブのナックルパートは男の顔面にその半身をめり込ませていた。
ジャブではない。男の顔面を襲ったそれは、少女の左ストレートであった。鋭く踏み込まれた左脚は少女の全体重と
全悪意とをその左拳に伝え、リングに根を下ろしたかの如く固定された右脚は、パンチの衝撃を男の顔面へ余す所無く
伝え切ったのだ。暴打の衝撃は男の顔面を波紋と化して伝わり全身を波打たせると、莫大な圧力は男の顔面を醜く変形させ
人皮の耐久力を超過したその暴圧は打撃に晒されなかった男の右頬すらも引き裂き、鮮血をスプレー状に噴出させた。
その瞬間、ある異音が男の脳髄内で無限に増殖し、少女の拳を震わせた。それは、男の鼻骨に亀裂が入った音であった。



光の食卓(12) Waste days


 華麗なる少女のボクシングテクニックが男の顔面をその最後の希望と共に叩き潰し、リング中央までその体躯を弾き
返すと、男の鼻腔と硬い12ozとの間にねっとりとした鼻血の帯が渡された。男は自らの鼻を、震える両手で押さえた。
「・・・!!!」
 余りの壊滅的激痛に呻き声を上げる事も出来ない。うずくまる男の両手の内部は己の鼻血でたちまちの内に満たされ
指の隙間から溢れ出す鮮血は幾条もの真紅の奔流となりリングをビチャビチャと叩き付けた。大量の鼻血を飲み
極度の興奮と嘔吐感に息を詰まらせ涙を流しながらえづく男。もはや、男にはどうする事も出来はしなかった。


「ふふっ、うふふふふ・・・おにいさま〜、ど〜こ〜だっ?」
 少女の悪戯な嬌声が、中腰のまま両手で鼻を押さえ立ちすくむ男の耳へ届いた。しかし、男が恐る恐る視線を上げた
その先には、少女の姿は無かった。その直後、未曾有の破壊が男を襲った。


 少女は左ストレートで男の鼻を潰した直後、悶え苦しむ男の向かって左横へ電光の様なフットワークをもって
移動していた。そしてその右拳を握り締めると、肘を固定しゆっくりと振りかぶり、恐るべき破壊衝動を載せた
アッパー気味のフックとして男の顔面へ折り重ねられている両手へと叩き付けたのだった。
 限界まで引き絞られた全身のあらゆる腱、関節がその呪縛から開放された直後、破壊の弾丸は流麗なる円弧の軌跡を
描いて男の顔面を覆う遮蔽物に着弾すると、その関節と骨格を完膚無きまでにすり潰し破壊し、暴打の衝撃は男の全身を
吹き飛ばし青コーナーへ激突させた。それはまさにボクシングの芸術と言うべき荘厳さと芸術性を備えたブロウだった。


 インパクトの瞬間全天を覆う冥府のオーロラの如く拡がり、芳しい香りを血染めの空間に振り撒いた少女の黒髪が
静粛を取り戻すと、直ちに男の絶叫が始まった。少女はその狂態を、実に柔らかな笑みをもって見守っていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(13) 死の烙印


「うぎゃああぁぁあぁあぁあぁぁぁーーーっっ!!」
 男は、掲げた己の両手の惨状から目を逸らそうとしなかった。右手は手の甲の骨が神経もろとも砕き潰され
左手は親指を除く全ての指の関節が砕け皮の内部の組織が見え隠れしていた。もはやその血肉の塊は人間の手
としての機能を保ってさえいなかったのだ。男は外聞も無く泣き喚き、涎と鮮血を垂れ流しながら己の運命を呪った。
その眼前に、かの少女は降臨した。少女は両手を顔の前に掲げすすり泣く男の姿勢を見るや、薄笑いを浮かべいった。


「まあ・・・お兄様ったら・・・随分とご立派なファイティング・ポーズですね・・・!そんな拳でまだ私と
ボクシングをなさるお積りですか・・・?くふふふふっ・・・!いいですよ。その敢闘精神に敬意を表して・・・
私のボクシングの真髄を、お兄様のお顔に存分に、たぁーっぷりと、叩き込んで差し上げるとしましょうね・・・!」
「ぎゃあああああひぃぃいぃぃーーーっ!!!・・・ち、ちげびぶっ!」
 

 重々しい破壊音と共に、少女の右のグローブが男の左頬にめり込んだ。その刹那、男の顔面は恐るべきスピードを
もって真横に発射されたが、男には奥歯をへし折られた激痛に悶える自由すら与えられない。少女の左のグローブが
更なる暴威をもって男の顔面を弾き返すのだ。そして、無慈悲なる拳は少女の欲望を乗せて更に加速し、往復し続けた。
 斬る様な腰の回転を受けて少女の上半身が躍動し、湿りきった陰惨なる破裂音と共に美しい黒髪が振り乱される度
男の顔面は惨たらしくもその様相を変え、少女の眼を楽しませた。もはや男の顔面に無事な箇所はひとつも無かった。
加速する暴打の前に瞼は腫れ上がり、両頬の傷は更に抉られ皮膚の表面がザクロの様に爆ぜ、その血まみれの口内には
既に一本の奥歯も残っていなかった。その惨憺たる光景は、既に地上の人間の理解を遥かに超えるものになっていた。
 男は薄れ行く意識の中、全ての力が抜け膝が崩れていく感覚を味わっていた。その胸に去来するものは、愛する者と
己の人生を弄んだ仇敵に敗れる屈辱感ではなく、3度リングを嘗める事で破壊から逃れられるという安堵感だけだった。



光の食卓(13) 死の烙印


――ああ、これでなにもかもが、おわる・・・おやじ、おふくろ、じじい・・・ひかり・・・ごめんな・・・
 狂拳の暴風が男の顔面を弄び、膝がまさにリングに接しようとしたその瞬間、男は何故か爪先立ちになっていた。
少女の左アッパーカットが男の顎を撃ち抜くと左拳はそのまま全身を支え、男の3度目のダウンを阻んだのだ。


「ダウンは、2度までと申し上げた筈です」
 男は、かつて少女から投げかけられた言葉の意味を履き違えていた。3度のダウンで敗北という訳ではない。
まさに言葉通り、2度までしかダウンは許されなかったのだ。その言葉の真意を男が悟った瞬間、魂が凍てつき
内股を小便がつたった。少女は、左拳を小刻みに震える男の顎にあてがったまま、淡々と続けた。


「弱い・・・。お兄様には失望しました。この星においてお兄様の様に、闘いを、魂を放棄した生物がどうなるか
知っていますか?他の生物に食われるのですよ。私は最上位種として、この星の意志を実行する責任があります。
もう少し楽しめるかと思っていたのですが・・・残念です」
 少女は言葉とは裏腹に醜く唇を歪めると、青コーナーとその右にあるニュートラルコーナーの中間地点まで男の
重い体を引きずっていった。喉を握り潰す窒息感に男の意識は回復したが、もはや男には指一本を動かす力も
残ってはいなかった。暫くしてふたりの足取りが止まると、少女は男に語りかけた。
 

「さあ、着きましたよ。お兄様の墓場へ。・・・くっふふふふふふふ・・・これから、お兄様は死ぬのです。
まず、闘いに敗れたお兄様には私の取って置きのパンチで、死の烙印を押すとしましょうか・・・!」
 拘束から解放された直後、男の視界に紅いフラッシュが起こった。少女のフリッカー・ジャブが鼻を正面から
叩き潰し打ち抜いたのだ。大きく首を仰け反らせロープの弾力で跳ね返った男が見たものは、今まさに己の顔面へ
叩き込まれようとしている、禍々しい程に紅く艶めく烙印の姿だった。
 その瞬間までが、男にはスローモーションの様に永く、永く感じられた。しかし、破滅はすぐにもたらされた。


光の食卓(13) 死の烙印


 肉が無慚にも潰れ骨が粉々に砕ける爆裂音が、冷たく生臭い地下ジムの空気を分子の一つ一つまでも震撼させた。
少女の残虐非道にして純粋なる破壊衝動は、その刹那無限に増殖し60兆の細胞全てに溢れる程注ぎ込まれると素体の
運動能力のリミッターを解除させたのだ。おぞましい異音と共に全身の筋肉、腱、関節が14才の可憐なる乙女の
いや人間の限界を遥かに超えた速度で収縮し引き絞られ、その華奢な体内に破滅のエネルギーを満たしていく。
 そして、人智を超えた破壊は遂に具現した。少女の全肉体と全精神、そして惑星の意思を載せ撃ち出された右拳は
男の鼻先に正面から着弾すると、鼻骨を血肉もろとも巻き込みへし折り、あらゆる筋肉、脂肪、器官を押し潰し
顔面の中心へ到達すると、その紅く燃え滾る殺意を解放したのだ。


 インパクトの瞬間、顔面と硬いグローブの狭間で極限まで圧縮された鮮血は全方向に幾千幾万の飛沫と化して爆裂し
リング全土のみならずその周辺を囲む大鏡をも塗り潰した。直後、男の顔面の中心、もはや赤黒い肉の塊になっていた
その部分から夥しい量の鮮血が水道管が破裂したかの如く噴出し始めた。暴打により男の顔面が凄まじい速度で仰け反る
動きに合わせ、天井へ向け迸った鮮血の鞭はまず真上にあった蛍光灯を奥から手前へ叩き付け、次に首が稼動範囲の
限界を超え喉の皮が張り裂ける程曲がると後方の壁を暫し噴き付け、最後は後ろから再び蛍光灯を塗り潰した。


 男は恐るべき速度で少女の胸元へお辞儀をするかの如く墜落した。少女は控えめながらも弾力あるその膨らみで
もはや血袋と化した男の顔面を受け止め、男の顎を右拳で掴み上げると、瞬きもせず飛び散る鮮血を顔面に浴び
あるいはその小さな口内を満たし、己の右拳、ストレートパンチが勝ち取った破滅的戦果に酔い痴れた。
 白目を剥き細かく痙攣する男。少女のとどまる所を知らぬ欲望はいったい、何十万、何百万の人間を死骸にすれば
満たされるのだろうか。既に男は、冥府への階段を下っていた。かの暴打の瞬間、男の頭蓋骨は己の脳を強打し
その衝撃に蝕まれ暴走した脳機能は、自らの生命の維持を放棄してしまったのだ。徐々に男の鮮血は、その狂威を
失っていく。そして、男の心臓の鼓動は徐々に、徐々に弱くなり、ついには聞こえなくなった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


光の食卓(14) 邪智暴虐の化身


 しかし、少女は男の死を許さなかった。この星の管理者にして最上位種たる彼女にとって、この程度の破壊は人間が
三度の食事をするかの如く毎日の様に行っていることであり、とくに別段の快楽を齎すものではなかったのである。
男の鮮血により犯された蛍光灯が投げかける紅く暗い光は、少女の華奢でしなやかな肢体を更に凄惨なる朱色に
染め上げていった。少女は、男の鼻血に己の顔面を打ち付ける勢いが無くなった事を確かめ、その口を開いた。
「あらあら大変・・・お兄様のお鼻・・・ぷっ!くっくっくっ・・・!私の右ストレートでへし折れてしまいましたね。
大丈夫ですよ。すぐに手当てを致しますから・・・安心して、もっと私を楽しませて下さいね・・・っ!」


 少女は、右拳を突き上げたまま飛翔していた。その紅い凶弾を追う様に、男の鼻血が真上に迸っていく。
 それはこの上ない正確さと華麗さ、そして猟奇性を秘めた魔性のブロウだった。少女は男をロープに放り投げると
跳ね返りうな垂れる様にダウンしていく男の鼻柱だけを、渾身のアッパーカットをもって撃ち抜いたのだ。
フォロースルーにより美しく舞い上がった少女が、再び血に染まるリングに舞い降りると、男に異変が起こった。
 それは、まるで間欠泉が湧き出すかの様な狂勢だった。峻厳なる一撃は男の脳機能を強制的に再起動させ、男の死を
断固阻んだのだ。全身を満たす鮮血は、男の生命の危機を回避する為一斉に頭部へ殺到し、忽ちの内に天井を叩き付け
豪雨となって二人の全身を叩き付けた。男は制御できぬ己の血流に、まるで喜びに震えるかの如く全身を律動させた。


「ーーーーーー!!!!!」
 もはやその悲鳴は、人間の可聴周波数をゆうに超えた、まさに魂の慟哭であった。少女は男の生の嘆きを
己の精神と共鳴させ愉しむと、満面の血に染め上げられた笑顔と、更に無慈悲極まる暴虐陵辱をもって応えた。
「そうです・・・やっと、その可愛い悲鳴が出ましたね・・・!聞こえますよ・・・!お兄様の生命の、魂の声が・・・!!
『痛い?殺さないで?』くっ、くっ、ふふふふっ・・・!体は正直ですよ。そんなに震えるほど気持ちよかった
のですね・・・?お兄様ったらもう・・・!それでは、もっともっと、もっと苛めて差し上げますね・・・!」



光の食卓(14) 邪智暴虐の化身


 残虐なる一撃により、暫し天を仰いだまま硬直し、己の鮮血の雨を浴びるに任せ声無き悲鳴を上げ続けている男。
無慚にも破壊された顔面が緩慢に前傾すると、更なる悪夢が男を待ち受けていた。


 その刹那、鮮血は左へ噴射され、次の瞬間右へ噴き返した。そして、二人の姿は真紅の濃霧に覆い隠されていった。
一体、何が起こっているのか。もし地上の人間がこの狂奇景に精神を犯されず、リング上を直視できたとしてもそれは
理解不能であった。少女のボクシングはもはやあらゆる人間の動体視力の限界を超えるスピードを宿していたのだ。
男を本当の鮮血噴霧器と変えてしまったもの、それは少女の両拳が織り成す凄絶かつ玄妙なるフックの連打であった。
 この連打は、正確性、残虐性において有史以前から蓄積されてきた少女の拳闘技術の集大成と呼べるものであった。
一撃一撃が剣豪の振るう太刀の如き鋭い回転と破滅的暴威とを有しているが、決してそれは荒々しいものではなく
腰の回転と肘の固定に重点を置いた、十分に体重と狂気の載った鋭いパンチであった。それを、まさに精密機械の
如き精緻をもって、男の鼻だけに撃ち付けるのだ。全ての人間の常軌を逸した、暴力の極致がそこにあった。


「ーーーーーーー!!!ーーーーーーーーーーーーー!!!!!・・・!!!」
 もはや打撃音は、グローブと鮮血がぶつかり合う水音と、空間を震わせる男の声無き呪詛に完全にマスクされていた。
嗚呼、何という残酷か、男の意識は鮮明を極めていた。もはや二人の姿は鮮血の濃霧により完全に消失していたが
男の極限にまで張り詰めた瞳孔は己の鮮血の分子一つ一つを掻き分け、眼前の超越的存在の威容を脳に焼き付けた。
 少女は、笑っていた。笑いとは、獣が牙を剥く行為が原点である。少女はまさに、原初の笑いを笑っていたのである。
更に少女の全身の躍動は加速する。男の精神は、既に常人の許容限界を超えていた。少女が少しでもその拳を休めれば
その瞬間、蓄積された激痛が脳へ注ぎ込まれ男は発狂し、廃人と化すであろう。男の精神を支えるものは、もはや真紅の
グローブにより刺激される生への渇望だけであった。何という皮肉か、男は少女のパンチにより活かされていたのだ。



光の食卓(14) 邪智暴虐の化身


 人ならぬ存在ゆえ、疲れを知らぬ少女。その拳は更に加速を続け、鮮血の霧は竜巻の如く二人を包み込んでいた。
既に男の顔面の中心には、肉と体液と骨が混ざり合ったどす黒い肉質が蠢き、鮮血を撒き散らしているばかりだった。
 男の下半身に、異変が起こった。己の血に染め上げられたトランクスが隆起していく。そして、少女の紅い
グローブが己の鼻を弄ぶ度に、トランクスの表面に粘液が染み出し、鮮血と交じり合って流れ出す。
それは、男の本能が「死」を避け難い宿命と捉え受け入れ始めた証拠であった。男の脊髄は少女の拳を「死」
そのものと捉え、「死」が己の精神を完全に打ち砕くまでに子孫を遺そうと、男を勃起させ射精せしめたのだ。
 少女は男の変化に気づくと、拳の往復は一切休めず笑いを押し殺しながらいった。


「くっくっ、くすくす・・・・!!!お兄様ったら、とんでもない変っ態・・・!『光、助けてぇぇ許してぇぇ』
なんて、勃起させながら言う言葉じゃありませんよ・・・?そんなに、そんなに射精するほど気持ちいいなんて・・・
くふふふふふふふ・・・・・・!!!・・・あはははははははははははははは!!!!!!」
 ついに堪え切れず、少女の口内から高らかな笑いが爆発すると共に、連打のスピードはまさに光速へ向け加速した。
フックだけでなくアッパーカット、ジャブ、ストレートまで、少女の内奥から湧き上がる無限の邪智暴虐が正面、下
左右、斜めなどありとあらゆる角度から男の顔面の中心、謎の黒い肉塊と化した鼻梁目掛けて炸裂する。それでも
それでもなお少女は冷徹にも男の意識を奪おうとはしない。生き地獄という言葉では生ぬるい程の、それは惨劇だった。


「ーーーーーーー!!・・・・!!!・・・・・・・!!!!!・・・・・・・!」
 それから先は、同じ事の繰り返しだった。紅い竜巻と化していた男の鮮血はその形状を千変万化に変え二人を
包み込んでいたが、その源である男の内奥では悲しむべき破綻が起こり始めた。ついに、男の精神は少女のボクシングの
前に叩き潰されたのだ。かつて半開きのまま明瞭な少女への懇願、生への渇望あるいは打撃からの解放を訴えていた
その口は何も物語る事は無く、異常な程血走っているが虚ろな眼は、もはや現世の何の物の影も映してはいなかった。